第29話 安全だが、嘘です
隣国ヴァルツとの通商条約の合意案がまとまった翌朝。王宮の執務室には、外務局と財務局の高級官僚たちが、意気揚々とした足取りで集まっていた。
「陛下! 本日、国民に向けて発表する新通商条約の公報文の原稿をお持ちいたしました!」
外務局の長官が、分厚い羊皮紙の束をアルノルト二世の机の上に恭しく置いた。
長官の顔は、徹夜明けの疲労よりも、何か大きな困難を乗り越えたような異様な達成感に満ちていた。
「法制局のヴェルナー殿が制定された全八十七頁にも及ぶ『王命取扱規程』。我々外務局と財務局の総力を結集し、三日三晩かけて一言一句照らし合わせ、完全にクリアいたしました!」
官僚たちが「おおっ」と自画自賛の拍手を送る。
「比喩表現ゼロ! 抽象的な感情語ゼロ! 物理的変化を伴う動詞の完全排除! 陛下がこの原稿をどれほど大声で読み上げられようとも、王冠による物理事故は絶対に起きません! 断言いたします!」
胸を張る官僚たちを前に、アルノルトは少し呆れたように原稿へ視線を落とした。
「……ずいぶんと自信満々だな。だが、最終確認は当然、臨時の王命校正官に通させてもらうぞ」
アルノルトの背後から、ユリウス・ヴェルナーが無言で歩み出た。
ユリウスは机の上の原稿を手に取り、いつものように赤ペンを構えて目を通し始めた。
執務室に、紙をめくる音と、官僚たちの固唾を呑む音だけが響く。
(……なるほど。確かに規程は遵守されている)
ユリウスの目は、文章の構造を機械的に分解し、危険なトリガーが潜んでいないかを瞬時に判定していく。
前日のセヴラン卿との条文交渉のような、他国の悪意ある仕掛けはない。言葉は事務的で、王宮の窓ガラスが割れることも、書類が空を飛ぶこともない、安全な文章だった。
これまでのユリウスであれば、ここで赤ペンを下ろし、「安全です。合格です」と即座に判子を押していただろう。
だが、彼の視線は、原稿の第三段落でピタリと止まった。
「……外務局長」
「は、はいっ! 何か規程違反がありましたかな!?」
「規程違反はありません。形式面では、完全に安全審査を通ります」
ユリウスの言葉に、官僚たちが「よしっ!」と小さくガッツポーズをした。
「しかし」
ユリウスは赤ペンを紙面に押し当て、その段落に大きな丸を囲み、さらに余白へ長々と注記を書き込み始めた。
「この原稿は、推奨できません。使用を見送るべきです」
「な、なんだと!?」
外務局長が血相を変えて身を乗り出した。
「安全審査を通ったと言ったではないか! どこに問題があるというのだ!」
ユリウスは淡々とした声で、赤で囲んだ部分を読み上げた。
「『本条約の締結に伴う関税の引き下げにより、一部産業において生産指標の緩やかな変動と、人員の流動的再配置が予測されるが、中長期的には国家経済に資するものである』……この記述についてです」
「それが何か! まったく物理事故の起きない、完璧な行政用語ではないか!」
「ええ。ですが、これは事実を誤認させる『嘘』です」
ユリウスの冷ややかな一言に、執務室の空気が凍りついた。
アルノルトも、意外そうな顔でユリウスを見上げた。
「ヴェルナー。嘘とはどういうことだ?」
「陛下。今回のヴァルツとの通商条約では、我が国の農業および一部の繊維産業が、安価な輸入品の流入によって明確な経済的打撃を受けます」
ユリウスは外務局長を真っ直ぐに見据えた。
「それを『生産指標の緩やかな変動』と表現する。さらに、それに伴って発生する明確な失業と転職の強制を、『人員の流動的再配置』と言い換える。……確かに王冠は反応しません。物理事故は起きない。ですが、これは明確な言葉を用いて、国民に生じる不利益を意図的に隠蔽しているだけです」
「う、嘘ではない! 法的にマイルドな表現を選択しただけで……!」
外務局長が抗弁するが、ユリウスは一歩も引かなかった。
「安全であることと、誠実であることは違います」
前日のセヴラン卿との激闘が、ユリウスの脳裏に刻まれている。『明確=正しい』ではない。言葉の定義がどれほど厳格であっても、そこに不公平や隠蔽が意図的に仕込まれていれば、それは言葉による詐欺なのだ。
「国民がこの公報を読み、後になって自分たちの生活が脅かされる事実を知った時、『王が不都合な事実を隠蔽した』という強烈な誤解が生じます。それは結果として、王政への不信という取り返しのつかない社会的な事故を招く。……誤解が予見できる以上、校正官としてこの文章に合格を出すことはできません」
「き、君の職務は王冠の物理事故を防ぐことだろう! 政治的・倫理的な配慮にまで口を出すな!」
官僚たちが顔を真っ赤にして詰め寄ろうとした、その時だった。
「いや、ヴェルナーの言う通りだ」
アルノルトが、静かに、だが威厳のある声で介入した。
「陛下……!」
「安全審査を通すために徹夜した苦労は認める。だが、都合の悪い事実を綺麗な言葉で隠すのは、余が最も忌み嫌っていた『責任逃れの比喩』と同じだ」
アルノルトは、机の上の原稿を外務局長へ突き返した。
「なら、この原稿は使わない。安全だとしても、余は国民に嘘をつく王にはなりたくない」
アルノルトの即決に、官僚たちは「そ、そんな馬鹿な……安全規程を完璧に満たしているのに不採用だなんて……」と、膝から崩れ落ちそうになっていた。
安全基準を満たすことだけを目的に、言葉の魂を抜き取った役人たちが、王の政治的・倫理的な決断の前にあっさりと退けられるという、完全な逆転現象であった。
「……そういうわけだ、ヴェルナー」
アルノルトは、少しだけ嬉しそうに口角を上げた。
「お前がダメ出しをしたのだ。代わりの原稿を作るのを手伝え」
「……手当は出ませんよ」
ユリウスは小さくため息をつきながらも、すぐにアルノルトの隣へ歩み寄った。
二人は久しぶりに机を並べ、「同じ側」に立って白紙の羊皮紙に向かった。
王は草案の余白をユリウスへ向け、自分もペンを取った。
「この産業には痛みを伴うが、王国全体の利益のために支援を行う。……そう、真っ直ぐに書けばいい」
「お待ちください、陛下。『痛みを伴う』では、どのような負担か伝わりません。『経済的な負担が生じる』に変更を」
「む、そうだったな。では、このように……」
ユリウスは、自分の学びや価値観の変化を、決して口で「正確さだけでは駄目だと悟りました」などと総括することはなかった。
「私はただ、後から国民の誤解を解くための無駄な訂正業務が増えるのが嫌なだけです」
そう嘯きながら、ただ黙々と、不利益を正直に伝えつつも王冠が暴走しない絶妙なラインを探り、赤ペンを走らせる。彼のペンの入れる基準が変わったというその事実だけが、すべての答えだった。
数時間後。
物理的な事故を防ぎつつ、国民に対しても誠実な事実を伝える、堅実な発表文が完成した。
アルノルトは出来上がった原稿を満足げに読み返し、深く頷いた。
「よし。これで国内向けの発表は問題ない」
アルノルトは羊皮紙を置き、窓の外の空を見上げた。
「明日は、いよいよヴァルツとの最終会談だな」
「はい。条約の細部については、すべて私が精査した文書にて取り交わします。陛下が即興で言葉を発するリスクは最小限に抑えられます」
ユリウスの事務的な報告に対し、アルノルトは静かに首を振った。
「いや。細部の取り決めは文書でいい。だが、会談の冒頭と結びの言葉だけは、余自身が自分の口で話す」
アルノルトの宣言は、王としての退けない覚悟に満ちていた。
ユリウスは、アルノルトの横顔をじっと見つめた。
以前の記者会見の前であれば、「危険です」と即座に止めていただろう。だが今のユリウスには、アルノルトが何を思い、どう言葉を紡ごうとしているのかが理解できていた。
王の言葉は、安全なだけでも、明確なだけでも足りない。相手の心に届く、生きた言葉でなければならないのだと。
「……承知いたしました」
ユリウスはそれ以上止めることはせず、ただ静かに頷いた。
「明日の会談も、私が陛下の後ろに立ちます。どのような言葉が飛び出そうと、必ず私が支えます」
二人は無言で視線を交わし、明日の最終決戦へ向けた静かな闘志を共有した。




