第30話 自分の言葉で合意する
エルデン王宮の第一会議室。
長きにわたった隣国ヴァルツとの通商条約改定に関する実務会議は、ついに最終日を迎えていた。
この数日間、会議の進行は特異な形をとっていた。関税率のパーセンテージ、代替措置の条件、品質基準の定義といった細部の条文確認は、すべて臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが徹底的に精査した『完璧な文書ベース』で行われたのである。
ヴァルツの特命使節、セヴラン・ド・ヴァルツ卿がどれほど巧妙に比喩や抽象語を会話に混ぜ込もうとも、アルノルト二世は「詳細は書面にて確認する」とだけ答え、ユリウスが赤ペンで修正した書面を突き返すことで応戦した。
結果として、王冠による物理事故は一切発生せず、両国の国益を厳密に計り合った実務的な合意へと至っていた。
残すは、両国の代表による調印と、国王アルノルト自身による「結びの言葉」のみである。
「――以上をもって、両国間の新通商条約草案を正文として確定いたします」
宰相コンラートが宣言し、重厚な条約書がテーブルの中央に広げられた。
アルノルトとセヴランがそれぞれ羽ペンを手に取り、流麗なサインをしたためる。最後に、エルデン王国の国璽とヴァルツの全権委任状に基づく使節印が押印され、歴史的な条約が正式に成立した。
部屋に安堵の空気が流れた。
だが、ユリウスだけはアルノルトの斜め後ろで、赤ペンを片手に静かに身構えていた。
調印が終わったからといって、外交戦が終わったわけではない。この後、必ずセヴラン卿が最後の仕掛けをしてくるはずだ。しかし、ユリウスは今日、王の口を強引に塞ぐつもりはなかった。王が自らの言葉でこの交渉をどう着地させるか、法務の専門家として見届ける覚悟を決めていたからだ。
果たして、セヴランは手元の扇子をパタンと畳み、アルノルトへ向けて優雅に微笑みかけた。
「陛下。見事な交渉でございました。これで両国の間に横たわっていた茨の道は切り払われ、平坦な道が開けましたな」
出た、とユリウスは内心で身構えた。
「茨の道を切り払う」という、物理的な破壊や開拓を伴う危険な比喩である。
セヴランはさらに言葉を重ねた。
「お尋ねしたい。我々はこの新たに拓かれた道を、今後どのような足取りで進んでいくべきとお考えでしょうか?」
抽象的で、かつ「足取り」という物理的な動作を要求する問い。
これは明確なテストだった。王がまた「次の一文は比喩として言う」という不格好な安全弁を使って逃げるのか、それとも法制局が書いたような血の通わない事務連絡で返すのか。王の真の力量を測るための、洗練された悪意である。
アルノルトは、セヴランの意図を正確に読み取り、静かに息を吸い込んだ。
背後のユリウスは動かない。止めてはくれない。
アルノルトの脳裏に、これまでに学んできた数々の教訓がよぎった。
比喩宣言による免責を使えば、詩的で美しい返答ができる。
あるいは、ユリウスの書くような「両国は条約第二条に基づき、相互に誠実な関係を維持するよう努める」といった無味乾燥な法文で返せば、一〇〇パーセント安全だ。
だが、どちらも「自分の言葉」ではない。
アルノルトは、真っ直ぐにセヴランの灰色の瞳を見据えた。
比喩に逃げることも、法文の壁に隠れることもなく、一人の王として、等身大の事実だけを声に乗せた。
「互いの国益を損なわず、約束した関税率と取引量を遵守することだ」
アルノルトの、飾らない、だが重みのある声が響いた。
「その事実の積み重ねだけが、我々の未来を作る」
一瞬の静寂。
アルノルトの頭上に載る古代王冠は、魔力の明滅一つ見せず、沈黙を保った。
当然である。「関税率」「取引量」「遵守する」という明確な事実に加え、「未来を作る」という具体的な実行形を持たない抽象的な宣言は、王冠の最小実現の対象外となるからだ。
物理事故は起きなかった。だが、その短くも誠実な言葉は、どんな華麗な比喩よりも強く、エルデン王国がこの条約を重んじているという確かな意志をセヴランに伝えていた。
セヴランの目が、微かに見開かれた。
やがて彼は、その目元を緩め、心からの感服を示すように深く、深く頭を下げた。
「……陛下の誠実なるお言葉、確かに承りました。我が国もまた、約束の遵守をもってそのお気持ちに応えましょう」
見事な着地だった。
コンラートが満足げに頷き、ユリウスも赤ペンを静かにバインダーへ挟んだ。
しかし、頭を上げたセヴランは、突然ひどく落胆したようなため息をつき、自分の足元に置いてあった革鞄をごそごそと漁り始めた。
「……セヴラン卿? いかがされた」
アルノルトが怪訝に思って尋ねると、セヴランは鞄の中から、分厚く束ねられた数十頁にも及ぶ羊皮紙の束を取り出し、ドサリと机の上に置いた。
「いえ。実は万が一に備えて、昨夜徹夜でこの書類を作成しておりましてね。出番がなくて、本気で残念に思っているところです」
「書類? なんの書類だ、それは」
「『発動時損害分担条項』です」
セヴランは、心底悔しそうな顔でその束をポンポンと叩いた。
「もし先ほどの私の質問に対し、陛下が『我が国が力強く前を歩もう』などと仰って、我々の体が物理的に前へ吹き飛ばされたり、会議室が半壊したりした場合に備え……エルデン側が支払うべき損害賠償の算定基準と、慰謝料の請求額を細かく定義しておいたのです。これで我が国に有利な追加の譲歩を引き出そうと目論んでいたのですが」
「…………」
アルノルトとコンラートは、完膚なきまでに沈黙した。
ユリウスだけが、「なるほど。他国の事故を自国の利益に変換する、論理的で素晴らしいリスクヘッジです」と、敵ながら見事な法務作業を本気で称賛している。
「陛下がご自身の言葉の重みを完全に御し、あのような完璧な返答をなさるとは。いやはや、エルデン王国は恐ろしい国だ」
セヴランは苦笑しながら、その分厚い損害賠償請求の草案を、再び鞄の中に片付け始めた。
完璧な事故対策を準備し、あわよくば王冠の暴走でぼろ儲けしようとしていた有能な外交官だけが、無事故を心底惜しんで帰っていく。
その外交官らしい強かな喜劇に、アルノルトは呆れを通り越して、思わず吹き出してしまった。
数時間後。
ヴァルツの使節団を見送り、王宮の執務室に戻ったアルノルトは、長椅子に深く沈み込んでネクタイを緩めた。
「……終わった。これほど疲れる数日間は、生涯で初めてかもしれん」
「お疲れ様でした、陛下」
ユリウスが、労いの言葉とともに淹れたての紅茶をテーブルに置いた。
「無事故での合意、そして最後のセヴラン卿へのご返答。法的な安全性と、王としての意思伝達が両立した、お見事な言葉でした」
ユリウスのその言葉は、いつもの嫌味や小言ではなく、純粋に専門家としての評価だった。
アルノルトは紅茶のカップを受け取り、ユリウスを見上げた。
「お前が条文の罠をすべて潰してくれたからこそ、余は最後の言葉だけに集中できた。……礼を言うぞ、ヴェルナー」
「私の仕事ですから」
ユリウスは眼鏡の位置を直し、淡々と答えた。
王の言葉を物理的・政治的な危険から守る校正官と、その安全な土台の上で、自らの意思を声に乗せる王。
二人の間には、もはや互いを疎ましく思う感情はなかった。それぞれの専門領域を任せ、背中を預け合う「バディ」としての関係が、静かに、だが確固たるものとして成立していた。
アルノルトは紅茶の香りに癒されながら、ようやく訪れた平穏に安堵の息を吐いた。
しかし。
「さて、陛下。休む暇はありませんよ」
ユリウスが、バインダーから新しい予定表をバサリと取り出した。
「なっ……なんだと? 外交が終わったばかりだぞ!」
「条約締結を受けた、国内向けの大型演説が控えています。さらに、秋の収穫期に向けた地方訪問のスケジュールも組まねばなりません」
ユリウスの容赦ない言葉に、アルノルトはカップを持ったまま固まった。
「外交使節という論理の通じる相手との交渉は終わりました。これからは、より広く、より予測不能な『国民』に向けて、安全かつ誠実な言葉を届けるという新たな課題が待っています」
ユリウスの赤ペンが、予定表の上に新たな直線を引いた。
王冠の呪いは解けていない。むしろ、王が語りかける範囲が広がるほど、言葉の責任は増していくのだ。
アルノルトは「……鬼め」と悪態をつきながらも、どこか諦めたように、しかし力強く、出された予定表を睨みつけたのであった。




