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陛下、比喩は禁止です。~「猫の手も借りたい」で猫まみれ。王の失言、校正します~  作者: 他力本願寺


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第28話 完璧な条文ほど怖い

王宮の第二会議室には、紙の擦れる乾いた音だけが響いていた。


 隣国ヴァルツからの特命使節、セヴラン・ド・ヴァルツ卿との通商条約締結に向けた最終調整会議。


 アルノルト二世の隣には、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが座っていた。


 つい先日、アルノルトから「表に出るな」と宣告されたユリウスだったが、前日の「公文書箱の物理封印事件」における遠隔での的確なサポートを経て、王から純粋な『法務の専門家』としての意見を求められ、再びこの席に着いていた。


 ただし、かつてのように王の斜め後ろで口元を監視する護衛役としてではない。アルノルトと肩を並べ、机に書類を広げて対等に協議に参加する実務家としてである。


「――こちらが、昨日の一件も踏まえ、我が国が再考いたしました関税引き下げの代替措置に関する最終条文案です」


 セヴランが、優雅な手つきで数枚の羊皮紙を差し出した。


「そちらの校正官殿が好まれるよう、いかなる比喩も、いかなる抽象的表現も排した、極めて明確な文言とさせていただきました」


 ユリウスは無言でその羊皮紙を受け取り、目を落とした。


 そして、赤ペンを持ったまま、硬直した。


(……なんだ、これは)


 ユリウスの目が、条文の上を何度も往復する。


 セヴランの言葉に嘘はなかった。条文は文法的に完璧だった。主語のねじれはなく、修飾語の掛かる先は一意に定まっており、期限も数値も明確に定義されている。王冠《レクス・ヴェルブム》の事故を誘発するような曖昧な表現や比喩は、見事なまでに削ぎ落とされていた。


 物理事故を防ぐ「安全」という観点から見れば、百点満点の条文である。


 だが、ユリウスの背筋に冷たい汗が伝った。


『第三条第二項:本条約発効日から百八十日間、別表第一に掲げる全品目について、ヴァルツに登録された商人がエルデンへ搬入する場合のエルデン側通行税を免除する。品質条件は別表第二の数値基準による。エルデンに登録された商人がヴァルツへ搬入する場合には、本項による免除を適用しない』


 期間も、品目も、判定基準も揃っている。別表の数字にも抜けはなかった。


 読み方を変えて逃れる余地はない。エルデンだけが税収を減らし、反対方向の取引には同じ利益がない。


(明確だ。極めて明確に、相手にだけ都合が良いように構築されている……!)


 ユリウスは、息を呑んだ。


 これまで彼は、言葉が明確でありさえすれば、それは「正しい」のだと信じてきた。曖昧さを削り、定義を固定すれば、誰も傷つかず、誰も誤解しない安全な行政が実現できると。


 だが、目の前にある完璧な条文は、その信念を根底から打ち砕いていた。


 明確に書かれているからこそ、受け入れるかどうかを決めなければならない。文法を直して済む問題ではなかった。


「いかがでしょうか、ヴェルナー殿」


 セヴランが、扇子を畳んで微笑んだ。


「曖昧さのない、完璧に安全な条文でしょう? 王冠が暴走する余地など、どこにもありません」


 セヴランの灰色の瞳が、愉悦に細められていた。彼は意図的に、ユリウスの「明確さ至上主義」を逆手に取ったのだ。言葉の安全ばかりに気を取られている法務官など、条約という言葉のゲームにおいては赤子も同然であると、からかっているのである。


 ユリウスは赤ペンを持った手を震わせ、唇を噛んだ。


 反論しようにも、自分自身が今まで「明確な言葉を出せ」と要求してきた手前、文法的に非の打ち所がないこの条文をどう否定すればいいのか。


 重苦しい沈黙が、エルデン側の席を包んだ。


「……ヴェルナー」


 不意に、隣に座るアルノルトが静かな声で呼んだ。


 ユリウスはハッとして顔を上げた。


 アルノルトは、かつてのように「お前のせいで交渉が止まったではないか」と怒ったり、説教したりはしなかった。彼はただ、自らが認めた専門家を信頼し、王として真っ直ぐに問うた。


「その文は、明確か」


 アルノルトの真意を悟り、ユリウスの胸の内で、何かが大きく弾けた。


(そうだ。私は王の言葉を守る校正官だ。安全を守るだけでなく、王国の不利益を弾き出すのが私の役目だ)


 ユリウスは大きく息を吸い込み、ずり落ちていた眼鏡を中指で力強く押し上げた。


 そして、セヴランを真っ直ぐに見据え、はっきりと答えた。


「……明確です。一切の誤解の余地なく、完全に明確な条文です」


 セヴランの笑みが深まる。


「ただし、我が国としては受け入れられません。明確な不公平だからです」


 ユリウスの宣告に、セヴランの笑みがピタリと止まった。


「……ほう? どのあたりが不公平だとおっしゃるのでしょうか」


「第三条第二項!」


 ユリウスは羊皮紙を机に叩きつけ、赤ペンで勢いよく斜線を引いた。


「免除が一方向にしか適用されません。同じ品目、同じ期間、同じ品質条件で、双方の商人に同じ措置を認める条文へ変更を求めます。相互免除が難しい品目は、別表から外して再協議すべきです」


「お待ちいただきたい」


 セヴランが顔から余裕を消し、身を乗り出した。


「それでは我が国が求めた輸送費負担の調整になりません。ならば、ここの接続詞『および』を『または』に変更し、どちらか一方の条件を満たせば……」


「駄目です! 『または』にすれば、前段の免税要件が完全に形骸化します! ここは『ならびに』を用いて、双方の要件を独立して満たすことを厳密に規定すべきです!」


「いや、その読点の位置では、後段の修飾語が全体に掛かってしまう。エルデン側に過度な裁量を与えることになりますぞ!」


 バンッ! と、ユリウスが机を叩いた。


「読点の位置など関係ありません! 係り受けの構造を根本から変え、第一号から第三号までの箇条書きとして並列化すれば、いかなる誤読も防げます!」


 そこから始まったのは、王冠の魔法など全く関係のない、純粋な言葉の暴力の応酬だった。


 句読点一つの位置、接続詞の選択、単語の定義。それらがもたらす法的拘束力と経済的利益の増減を巡り、大人たちが本気の熱戦を繰り広げ始めたのである。


 セヴランは扇子を握りつぶさんばかりの力で机を叩き、ユリウスは手や顔に赤いインクを飛び散らせながら、互いの条文案を徹底的に解体し、再構築していく。


 アルノルトは、一切口を挟まなかった。


 彼は腕を組み、目の前で繰り広げられる「言葉のプロフェッショナル」同士の泥臭くも高度な殴り合いを、どこか楽しそうに、頼もしそうに見守っていた。


 数時間に及ぶ激闘の末。


 会議室の机の上は、赤インクで真っ赤に染まった羊皮紙の残骸で埋め尽くされていた。


「……はぁ、はぁ……」


「……ふう……」


 ユリウスとセヴランは、互いにネクタイを緩め、疲労困憊の体で椅子に深く寄りかかっていた。


 彼らの間にあるのは、双方が自国の不利益とリスクを理解し、その上でようやく合意可能と判断した、真の妥協案だった。


 セヴランは乱れた銀髪をかき上げ、乾いた笑いを漏らした。


「……見事な校正でした、ヴェルナー殿。文言の確認だけでは終わらせてくださいませんでしたな」


「……卿の条文構築能力も、見事なものでした。勉強になりました」


 ユリウスは、疲労で霞む目をこすりながら、眼鏡を掛け直した。


 ユリウスは、最初の案の『明確』という確認印に、もう一行、『条件は不受諾』と書き足した。


「よし。両国の実務トップが納得したのなら、これで決定としよう」


 アルノルトが立ち上がり、満足げに宣言した。


 物理事故ゼロ。そして、国益を損なうこともない、完璧な会談の着地であった。


 会議終了後。


 王の執務室に戻ったアルノルトは、椅子に座り込んだユリウスに笑いかけた。


「どうだ、ヴェルナー。言葉の力だけで相手国と戦う気分は」


「……疲労困憊です。もう二度と、あのような性格の悪い男とは条文を読み交わしたくありません」


 ユリウスが深い溜息をつくと、アルノルトは可笑しそうに声を上げて笑った。


「だが、よくやった。お前のおかげで、我が国は不利な条約を結ばずに済んだ」


「私の仕事ですから」


 ユリウスは机の上に散らかった書類を片付け始めた。


 安全であることだけが正義ではない。明確であっても、それが国を害するなら意味がない。自分の仕事は、ただ言葉の形を整えることではなく、その言葉がもたらす未来を守ることなのだ。


 ユリウスが自分の価値観の広がりに静かな充足感を得ていた、その時。


「さて」


 アルノルトが、机の上に置かれていた別の書類の束を指差した。


「条約がまとまった以上、次は国内向けの発表を行わねばならんな」


「ええ。広報局には、物理事故を防ぐための安全な草案を作成させています。すぐに私が校正を……」


「ヴェルナー。次の国内向けの発表では、ただ安全なだけでは駄目だぞ」


 アルノルトの真剣な声に、ユリウスの動きが止まった。


「前の記者会見で、余の言葉は民からの信頼を失いかけている。今度の発表文には、安全さに加えて、『誠実さ』も問われることになる」


「誠実さ、ですか」


「そうだ。安全で、かつ国民に誤解を与えない誠実な言葉だ」


 ユリウスは、アルノルトの目を見た。


 明確な不公平を排除した彼に、今度は「誠実さ」という、最も数値化が難しく、曖昧な概念が突きつけられたのだ。


「……承知いたしました」


 ユリウスは、インクの乾いた赤ペンを置き、新しいペンをインク壺に深く浸した。

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