第27話 校正官がいない日に限って
王立法制局の奥にある、埃っぽい文書保管室の隣。
臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは、自らの執務机で山のような書類と向き合っていた。
彼の右手は、機械のように正確なリズムで赤ペンを走らせている。各省庁から上がってくる通達案、議事録、法規の修正案。それらに含まれる曖昧な表現や、わずかでも比喩的な解釈が可能な単語を徹底的に排除していく作業である。
「……『状況を打開する』は禁止。『事態の解決を図る』へ修正。『火種を消す』は物理的消火活動を誘発するため禁止。『懸念事項を処理する』へ」
呟きながらインクを擦り付ける彼の顔に、いつもの張り詰めた緊張感はない。
数日前の記者会見における、アルノルト二世との激しい衝突。
『お前が正しいほど、余は何も決めていない王に見える』
『余の言葉に、これ以上干渉するな』
王の拒絶を受け、ユリウスは現在、会見や外交といった表に出る業務から外されていた。王の斜め後ろに立ち、その口元を監視するという、彼にとって最大の責務から解放――あるいは追放されている状態だ。
現在、王宮の第二会議室では、隣国ヴァルツの使節団との条約実務会議が行われているはずだ。アルノルトは、校正官の同伴なしで、言葉のプロたちとの交渉に臨んでいる。
「私がいなくても、陛下が安全な言葉を選べば済むことです」
ユリウスは誰に言うでもなく呟き、次の羊皮紙に手を伸ばした。
王冠の仕様は、すでに十二分に王へ伝えてある。陛下も愚かではない。自尊心を満たすための原稿なし会見とは違い、国益のかかった実務会議で軽はずみな比喩は使わないだろう。
ユリウスは、胸の奥底にある微かな焦燥感を赤いインクで塗り潰すように、校正作業に没頭し続けた。
* * *
「――以上が、関税率引き下げに伴う代替措置の草案となります」
第二会議室。
アルノルトは、対面に座るヴァルツ側の実務担当官たちを見据え、手元の資料を軽く指で叩いた。
彼の背後には、近衛兵が立つのみ。いつも背中を刺してくる、冷徹な眼鏡の視線と、小言を囁く声がない。
(なんという息のしやすさだ。やはり、王の背後にはあのような口うるさい姑は不要なのだ)
アルノルトは内心でのびのびとしながらも、言葉選びには最大限の注意を払っていた。
比喩は使わない。誇張もしない。事実と数字だけを、王としての威厳ある響きに乗せて交渉を進める。ここまでは見事に無事故であり、ヴァルツ側の担当官たちも、アルノルトの的確な反論にタジタジとなっていた。
「へ、陛下。代替措置としての特産品の購入枠拡大ですが、我が国の流通組合が難色を示しておりまして……もう少し、猶予をいただけないでしょうか」
ヴァルツ側の役人が、額に汗を浮かべながら懇願する。
アルノルトは腕を組んだ。
関税率の細かな調整において、両者の意見が膠着していた。これ以上押し問答を続けても、互いに疲弊するだけで建設的な結論は出ない。
アルノルトは、ここで一度冷却期間を置き、互いに持ち帰って再検討すべきだと判断した。
「……よかろう。この関税品目の調整については、本日のところはここまでとする」
アルノルトは、交渉の熱を冷ますための、ごく自然で穏やかな口調で、締めくくりの言葉を紡いだ。
「この件はいったん、箱にしまおう」
後回しにする。保留にする。
実務の場において、誰しもが使うありふれた比喩表現である。
アルノルト自身、言い終わるまでそれが「比喩」であることに全く気づいていなかった。背後に、彼を止める赤ペンが存在しなかったからだ。
カッ、と。
アルノルトの頭上で、古代王冠が強烈な銀色の光を放った。
「……え?」
アルノルトが瞬きをした直後。
バサァァァァッ!!
アルノルトの手元にあった「王国側の条約草案」が、まるで意思を持った鳥のように一斉に宙へ舞い上がった。
「な、なんだ!?」
エルデン側の役人たちが悲鳴を上げる。
空を飛んだのは草案だけではない。決裁に使うための特注の公的な印章、過去の交渉記録をまとめた参考資料など、「この件」に該当するあらゆる物品が、猛烈な勢いで部屋の隅へと飛んでいく。
そこには、重要書類を保管するための、頑丈な木製の公文書箱が置かれていた。
ズサァァァッ!
飛んでいった書類と印章は、開いていた公文書箱の中へ、綺麗に、かつ暴力的な勢いで飛び込んだ。
バタンッ!!
重厚な蓋が自律的に閉まる。
ガチャン、カチリ。
厳重な真鍮製の鍵が、物理的な操作なしに、勝手にかかってしまった。
会議室は、水を打ったように静まり返った。
アルノルトは、空になった自分の手元と、部屋の隅で沈黙する公文書箱を交互に見つめ、顔面から血の気が引くのを感じた。
「……しまわれた」
ヴァルツ側の役人が、ポカンとした顔で呟いた。
「陛下……見事に、箱にしまわれましたな。物理的に」
アルノルトは、冷や汗を拭うことすらできなかった。
エルデン側の役人たちが、慌てて公文書箱に駆け寄り、ガチャガチャと蓋を引く。
「開きません! 鍵がかかっています!」
「馬鹿な、あの箱の鍵は法制局の厳重管理だぞ! 我々現場の人間は持っていない!」
「無理に壊しますか!?」
「駄目だ! 王冠の魔力が込められた箱を無理に壊せば、公文書毀損になるどころか、中の条約草案ごと爆発するかもしれんぞ!」
現場は完全なパニックに陥り、開封権限を巡って激しい口論が始まった。
アルノルトは、自らの失言が生み出した滑稽すぎる物理封印を前に、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(おのれ、王冠め……! だが、ここでヴェルナーを呼んで泣きつけば、余の負けだ。絶対にアイツの力は借りん!)
* * *
法制局の執務室。
バンッ! と扉が開き、顔を青くした伝令の役人が飛び込んできた。
「ヴ、ヴェルナー殿! 大至急、第二会議室へ!」
「何事ですか。廊下を走らないように」
ユリウスは赤ペンを置かずに冷たく返した。
「陛下が……陛下が条約会議中に『この件は箱にしまおう』と仰ってしまい、条約草案や公印がすべて公文書箱に物理封印されてしまいました! 鍵がかかっており、我々では開けられません!」
ピタ、と。
ユリウスのペンの動きが止まった。
「……箱に、しまった」
「はい! ヴァルツの使節団も呆れ果てております! 至急、現場へお越しいただき、陛下の訂正の補助と、箱の解錠を!」
ユリウスは、無意識のうちに椅子から立ち上がっていた。
ユリウスは一歩を踏み出し――そこで、足を止めた。
『お前が正しいほど、余は何も決めていない王に見える』
『余の言葉に、これ以上干渉するな』
アルノルトの、痛みを伴う拒絶の言葉が脳裏に蘇る。
今、自分が現場に駆けつければ、確かに事態はすぐに収拾するだろう。だがそれは、再びアルノルトから「王自身の言葉による解決」の機会を奪い、彼を「校正官なしでは何もできない王」へと貶めることになる。
ユリウスは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「ヴェルナー殿?」
「……私は行きません。陛下から、表の業務に出るなと命じられていますので」
「そ、そんなことを言っている場合では!」
「代わりに、これを」
ユリウスは、手元の新しい羊皮紙に、黒インクのペンで素早く数行の文字を書き殴った。
それを折り畳み、伝令の胸に押し付ける。
「訂正文の『要点』です。これを陛下にお渡しください」
「要点……? 訂正文そのものではないのですか!?」
「ええ。あとは、陛下ご自身が言葉を組み直されるはずです」
ユリウスは、伝令を追い出し、再び自分の仕事に戻った。
王の口に完成された原稿を詰め込むのではなく、解決に必要な条件のピースだけを渡す。それは、過保護な安全管理からの、初めての脱却だった。
* * *
「持ってきたか!」
第二会議室。アルノルトは、戻ってきた伝令からひったくるように羊皮紙を受け取った。
中を開く。
いつもなら、そこに『公文書箱の封印を解き~』といった、ユリウス特有の無味乾燥な長文が書かれているはずだった。
だが、その紙に書かれていたのは、たった三行の箇条書きだった。
『対象:部屋の隅の公文書箱七番(会議資料在中)
解除条件:物理的な施錠の解除
権限:王宮管理の箱。撤回後も錠は残るため、開錠を別に指示』
アルノルトは、その紙を見て一瞬呆気にとられた。
(……あいつ、原稿を書いてこなかったのか。自分で考えろ、とでも言うのか)
だが、不思議と怒りは湧かなかった。むしろ、渡されたその三つの条件を見た瞬間、アルノルトの頭の中で、それをどう王の言葉として出力すれば最も自然で威厳が保てるかという、パズルが組み上がるのを感じた。
アルノルトは羊皮紙を握りつぶし、公文書箱に向かって右手を突き出した。
そして、ヴァルツの使節団にも聞こえるよう、堂々たる声で命じた。
「先ほどの封印の命令を撤回する。会議資料を入れた、公文書箱七番の錠を開けよ!」
王冠が魔力を帯びる。
ガチャン!
重々しい音とともに箱の鍵が外れた。職員が蓋を開き、草案と印章を取り出して王の机に置いた。
「おおっ……!」
エルデン側の役人たちが安堵の声を上げる。
アルノルトは、何事もなかったかのように席に座り直し、セヴランの部下たちを見据えた。
「少々、余興が過ぎたな。資料は戻ったが、本日の協議はここまでとする。明日、また会おう」
その見事なリカバリーに、ヴァルツの役人たちは圧倒され、静かに一礼して退室していった。
* * *
法制局の執務室。
ユリウスの前に、一枚の書類が届けられた。
「……復旧完了、事故による負傷者なし、か」
現場からの事後報告書だった。ユリウスは、アルノルトが自らの言葉で見事に事態を収束させた事実を確認し、小さく息を吐いた。
直接顔を合わせなくても、関係が冷えたままであっても、送った条件を王が正しく出力することで、遠隔での共同作業は成立した。
「……私がいなくても、やれるではないですか」
ユリウスは、微かな寂しさと、それ以上の安堵を感じながら呟いた。
その日の夕刻。
ユリウスの机に、近衛兵を通じて王の私室から一通の封書が届けられた。
中に入っていたのは、「戻れ」という命令でも、昨日の口論に対する謝罪でもなかった。
『ヴァルツ側が提示した条約草案の第三項について、法制的な観点からの意見を求む』
それは、純粋な実務の依頼書だった。
口うるさい小姑としての同伴は拒絶するが、法務の専門家としての領域は任せる。和解を急ぐのではなく、プロフェッショナルとしての新しい距離感が、そこに提示されていた。
ユリウスは、その依頼書をじっと見つめた後、無言で分厚い六法全書を引き寄せた。




