第26話 止めるな
長引く協議の間に、王都は盛夏を迎えていた。
王宮の大広間に隣接する控室には、針を落とせば聞こえるほどの張り詰めた空気が漂っていた。
扉の向こうでは、国内の主要新聞や通信社の記者たちが、今か今かと新王の登場を待ち構えている。先日の「関税局合体事件」を発端に巻き起こった『国王を操る男』という陰謀論。それを払拭するため、アルノルト二世は本日、異例となる「原稿なしの記者会見」を行うと宣言していた。
アルノルトは鏡の前で自身の服装を整え、深く息を吐いた。
「――陛下」
振り返ると、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが、数枚の羊皮紙を手に無表情で立っていた。
「記者からの想定質問と、それに対する回答範囲の制限リストです」
ユリウスは羊皮紙をアルノルトに突き出した。
「『前向きに検討する』『善処する』といった態度は、案件を物理的に宙に浮かせたまま保留状態にする恐れがあるため使用禁止。『一丸となって』は、王宮内の人員や物資が文字通り一つの球体へと物理的に凝集する危険があるため絶対に使用しないでください。また――」
「ヴェルナー」
アルノルトは、その羊皮紙を受け取ることなく、冷たい声で遮った。
「余は言ったはずだ。今日の会見は原稿なしで行う、と」
「原稿ではありません。回答の『範囲制限』です。記者の質問は予期せぬ方向から飛んできます。即興で答えようとすれば、必ず比喩や感情語が混入する。完全に自由な発言は、王冠の事故リスクを極限まで引き上げます」
「だからと言って、お前の作った枠の中だけで『はい』か『いいえ』を繰り返せというのか。それはただの機械だ」
アルノルトの眼差しには、王としての強い怒りが宿っていた。
「民は今、余が他人に操られているのではないかと疑っている。それを晴らすには、余が自分自身の言葉で、自分の責任において語りかけるしかないのだ。お前の制限リストは、余から王としての意志を奪うものだ。受け取らん」
「……事故を防ぐのが、私の職務です」
ユリウスは一歩も引かなかった。
「陛下の自尊心を満たすために、王宮や王都を危険に晒すことは許可できません。回答範囲を守っていただけないなら、職務上、会見中の発言であっても私は即座に止めに入ります」
「……好きにしろ」
アルノルトは吐き捨てるように言い、扉を開けて広間へと向かった。
ユリウスはバインダーを固く握りしめ、その後ろ姿を追った。
大広間にアルノルトが姿を現すと、記者たちから一斉にフラッシュのような魔導照明の閃光が浴びせられた。
アルノルトは演台に立ち、記者たちを見渡した。斜め後ろにはユリウスが控え、いつでも王の口を塞げるように殺気立った視線を放っている。
「それでは、質問を受け付ける」
アルノルトの言葉を合図に、最前列の記者が勢いよく手を挙げた。
「王都日報です! 陛下、先日の関税局統合の件ですが、あれは一部で『法制局の役人が陛下の言葉を操った結果だ』と報じられています。陛下ご自身の明確な意思だったのでしょうか! また、今後の物流改善の具体策をお聞かせください!」
広間が静まり返る。国民の疑念を代弁する、鋭い質問だった。
アルノルトは息を吸い込んだ。
『我が国の血流たる物流を――』
アルノルトが息を吸い、身振りを大きくした。
だが、それを口に出そうとした瞬間、背後に立つユリウスの氷のようなプレッシャーが首筋を刺した。
アルノルトの思考が、言葉を探して激しく空回りした。
王冠の恐怖と、ユリウスに途中で止められるという屈辱。それらが強烈なブレーキとなり、口から出ようとしていた情熱的な言葉を根こそぎ刈り取っていった。
「……あの件は」
数秒の不自然な沈黙の後、アルノルトの口から絞り出されたのは、ひどく掠れた声だった。
「既存の……規定の範囲内での、決定である。今後の対策については、各省庁が……現状のデータを分析中である」
記者たちが、怪訝な顔を見合わせた。
別の記者が手を挙げる。
「陛下! 地方の税収不足に対する具体的な救済措置はどのようにお考えですか!」
「それについては……適切な時期に、必要な物資を、算定された数値に基づいて……手配する予定だ」
アルノルトの額から、冷や汗が流れ落ちた。
事故を起こしてはならない。ユリウスに止められてはならない。その強迫観念が、アルノルトの言葉からあらゆる具体性と熱を奪っていた。
彼は極端に慎重になりすぎ、当たり障りのない、誰が聞いても無味乾燥な役所の答弁だけを繰り返した。
どの質問に対しても、核心には一切答えられなかった。
頭上の王冠は、ただの一度も魔力反応を示さなかった。物理事故はゼロである。
だが、記者たちの顔に浮かんでいたのは、安堵ではなく明確な「失望」だった。
彼らの冷たい視線が、無数の矢となってアルノルトの心を突き刺した。
「……本日の会見は、以上とする」
逃げるようにそう告げて演台を下りた時、アルノルトの背中はこれまでにないほど小さく見えた。
会見終了後。王の私室。
アルノルトは、上着も脱がずに長椅子に崩れ落ちていた。
彼の前に立つユリウスは、淡々と報告書を書き込んでいた。
「本日の会見における王冠の魔力反応、ゼロ件です。比喩の使用もありませんでした。物理的安全性は完全に保たれました」
「……」
「しかし、回答の内容が極端に抽象的かつ逃避的であったため、記者たちからの印象は――」
「黙れ」
アルノルトが、地を這うような低い声で言った。
彼はゆっくりと立ち上がり、ユリウスの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「お前は、余が公衆の面前で恥をかくのを見て満足か」
「私は陛下の言葉を監視し、事故を防ぐ職務を全うしたまでです。陛下ご自身が、言葉に詰まられた結果です」
ユリウスは一切顔色を変えず、正論を返した。
その正しさが、今のアルノルトには何よりも耐え難かった。
「お前のその『正しさ』が、余から言葉を奪っているのだ!!」
アルノルトはサイドテーブルに手をつき、言いかけた言葉を一度飲み込んだ。
「余は今日、民の目を見て悟った! 言葉を失った王など、玉座に座るただの肉の塊に過ぎない! お前が正しいほど、余は何も決めていない王に見えるのだ!」
「私が離れれば、王冠が暴走して国が滅びます! 陛下の見栄と国の存亡、どちらが重いかなど考えるまでもありません!」
二人の声が私室に響き渡る。
これまでの小言や摩擦とは違う、互いの存在意義を根底から否定し合う、本気の衝突だった。
「おい、やめろお前たち! 陛下、頭を冷やしてください! ヴェルナーも言い過ぎだ!」
騒ぎを聞きつけて飛び込んできたコンラート宰相が、慌てて二人の間に割って入った。
その時、コンラートの後ろについてきた若手官僚が、青ざめた顔で声を震わせた。
「あ、あの! 宰相閣下、今『頭を冷やせ』と仰いましたが、それは危険指定の……物理的な冷却を伴う恐れが……他にも危険語が次々と出ておりますが……っ」
官僚が規程書をめくりながら過剰な校正を挟もうとした瞬間。
「今の言葉を口にしたのは宰相だ!」
王とユリウスの声が重なった。
文官は口を閉じ、二人は気まずそうに互いから目を逸らした。
アルノルトとユリウスは、同時にその官僚をギロリと睨みつけ、凄まじい気迫で黙らせた。
大事故は起きていない。二人とも自分の立場においては正しい。だからこそ噛み合わない、行き場のない緊張感。その只中に放り込まれた過剰校正の滑稽さが、事態の異常さを際立たせていた。
アルノルトは荒い息を吐きながら、ユリウスを指差した。
「……ヴェルナー。お前を、明日から会見や外交といった表に出る業務から外す。以降は文書の校正のみ行え」
「なっ……陛下、それは!」
「余の言葉に、これ以上干渉するな。これは決定だ」
アルノルトの冷たい拒絶。
ユリウスは数秒間アルノルトを睨み返したが、やがて無言で一礼し、踵を返して私室を退出した。
法制局の執務室に戻ったユリウスは、一人、薄暗い部屋の机に向かっていた。
手元には、先ほどの記者会見の事後報告書がある。
これまでの彼なら、「事故0件」であれば無条件で「完全なる成功」と評価し、疑うこともなかった。
だが、ペンの先が羊皮紙の上で止まっていた。
脳裏に焼き付いているのは、言葉を紡げず苦悩するアルノルトの失意の顔と、記者たちの失望に満ちた目。そして「お前が正しいほど、余は何も決めていない王に見える」という悲痛な叫びだった。
安全であることは、本当に正しいことなのか。
ユリウスは、自らの価値観が微かに揺らぐのを感じながら、赤ペンを強く握りしめた。
そして、自らの手で、初めて報告書の結論にこう書き記した。
『事故0件/会見成功とは判定できず』
インクの擦れる音が、誰もいない執務室に空しく響いた。




