第25話 国王を操る男
朝の王宮。臨時王命校正官の執務室の机には、王都アルクスで広く出回っている大衆向けの風刺紙が乱暴に広げられていた。
一面の半分を占める巨大な見出しには、太い活字でこう踊っている。
『国王を操る男! 王命校正官の恐るべき支配!』
『隣国使節との会談で見せた異常な光景! 若き王の口を塞ぐ黒幕の正体とは!?』
挿絵には、王座に縛り付けられたアルノルト二世と、その背後で操り人形の糸を引く、眼鏡を光らせた悪魔のようなユリウス・ヴェルナーの似顔絵が描かれていた。
先日の隣国ヴァルツの特命使節、セヴラン卿との通商会談において、ユリウスが王の口を物理的に塞ごうとした護衛戦や、王が他者の言葉に相槌を打っただけで関税局が合体したという大騒動は、すぐに王宮の壁を越えて市井の噂となった。
その結果、民衆の想像力は「王冠の異常な仕様」ではなく、「野心的な役人による王の洗脳と支配」という、分かりやすい陰謀論の方へと転がっていったのである。
「……ははははっ! これは傑作だ!」
執務室を訪れていたアルノルトは、自分の似顔絵を見て腹を抱えて大笑いしていた。
「おいヴェルナー、この似顔絵、お前の冷酷な目つきをよく捉えているぞ。ついに余は、完全にお前の操り人形として世間に認知されたようだな」
アルノルトがからかうように言うが、ユリウスは一切笑っていなかった。
彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、不快そうに風刺紙を見下ろしていた。
「……事実無根の陰謀説は、国家の秩序と行政の信頼を著しく乱します。行政官として、不正確な情報は速やかに訂正しなければなりません」
「放っておけ。大衆紙の書くことだ、熱などすぐに冷める」
「いいえ。放置すれば、法制局が不当な権力を行使しているという既成事実が作られます。直ちに公式な訂正文を作成し、広報局を通じて全王都に掲示します」
ユリウスは羽ペンを手に取り、真っ白な羊皮紙に向かった。
アルノルトは「真面目な奴だ」と肩をすくめ、用意されていた紅茶を飲みながらその作業を眺めていた。
ユリウスは、新聞に書かれた「黒幕」「洗脳」「恐るべき野望」といった感情的な煽り文句には一切触れなかった。彼はただひたすらに、記事の中の「事実誤認」の部分だけを抜き出し、それを法制局特有の無味乾燥で緻密な公文書体で訂正していくという作業に没頭した。
数時間後。
「できました。これが公式訂正文です」
ユリウスが差し出した羊皮紙を見て、アルノルトは紅茶を吹き出しそうになった。
そこには、黒々とした文字と、細かい赤線の注釈がびっしりと書き込まれた、長大な怪文書が完成していた。
『公式見解:一部報道における王命校正官の職務権限に関する事実誤認の訂正について
第一項:王命校正官は、国王陛下の自由意志を不当に阻害するものではない。同職は、古代王冠の仕様に基づく言語的推敲を提供する行政上の安全装置である。
(注1:ただし、発言対象の物理的変形、破壊、移動が予見される緊急事態に限り、王命取扱規程第七条に基づき、物理的な発言制止権を有するものとする)
第二項:使節来訪時の会談における発言制止は、陛下が相手方の比喩を繰り返すことによる物理事故を防ぐための緊急避難措置である。また、後日の通商会談で生じた窓口設備の移動事故に際しては、同職は設備の配置確認と復旧命令の起案を補助したものであり、撤回および復旧を命じたのは陛下ご本人である。いずれも王権の簒奪を意図したものではない……』
「……ヴェルナー。お前、これを本気で街に貼り出すつもりか?」
アルノルトが引きつった顔で尋ねる。
「ええ。事実関係を一つ一つ論理的に証明し、いかなる誤解の余地も残さない、完璧な訂正文です。これを読めば、私が王を操っているなどという妄想は一瞬で氷解するはずです」
「いや、逆に……」
アルノルトは言いかけたが、ユリウスはすでに広報局の役人を呼びつけていた。
翌日。
王都の中央広場や主要な掲示板に、ユリウスの書いた『公式訂正文』が貼り出された。
結果から言えば、アルノルトの悪い予感は的中した。民衆の疑惑は鎮火するどころか、さらに油を注がれたように燃え上がったのである。
一般の市民から見れば、その難解な専門用語と注釈だらけの長大な文書は、「論理的な説明」などではなかった。
「おい、これ読めるか? なんだこの『物理的な発言制止権』って」
「要するに、『危ないと思ったら、俺が陛下の口を物理的に塞ぐ権利がある』って堂々と書いてあるぞ!」
「ひいっ! やっぱりあの校正官が、難解な法律の言葉を盾にして陛下を完全に支配しているんだ!」
「間違いねえ! これは言い訳の皮を被った、実質的な支配宣言の怪文書だ!」
陰謀説への公式訂正文が、最も陰謀めいて見えるという最悪の逆効果。
広報局には前日を上回る問い合わせと抗議が殺到し、風刺紙は「王命校正官、ついに本性を現す!」という号外まで出す始末だった。
「……だから言ったではないか」
執務室で、アルノルトは再び大量の抗議文の処理に追われるユリウスを見て、苦笑を漏らした。
だが、王の笑いは続かなかった。
国民が「王は操られている」と勘違いするのも無理はない。彼らから見れば、自分が公の場で話す言葉は常に味気ない官僚のそれであり、ユリウスの用意した原稿をそのまま読み上げている場面がほとんどなのだ。さらに、外交の場では実際にユリウスに口を塞がれている。
自分がユリウス経由でしか言葉を発していないのは、紛れもない事実だった。
アルノルトは自らの両手を見つめた。
人の目を見て、空気を読み、言葉で心を動かす。それが、彼が王として持つ最大の武器であり、自尊心だった。
しかし今は、王冠の事故を防ぐためとはいえ、自分の言葉が民に直接届かず、他人に操られているとすら思われている。それは、国を背負う王として、決して看過できない屈辱であった。
王は新聞を丁寧に畳み直し、机の端へ置いた。
その日の夜。
静まり返った執務室で、ユリウスが台帳を開き、定例の「本日の王言レビュー」を開始した。
「本日の物理事故はゼロ件。各種の危険語の使用もありませんでした。また、風刺紙に対する公式訂正文の掲示により、記録上の対応は完了です。明日以降も、この安全基準を維持していただきます」
ユリウスは事務的に報告を終え、バインダーを閉じようとした。
アルノルトは、長椅子から立ち上がった。
「ヴェルナー」
「はい、陛下」
「明後日に、国内の新聞記者たちを集めた定期会見が予定されているな」
「ええ。質問事項はすでに提出させており、回答の原稿も私が九割方書き上げています。明日には――」
「いや。その原稿は破棄しろ」
アルノルトの、静かだが重みのある声が執務室に響いた。
ユリウスの動きが止まった。
「……破棄、とは? どういうことでしょうか」
「明後日の記者会見は、原稿なしで行う。余が直接、自分の言葉で記者たちの質問に答える」
一瞬の空白の後、ユリウスの顔色がサッと青ざめた。
「なりません!!」
ユリウスはバンッと机を叩き、身を乗り出した。
「原稿なしの会見など正気の沙汰ではありません! 記者の予測不能な質問に対し、即興で言葉を紡げば、必ず比喩や感情的な抽象語が混入します! その場で王冠がどう解釈するか、安全の担保が完全に不可能です!」
「分かっている。だからこそ、やらねばならんのだ」
アルノルトは真っ直ぐにユリウスを見据えた。
「民は今、余が自分の言葉を持っていないと疑っている。その疑念を晴らすには、余が自分の口で、借り物ではない言葉で語りかけるしかない。お前が書いた安全な原稿を読み上げても、誰も余を信じない」
「信じられなくても、王宮が破壊されなければ国は存続します! 陛下の見栄のために、国家を危険に晒すことは許可できません!」
「これは見栄ではない。王としての自立の問題だ」
アルノルトは一歩も引かなかった。
「いつまでもお前の庇護の下で、点検表に縛られ続けるわけにはいかない。王冠の力は余の責任だ。余自身の言葉で、この呪いと折り合いをつけねばならんのだ」
二人の視線が激しくぶつかり合った。
徹底して物理的な安全を追求する校正官と、王としての誇りと言葉の力を取り戻そうとする若き王。
ユリウスは、アルノルトの目の中に、これまでのような「面倒くさい」という反発ではなく、確固たる君主としての覚悟を見て取った。
数秒の睨み合いの後。
「……分かりました」
ユリウスは奥歯を噛み締めながら、赤ペンを強く握り直した。
「ただし、私が横に立ちます。少しでも危険な表現の兆候があれば、会見を中断してでも全力で止めます。よろしいですね」
「ああ。頼むぞ、ヴェルナー」
アルノルトの顔に、不敵な笑みが戻った。
王の言葉を取り戻すための、危険極まりない「原稿なし記者会見」への火蓋が、静かに切って落とされた。




