第24話 「その通りだ」が危険です
エルデン王宮の第一会議室は、静かな熱気に包まれていた。
前日の国境友好式典において、「国境の門が半分しか開かない」という前代未聞の視覚的事故が発生したものの、その滑稽な結末が両国民の緊張を解きほぐし、結果としてエルデン王国と隣国ヴァルツの親睦は深まっていた。
その好ましい空気感を引き継ぎ、本日の通商交渉は、実務的な関税手続きの協議という大詰めの段階に入っていた。
「――以上が、我が国が提示する国境通行税の免除対象品目となります。いかがでしょうか、陛下」
ヴァルツの特命使節セヴラン・ド・ヴァルツ卿が、優雅な手つきで分厚い資料をアルノルト二世の前に滑らせた。
「うむ。妥当な線だろう。我が国としても、この品目での合意に異存はない」
アルノルトは王としての威厳を保ちつつ、短く的確な返答を返した。
彼の斜め後ろに直立する臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは、手元のバインダーに挟んだ『王命取扱規程』を片手に、赤ペンを握りしめていた。
(ここまでは順調だ。セヴラン卿は言葉の二重性を武器にする有能な外交官だが、陛下もそれを警戒し、見事に抽象語や比喩を回避しておられる)
ユリウスは眼鏡の奥の目を細め、セヴランの口元を鋭く監視し続けた。
セヴランは挨拶の時から、王の言い換えを注意深く聞いていた。こちらも、曖昧な文言に安易な返事はできない。
「大きな枠組みでの合意が得られ、安堵いたしました」
セヴランは微笑みを浮かべ、軽く頷いた。
「しかし陛下。制度が決まっても、現場の運用が滞っては意味がありません。現在、両国間で荷物をやり取りする際、関税局、防疫局、そして流通管理組合と、三つも四つもの部署を通さねばなりません。商人たちからは、手続きが煩雑すぎるとの不満の声が上がっております」
セヴランの指摘は、真っ当な実務上の課題であった。
アルノルトも、その問題点は以前から把握しており、深く頷いた。
「確かに、その通りだ。各部署の権限が縦割りになっているせいで、無駄な時間がかかっている」
「ええ。ですから、この通商条約の改定を機に、手続きの簡略化を図るべきかと。両国の窓口を一本にできれば、話は早いのですが」
セヴランが、ごく自然な調子で提案を口にした。
「両国の窓口を一本にできれば話は早い」。それは、外交辞令としても実務的な提案としても、極めて常識的で合理的な比喩表現であった。
アルノルトは、その提案の的確さに深く納得した。彼は王冠の脅威を一時的に忘れ、一人の国の代表として、優れた提案に対する純粋な賛同を口にしてしまった。
「うむ、その通りだ。採用しよう」
その瞬間。
ユリウスの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
「あっ、陛下……!」
ユリウスが声を上げる間もなく、アルノルトの頭上に鎮座する王冠が、鋭い銀色の魔力光を放った。
「……ん? どうした、ヴェルナー」
アルノルトが怪訝そうに振り返った直後、会議室の窓の外、王都の中心部の方角から、ズゴゴゴゴゴッという重い地鳴りが響いてきた。
「な、なんだ!?」
宰相コンラートが椅子から立ち上がる。
地鳴りは数分間続き、やがて遠くから、人々の悲鳴や怒号のような騒めきが風に乗って微かに聞こえてきた。
会議室の扉が乱暴に叩かれ、顔面を蒼白にした情報局の伝令が転がり込んできた。
「も、申し上げます!! 関税局で異常事態です!」
「異常事態だと? 何が起きた!」
アルノルトが身を乗り出すと、伝令は息も絶え絶えに報告を叫んだ。
「中央関税局の広間にある各部署の可動式受付台と看板、窓枠が、入口の一箇所に集まってしまいました! 建物は無事ですが、職員がそれぞれの窓口に入れません!」
「はあ!?」
「現在は、帳場が横並びになり、看板が一本の支柱に重なっています! 王都中の商人たちがその『一本化された窓口』に殺到しており、長大な列が発生して物流が完全に麻痺しております!」
伝令の報告を聞き、アルノルトは絶句して固まった。
ユリウスは、震える手で赤ペンを握り直し、バインダーの空白のページに猛烈な勢いで文字を書き殴った。
「『窓口を一本にする』……! セヴラン卿の放った比喩表現を、陛下が『その通りだ』『採用する』と公的に承認してしまった。王冠は、陛下ご自身の発言だけでなく、他者の比喩を公的に同意・採用した場合、その直前の言葉を『王言』として取り込んで処理するのです……!」
「先ほど、頷かれただけの時には光りませんでした。声に出した採用が条件です」
ユリウスは、直前まで王の口元を見張っていた自分の記録に線を引いた。
新たな、そして恐るべきルールの露呈だった。王自身がいくら言葉に気をつけていても、他人の比喩を声に出して採用しただけでも、周囲の物が動いてしまうのだ。
アルノルトは、冷や汗を流しながら対面のセヴランを睨みつけた。
「セヴラン卿……貴殿、わざとやったな?」
他国の王宮が物理的混乱に陥っているというのに、セヴランは驚くどころか、広げた扇子で口元を優雅に隠していた。
「……ほう。『採用する』でも発動するのですね。これは極めて興味深い」
セヴランは、悪びれる様子もなく、自らが意図的にこのシステムを試したことをあっさりと認めた。
「言葉のプロフェッショナルである陛下が、ここ数日、ひどく窮屈な言葉選びをなさっていた。それが何故かを探るために、少しばかり『自然な比喩』を投げてみたまでです。まさか、他者の言葉を飲み込んで物理法則を書き換えるとは……エルデンの王冠の力、存分に拝見いたしました」
セヴランの目は、王の失態を嘲笑うものではなく、純粋に外交カードとしての脅威度を測る冷徹な観察者のそれであった。彼は謝罪の言葉を述べるより先に、この前代未聞のエラーに、若き王がどう対処するのかを値踏みするように見つめていた。
アルノルトは、罠にはめられたことに激しい怒りを覚えつつも、即座に王としての冷静さを取り戻した。
彼は深く息を吸い込んだ。
ここで「次の一文は比喩として言う」などという逃げ口上を使って訂正すれば、相手に弱みを見せることになる。必要なのは、王冠の仕様を掌握した、明確で短い物理的命令のみ。
アルノルトは、セヴランから視線を外さず、王としての威厳に満ちた声で放った。
「今の採用発言を撤回する。窓口の受付をいったん止め、移動した設備の周囲から人を離してくれ」
王は伝令に指示した。
ユリウスが配置図を取り寄せ、各設備の番号と戻し先を読み上げる。現場の確認を待って、王がその具体的な命令を発した。
再び宝珠が光り、伝令が復旧の確認に走った。
「……見事な手腕です、陛下」
数分後、伝令から復元完了の報告を受けたセヴランは、心からの感服を示すように深く頭を下げた。
「どのような混乱が起きようと、即座に的確な言葉で事態を収束させる。その決断力と正確さは、王として何よりも得難い資質とお見受けいたします。先ほどの無礼、どうかお許しください」
「……協議は、書面でのみ継続する。本日はこれまでだ」
アルノルトは冷たく言い放ち、席を立った。
外交戦の第一ラウンドは、アルノルトの鮮やかな収束によって、どうにかエルデンの威信を保ったまま終了した。
だが、代償は大きかった。ユリウスの『王命取扱規程』には、「他者発言への明示的な同意・採用の禁止」という、さらにアルノルトの首を絞める項目が追加されることになったのである。
そして翌朝。
王都の街角で配られた国内の風刺新聞のトップ記事を見て、アルノルトは頭を抱えることになる。
そこには、大きな見出しでこう書かれていた。
『国王陛下、隣国使節の言葉で国を動かす! 我が国の王の発言は、誰かに操られているのではないか?』
事故そのものはすぐに収束した。しかし、王が他人の言葉に相槌を打っただけで関税局が合体したという事実は、民衆の目に「王が自分の意志を持たず、他人の言葉で操られている」という最悪の形で映ってしまったのだ。
「……ヴェルナー。どうやら、物理的な事故を防ぐだけでは駄目なようだな」
アルノルトは、新聞を机に放り投げた。
「はい。言葉が引き起こす社会的・政治的な代償も、計算に入れる必要があります」
ユリウスは赤ペンを片手に、新たな戦いの始まりを静かに見据えていた。




