第23話 国境の門を開こう
エルデン王国と隣国ヴァルツの国境線は、巨大な河川と、それを跨ぐ石造りの大橋によって隔てられている。
橋の中央には両国の境界を示す白線が引かれ、その線上には堅牢な鉄格子と分厚いオーク材で作られた「国境の門」がそびえ立っていた。右半分はエルデン側の意匠が、左半分はヴァルツ側の意匠が施された、長年の緊張と不可侵の象徴である。
だが本日は、その重苦しい国境の門の前に紅白の天幕が張られ、華やかな祝祭の空気に包まれていた。
新通商条約の締結に向けた親善をアピールするための、「国境友好式典」である。
「――以上をもちまして、両国の関税手続きにおける新たな協力体制の概要といたします」
エルデン側の演台に立つ国王アルノルト二世は、手元の原稿から顔を上げ、眼下に広がる群衆を見渡した。
国境線の両側には、エルデン、ヴァルツ双方の商人や市民が数千人規模で詰めかけ、新王の姿と両国の未来を見守っている。
アルノルトの斜め後ろには、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが赤ペンを握りしめて直立していた。ユリウスの額には、微かな汗が滲んでいる。
(国境線上という特殊な環境……王冠の魔法的権限がどこまで、どのように作用するか未知数だ。一切の比喩は許されない)
ユリウスはアルノルトの口元から一瞬たりとも目を離さなかった。
前夜の多言語晩餐会において、アルノルトは不自然な直訳調のエルデン語のみを話し続けるという屈辱を味わっていた。天性の話し手である彼にとって、言葉を奪われることは手足を縛られるに等しい。
王は結びの段落へ指を置き、顔を上げた。
(安全な言葉だけで、民の心は動かせる。だが、この熱気に応えるには、たった一言でいい、象徴的な言葉が必要だ)
アルノルトは、目の前のヴァルツ側来賓席に座る特命使節、セヴラン・ド・ヴァルツ卿と視線を交わした。セヴランは余裕の笑みを浮かべ、アルノルトが次に何を言うのかを値踏みするように見つめ返してくる。
アルノルトは大きく息を吸い込み、ユリウスが用意した無味乾燥な原稿から視線を外した。
「エルデンとヴァルツ、両国の民よ」
よく通る、堂々たる声が国境の橋に響き渡った。
「我々は長きにわたり、この川を挟んで互いを警戒し合ってきた。だが、新しい時代はすでに始まっている。我々は今日、新たな通商の取り決めについて、協議を進める」
背後でユリウスが「あっ」と息を呑む気配がしたが、アルノルトは止まらなかった。
この場を、両国の友好を永遠のものとして印象付けるための、最高の一言。
「さあ、両国の国境の門を開こう!!」
アルノルトが右手を高く掲げて叫んだ。
カッ、と。
アルノルトの頭上で、古代王冠の宝珠が目眩く銀色の光を放った。
「しまった……!!」
ユリウスが絶叫し、アルノルトもハッと我に返った。「国境の門を開く」という、国際友好を示す一般的な慣用表現。それが、王宮ではなくまさに「国境の門」の目の前という公的な場で、王の方針として受理されてしまったのだ。
ズゴゴゴゴゴゴッ!!
地響きとともに、アルノルトたちの背後にそびえ立つ巨大な国境の門が、自律的に動き始めた。
「おおっ!?」
「門が、門が開くぞ!」
両国の群衆からどよめきが起こる。
ギギギギ……と重い金属音を立てて、門が手前へと引き込まれていく。
しかし、その光景は、誰がどう見ても異常だった。
「……え?」
アルノルトは、振り返ったまま硬直した。
開いたのは、門の「右半分」だけだったのだ。
国境の中央線、その見えない境界を境にして、エルデン王国側が管理する右側の巨大な鉄格子とオーク材の扉は、限界までパカッと全開になっている。さらに、周囲に張り巡らされていたエルデン側の防護柵やバリケードも、見えない力によって綺麗に収納されていた。
だが、中央線の向こう側。ヴァルツ王国が所有・管理する左半分の門は、巨大な南京錠がかけられたまま、ピクリとも動いていなかった。
結果として橋の中央に完成したのは、右半分は全開で風通しが良く、左半分は頑絶に閉ざされたままという、不格好でいびつな「半開きの門」であった。
しん、と。
数千人が集う国境線が、不気味なほどの静寂に包まれた。
「……な、なんということを」
エルデン側の外交官が、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「こちらだけが無防備に門を全開にし、ヴァルツ側は堅く門を閉ざしたまま。これではまるで、我が国だけが一方的にすり寄り、相手国からは完全に拒絶されているような構図ではないか……! 友好の象徴として、これ以上ない最悪の形だ!」
エルデンの役人たちが顔面を蒼白にしてパニックに陥る中、王立魔法学院のミラ・フェルベック博士だけは、魔力測定器を抱えて目を輝かせていた。
「見事な結果です、校正官殿! 王冠の法域制限が、視覚的に完全に証明されました!」
ミラがユリウスの腕を叩く。
「王冠の権限は、自国の法域と管理下にある資源にしか直接作用しない。だから、エルデン側の門は開いても、ヴァルツ側の所有物である左半分の門には一切干渉できなかったのです。一枚の絵として、これほど分かりやすい魔法の限界の実証実験はありません!」
ユリウスは赤ペンを握りつぶしそうな力で握りしめ、「今は感心している場合ではありません……!」と呻いた。
一方、ヴァルツ側の来賓席。
自国の門だけが閉ざされたままという異様な状況を前に、ヴァルツの役人たちも一瞬戸惑ったが、特命使節であるセヴラン卿は、扇子で口元を隠しながら静かに肩を震わせていた。
「……くっ、ふふふ。これは見事だ」
「セヴラン卿? いかがなされましたか」
「いや、エルデンの王冠の噂は聞いていたが、まさかこれほど正確に『法域』を線引きするとはな。自国の権限が及ばぬ他国の財産には指一本触れられない。法域と主権の境界を他国に示すデモンストレーションとしては、最高傑作だ」
セヴランは、半開きの門と、演台の上で青ざめているアルノルトを面白そうに見つめた。
当のアルノルトは、背中に冷や汗を滝のように流していた。
だが、彼はただの失言王ではない。数々の事故をユリウスと共に乗り越えてきた経験が、彼に咄嗟のリカバリーを促した。
アルノルトは両手を大きく広げ、顔に引きつった笑みを貼り付けながら、群衆に向かって叫んだ。
「先ほどの開門の命令を撤回する。次の一文は、比喩として言う!」
習得した一文限りの安全弁。それを、数千の民衆の前で大声で宣言したのだ。
群衆が「なんだなんだ?」とざわめく中、アルノルトは必死に言葉を続けた。
「我々の心の門は、すでに全開である!」
アルノルトは、半開きの門を指差して力強く言い切った。
静寂。
ヴァルツ側の民衆の一人が、ぽつりと呟いた。
「……なんだあれ、半分しか開いてねえじゃん」
「自分で『門を開く』って豪語しておいて、自分ちの扉しか開けられなかったのか?」
「その上、『次の一文は比喩です』って……言い訳が必死すぎないか?」
クスクス、という押し殺したような笑い声が、ヴァルツ側の群衆から漏れ始めた。
それは瞬く間にエルデン側の群衆にも伝染し、国境線上の張り詰めていた緊張感は、まるで風船が弾けたように一気に崩壊した。
「あははははっ! 何だよあの門、いびつすぎるだろ!」
「陛下、顔が真っ赤だぞ!」
「心の門は全開って、そりゃあ見れば分かるよ!」
ワァァァァァッ! と、両国の群衆から割れんばかりの大爆笑と、温かい拍手が巻き起こった。
完璧で隙のない儀式は、相手に緊張を与える。しかし、王という絶対的な権力者が、国境の真ん中で見栄を張って失敗し、大慌てで「比喩だから!」と言い訳をするその滑稽な姿は、両国の民衆の警戒心を溶かしてしまったのだ。
結果として、国境の橋の上には、エルデンもヴァルツもなく、ただ腹を抱えて笑い合う人々の一体感だけが存在していた。
アルノルトは演台の上で顔を真っ赤にして俯きながら、「……笑われている。王としての威厳が……」と呻いていたが、その口元は微かに安堵に緩んでいた。
演台の横で、ユリウスはバインダーを開き、事後報告書にペンを走らせていた。
『物理事故発生。王冠の法域制限により、門は半分のみ開放。式典の進行は著しく阻害された』
そこまで書いて、ユリウスのペンの先がピタリと止まった。
彼は顔を上げ、眼下で笑い合う両国の民衆と、それを見て穏やかに微笑むセヴラン卿の姿を見た。
明らかに物理的な事故であり、式典としては大失敗である。
しかし、この空気を「失敗」と断定して記録してよいのだろうか。言葉の厳密さを欠いた結果が、時に外交的な緊張を和らげ、人間の距離を縮めることがあるとしたら。
ユリウスは、報告書の『総合評価』の欄にペン先を当てたまま、数秒間身動きしなかった。
そして、小さく息を吐くと、その欄を空白にしたままバインダーを閉じた。
「……陛下。本日のところは、ひとまず戻りましょう。明日は、さらに過酷な戦いが待っていますから」
「ああ……頼む、早く余を執務室に隠してくれ」
セヴランが自国の門番へ合図した。大きな鍵が回り、残り半分の門が人の手で開いた。
「こちらは、従来の方法で」
使節の一言で、もう一度笑いが起きた。
開いた門を背に、逃げるように馬車へ向かう王と校正官の背中を、両国の民衆の温かい笑い声がいつまでも見送っていた。




