第22話 翻訳すると安全とは限らない
王宮の敷地内、本殿から少し離れた場所に建つ王国側外交館の一室。
今夜、この場所で隣国ヴァルツからの特命使節セヴラン・ド・ヴァルツ卿を招いた「非公式な多言語晩餐会」が開かれる。原稿も議事録もない、酒と食事を交えた親睦の場。
それは臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーにとって、アルノルト二世の口から最も危険な比喩が漏れやすい、最悪の戦場を意味していた。
「……ルゥア・ディ・テスタ・ファル……」
部屋の中央で、アルノルトが手元の羊皮紙を睨みつけながら、たどたどしい発音で異国の言葉を紡いでいた。
「違います、陛下。ヴァルツ語のその部分は、もっと喉の奥を鳴らすように発音してください。相手の国の言葉で祝辞を述べるのですから、正確さが求められます」
ユリウスが容赦なく駄目出しをする。
「分かっている。だが、慣れん言葉は舌が回らんのだ」
アルノルトは苛立たしげに羊皮紙を振った。
彼が練習しているのは、今夜の晩餐会の乾杯で用いる、ヴァルツ語の一般的な祝辞の定型句だった。エルデン語に意訳すれば「御家繁栄を」あるいは「末長いご健勝を」といった意味合いになる。
しかし、その定型句の直訳的な字義は、『あなたの屋根から雨が入らぬように』というものであった。
「フェルベック博士。王冠の魔力動態に変化は?」
ユリウスが、部屋の隅に待機している王立魔法学院のミラ・フェルベックに声をかけた。
ミラは複数の魔力測定器の針を見つめながら、静かに首を振った。
「全く反応していません。意味不明な音列や、文法的に破綻した誤発音は、王冠の言語解釈システムにおいて有意義な言葉として認識されず、非起動のまま弾かれているようです」
「なるほど」
ユリウスは手元のメモ帳に黒インクで書き込んだ。
彼が事前検証の場を設けたのは、王冠が「外国語」をどのように処理するのかを確かめるためだった。
もし王冠がエルデン語しか認識しないのであれば、今夜の晩餐会はどれほどヴァルツ語の比喩を使っても安全ということになる。あるいは、王自身が心の中で「御家繁栄」という意図を持って発声していれば、表面上の字義(屋根の雨漏り)は無視されるのではないか、という一縷の望みもあった。
「余の語学力を馬鹿にしているのか」
アルノルトの負けず嫌いに火がついた。彼は羊皮紙の発音記号を鋭く睨みつけ、コホンと喉の調子を整えた。
「天性の話し手たる余が、たかだか他国の祝辞一つ満足に言えないわけがなかろう。よく聞いていろ。本番さながらの公的な文脈として、完璧に言ってやる」
アルノルトは姿勢を正し、目前にセヴラン卿がいるかのように堂々たる態度を作った。
そして、先ほどまでのたどたどしさが嘘のような、完璧な発音と流暢なイントネーションで、ヴァルツ語の定型句を響き渡らせた。
「――あなたの屋根から雨が入らぬように!」
その直後だった。
カッ、と。アルノルトの頭上で、王冠の宝珠が眩い銀色の光を放った。
「えっ?」
アルノルトが間の抜けた声を漏らした瞬間。
ガラガラガラガラッ!!
頭上の天井裏、つまり外交館の屋根の真上から、無数の硬い物が擦れ合うような凄まじい轟音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
アルノルトが天井を見上げる。
ズゴゴゴ、ガシャァン! という音が続き、まるで屋根の上で目に見えない大工の集団が一斉に暴れ回っているかのようだった。
「外に出ましょう!」
ユリウスが扉を開け、アルノルトとミラを促して中庭へと飛び出した。
三人が外交館の屋根を見上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
外交館の屋根を覆う古い瓦が一斉に自律的に動き出し、空中の見えない手によって猛烈な勢いで並び替えられていたのだ。さらに、王宮の資材庫の方角から、真新しい予備の瓦が次々と宙を飛んで飛来し、長年放置されてヒビが入っていた雨漏り箇所へと、パズルピースのように隙間なく組み込まれていく。
「お、おおお……」
アルノルトは口を開けたまま、その光景を見上げていた。
数十秒後、すべての瓦が整然と並び終え、外交館の屋根は新品同様の美しさを取り戻した。文字通り、『屋根から雨が入らないように』完璧な修繕工事が実行されたのである。
「……計測、完了しました」
ミラが手元の計器から顔を上げ、興奮を抑えきれない声で言った。
「王冠は、陛下が頭の中で理解していた『御家繁栄』という意図を全く読み取っていません。発話された使用言語における『表面上の字義』、すなわち『屋根の雨漏り防止』を優先して解釈しました!」
「つまり……」
ユリウスが眼鏡を光らせて結論を引き取る。
「翻訳された外国語であっても、その言語の文法と字義が成立していれば、王冠は正確にその字義通りの物理現象を引き起こすということです。陛下の意図など関係なく」
「そんな馬鹿な……!」
アルノルトは頭を抱えた。
「それでは、余がヴァルツ語の慣用句を覚えれば覚えるほど、意図しない事故の引き金が増えるということではないか!」
「その通りです。他言語の比喩も、母国語の比喩と同様に危険な凶器になります」
ユリウスは全く容赦なく、手元のバインダーに挟んだ『王命取扱規程』に赤ペンで太々と書き込みを行った。
『他言語であっても、字義が物理的現象を伴う比喩・慣用句はすべて使用禁止とする』
アルノルトは、綺麗に修繕された屋根を見上げながら、深い絶望の溜息をついた。
「外交の場で、相手国の言葉で気の利いた挨拶の一つもできないとは。余は今夜の晩餐会で、いったい何を話せばいいのだ」
「安全第一です。今夜の晩餐会は、すべて母国語かつ、私が監修した直訳調の言葉のみで行っていただきます。通訳を介せば、少なくとも王冠が暴走するリスクは排除できますから」
「ワインを飲みながら、役所の通達文みたいな会話をするのか……セヴラン卿に心底呆れられそうだな」
アルノルトは肩を落とし、すごすごと外交館の中へ戻っていった。
外交晩餐の前に、なぜか屋根の修繕工事だけが完璧に終わるという、シュールな結果だけが残された。
その日の夜の晩餐会は、ユリウスの鉄壁の防御により、アルノルトが終始一貫して無味乾燥な事実のみを語り続けるという、息苦しい時間となった。
セヴラン卿は時折、アルノルトの不自然な言葉の選び方を面白そうに観察していたが、致命的な事故が起きることはなかった。
晩餐会をどうにか無事故で乗り切り、王宮の執務室に戻ってきたアルノルトは、長椅子に倒れ込んだ。
「……疲れた。言葉を選ぶだけで、剣の稽古の十倍は体力を削られる」
「素晴らしい自制心でした、陛下。明日もこの調子でお願いいたします」
ユリウスが淡々と明日の予定表を整理する。
「せめて明日の国境友好式典くらいは、見栄えのする言葉を使わせてくれ」
アルノルトが弱々しく懇願した。
「明日はエルデンとヴァルツの国境線上で、両国民に向けた平和の式典があるのだろう? そこで通達文みたいな挨拶をすれば、両国の民から『冷たい王だ』と失望されるぞ」
「……」
ユリウスは手を止め、予定表を見つめた。
明日の式典では、両国の友好を示すため、国境という「法域」そのものを使った表現が原稿に盛り込まれる予定であった。
「国境という特殊な場所において、王冠の権限がどのように働くかは未知数です。王国法域外の対象に王冠の力が及ぶのかどうか」
ユリウスは手帳をパタンと閉じた。
「油断はできません。明日も、私は陛下の口元を監視し続けます」
アルノルトは、いっそ王冠を国境の川に投げ捨てたい衝動に駆られながら、重い瞼を閉じたのだった。




