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陛下、比喩は禁止です。~「猫の手も借りたい」で猫まみれ。王の失言、校正します~  作者: 他力本願寺


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第21話 外交官は一語を見逃さない

夏に入り、ヴァルツとの通商協議が始まった。


 王宮の西棟に位置する白亜の迎賓室。


 長方形の大理石のテーブルを挟み、エルデン王国の国王アルノルト二世と、隣国ヴァルツからの特命使節であるセヴラン・ド・ヴァルツ卿が対座していた。


 セヴランは三十五歳。細身で長身、銀糸の刺繍が施された濃紺の礼服を隙なく着こなし、その口元には常に穏やかで洗練された笑みを浮かべている。だが、その灰色の瞳の奥には、相手の僅かな動揺も見逃さない冷徹な観察眼が潜んでいた。


「本日は、このような素晴らしい席を設けていただき、心より感謝申し上げます、陛下」


 セヴランが優雅に一礼する。


「長旅、ご苦労であった。我がエルデン王国は、セヴラン卿の来訪を歓迎する」


 アルノルトは王としての威厳を保ち、短く的確な挨拶を返した。


 同席している宰相コンラートが、手元の分厚い資料を整えながら口を開く。


「さて、セヴラン卿。此度の両国の通商条約改定に関する基本方針についてですが――」


「ええ、宰相閣下。その実務的なお話に入る前に、少しだけよろしいでしょうか」


 セヴランはコンラートの進行を柔らかく遮り、再びアルノルトへと視線を向けた。


「王都アルクスに入り、街の活気に深く感銘を受けました。市場には物が溢れ、人々の顔は明るい。まるで、街全体が大きな一つの生き物として、力強く呼吸をしているかのようです。これもひとえに、新王であられる陛下の御威光の賜物でしょう」


 美しい賛辞だった。


 外交の場において、こうした修辞に富んだ挨拶は当然の儀礼である。アルノルトもまた、天性の話し手として、その賛辞に相応しい詩的な返答をしようと息を吸い込んだ。


「うむ、余も――」


「陛下、ご発言は不要です!!」


 突如、アルノルトの斜め後ろから、空気を切り裂くような鋭い声が飛んだ。


 臨時王命校正官、ユリウス・ヴェルナーである。


 彼は血走った目でセヴランを睨みつけ、赤ペンを握りしめたまま、アルノルトの耳元へ身を乗り出していた。


「……ッ、ヴェルナー! 貴様、何をしている!」


「その言い回しを繰り返してお返しになるのは避けてください。街の設備に作用するかもしれません。ここは公務の場です」


 ユリウスはアルノルトにだけ聞こえる早口で囁き、すぐさま姿勢を正してセヴランに向かって言った。


「セヴラン卿。本日は実務的な通商会談です。王都の景観に関するご感想は、議事録にのみ留めさせていただきます。陛下の直接のご返答は控えさせていただきます」


 外交儀礼を粉々に打ち砕く、露骨な横槍。


 コンラートが「お、おい、ヴェルナー……」と冷や汗を流すが、ユリウスは全く引かない。


 アルノルトは、自分がまるで自らの意思で言葉も発せない置物のように扱われたことに、強い苛立ちを覚えた。


 だが、セヴランは不快感を示すどころか、その灰色の瞳を面白そうに細めた。


 セヴランは紅茶のカップを手に取り、王とユリウスを交互に見た。その口元には、まだ笑みが残っている。


 セヴランはカップを置き、さらに巧妙なパスを投げた。


「これは失礼いたしました、校正官殿。私はただ、これからの交渉において、我々が互いに胸襟を開いて語り合える関係を築きたいと願ったまでです。このままでは、我々の間には冷たい氷の壁がそびえ立っているようで……」


「セヴラン卿!」


 ユリウスが机に両手をついて身を乗り出した。


「比喩の応酬は控えます。実務上のご提案をお聞かせください」


「ヴェルナー、お前は少し黙っていろ!」


 アルノルトがたまらず怒鳴った。


「卿はただの親善の意図で言っているのだ! 一々噛み付いては、交渉が進まんではないか!」


「陛下が同じ言い回しで返せば、今度は陛下の命令になります! 相手は言葉のプロです。一言の言い返しが事故につながりかねません!」


 必死に王の口を塞ごうとするユリウスと、それに苛立つアルノルト。


 国際会談の場は、「王に何を言わせるか/言わせないか」の異様な護衛戦と化していた。


 セヴランは微笑みを絶やさず、その様子を観察し続けていた。


「いやはや、エルデン王国の法務の厳格さには恐れ入ります」


 セヴランは優雅に肩をすくめた。


「では、実務のお話をしましょう。我が国が提出した、関税率の二割引き下げ案についてです。これは両国の経済の車輪を勢いよく回す起爆剤になると確信しておりますが、いかがでしょうか?」


 アルノルトが「うむ――」と口を開きかけた瞬間。


「陛下!!」


 ユリウスが悲鳴のような声を上げ、アルノルトとセヴランの間に自らの体を割り込ませた。


「陛下、同じ言葉で応じる必要はありません。経済効果は、財務局の試算をもとにご説明します」


「……っ!」


 アルノルトは言葉を飲み込み、机の下で拳をギリッと握りしめた。


 セヴランは、まるで困ったような顔を作ってため息をついた。


「……国王陛下は、随分と校正官殿を信頼されておられるご様子。しかし、これでは本音の交渉は難しい。我が国としては、陛下ご自身の生のお言葉を伺いたいのですが、すべてのご判断をこちらのヴェルナー殿に委ねておいでなのですか?」


 それは、王としてのプライドをえぐる、静かで鋭い挑発だった。


「セヴラン卿、それは――」


 ユリウスが反論しようとしたその時。


「ヴェルナー。退がれ」


 アルノルトの低く、威厳に満ちた声が、迎賓室の空気を一瞬にして凍らせた。


 ユリウスがハッとして振り向くと、アルノルトは冷たい目で彼を見据えていた。


「お前が余の失言を防ごうとしているのは分かる。だが、外交の場で余を操り人形にする権限までは与えていない。ここからは、余が話す」


「しかし、陛下。相手の罠に……」


「退がれと言ったのだ」


 アルノルトの揺るぎない王命に、ユリウスは奥歯を噛み締めながら、ゆっくりと元の位置へ下がった。


 アルノルトはセヴランに向き直り、深く息を吸い込んだ。


 頭上の王冠の重みを感じながら、彼は頭の中で言葉を研ぎ澄ませた。


 比喩の土俵には乗らない。相手の修辞を繰り返して応じることもしない。ただ、王冠の力が及ばない、純粋で明確な「事実と判断」の刃だけを抜く。


「セヴラン卿。貴国の提示した関税率の二割引き下げ、それは受け入れられない」


 アルノルトの放った言葉は、一切の装飾を持たない、事務的な響きを持っていた。


「我が国が譲歩できるのは、一割の引き下げが限度だ。不足分については、我が国の特産品の優先購入枠を設定することで相殺する。この条件が呑めねば、本通商条約の改定は白紙とする」


 セヴランの灰色の瞳が、微かに見開かれた。


「……回答は、明日の正午まで待とう。以上だ」


 アルノルトは言い切り、セヴランを真っ直ぐに見据えた。


 当然のことながら、王冠は発動しない。物理事故は何も起きなかった。


 だが、その極度に短く、具体的な条件と期限の提示は、どんな華麗な外交辞令よりも重く、交渉の核心を正確に突いていた。


 セヴランは、目の前の若き王を再評価した。


 セヴランは深く頭を下げ、完璧な礼をとった。


「……承知いたしました、陛下。陛下の明確なご意思、確かに本国へ持ち帰り、検討させていただきます。本日の会談は、これまでといたしましょう」


 コンラートが安堵の息を吐き、ユリウスも緊張を解いて赤ペンを下ろした。


 アルノルトの判断力が、危うい護衛戦を無事に着地させたのだ。


 だが、セヴランは立ち上がり際に、不敵な笑みを浮かべてアルノルトを見た。


「明日の正午までに回答をお持ちいたします。そして、もし条約が締結の運びとなりましたら……明日の夜は、ぜひ非公式な晩餐会をご一緒したいものです」


「非公式な晩餐会?」


 アルノルトが眉をひそめる。


「ええ。原稿も、議事録も抜きにした、両国の親睦を深めるための和やかな席です。美味しいワインと、豊かな『言葉』を交えながら」


 その提案に、ユリウスの顔色が再びサッと青ざめた。


 原稿なし、議事録なしの非公式な場。それはつまり、アルノルトが最も気を緩ませやすく、比喩を口にする危険が極限まで跳ね上がる、校正官にとっての最悪の戦場である。


「……楽しみにしているぞ、セヴラン卿」


 アルノルトは不敵に笑って受けて立った。


 言葉のプロフェッショナル同士の戦いは、まだ始まったばかりであった。

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