第20話 意図ではなく、文言です
魔力網が枯渇し、静まり返った暗闇の王宮。
執務室の机には数本の蝋燭が立てられ、その頼りない灯りが、深刻な顔をした三人の影を壁に長く伸ばしていた。
「王都西郊の山間部、土砂崩れにより街道が寸断。近隣の二つの村が完全に孤立状態です。備蓄食料も少なく、夜間の冷え込みを凌ぐための緊急支援物資を、一刻も早く現地へ送らねばなりません」
報告を終えた伝令が退室すると、アルノルト二世は机に広げられた地図の西部に視線を落とし、強く拳を握りしめた。
「……すぐに手配しろ。だが、王冠の力は制限されているのだったな。フェルベック博士」
呼ばれたミラ・フェルベック博士は、魔力測定器のダイヤルを調整しながら首を振った。
「はい、陛下。先ほどの東部への輸送のように、大量の馬車と物資を倉庫から積載場所へ動かすような大規模な魔力行使は不可能です。もし今やれば、王宮のインフラが完全に崩壊します」
「ならば、通常の手順で馬車を出すしかないか……」
「お待ちください」
暗がりの中から、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが静かに歩み出た。
「物質の強制移動はできずとも、既存の行政システムに介入し、『指示書』や『優先権』を生成するだけであれば、魔力消費は最小限に抑えられます。私が今から、西部の村へ物資を最優先で運ばせるための、完璧な配車命令書を作成します」
ユリウスは素早く羊皮紙を引き寄せ、インク壺にペンを浸した。
「対象となる馬車の数は……いや、待機している御者の状況が不明瞭ですね。それに、寸断された街道の手前で荷を下ろす人員の指定も必要です。正確を期すため、物流局の当直責任者をここに呼んで……」
「ヴェルナー、時間が惜しい!」
アルノルトが机を叩いた。
王は地図の村名を指し、伝令に通常の配送手配も進めるよう頼んだ。だが、校正官の筆が追いつく前に、王冠へ顔を上げた。
焦燥に駆られたアルノルトは、ユリウスが止める暇もなく、頭上の王冠に向けて直接口を開いてしまった。
「物流局に命じる! 用意できた災害支援物資を、必要なところへ優先して送れ!」
「あっ、陛下!」
ユリウスがペンを落として叫んだが、王冠の奥で、わずかに銀色の光が瞬いた。
魔力消費は小さかった。シャンデリアが再び明滅することもなく、執務室は静かなままだ。
窓の外から、遠く物流局の待機所の方で、役人たちが慌ただしく走り出す気配が感じられた。
「……発動しました。魔力残量に異常はありません」
ミラが測定器を見ながら報告する。
アルノルトは安堵の息を吐き、椅子に座り直した。
「見たか、ヴェルナー。細かい指定などなくても、王冠は『必要なところへ優先して送る』という行政的な手続きの優先順位を書き換えてくれた。現場の役人たちも、西部の土砂崩れの一報は受けている。彼らなら、王冠が生成した優先指示書を受け取れば、何をすべきか分かるはずだ」
ユリウスはすぐ物流局に確認を出した。発行された指示書を、そのままにしておくわけにはいかない。
三十分後。
物流局から、写しと照会が届いた。
「……なんだと?」
アルノルトは、報告書を持つ手が震えるのを止められなかった。
「先発の二台が、別の場所へ向かった……だと?」
「は、はい」
物流局の局長が、顔面を蒼白にして平伏している。
「先ほど、我々の手元に王冠の力で『最優先配送指示書』が生成されました。我々はそれに従い、倉庫から毛布や食料を運び出し、指定された場所へ全速力で馬車を走らせたのです」
「なぜ村に届いていない! どこへ運んだ!」
「それが……王都西門の防衛倉庫と、その隣の施療院の備蓄庫でございます……」
「なっ……」
アルノルトは言葉を失い、隣のユリウスを見た。
ユリウスは手元の分厚い法令集をパラパラと捲り、あるページを開いて無表情のまま読み上げた。
「エルデン王国危機管理法、第三章。非常時における物資の優先供給対象。優先度S:国家防衛の中枢たる中央防衛施設。優先度A:大規模施療院および指定研究機関……」
ユリウスは法令集をパタンと閉じた。
「これが答えです、陛下。王冠は、陛下の『必要なところへ優先して』という曖昧な表現に対し、既存の法令に定義されている『優先供給対象』のリストをそのまま字義通りに適用したのです」
「馬鹿な!」
アルノルトは立ち上がり、声を荒げた。
「あの状況で『必要なところ』と言えば、西部の孤立した村に決まっているだろう! 現場の役人たちだって、土砂崩れの話は知っていたはずだ! なぜ誰もおかしいと思わなかったのだ!」
「先発の二台は、公印入りの指示書に書かれた場所へ向かいました。受け入れ先で必要数と合わないことが分かり、確認の連絡が来ています。後続車は、通常の指示と食い違うため待機中です」
ユリウスは二通の指示書を並べた。
「陛下の意図を知っていた人も、こちらの行き先を優先するよう変更されたのだと考えたのでしょう。王命ですから」
アルノルトは指示書を読んだ。
「……これを撤回する。西部の二村へ送り直す。数量と経路は、物流局に確認せよ」
「承知しました。職員への伝達と、正式な訂正文を用意します」
馬車の行き先は人が直した。寸断箇所の手前で荷を下ろし、先行した連絡員が集めた村の者たちが運ぶ。王冠の光らない手続きが、一つずつ進んだ。
支援物資は予定より遅れたが、その日のうちに届いた。
その日の夜。
再び蝋燭の灯りが揺れる執務室で、定例の「本日の王言レビュー」が行われていた。
アルノルトは机に突っ伏したまま、微動だにしなかった。
「先発の二台を含め、物資の到着を確認しました。荷の積み直しと確認にかかった費用も、報告に添付しています」
ユリウスの報告を聞いても、アルノルトは顔を上げなかった。
「……余のせいだ」
アルノルトの絞り出すような声には、深い絶望と自責の念が滲んでいた。
「余の頭の中には、はっきりと『西部の村を救いたい』という強い意志があった。だが、それを言葉にしなかった。それだけで……言葉にしなかった意図は、存在しないのと同じになるのか」
「……」
ユリウスは、王の悲痛な問いかけに対し、ペンを止めた。
アルノルトはただの失言癖のある男ではない。民を思い、国を良くしようという強い意志を持つ、心ある若き王なのだ。その彼が、自らの言葉の至らなさによって民を危険に晒したと、人間らしい痛みに打ちひしがれている。
ユリウスの胸の奥に、ほんのわずかだが、相手を慰めてやりたいという感情が芽生えた。
彼は、アルノルトにかけるべき言葉を探した。大丈夫です。結果的に誰も死にませんでした。次はうまくやれます。そういった、温かい言葉を。
だが、曖昧さを憎み、正確な法文の世界だけで生きてきたユリウスの口は、感情を表現する術を知らなかった。
彼が開いた口から出てきたのは、冷徹で、残酷な事実の羅列だった。
「……王冠の仕様上、言語化されていない意図はゼロデータとして処理されます」
アルノルトの肩が、ピクリと動いた。
「陛下がどれほど強い意志を持っていようと、システムはそれを感知しません。定義のない抽象語は既存の法規に依存するため、今回のようなエラーが発生するのは論理的必然です。ですから、落ち込んでも意味はありません。必要なのは、次回以降の変数の指定を間違えないことです」
ユリウスは、自分がひどく的外れで、冷たいことを言っていると自覚していた。だが、慰めの比喩も、温かい抽象語も、彼の中にはストックが存在しなかった。仕様と定義の説明に逃げることしかできなかったのだ。
アルノルトは、ゆっくりと顔を上げた。
彼は怒らなかった。ただ、ひどく寂しそうに、自らを嘲るように小さく笑った。
「……そうだな。お前の言う通りだ」
「陛下……」
「言葉にしないものは、存在しないのだ。余が未熟だった」
二人の間に、どうしようもない小さな沈黙が落ちた。
痛みを伴う沈黙が執務室を支配した、その時。
コンコン、と扉がノックされ、宰相コンラートが静かに姿を現した。
「夜分に失礼いたします、陛下。至急、ご報告せねばならないことがありまして」
「……どうした、宰相」
アルノルトが気を取り直して姿勢を正すと、コンラートは神妙な面持ちで一礼した。
「隣国ヴァルツからの特命使節、セヴラン・ド・ヴァルツ卿が、先ほど王都に到着いたしました」
「ヴァルツの使節……セヴラン卿だと?」
アルノルトの目の色が変わった。
隣国ヴァルツは、エルデン王国と複雑な通商関係にある手強い相手だ。そして、その使節団を率いるセヴラン卿は、言葉の二重性を武器にし、外交の場であらゆる修辞を駆使して自国を優位に導く、恐るべき「言葉のプロフェッショナル」として知られていた。
「本来であれば、明日の朝一番で謁見を賜る予定でしたが……彼らは王都に到着するなり、不可解な動きを見せております」
コンラートは声を潜めた。
「セヴラン卿は、我が国の王冠にまつわる『異常な噂』……すなわち、陛下の発言が現実になるという物理的災害について、すでに独自の情報網で把握しているようです。彼はその力に、強い興味を示しております」
ユリウスが、ピリッとした空気の中で眼鏡を押し上げた。
「言葉の裏を読み合う外交の場で、陛下の発言が文字通りに物理化するとなれば、相手はそれを最大限に利用しようと仕掛けてくるでしょう」
「ああ」
アルノルトは、疲労の残る顔に、王としての闘志を再び燃え上がらせた。
「言葉のプロを相手に、言葉を縛られた余が挑まねばならないということか」
ユリウスは外交日程の束を開いた。最初の項目は、使節への歓迎の挨拶だった。
何を歓迎し、どこまで約束しないか。まだ一行も書いていないのに、余白が足りなくなりそうだった。




