第19話 王宮が暗い
王冠の力を用いた、東部被災地への緊急物資輸送。
臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが緻密に組み上げた除外条項のおかげで、事故は一切起きず、五十台の馬車と五千袋の土嚢はまたたく間に王宮を出発した。
その見事な手際に群がった官僚たちの「利用申請」を冷酷に追い返し、アルノルト二世とユリウスがようやく一息ついた、まさにその直後のことだった。
「陛下! 校正官殿! 大規模な連続使用は、王宮の魔力網の残量が危ないです!」
王立魔法学院のミラ・フェルベック博士が、複数の魔力測定器を抱えて執務室に飛び込んできた。
彼女の切羽詰まった警告が室内に響いた、次の瞬間。
チカッ、チカチカッ。
アルノルトの頭上を照らしていた、巨大な魔導シャンデリアが不吉な明滅を始めた。
「む?」
アルノルトが怪訝そうに天井を見上げる。
フッ、と。
シャンデリアの光が、消え失せた。
それだけではない。執務室の壁に備え付けられていた魔導ランプ、さらには開いた扉の向こう、廊下を照らしていた無数の光までもが、まるで連鎖するように一斉に落ちた。
夕闇が迫る王宮の奥深くが、突如として深い薄暗闇に包まれた。
「な、なんだ!? 停電か!」
アルノルトが慌てて立ち上がる。
ユリウスは暗闇の中でも冷静に眼鏡の位置を直し、ミラの抱える計器を見た。計器の目盛りを照らす微かな蓄光塗料だけが、今の状況を物語っている。
「フェルベック博士。まさか、王冠の力が王宮の照明を奪ったとでも?」
「厳密には違います、校正官殿」
ミラは暗闇の中で首を振った。
「王冠は、無から物理現象を引き起こす魔法の杖ではありません。対象を動かし、現実を書き換えるためには、それに相応する膨大なエネルギーが必要です。先ほどの、大量の馬車と土嚢を極めて短時間で正確に再配置した連続運用。あれが、王冠の内部に蓄積されていた魔力を一気に使い果たしたのです」
「しかし、王冠の魔力が尽きたのなら、なぜ王宮の照明が消えるのだ?」
アルノルトの問いに、ミラはため息をついた。
「足りなかったんですよ。王冠の内部魔力だけでは。だから王冠は、不足分を補うために、自分と魔力的なパスが繋がっている最も近い巨大な魔力源――すなわち、この王宮全体に張り巡らされたインフラ用の魔力網から、強引にエネルギーを吸い上げたんです」
ミラの解説に、アルノルトは絶句した。
「吸い上げた……? では、この暗闇は」
「はい。王冠が大きな発動をするためには、どこかの魔力を食うということが実測で確定しました。現在、王宮の魔力網は完全に枯渇し、自己回復モードに入っています。復旧には少なくとも数時間はかかるでしょう」
ユリウスは手元のメモ帳を、手探りで引き寄せた。
「つまり、王冠の力は万能ではない。使用すればするほど、国家の中枢機能である王宮のインフラに甚大なしわ寄せがいくというわけですね。魔力コストの概念、確認しました」
その頃、王宮の廊下や階段では、前代未聞の事態に阿鼻叫喚の騒ぎが起きていた。
「おい、何も見えないぞ! 蝋燭を持て! 蝋燭だ!」
慌てふためく使用人たちが、古典的な蝋燭やオイルランタンを引っ張り出し、各部署へ配って回っている。
だが、魔力枯渇による被害は照明の停止だけにとどまらなかった。
初夏とはいえ、雨続きの地下書庫は冷える。しかし、各部屋を快適な温度に保っていた魔導暖房の稼働音が停止し、冷たい空気が足元から這い上がり始めていた。
さらに最悪な事態が、階層の移動を強いられる官僚たちを襲った。
「嘘だろう……魔導昇降機が、三台とも動いていないぞ!」
大量の書類の束を抱えた財務局の役人が、停止した昇降機の鉄扉の前で絶望の叫びを上げた。
王宮は広大であり、かつ階層も深い。書類の決裁や他部署との折衝のため、上層階と下層階を頻繁に行き来する彼らにとって、昇降機は命綱であった。
「仕方ない! 西側の階段を使え!」
「ま、待ってくれ、俺は今日すでに二往復しているんだ! 膝が笑って……っ!」
つい一時間前まで、「面倒な仕事は全部王冠にやってもらおう」と目論み、アルノルトの執務室に利用申請書を山のように持ち込んでいた各省庁の官僚たち。
彼らは今、片手に頼りない蝋燭の灯りを持ち、もう片手に分厚い書類を抱え、薄暗く果てしなく続く大階段を、ゼーゼーと息を切らしながら自らの足で上り下りする羽目に陥っていた。
「はぁっ、はぁっ……クソッ、王冠なんて便利だと思った俺が馬鹿だった……!」
「結局、魔法で楽しようとすれば、後でツケを払わされるんだ……!」
官僚たちの悲痛な愚痴が、吹き抜けの階段室にこだまする。さらに、給湯設備もダウンしたため、休憩室からは「お茶を入れようと思ったら冷水しか出ないぞ!」という怒声まで聞こえてきた。
アルノルトは、執務室の開け放たれた扉から、廊下を這うように歩いていく役人たちの無様な姿を眺めていた。
「……見ろ、ヴェルナー。便利さを求めた代償がこれだ」
アルノルトは、ランタンの灯りに照らされながら、心底呆れたように肩をすくめた。
「余の喉を事務処理の道具にしようとした罰が当たったのだ。これで奴らも、王冠を安易に頼ろうとは思わなくなるだろう」
「結果論としてはその通りですが、王宮の機能が低下していることに変わりはありません。早急に規程を改定する必要があります」
ユリウスがランタンの灯りの下で赤ペンを走らせようとした、その時だった。
「おお、なんという神秘的な宵闇か!」
執務室に、一本の蝋燭を片手に、派手な羽付き帽子を揺らしながら大げさな足音を立てて現れた男がいた。
宮廷詩人、ラファエル・モーンである。
彼は、薄暗い執務室の中央に立ち、うっとりとした表情で両手を広げた。
「不夜城たるこの壮麗な王宮が、瞬く間に影絵の舞台となった! 私の心にも、黒曜石の如き美しい闇が――」
「今は何も言うな!!」
アルノルトが、玉座から飛び上がらんばかりの勢いで怒鳴った。
「比喩は禁止です!!」
ユリウスもまた、赤ペンをラファエルの鼻先に突きつけて鋭く制止した。
「ひっ!?」
「計器の針が揺れます! 黙ってください、モーンさん!」
ミラまでもが、魔力測定器を庇いながら凄んだ。
三人の凄まじい気迫に、ラファエルはビクッと身をすくませ、手で自分の口を塞いだ。
「いいか、モーン」
アルノルトが、低い声で念を押す。
「今、王宮の魔力はすっからかんだ。もしお前が不用意な比喩を叫び、余がうっかりそれに同調でもしてみろ。王冠が無理やり魔力を絞り出そうとして、王宮全体が崩落するかもしれんのだぞ」
「そ、そんな馬鹿な……私はただ、この美しい暗闇を讃えようと……」
「暗闇を讃えるな! 蝋燭が減るだろうが!」
ユリウスの冷徹な一喝に、ラファエルはすごすごと部屋の隅へ退却した。
ミラが測定器のダイヤルを調整し、ふうと息を吐いた。
「王冠自体の自己回復分の魔力は少し残っていますので、部屋の中の物を一つ二つ動かす程度の小規模な発動なら可能ですが……先ほどのような国家規模の手配の連発は、王都のインフラそのものを沈黙させます。実用限界ですね」
その報告を聞き、ユリウスは即座に『王命取扱規程』の束を開き、新たな項目を真っ赤なインクで書き加えた。
『第十章 追加事項:王冠の発動には国家インフラに直結する魔力コストが伴う。よって、王冠の大規模かつ恒常的な日常利用は完全に凍結する。王冠の利用は、代替手段が一切存在しない緊急の非常事態のみに限定する』
「これで、役人たちも二度と王冠に頼ることはできません。物理的にも、規則の上でも」
ユリウスがペンを置き、ふうと息をついた。
「……やれやれ。これでようやく、静かな夜が過ごせそうだ」
アルノルトは、すっかり冷めてしまった紅茶のカップを手に取り、暗闇の中で一口すすった。
インフラが止まった王宮は不便だが、役人からの理不尽な照会や申請から解放された静寂は、悪くない。
そう思った矢先だった。
ドタドタドタッ!
階段を駆け上がってくる、荒々しい足音が廊下に響いた。
執務室に転がり込んできたのは、息を乱し、肩で息をする情報局の伝令だった。
「も、申し上げます!!」
「どうした。暗闇で転んだか」
アルノルトが冷静に問うが、伝令の顔色はランタンの灯りの下でも分かるほど青ざめていた。
「先ほどの、東部の洪水被害とは別件です! 西部の山間部にて、局地的な豪雨による大規模な土砂崩れが発生いたしました!」
「なんだと?」
アルノルトの目が鋭くなった。
「土砂崩れにより、西部への主要街道が完全に寸断! 近隣の二つの村が孤立状態に陥っております! 備蓄食料も乏しく、早急な支援ルートの確立と、復旧に向けた緊急の決裁が必要です!」
執務室の空気が、一瞬にして張り詰めた。
東部の水害に続き、西部での土砂崩れ。自然災害は、王宮の事情など待ってはくれない。
アルノルトとユリウスは、暗闇の中で顔を見合わせた。
王宮のインフラは麻痺し、魔力網は枯渇している。王冠の機能には「小規模な発動しかできない」という厳しい制約がかかってしまっている。
だが、村が孤立している以上、緊急の支援は絶対に必要だった。
「……ヴェルナー。どうやら、静かな夜はお預けのようだな」
「ええ。制約下であっても、行政を止めるわけにはいきません。これより、最小の魔力消費で最大の効果を生む、緊急支援の文言を設計します」
ユリウスは再び赤ペンを握り直し、アルノルトもまた、王としての威厳を纏い直した。
暗い王宮の中で、二人の過酷な夜が再び始まろうとしていた。




