第17話 「次の一文は比喩です」
王宮の地下にある、分厚い石壁で囲まれた魔法学院の分室――通称「実験室」。
普段は魔道具の耐久テストなどに使われる殺風景な空間に、本日は王国の最重要人物たちが集まっていた。
「魔力測定器、三台とも正常に稼働しています。いつでもいけますよ!」
言語魔術研究者のミラ・フェルベック博士が、複数の針がピコピコと動く計器の前に立ち、嬉々とした声を上げた。
部屋の中央にぽつんと置かれた演台には、国王アルノルト二世が立っている。
そして、部屋の隅には、王妹エリーゼが優雅に紅茶のカップを傾けており、さらにその後ろでは、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが、有事の際の飛散物から身を守るための分厚い木製の盾の陰に隠れながら、赤ペンを構えていた。
「……ヴェルナー。お前、いくら何でも警戒しすぎではないか?」
アルノルトが盾の陰のユリウスに向かって半眼になる。
「警戒して当然です、陛下。これから陛下が口にされる言葉が万が一発動した場合、試験用に置いた箱と衝立が動く可能性があるのですから」
ユリウスは盾から目だけを出して冷徹に答えた。
事の発端は、以前の「花を添える」という発言で王宮中が花まみれになった際、エリーゼが何気なく口にした言葉だった。
『引用が安全なら、いっそ「ここからは比喩です」って先に言えばいいんじゃない?』
他者の言葉の引用が王冠に「言及」として処理され安全ならば、「これから言うことは本気の命令ではなく、単なる比喩である」と自らメタ的に宣言してしまえば、王冠の起動を免除できるのではないか。
本日は、その仮説を実証するための実験であった。
「では、陛下。指定した通りの文言でお願いいたします」
盾の陰からユリウスが声をかける。
アルノルトはコホンと咳払いをし、原稿に目を落とした。
彼は深く息を吸い込み、王としての公的な宣言の文脈で、はっきりと口にした。
「次の一文は、比喩として言う」
そして、間髪を入れずに言葉を続ける。
「我々は今日、ここに新しい道を拓く!」
ユリウスはサッと盾の裏に身を隠し、アルノルトも反射的に目をギュッと閉じた。
「道を拓く」という言葉が発動すれば、通路に置いた王国所有の箱と衝立が動くはずだ。周囲に人は立たせていない。
三秒経過。五秒経過。
石室には、静寂だけが流れていた。
箱も衝立も、置いた位置から動かなかった。
「魔力反応、ゼロです!」
ミラが計器から顔を上げ、弾んだ声で報告した。
「王冠からの魔力流出は完全に抑え込まれています! 仮説は証明されました。事前の宣言によって対象が『現実の実行を伴わない比喩』として枠付けされたため、王冠はそれを王の事実上の命令ではなく、単なる『言葉への言及』として処理したのです!」
「……おおっ!」
アルノルトが目を開き、歓喜の声を上げた。
ユリウスも盾の陰から姿を現し、手元のメモ帳に『比喩宣言による起動免除を確認』と書き込んだ。
「やりましたね、兄上。私のアイデアのおかげよ」
エリーゼがカップを置いて得意げに笑う。
「ああ! でかしたぞ、エリーゼ! これで余の言葉は自由になる!」
アルノルトは演台から飛び降り、満面の笑みを浮かべた。
全八十七頁の『王命取扱規程』に縛られ、公の場では一言一句に怯え、味気ない事務連絡のような言葉しか発せられなかった日々が、ついに終わるのだ。事前に宣言さえすれば、天性の話し手である彼の、あの美しく情熱的な言葉を取り戻すことができる。
「ならば話は簡単だ! いちいち一文ごとに言うのは面倒だからな」
アルノルトはすっかり調子に乗り、高らかに両手を広げた。
「では今日一日、余の発言は全部比喩だ!」
「あっ、陛下!」
ユリウスが静止の声を上げる暇もなかった。
ミラの計器に短い文字列が浮かんだ。
『対象文未確定。例外指定不受理』
ユリウスは続きを言いかけた王に手を上げた。
「今の宣言、受理されていません」
「まだ何も試していないぞ」
「試す前に分かって、よかったではありませんか」
「駄目みたいですね」
ミラが計器を見ながら、冷酷な分析結果を告げた。
「王冠は、文法的に対象が明確なものしか受理しません。『今日一日』や『全部』といった、時間的・空間的な範囲が不明確な包括宣言は、システムのエラー弾きに遭うようです。さっきの『次の一文』という明確なポインタ指定があったからこそ、例外処理が通ったのですよ」
「そ、そんな馬鹿な……」
「当然です」
ユリウスがすかさず歩み寄り、手帳を開いた。
「『今日一日は比喩だ』などという包括的な免責が通れば、逆に陛下が本当に命令を下したい時まで比喩扱いになり、国政が麻痺します。安全弁の効力は、明示された直後の一文のみに限定される。規程にそう書き加えます」
アルノルトは、用意していた演説草案の長さを見た。
「まあ、いいではないか。一文単位なら安全なのだろう? 使い方の問題だ」
数十分後。
アルノルトは、気を取り直して再び演台に向かっていた。
近日中に、国民へ向けた大規模な演説が控えている。前回の「完全安全演説」で社会的な大失敗を犯し、賢王という誤解を植え付けてしまった彼は、今度こそ自分の言葉で民の心を動かさなければならない。
「よし。では、この『比喩宣言』を演説の原稿に組み込んで練習してみよう」
アルノルトは、法制局が用意した安全な原稿の随所に、自分で考えた感動的な比喩を差し込むことにした。
彼は表情を作り、身振りを交えて、広場の民衆に語りかけるように声を張り上げた。
「我が国は今、復興という重大な局面に直面している。我々には成し遂げるべき義務がある。だが、恐れることはない。皆で手を取り合い……次の一文は比喩として言う。希望の光を灯そう」
……しん、と。
実験室に、妙な沈黙が落ちた。
アルノルトは、さらに続ける。
「我々の歩みは決して止まらない。なぜなら……次の一文は比喩として言う。我々の胸には、熱き炎が燃えているからだ」
アルノルトが熱弁を振るえば振るうほど、部屋の空気は急速に冷え込んでいった。
長椅子で紅茶を飲んでいたエリーゼが、たまらずカップをカチャリと置いた。
「……兄上。それ、聞いててすごく冷めるわ」
「な、なに?」
「せっかく感動的なことを言おうとしているのに、その直前で『次の一文は比喩です』なんて事務的な説明が入ったら、聞いてる方はズコーッてなるわよ。手品の前にタネ明かしされてるみたいなものじゃない」
妹の容赦ない率直なダメ出しに、アルノルトは心臓を射抜かれたように胸を押さえた。
「そ、そうか……? だが、言わなければ事故が起きるのだぞ」
「だからって、免責事項の読み上げみたいで全然心に響かないわよ。これならまだ、前回の無味乾燥な演説の方がマシだわ」
アルノルトは演台に手をつき、がっくりと項垂れた。
「感動的な比喩の前に、こんな免責事項を読み上げて、どうやって民の心を動かすのだ……!」
天性の話し手にとって、言葉のリズムと情緒が死ぬことは、演説の死を意味する。
だが、ユリウスは全く意に介さなかった。
「情緒が死んでも、誰も死なないならそれが最善です」
ユリウスは冷徹に言い放ち、手元の演説原稿に赤ペンで『次の一文は比喩として言う』という指定を次々と書き込んでいく。
「安全弁の使用方法は確立されました。あとは、陛下が実践でこの不格好なリズムに慣れていただくしかありません」
「これを、次の国民演説でやるというのか……」
「はい。事故ゼロの記録を更新していただきます」
アルノルトは、いかにして感動と免責事項を両立させるかという、新たな、そして不格好な悩みを抱えながら、実験室の天井を仰ぐことしかできなかった。




