第16話 白黒つけない裁判
戴冠から三か月目。王都には初夏の風が吹いていた。
王都アルクスの中心部に位置する高等裁判所は、静謐と威厳に満ちた石造りの建物である。
本日は、新王アルノルト二世が「公正で開かれた司法」を国民にアピールするため、公開審理の視察に訪れていた。
傍聴席の最前列に設けられた特等席にはアルノルトが座り、その斜め後ろには臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが、いつものように赤ペンと手帳を構えて直立している。
現在審理されているのは、王都の商人同士による契約不履行を巡る民事事件だった。
「陛下、ならびに裁判長! 被告は期日までに南部の特産品を納入すると約束したにもかかわらず、全く履行しませんでした! これは明らかな詐欺です!」
原告の商人が、顔を真っ赤にして声を張り上げる。
対する被告の商人も、負けじと両手を振り回した。
「不可抗力だ! 街道の橋が落ちて馬車が通れなかったのだ! 契約書には『天災地変による遅延は免責される』と明記してある!」
「橋が落ちたのは一ヶ月も前だろうが! 迂回ルートを確保する努力を怠ったのはお前の過失だ!」
「迂回すれば輸送コストが三倍に跳ね上がる! お前がその費用を負担するとでも言うのか!」
双方の主張は真っ向から対立し、審理は平行線を辿っていた。
アルノルトは、腕を組んで二人のやり取りを聞いていたが、堂々巡りの口論に次第に辟易してきた。王として、この泥沼の争いに何らかの決着への道筋を示すべきではないか。
彼は場の空気を収めるべく、威厳ある声で口を開いた。
「双方の言い分は分かった。そろそろ、この件に白く……いや、」
「お待ちください!!」
アルノルトが言い終わるより早く、背後からユリウスが猛然と飛び出した。
ユリウスはアルノルトの顔の前に、両手を広げて立ちはだかった。
「な、なんだヴェルナー」
「陛下! 公務の文脈において、そのような曖昧で危険な比喩を用いることは固く禁じております!」
ユリウスの血相を変えた剣幕に、アルノルトだけでなく、裁判官も商人たちもギョッとして沈黙した。
「比喩だと? 余はただ、決着をつけようと……」
「王冠は、陛下の『決着』という意図を読み取りません! 対象となる事案、あるいはこの裁判所の建物、最悪の場合は裁判所支給の法服や帳簿が、字義通りに物理的な『白と黒の市松模様』や『まだら模様』に変色する恐れがあります!」
「……っ!」
アルノルトはハッとして、自らの頭上の王冠に手をやった。魔力の明滅はない。すんでのところで発動を回避できたようだ。
しかし、過去の猫騒動や全窓開放事故の噂を聞き及んでいた裁判所の役人や商人たちは、「法服や帳簿がまだらになる」という事態を想像し、一斉に顔面を蒼白にして身を縮めた。
「……あっぶない。また余計な仕事を増やすところだった」
アルノルトは冷や汗を拭い、小さく咳払いをして椅子に座り直した。
物理的な大事故は、校正官の異常な反射神経によって未遂に終わった。
法壇の中央に座る老練な裁判官が、ホッと安堵の息を吐き、静かに口を開いた。
「……校正官殿の仰る通り、司法の場において言葉は厳密でなければなりません。陛下の御身と王国の安全を守るそのお働き、感服いたします」
「職務ですので」
ユリウスが眼鏡の位置を直して一礼すると、裁判官は長く白いあご髭を撫でながら言葉を続けた。
「しかし、校正官殿。現実の事件というものは、法文のように完全に『白か黒か』で割り切れるものは少ないのです。今回の件も、原告の権利と被告の不可抗力の主張、どちらにも一理ある。法文の規定は明確でも、個別の事情の評価には、どうしても『幅』が必要になります」
「幅、ですか」
ユリウスの眉が、ピクリと動いた。
彼にとって、言葉における「幅」や「余白」というものは、等しく「悪」であった。曖昧さが事故を生む。それは王冠の力に限らず、人間社会の行政においても同じだと信じているからだ。
「それは危険な概念です、裁判長」
ユリウスは一歩前に出た。
「裁量という名の曖昧さは、判断のブレを生み、法に対する信頼を損ないます。個別の事情が存在するのなら、それらすべてを数値化し、条件式に当てはめれば『幅』の厳密な定義は可能なはずです」
「ほう。人の心や過失の度合いを、数値化できると?」
裁判官が苦笑を漏らした。
「可能です。例えば本件の場合、橋の崩落から迂回ルートの選定に要した日数、代替輸送の費用超過率、原告が被った機会損失の額。これらを変数とし、過去の判例から情状酌量の要素をパーセンテージで定義すれば、どちらに何割の責任があるか、一つの数式として提示できます」
「校正官殿、それは血の通わない機械の判断だ。橋の落ちた日だけでなく、代替輸送が実際に可能だったか、相手にいつ通知したかも確かめなければならない。まだ争われている事実を、先に数値へ置き換えてはなりませんぞ」
「情もまた、生活状況というデータとして分類可能です。曖昧な『幅』の中に逃げ込むのは、法曹の怠慢ではありませんか」
「怠慢とは聞き捨てなりませんな。法とは、生きた人間を裁くためのものです。すべての事象を枠にはめ込めるなどという傲慢は、それこそ危うい」
ユリウスと裁判官の視線が空中で激突した。
王の視察という目的は、そっちのけになっていた。
法文の厳格な解釈を至上とする校正官と、人間の事情を汲み取る裁量権を重んじる裁判官。両者の白熱した法学議論が、休廷後の控室にまで持ち越されたのである。
「……あの、陛下。これは、どうすれば」
放置された原告の商人が、小声でアルノルトに助けを求めた。
「すまん。余にも止めるのは無理だ。あれは、ああいう生き物なのだ」
アルノルトは頬杖をつき、珍しくムキになってヒートアップしているユリウスの姿を、ひどく面白そうに眺めていた。
普段は自分に向かって「言葉が曖昧だ」と説教を浴びせてくる男が、自分以外の専門家と真っ向からぶつかり合っている。その論理の組み立て方は見事だが、どこか極端で、人間という不合理な存在を受け入れまいと足掻いているようにも見えた。
結局、裁判所の書記官や当事者たちは、王がまた危険な比喩を口にするのではないかという恐怖に怯えながら、校正官と裁判官の終わりの見えない議論をポカンと見守るしかなかった。
書記官が次の審理を告げ、裁判官は席を立った。ユリウスだけが、質問を三つ言い残した顔で見送った。
その日の夜。王宮の臨時王命校正官執務室。
ユリウスの机の上には、王宮の書庫から借り出してきた過去数十年の判例集が山のように積まれていた。
彼は真新しい巨大な羊皮紙を広げ、定規を使って細かな升目を引き、そこに猛烈な勢いで文字と数字を書き込んでいた。
そこへ、アルノルトがふらりと姿を現した。
「ヴェルナー。まだ帰っていないのか。……何をしている」
「情状酌量のマトリクス表を作成しています」
ユリウスは赤ペンを動かす手を止めずに答えた。
「本日の裁判官の言葉には同意できません。明確な基準がないなど、行政と司法の敗北です。過失割合、天災の影響度、家族構成、経済状況。ありとあらゆる情状と裁量の『幅』を数値化し、分岐条件として可視化します」
「……本気か、お前」
アルノルトは、羊皮紙にびっしりと書き込まれた、狂気じみた条件分岐の樹形図を見て呆れ果てた。
「お前は、人間の曖昧さすらも表の中に閉じ込める気か。そんなもの、例外がいくらでも出てくるだろうに」
「例外が出れば、項目を追加して定義を広げるまでです」
「そういうのを鼬ごっこと言うのだ。人間の事情なんてものは、定規で引いた枠に収まるほど単純ではないぞ」
アルノルトは面白がるように笑った。
王である自分には、人間の感情の揺らぎや、理屈では割り切れない『幅』が理解できる。だからこそ、時に比喩を使ってその幅を表現しようとし、王冠と衝突してしまうのだが。
だが、ユリウスはその『幅』そのものを許さない。
「曖昧さを放置すれば、必ず事故が起きます。王冠の力であれ、司法の場であれ、同じことです」
ユリウスは頑なに前を向き、さらに細かい升目を引き始めた。
「私は、人間の余白すらも、すべて定義してみせます」
それは、明確さこそが絶対の正義であると信じて疑わない男の、意地のようなものだった。
アルノルトはそれ以上止めることはせず、「まあ、せいぜい頑張ることだな。明日までに倒れるなよ」とだけ言い残して、私室へと戻っていった。
深夜の執務室で、ユリウスのペンの音だけがカリカリと響き続けた。
例外の欄を一つ増やすと、隣の欄に収まらなくなった。ユリウスは、二枚目の羊皮紙を糊で継ぎ足した。




