第15話 気を引き締めろ
春の陽気に包まれた王宮前広場には、銀色の甲冑を纏ったエルデン王国の近衛兵三百名が、一糸乱れぬ隊列を組んで整列していた。
本日は、新体制となってから初めて行われる近衛隊の閲兵式である。
臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは、演台に向かう国王アルノルト二世の斜め後ろを歩きながら、手元の分厚いチェックリストに赤ペンで印をつけていた。
「陛下。原稿の最終確認です」
ユリウスは前を歩くアルノルトの背中に向かって、事務的な声で囁いた。
「本日の訓示は、士気を高めるための言葉が中心となります。しかし、軍事行動を連想させる『突撃』『粉砕』といった単語は、意図せぬ物理的破壊を招く恐れがあるためすべて削除してあります。また、感情的な比喩も厳禁です。指定された原稿の通り、具体的な防衛方針と労いの言葉だけを短く述べてください」
「分かっている」
アルノルトは振り返らずに短く答えた。
「先日の試食会で、短い言葉でも十分に伝わることは学んだ。余の言葉で、的確に伝える」
その横顔には、王としての静かな自信が満ちていた。
アルノルトが演台に立つと、近衛隊長バルド・グランツの号令のもと、三百の槍が一斉に天に掲げられ、金属の擦れる重厚な音が広場に響き渡った。
アルノルトは広場を見渡し、よく通る声で訓示を始めた。
「エルデン王国の盾たる近衛隊の諸君。日夜の激務、大儀である」
アルノルトの張りのある声が、広場の空気を震わせた。
「我が国の平和は、諸君の忠義と武勇によって保たれている。これからも王国と民の安全を第一とし、各々の職務に精励せよ。余は、諸君らの献身を高く評価している」
ここまでは、ユリウスのチェックリストに書かれた通り、完璧な安全基準を満たした原稿だった。
頭上の王冠は静かなままだ。兵士たちの間にも、王からの労いの言葉を素直に受け止める真摯な空気が流れている。
だが、天性の話し手であるアルノルトは、目の前の精強な兵士たちを前にして、どうしても最後に一つ、彼らの魂を鼓舞する言葉を付け足したくなってしまった。
軍隊に対する、一般的で、誰もが使う定番の定型句。
それを、アルノルトは無意識のうちに口にしていた。
「今後も一層、気を引き締めろ」
ユリウスが「あっ」と小さく声を上げるのと、王冠の奥で銀色の魔力が明滅したのは同時だった。
「気を引き締める」という比喩表現が、公務中における軍への命令として、王冠に字義通りに受理されたのだ。
次の瞬間。
「……ぐっ!?」
「うぐっ!」
広場に整列していた三百人の近衛兵たちから、一斉に低くくぐもった呻き声が漏れた。
ギリッ、と。
皮が軋み、金属が擦れる音が、広場のあちこちから鳴り響く。
近衛兵たちが身につけている王国支給の制服の革ベルト、甲冑の留め具、さらには軍靴の紐に至るまでが、見えない力によって一段階だけ、自動的に「引き締まった」のである。
ユリウスは即座にメモ帳を取り出した。
「人体への直接的な作用はなし……! 身体そのものを引き締めるのではなく、『王国支給の装具』を安全な範囲で留め具を一段だけ締めることで、最小の現実化を図ったのですね」
留め具は一段しか動いていない。それでも礼装は、急に窮屈になった。
兵士たちは同時に背を伸ばし、肘を少し外へ張った。三百人が揃ったので、妙に立派に見える。
「姿勢は、実に揃っておりますな」
バルドが言った直後、最前列の兵が手を挙げた。
「隊長。このままでは、腕が振りにくいです」
「……行進には向かんな。全隊、その場で待機!」
隊長は王へ向き直った。
「見栄えと実用は、別のようです」
アルノルトが額を押さえた。
「陛下、すぐに緊急訂正カードを」
ユリウスが『全装具の締め付けを解除せよ』というメモを差し出そうとしたが、アルノルトはそれを手で制した。
「いや、いい。自分でやる」
アルノルトは演台から一歩前に出た。
待機する兵士たちに向かって、彼ははっきりと、短く声をかけた。
「先ほどの引き締めるという命令を撤回する。留め具を手で直してから、通常の姿勢で待機せよ。諸君らを頼りにしている」
その言葉が広場に響いた瞬間、フッ、と王冠の魔力が霧散した。
兵士たちは二人一組になり、互いの留め具を一段戻した。
「右列、確認よし!」
「左列も問題ありません!」
バルドが全隊の報告を待ってから、行進の号令をかけた。今度は、腕も脚も無理なく動いた。
アルノルトはホッと胸を撫で下ろし、背後のユリウスを見た。
「これでいいだろう、ヴェルナー」
ユリウスは赤ペンを持ったまま、淡々とメモ帳に書き込んだ。
「命令を撤回したので、留め具を調整できるようになりました。行進は、全員の確認が済んでからです」
「……お前は相変わらず、可愛げのない言い方をするな」
アルノルトは苦笑しながら、再び整然と歩き出した兵士たちを見守った。
その日の夜。執務室。
蝋燭の灯りの下、ユリウスはいつものように台帳を開き、「本日の王言レビュー」を開始した。
「本日の閲兵式における事故の分析です。王冠が『人体そのもの』を直接の操作対象としないことが、視覚的に実証されました。これは非常に重要なデータです」
ユリウスは赤ペンで台帳の項目を叩いた。
「しかし、人体が対象外であっても、王国支給の衣服や装具には最小実現の法則が働きます。今回のように、身体的影響を伴う比喩は、装具を通じて動作を妨げる可能性があるため、リストの禁止語句の運用をさらに厳格化します」
アルノルトは長椅子で顔をしかめた。
「あのな、ヴェルナー。今日の撤回と装具の調整は余自身で何とかしただろう。お前は少し、言葉を管理しすぎではないか」
「管理しなければ、また首が絞まりますよ」
「そうやって何でもかんでも点検表と規程で縛るな。お前といると、余の言葉の息苦しさが増すばかりだ」
アルノルトが小さく不満を漏らす。それは、ただの反発ではなく、ユリウスの職能を認めているからこそ生じる、個人的な摩擦だった。
ユリウスが反論しようとしたその時、執務室の扉がノックされ、バルドが姿を現した。
「夜分に失礼いたします、陛下、校正官殿」
「隊長か。どうした、こんな遅くに」
「はい。本日の閲兵式での、装具の一斉引き締め。あれには深く感銘を受けました」
バルドは真剣な顔で、分厚い書類の束をユリウスの机に置いた。
「軍の規律維持において、言葉一つであれほど劇的な効果を生むとは。そこで、法制局で用いられている『ユリウス式発言区分チェックリスト』を、軍の日常訓練にも導入したいと考えております。ついては、軍の各部隊長向けに、王命校正および発言管理の特別研修を行っていただきたい」
「……は?」
ユリウスの眼鏡が微かにずれた。
「さらに、王冠の力を訓練に限定利用するための『王言の軍事利用マニュアル』の共同制作もお願いしたく」
バルドの過剰なまでの物理的、かつ合理的な反応に、ユリウスは言葉を失った。法制局の業務だけでも手一杯なのに、軍の各部隊から研修の依頼まで殺到すれば、過労死は免れない。
アルノルトは、目を見開いて固まっているユリウスを見て、深い溜息をつきながら笑った。
「……お前のその堅苦しい点検表が、とうとう軍にまで伝染したぞ、ヴェルナー。どうするのだ」
「……お断り、いたします。私の仕事は、陛下の言葉を守ることだけですから……っ」
ユリウスは頭を抱え、自身の作り上げた安全対策が、思わぬ方向へ増殖していくことに眩暈を覚えるのだった。




