第九話 聖剣を売る日
壊れた水車小屋は、カビと川の匂いがした。
旧河岸の倉庫は、もう使えない。鼠の印の一件から見張りがつき、住人は三組に割れて散った。年寄りと子供の組は西の村はずれへ。ここに残っているのは、動ける者だけだ。
長屋の婆さんの咳が聞こえない小屋は、妙に静かだった。咳ってのは、いない夜のほうがうるさい。
欠けた臼の上に、リオは布の包みを置いた。
「こいつを、売る」
小屋が静まった。最初に吹き出したのは親父だった。
「ついに本業に戻ったな、屋根鼠。長かったじゃねえか」
「本気で言ってんのかい」
婆は笑わなかった。
「言っとくがね、本当に売るなら、あんたはただの馬鹿だよ。聖剣なんてのは、買った瞬間から買い手の首が飛ぶ品だ。売れやしない」
「分かってる」
リオは包みの埃を払った。
「売るのは聖剣じゃねえ。買い手だ」
「……ほう」
婆の目つきが変わった。質草を検める目だ。
「剣は売れねえ。けど、剣を欲しがってる連中の顔と懐は売れる。誰が幾らまで出すのか。どの船が国境を抜けるのか。帝国は取り戻しに幾ら積むのか。そいつを盗って、出ていく路銀と道に換える」
「売れない品のいちばん高い売り方はね」と婆が引き取った。「売ると言いふらすことさ」
夜、見張りの番のあいだ、リオは一度だけ別のことを考えた。
返す手も、ある。祭壇に戻せば、布告は書き直されるだろう。改心した賊として縛り首か、神器に許された罪人として見世物か。どっちにしても、続きを書くのは向こうだ。
冗談じゃねえ。
包みは、臼の上で黙っていた。商品で、人質で、厄介な荷物で、それでも手放す気になれない何かだった。
*
餌は、三つ作った。
故買の筋には、婆の古い同業づてに流した。鞘の飾りだけ売る。本体は出さない、と。
密輸の筋には、爺さんの渡しづてに流した。でかい荷をひとつ、国境の外へ逃がす船を探している、と。
使節の筋には、商館の洗い場で働く女づてに流した。聖剣の持ち主が、内々に話せる相手を探している、と。
「同じ餌は撒かない」と婆が釘を刺した。「魚によって餌を変える。話が突き合わされたとき、どこから漏れたか分かるようにね」
見せる品も決めた。柄の聖印は蝋で写しを取った。剣を覆っていた祭壇布は、端を一寸だけ切った。本体は、水車小屋から一歩も動かさない。
「ねえ、本物見せたほうが高く売れるよ」とチビが言った。
「馬鹿。見せた品は盗まれるんだよ」
リオは額を弾いた。
「本物を見た客は、客じゃなくなる。強盗になる」
ミロが包みに手を伸ばしかけて、同じ目に遭った。
「お前は夜鷹だ。土手の上から、灯りを数えてろ。妙な灯りが三つ揃ったら、夜鷹の声で三度。それだけやれ」
値付けは婆がやった。鞘飾りの話は金貨五十から。船は前金で銀ひと袋。使節は金を取らず、会って話す権利だけを売る。
親父が横から帳面に書き足した。聖剣御一振り、金貨一万枚より応相談。
杓が飛んだ。
「高すぎる値は素人の値だよ。玄人はね、相場の顔をして嘘をつくんだ」
「……一万がだめなら九千」
「お黙り」
「九千五百」
「銭で殴るよ」
*
帝宮にも、噂は届いていた。
「賊が、聖剣を売りに出したと」
軍務卿は机を叩いた。
「場所は」
アルトリウスが聞いた。
「川沿いの古い塩蔵とのことです。潰れて十年、今は商いにも使われておりませぬ」
「好都合。買い手ごと捕らえよ。賊も、賊に金を積む不届き者も、まとめてです」
「お待ちなさい」
宰相が、白い眉の下から言った。
「買い手に使節の指が混じっていた場合、縄を打てば事は帝国の恥では済みませぬ。検めるなら、使節の指だけは、見なかったことに」
アルトリウスは黙って聞いていた。
売る、と聞いた瞬間、腹の底が冷えた。神代の剣を、銭に換える気か。
だが半拍おいて、別の考えが追ってきた。
広場でも、橋でも、あの男は本体を最後まで見せなかった。見せずに、見たがる者だけを動かした。
川沿いの古い塩蔵。
そこへ本物の聖剣を持ってくるか。
来ない。
「……剣は来ない」
アルトリウスは言った。
軍務卿が眉を動かした。
「では、何を捕らえると?」
「剣を欲しがる者だ」
近衛隊長が、小さく顎を引いた。
「同感にございます。塩蔵に来るのは、聖剣ではなく、聖剣を欲しがる者どもかと」
アルトリウスは机の上の地図を見た。
「ならば、網はそこに張れ」
言ってから、付け足した。
「手口が読めてきたからといって、罪が軽くなるわけではない。捕らえよ」
*
取引の場は、川沿いの古い塩蔵にした。
潰れて十年、壁の塩が白く吹いて、天井の梁には塩俵がまだ何俵も吊られている。床の真ん中に、商いに使われた大秤がひとつ。リオは秤の皿に、蝋写しと祭壇布の切れ端を載せた。
最初の客は、糸目の故買だった。眼鏡を二枚重ねて蝋写しを検め、長いこと唸った。
途中で片方の眼鏡を外し、秤の脇に置く。残った一枚を鼻先にずらして、聖印の細い線を覗き込む。
「……聖印は本物の写しだね。ところで妙な話がある。聖務院筋と名乗る使いが先日、同じ品を金貨八千で、と言ってきた。ただし印のない話でね。皇太子の名前は出すな、と」
糸目は手付けに銀の小袋を秤へ置いた。飾りが本物なら残りは倍、と言い添えて、片方の眼鏡だけをかけ直した。
もう片方は、秤の脇に残った。
八千。
印なし。
皇太子の名は出すな。
リオは頷くだけにして、その三つを懐に仕舞った。表の買い戻しは三千の布告。裏は八千で、王子サマ抜き。帝国の右手と左手は、別の財布を持っているらしい。
半鐘ひとつ遅れて、川船の女親方が来た。
潮焼けした太い首の女で、品書きより先に荷の寸法を聞いた。買う気ではない。運ぶ気で来ている顔だった。
「でかい荷だって?」
「ああ」
「塩俵に紛れさせるなら、俵の寸法を合わせる。長物なら、俵三つぶんに見せるしかないね」
「割らねえぞ」
「誰が中身を割れって言った。俵の顔を合わせるんだよ」
川船の女親方は鼻で笑った。
「前金は銀ひと袋。ついでに教えとくと、南水門は引き潮の鐘から半刻が狙い目だ。番兵は塩荷の検めを嫌う。手が荒れるんでね。袖の通行料は銀十」
引き潮の鐘。
南水門。
袖は銀十。
女親方は、銀の重みだけ確かめると、もう腰を上げた。
「船は水の上で待つ。蔵の中で揉める商売じゃない」
そう言って、潮の匂いを残して出ていった。
三つ目の客は、外套を目深にした訛りの男だった。連れの護衛が一人。男は蝋写しを見もせずに言った。
「主の望みは、剣そのものではない。剣が帝国の手に無い、という証しだ。一筆でもいい。その布の切れ端でもいい」
剣より、証文。
外つ国の連中が買いたいのは、帝国の傷のほうだった。
リオが布の値を吹っかけかけたとき、護衛が前に出た。
「待て。現物を検めん限り、一枚も出さん」
声に、商人の柔らかさがなかった。
リオは男の手を見た。手の皮の硬さが、商人ではなく兵のものだった。靴は支給品の型。塩蔵に入ってから一度も、秤を見ていない。
商売人は、必ず秤を見る。
護衛の左腕には、赤銅色の籠手が嵌められていた。
帝国兵の装備ではない。
七神器のひとつ、炎斧の封印紋。その一部を写した、外つ国の封印武装だ。もちろん本物ではない。写しでしかない。だが、写しでも火は出る。人を焼くには足りる。
床に散った塩が、ぱちりと跳ねた。
塩蔵の空気が一瞬で乾く。護衛の指先に、小さな火が灯った。
「現物を出せ」
護衛は言った。
「出さねば、ここで焼く」
リオは秤を見た。梁を見た。吊られた塩俵を見た。
聖剣を抜く距離じゃない。
盗む距離だ。
そこへ、帰ったはずの故買が戻ってきた。
秤の脇に置き忘れた眼鏡を取りに来たのだ。
扉を開けた糸目の故買は、外套の男と正面から目が合った。
「……二重売りかい、屋根鼠」
「おたくが渋いんでね。上値がついただけだ」
欲と欲が、塩の床で睨み合った。護衛だけが、欲ではなく仕事の目でリオへ詰めてくる。
土手の上で、夜鷹が三度鳴いた。
灯りが三つ。
網だ。
リオは秤の皿を蹴って跳び、梁の吊り綱を小刀で払った。塩俵が床へ落ちて弾け、白い煙が蔵じゅうに立った。咳と怒号と、銭袋を抱えて転がる音。護衛の火が塩煙に呑まれて揺れる。
リオは塩煙の中を這って、川側の搬出口から水路へ滑り込んだ。
蝋写しと祭壇布は、秤の上へ置き去りにした。惜しいが、命の質草だ。
桟橋の陰を抜けるとき、対岸の土手に騎影がひとつ見えた。軍装の若い男が、塩煙の上がる蔵を見ている。
目が合った――気がした。
一呼吸ぶんだけ。
リオは息を止めて、黒い水に身を沈めた。
*
兵が踏み込んだ塩蔵には、塩と、秤と、置き去りの品だけが残っていた。
「蝋の写しと、布の端にございます」
近衛隊長が、濡れた品を差し出した。アルトリウスはそれを灯りに透かした。
写し。
つまり、本体を見せる気は端から無かった。
「……剣を売る気など、なかったか」
アルトリウスは濡れた布端を握り込んだ。
「あの男は、剣の噂で買い手を炙り出した」
読めてきた。読めて、それで終いだ。褒める言葉は、一つも出てこなかった。
「収穫が、ひとつ」と隊長。「川船の女親方の若い衆が、賞金目当てに兵舎へ駆け込みました。賊は引き潮の刻、南水門から塩荷で抜ける段取りだったと」
「買い手どもは」
「故買を一名、捕縛。外套の男は取り逃がしました。追った者によれば、商館通りで、使節の馬車に消えたと」
見なかったことに、という宰相の声が、耳の奥で蘇った。
「南水門の検めを倍にせよ。引き潮の刻は、特にだ」
近衛隊長は顎を引いた。
「今夜の引き潮にも、間に合います」
アルトリウスは窓の外を見た。川は黒く、靄が出ていた。
*
水車小屋に戻ったリオを、爺さんの報せが待っていた。
「塩蔵が割れた。川船の女親方んとこの若いのが、夜のうちに兵舎へ走ったとさ。南水門は、明日から検めが倍だ」
「……早えな」
爺さんが若いのを口汚く罵りかけたので、リオは手で制した。
「恨むなよ。賞金ってのは、そういうふうに効く毒なんだ。先に毒を撒いたのは、こっちの首だ」
前金の銀は、ひと袋と半分。船賃と袖の銭で、ほとんど消える勘定だった。残ったのは、引き潮の刻と、水門の癖と、八千の裏値と、印のない買い戻しの話。銭にならない盗品ばかりが、懐で重い。
「引き潮は」
「あと一度。夜明け前だ」
リオは臼の上の包みを担いだ。肩で、塩がひとすじ零れた。
「今夜だ。検めが倍になる前に、出る」
聖剣は売れなかった。
代わりに、逃げ道の値段は分かった。
売る売ると言いふらした剣は、誰にも売れないまま、昨日より重かった。




