第十話 帝都脱出
夜明け前の川は、霧を吐いていた。
水車小屋の桟橋に、塩俵が積み上がっていく。川船の女親方の寄越した塩船は、約束どおり中州に着いていた。前金の不足は若い衆の給金で埋めた、という伝言つきで。
密告した若い衆の給金で、密告された側の船賃が払われている。
商売というのは、たいがい薄情にできている。
聖剣は、水車の心棒に化けさせた。
折れた軸に添え木をして、油布と縄でぐるぐる巻きにする。塩俵に仕込むより、堂々と甲板に転がしておくほうが目につかない、と婆が言った。隠した物は探される。転がした物は、蹴られるだけだ。
それにしても、重かった。
担ぎ上げると、肩の骨が鳴った。鉄の重さの上に、この十日で増えた分が乗っている。焼けた路地と、布告と、賞金と、置いてきた名前のぶんだけ。
勝った気はしなかった。
出たくて出るんじゃない。出るしかなくなったから、出る。盗人の引っ越しなんてのは、だいたいそうだ。
水車小屋には、米をひと握りと塩をひと摘まみ、置いてきた。
次にここへ隠れる誰かのぶんだ。
盗人の宿賃ってやつだった。
「米は二俵。塩は売り物が八俵。心棒は甲板に一本。婆さんは三番の俵の陰。チビどもは筵の下」
水場の女が、荷の数えを読み上げていく。洗濯物を数える声と同じだった。この女は、戦でも引っ越しでも、たぶん同じ声で数を読む。
「袖の銀十は」
「ここにある」
親父が胸を叩いた。叩き方が、少しだけ早かった。
ミロが、櫂を握ったまま黙っていた。
「どうした」
「……べつに」
「怖えか」
「…………怖え」
「俺もだ」
リオはミロの頭に手を置いて、それ以上は何も言わなかった。先に西へ逃がした年寄り組には、長屋の婆さんの咳も交じっている。あの咳が無事に村へ着いたかどうかも、まだ分からないままの船出だった。
*
帝宮の作戦室で、アルトリウスは川の図面を睨んでいた。
「南水門。引き潮。塩荷」
塩蔵で拾った三つの言葉が、図面の上で一本の線になる。
「検めは倍にしてございます」と軍務卿。「逃げるなら話は早い。布告は生死を問わず。逃げる賊は、射てよろしい」
「私の命は違う」
アルトリウスは図面から目を上げなかった。
「聖剣ごと検分へ回せ。民を巻き込むな」
「ですが現場には、妙な口伝も回っておりますしな。検分に回せだの、傷をつけた者に褒賞なしだの。どれが殿下の御意やら、兵も迷いましょう」
軍務卿は、迷わせた側の顔で言った。
アルトリウスは答えなかった。
あの賊は、偶然で動いていない。札の照合が始まれば死んだ番号を拾い、口伝が乱れれば乱れた隙間を歩く。帝国の継ぎ目を、継ぎ目と知って踏んでくる。
「隊長。先に水門へ。旗を持て」
近衛隊長は顎を引いた。
「私も出る」
偽の御内意が飛び交う場所では、本物の旗だけが命令になる。皮肉なことに、と思う。私の声より、旗に縫われた紋章のほうが、私の証になる。
アルトリウスは図面の下流を指でなぞった。
南水門。河口。商館。海。
その先は、もう帝国の言葉だけでは縛れない。
「聖剣を、帝国の外へ出すな」
軍務卿がわずかに目を細めた。
アルトリウスは続けた。
「あれは盗品ではない。七国結界の柱だ」
七神器は、魔王を封じた英雄譚の飾りではない。
帝国と六国を守る結界の要だった。
帝国の正史では、世界を支える柱は七つとされている。
聖剣は、その一本だった。
その一本が、盗人の肩に担がれて川を下ろうとしている。
「聖剣を失ったと知られるだけでも、帝国の名は揺らぐ。外へ出れば、揺らぐだけでは済まん」
「外つ国が騒ぎますな」
軍務卿が言った。
「騒ぐだけなら、まだいい」
アルトリウスは図面を見下ろした。
帝国の外には、結界の外側で生きる国々がある。魔素の濃い森。魔物が湧く山。帝都の吟遊詩人が、歌の端から落とした場所。
七神器が守る光の外側。
そこに、聖剣が流れる。
「追う」
アルトリウスは言った。
「聖剣も、賊もだ」
*
南水門は、霧の中で順番待ちの船が三艘、鎖の前に並んでいた。
前の船は、俵を三つも開けられていた。検めの倍は、嘘ではないらしい。
石の門楼に篝火。検め役の書き役がひとり、槍の兵が六人。岸の上では、夜明け売りの粥屋が湯気を立てて、その柱に、誰が描いたのか白墨の鼠がいた。丸に耳ふたつ、尻尾が一本。兵のひとりがそれを袖で擦り消して、擦りながら、別の兵と目を合わせないようにしていた。
粥屋の客のチビが、節をつけずに口の中で何か数えている。ひとつ、ふたつ。兵は聞こえないふりをした。鼻歌は、縄では縛れない。
「次。札と荷札」
順番が来た。
親父が札を出す。書き役が台帳をめくる手が、止まった。
「……この番号。三日前に焼けた荷のだぞ。東街道で」
冷えた。
霧より先に、背中が冷えた。
死んだ番号は照合されない、はずだった。焼けた荷の帳消しが、もう台帳に回っている。帝国の帳面は、思ったより足が速い。
口を開いたのは、水場の女だった。
「焼けた荷の主は、うちの亭主の兄だよ!」
洗濯場で十年鍛えた声だった。
「兄が焼かれて、荷も株も弟が継いだ。代替わりの届けは三日前に出してある! 書き役が写すのが遅いのを、こっちの咎にする気かい。なんなら聖務院に聞いとくれ。焼いたのは、どこの誰だってね!」
最後のひと言で、書き役の顔色が変わった。
火の出どころは、触れたくない帳面なのだ。
「……袖は」
兵が掌を出した。
親父が銀を数える。一、二、三、八で指が止まる。
「相場は十だ」
「じゅ、十とは聞いてねえな。八で手を打たねえか。ほら、塩をひと掴みおまけに」
「親父どの」
俵の陰から、婆の咳がひとつ。
仕込みの合図より、本物に近い咳だった。親父は耳の裏と靴の中から一枚ずつ「拾って」、十にした。
「通れ。いや、待て」
伍長が槍の石突きで、甲板の油布の包みを指した。
「その心棒。検める。開けろ」
来た。
チビの口から、節が漏れかけた。ひとーつ、と。女の手がその口を塞ぐ。ミロの櫂が、かたかたと舷を叩いている。
ひとりなら、とっくに水へ潜って消えている。
九つの息と、咳と、泣き虫と、銭惜しみを連れて、俺はいま秤の上に乗っている。
「息を殺せ」
リオは低く言った。低いのに、その声だけが船の端まで通った。チビの肩が止まり、ミロの櫂が止まった。
包みの中で、剣がかすかに熱を持った気がした。
それでも、伍長の槍は引かない。
聖剣は、ここでは奇跡を起こさない。
起こすのは、帳面と潮と、半俵の米だ。
リオは縄を解くふりをして、舷の米俵に肩を入れた。
「船が傾ぐ!」
半俵が、音を立てて川へ落ちた。引き潮の流れが俵を呑み、船がぐらりと傾いて、塩俵が滑る。兵が思わず鎖際から退がる。
そこへ、門楼の上から銅鑼のような声が落ちた。
「引き潮の鐘だ! 潮を逃がすな、並んだ船は流せ!」
門守の役目は賊ではなく潮だった。潮を一度逃せば、明日の塩がぜんぶ遅れる。伍長が何か言い返す前に、鎖が軋んで下がり始めた。
「検めは次の船から倍にしろ! 行け、行け!」
船は、こぼれた米の上を滑るように、水門をくぐった。
米半俵。
腹に痛い質草だった。
門を抜けて半里、三番の俵の陰で、婆が横倒しになっていた。気を張っていた糸が、門と一緒に切れたらしい。女が抱き起こすと、婆は薄目を開けた。
「……騒ぐんじゃないよ。寝てるだけだ」
そう言って、本当にしばらく、動かなかった。
*
門を抜けた先の城壁の上で、弓兵が矢をつがえていた。
「賊船です! 射ますか」
「布告は生死を問わずだ」と若い士官。
「ですが御内意では、聖剣ごと検分へ回せと。傷をつけた者に褒賞なしとも――」
弦を引く手が、迷って止まる。
そこへ、馬蹄。紋章の旗が、壁上に駆け上がった。
「皇太子殿下の命を伝える。聖剣ごと検分へ回せ。霧の中へ射るな。民が乗っている」
近衛隊長の声で、弓が下りた。
遅れて壁に立ったアルトリウスの目に、霧へ溶けていく船尾が見えた。甲板に、油布の長い包み。あれだ。あの中身ひとつのために、帝国はこの十日、燃え続けている。
「川下にございます」と隊長。
「川下には河口。河口には商館と、塩の積み出し港」
「河口の関と港には、早馬を出します。着くのは、賊の船より早うございます」
塩蔵から使節の馬車へ消えた、外套の男。剣そのものではなく、帝国の傷を買おうとした国筋。
線は、海へ向かって伸びている。
「追う。船と早馬の両方でだ。それと」
アルトリウスは、霧から目を離さずに言った。
「城へ戻ったら、私の名で口伝を出した者を洗え。賊を追う糸と、その糸は、別々に手繰る」
追う相手が、ふたりになった朝だった。
*
合流の中州で、爺さんは竿を止めた。
「渡し守はここまでだ。川を離れちゃ、飯の種がねえ」
「戻って平気か」
「平気なもんかね。けど、渡しのない帝都ってのも困るだろ」
リオは銀を二枚、竿の根元に挟んだ。
「拾い物だ」
「ああ。拾っとくよ」
爺さんは竿を返しかけて、思い出したように振り向いた。
「そうだ。河口の酔った船乗りから聞いた話だがね。海の向こうの国にゃ、海冠ってのがあるとさ。帝国は七神器に数えちゃいないが、あっちじゃ水を統べる冠の神器だと言ってる」
「七神器じゃねえのか」
「帝国の正史じゃ、七つだ。海の連中は、沈んだぶんを数えないだけだと言う。どっちが本当かなんて、舟漕ぎに分かるかよ」
爺さんは、肩をすくめた。
「ただ、塩蔵に来た外套の男。あの訛りは、その海冠の国の筋らしいよ」
冠、ときた。
剣の次は冠か。
「それと、もうひとつ」
爺さんは声を少し落とした。
「帝都じゃ、七神器は世界を守る柱だろうさ。けど河口から先じゃ、別の呼び方をする奴もいる」
「何て」
「押し返しの杭」
リオは眉をひそめた。
「押し返し?」
「魔素だよ。魔物が湧く濁りさ。帝国と六国の内側は薄い。外は濃い。そういうふうにできてるんだと、海の向こうの連中は言う」
「七神器が、魔素を押し返してるってことか」
「酔った船乗りの話だ。信じる値はない」
爺さんは竿を水へ戻した。
「だが、聖剣を欲しがる手は、壁の外のほうが多いかもしれないよ。帝都でその剣は勇者の証だ。外じゃ、別の値札がつく」
爺さんの舟が、霧の上流へ消えていった。
*
帝都の鐘が、遠くで鳴った。
祭の七連打でも、追討の三連打でもない。ただの、朝を数える鐘だった。
振り返らないつもりだった。
一度だけ、振り返った。
川霧の向こうで、塔のかたちが灰色に溶けかけている。焼けた路地も、白く塗られた壁の鼠も、井戸も、置いてきた名前も、あの霧の中だ。
「戻る、とは言わねえよ」
誰にともなく言うと、筵の陰で婆が鼻を鳴らした。
「言わなくていいんだよ。盗人はね、置いてきた物の値段を忘れなけりゃ、それでいいのさ」
チビが筵の下で、こらえきれずに小さく歌い出した。
ひとつ、ねずみが、いどあけた。
今度は、誰も口を塞がなかった。
背中で、聖剣が重い。売れず、返せず、捨てられず、ただ重い。
それでも、船は進んでいる。
城門も、布告も、検問も、皇太子の旗も、今は背中の霧の中だ。
船は川を下る。
河口へ。
海へ。
冠の噂のするほうへ。
帝都は、出た。
聖剣も、帝国の内側から出た。
逃げただけだ。勝ったわけじゃない。
それでも、追ってきた帝国の手から、今日だけは盗みきった。
それで終いでないことだけは、霧の中でもはっきりしていた。




