第八話 皇太子の偽物
東の街道口、第三検問所。
朝靄の中で、荷車が一台、燃えていた。
干し草と古着を積んだだけの車だった。荷主の老人が地面に座り込み、燃える荷を見ている。止めることも、泣くこともしていない。ただ見ている。
松明を投げた若い兵は、火から目を逸らしていた。
「……伍長。これ、本当にやるんすか」
「御内意だ」
伍長は抑揚なく言った。
「賊を匿った疑いのある荷は、焼いて構わん。皇太子殿下の御内意である」
「紙は」
「口伝だ」
「印は」
「無い」
若い兵は、それ以上聞かなかった。聞けば、自分が荷の代わりに焼かれる気がした。御内意、という三文字には、紙も印もないのに、逆らった者を呑み込む重さがある。
荷車の火が、靄に溶けていく。
老人は、最後まで何も言わなかった。
*
その話は、昼前に旧河岸の倉庫まで届いた。
「皇太子の御内意、ねえ」
リオは魚の骨をしゃぶりながら言った。
「王子サマも、とうとう値札を貼られたか。俺と同じだな。ご愁傷さま」
「同じじゃないよ」
婆が筵から首を伸ばした。
「あんたの値札は、あんたの首にぶら下がってる。あの坊やの名前は、あの坊やが寝てる間に勝手に出歩いてるんだ。質が悪いのは後のほうさ」
「それで、誰が出歩かせてんだ」
「さあね」
婆は肩をすくめた。
「軍務卿だか、検問の伍長だか。名前ってのはね、一度貼られると、貼った本人すら剥がせない。布告と同じだよ」
「厄介だな」
「厄介さ。けど」
婆の濁った目が、ふと光った。質草に値をつけるときの目だった。
「紙がない分だけ、盗みやすいよ」
リオは骨を置いた。
「どういう意味だ」
「布告なら、印を確かめられる。紙を辿れる。けど口伝は、言った者勝ちだ。あの坊やの名前が、印も紙もなしで街道を歩けるんならね――あんたの口だって、同じ道を歩けるってことさ」
倉庫の隅で、親父がにやりとした。
「つまり、こっちも御内意ってやつを出しゃいいんだな」
「出し方を間違えなきゃね」
*
仕込みは、その日の午後から始まった。
今度は婆が、流す文句を削った。
「西の検問所にはこう流すよ。皇太子殿下の御内意。荷は焼くな。焼いた者は査問にかける」
「焼くな、って命令を出すのか」
水場の女が言った。
「そりゃ……いい命令じゃないか」
「いい悪いじゃない」
婆は遮った。
「東で焼け、西で焼くな。命令が二枚、別の口から出る。すると兵隊は、どっちが本物か分からなくなる。分からなくなった兵隊は動けなくなる。動けない検問は、ザルさ。あたしらが通るための、ザルだよ」
「人助けじゃねえ」
リオが念を押した。
「俺らが抜けるための穴だ。焼かれる家が減るのは、ついでだ」
「ついでで結構」
婆は、それ以上きれいごとを足さなかった。
もうひとつ、南の街道には別の口伝を流した。
「賊リオ・ヴェイルを見つけても手を出すな。聖剣ごと、皇太子直属の検分に回せ。傷をつけた者に褒賞なし。皇太子殿下の御内意である」
「おい」と親父。「それ、捕まえろじゃなくて、触るなって命令だぞ」
「だからいいんだよ」
リオは肩をすくめた。
「安い獲物なら、その場で殴って縛る。高い品なら、勝手に触れねえ。上の検分に回す」
「自分で自分の値を上げたってか」
「俺の値じゃねえよ」
リオは鼻で笑った。
「聖剣込みの値だ。俺は梱包材みたいなもんだ」
親父はその口伝を紙に書こうとして、また文を盛り始めた。
「皇太子殿下におかせられましては、賊の身柄および聖剣を格別の思し召しをもって――」
「おやめ」
婆の杓が飛んだ。
「長い命令は嘘くさいんだよ。お上の布告は短い。短いほど、本物に聞こえる」
「……俺の名文が」
「名文は墓に持ってきな」
*
口伝を運ぶのは、人だった。
紙は使わない。足がつくし、字は読めない者が多い。
荷運びが市場へ。洗濯女が井戸端へ。爺さんが渡し場へ。それぞれが、ついでの世間話の顔をして、御内意を一粒ずつ落としていく。
ミロにも、ひとつ持たせた。西の検問所へ向かう荷運びの叔父に、伝言する役だ。
「いいか、一字一句な。荷は焼くな。焼いた者は査問にかける」
「荷は焼くな。焼いた者は、さもんにかける」
「そうだ。査問だ。調べにかけるって意味だ」
ミロは三度繰り返して、走っていった。
戻ってきたとき、顔が青かった。
「リオ兄。おれ、間違えた」
「何て言った」
「……荷は焼くな。焼いた者は、ざんもんにかける、って」
「斬るって意味か」
「うん。叔父さん、もう走ってった」
リオは天井を仰いだ。
査問が、斬問になった。
焼いたら斬る、という命令になって、いま西の街道を走っている。
「……まあ、いい」
リオは息を吐いた。
「焼くなって脅しが、ちょっと本気になっただけだ。御内意ってのは、元から物騒なもんだしな」
婆が筵で笑った。
「ほらね。怖いほうへ転んだ嘘は、訂正されにくいんだよ」
それと、もうひとつ小さい失敗があった。
チビが鼠の印を描きすぎた。倉庫の壁、樽、桶、しまいには干した襤褸にまで、丸と耳と尻尾を炭で描いていた。乾かしに表へ出した襤褸に鼠が並んでいるのを、対岸の見張りが目ざとく見つけた、と爺さんが慌てて知らせに来た。
「全部、川で洗え」
リオは舌打ちした。
「印は、貼るより消すほうが面倒なんだよ。覚えとけ」
チビは半泣きで、襤褸を川へ運んでいった。
*
帝宮では、写しの束が机に積まれていた。
各検問所からの「御内意の確認願い」だった。東は焼け、西は焼くな、南は検分に回せ。命令が食い違って、現場が問い合わせてきている。
「私は」
アルトリウスは束を掴んだ。
「荷を焼けとも、焼くなとも命じていない」
「ですが殿下」
軍務卿は涼しい顔だった。
「いずれも、殿下の御名で動いております」
「私の名ではない。誰かが騙っている」
「現場の判断にございましょう。混乱の折、兵が殿下の御意を汲んで――」
「汲んで荷を焼くのか。老人の干し草を」
軍務卿は答えなかった。責めの言葉が、するりと指の間を抜けていく。この男は、誰の責任でもない場所に、いつの間にか立っている。
「正式な布告を出す」
アルトリウスは言った。
「これらの口伝は皇太子の命にあらず。一切従うな、と」
「なりませぬ」
即座に、宰相が遮った。
「訂正の布告を出せば、偽の御内意が出回っていたと、帝国が自ら認めることになります。皇太子の名が騙られていた。それを使節の前で告げるのですか。剣を失い、名すら守れぬ国だと」
「では、騙らせておけと」
「文書にない命令は、存在いたしません」
宰相は平然と言った。
アルトリウスは、束の中の一枚を叩きつけたくなるのを堪えた。
文書にない命令は存在しない。
ならば、いま街道で焼かれている荷車は何だ。存在しない命令で、存在する家が焼けている。この老人は、その矛盾を矛盾とも思っていない。
「殿下」
近衛隊長が、静かに口を開いた。
「ひとつ、申し上げても」
「言え」
「西の街道で、妙な御内意が増えております。荷を焼けば斬る、と。東の御内意とは、逆向きで」
「逆向き」
「焼けという御内意と、焼けば斬るという御内意が、同じ街道で出会っております。兵は、どちらも殿下の御名と聞いて、動けずにおります」
アルトリウスは、束を置いた。
自分の名を騙る者が、ひとりではない。
東で焼かせている誰かと、西で焼くなと脅している誰か。南では、賊を見つけても手を出すなという口伝まで出ている。どれも、皇太子の御内意を名乗っていた。
ふと、思い至った。
西と南の口伝には、賊の手口の匂いがした。命令を打ち消すのではなく、別の命令を横に並べて、現場を迷わせる。広場の橋で群衆を割り込ませてきた、あの男の手口だ。
「……賊か」
近衛隊長は、肯定も否定もしなかった。
「分かりますのは、ひとつだけです。殿下の御名は、もう殿下お一人のものではございません」
*
検問が迷っているあいだに、旧河岸では荷支度が進んでいた。
通行札は、混乱に乗じて検問の控えから抜いた。番号は、焼かれた荷車の荷主のものを流用した。死んだ札は照合されない。荷札は、神殿の片付け人足のものに化けさせた。祭りのあとの後始末は、まだ続いていることになっている。
舟を二艘、爺さんが手配した。
「南は検分の御内意で、矢を惜しんでる。だから舟が出しやすい」と爺さん。「焼くなの西回りで、年寄りと子供を先に逃がす。リオは、最後だ」
「俺が最後か」
「賞金首と一緒の舟に、誰が乗りたいもんかね」
婆が、筵から言った。
半分は冗談で、半分は本当だった。リオは笑って、それを呑んだ。
夜、最初の舟が出る前に、リオは婆の隣に座った。
「なあ、婆さん。ひとつ、妙な噂を聞いた」
「何だい」
「貧民街に火ぃ入れたとき、王子サマは、焼くなって命じてたらしい。現場が、勝手に焼いた、と」
婆は、しばらく黙っていた。
「信じるのかい」
「いや」
リオは即答した。
「信じねえ。王子サマの命令がどうだろうと、焼けた路地は焼けたんだ。命じてないから許す、なんてのは、焼かれた側の言う台詞じゃねえ」
「……まともだね」
「ただ」
リオは膝を抱えた。
「焼くな、って命令をほんとに出してたんなら。あの王子サマ、自分の名前を、いちばん遠くで盗まれてんな。ちょっとだけ、笑える」
笑える、と言いながら、リオは笑わなかった。
*
舟が、闇の川へ滑り出していった。
帝宮の窓辺で、アルトリウスは同じ夜を見ていた。
机には、訂正の布告の草案。書いても、出せない。出せば帝国の名が傷つき、出さねば民が焼ける。どちらを選んでも、皇太子の名は誰かに使われ続ける。
自分の名を盗んでいるのは、賊だけだと思っていた。
違った。
賊は、東で焼かせる誰かの命令を、西でずらしているだけだ。最初に皇太子の御内意を口にしたのは、帝国の側だった。賊より先に、味方が、自分の名を使い始めていた。
名前というのは、と思いかけて、やめた。
考えても、荷車は元に戻らない。
近衛隊長が、最後の報告を置いていった。
「南の渡し場で、舟が二艘、夜に出たと。荷札は神殿の人足。検問は、聖剣ごと検分へ回せとの御内意に従って、矢を放ちませんでした」
「……追うか」
「靄が出ております。それに」
隊長は少し間を置いた。
「もうひとつ。賊の動きを探っておりました間者から、妙な報告が。聖剣を買いたいという声が、帝都の外からいくつか」
「外から」
「故買の筋、密輸の筋、それと、さる使節の随員の筋。賊が聖剣を売りに出すという噂を、嗅ぎつけた者がおるようで」
アルトリウスは、窓の外の闇を見た。
名前は盗まれ、命令は騙られ、そして今度は、聖剣そのものに買い手がつき始めている。
草案の上で、燭の火が小さく揺れた。




