第七話 名前を盗む
樽の上に、例の布告が広げてあった。
強奪犯。
放火犯。
反逆者。
賞金首。
リオは朝からそれを睨んでいた。睨んだところで、墨は薄くならない。
「で?」
小さな炭火で干し魚を炙りながら、荷車の親父が言った。
「名前なんざ、どうやって盗むんだ。首から下げてるもんでもなし、懐に入ってるもんでもなし」
「……考え中だ」
「考え中ときたよ」
親父は魚をひっくり返した。
「啖呵だけは一人前だな、屋根鼠」
言い返せなかった。
名前を盗ると言ったのは勢いで、段取りは何もない。鍵なら型が取れる。名簿なら濡らせる。だが、貼られた名前はどこに仕舞われているのか、それすら分からなかった。
最初に思いついたのは、剥がして回ることだった。口に出すなり、舟の爺さんが鼻で笑う。
「渡し場のは三日で三度貼り替わったよ。剥がすそばから貼るのが役人の商売だ。糊代はどうせ税金さ」
行き止まりだった。
盗人の手癖で考えるかぎり、布告は剥がすだけでは足りない。
筵の上から、婆が言った。
「布告はね、消せないよ」
「分かってる」
「最後までお聞き。布告の墨は消えやしないよ。だったら、横に別の墨を垂らしてやればいい」
リオは布告から顔を上げた。
「垂らす?」
「放火犯って字の横に、別の話が立ってりゃ、読むほうは勝手に迷う。迷った客は、財布の紐が固くなる。あんたの首で言やあ、縄の結び目が緩むってことさ」
「悪評も売り方次第だぜ」と親父が乗ってきた。「俺のカビパンだって、熟成って言や二枚は売れた」
「あれは売れたんじゃない。投げ返されなかっただけだよ」
水場の女が割り込んで、それから柄杓の先で宙に印を描いた。
「噂の通り道なら、あたしらのほうが詳しいよ。洗濯場は朝。噂も朝採れがいちばん回る。市場は昼、酒場は夜」
「渡し場を忘れちゃいけねえ」
舟の爺さんが手を挙げた。
「待ち時間が長いからな。暇な口ってのは軽いんだ」
「教会の施しの列」
「荷運びの溜まり」
「辻の歌い手」
「葬式と祭りもだよ」と水場の女が指を折る。「人が集まりゃ、口も集まる」
次々に声が出た。
出るたび、リオの頭の中で、帝都の地図に細い水路が引かれていく。
布告は釘で壁に留まっている。
噂は、歩く。
「剥がすんじゃねえ」
リオは布告を指で叩いた。
「横に並べるんだ。客には読み比べさせる」
*
仕込みは、せこいところから始まった。
まず婆が、売っていい話を選り分けた。
「井戸を開けた。七十人逃がした。婆を盗り返した。この三つだけだよ。ぜんぶ本当の話だ。嘘は混ぜるんじゃない。嘘ってのは一枚バレると、本当まで道連れで死ぬからね」
「火付けの話は」と水場の女が言った。「あれこそ本当だろ。火を入れたのは兵じゃないか」
「仕舞っときな」
婆は即答した。
「証文のない話は、まだ売り時じゃない。ああいうのはね、寝かせるほど値が上がるんだ」
親父はその間に、隅でこそこそと何か書いていた。覗くと、布告そっくりの紙だった。
賞金は払われません。
聖務院は嘘つきです。
「おやめ、それ」
婆が筵から身を起こした。
「字が汚いのは置いといて、紙と糊で足がつく。偽の布告なんざ車裂きだ。あんた、車裂きになっても二枚に増えるだけだよ」
「……じゃあこの糊はどうすんだ」
「壁にでも塗っときな」
書くのは炭と煤にした。短い言葉にした。字の読めない者のほうが多いからだ。
絵も決めた。
考えたのはミロだった。丸をひとつ、耳をふたつ、尻尾を一本。三歳でも描ける鼠だ。
「これなら、俺が描かなくても増える」
ミロは得意げだった。
あの夜から、初めて見る顔だった。
唄も作った。手毬唄の節で、誰のものでもない声で歌えるやつだ。
ひとつ、ねずみが、いどあけた。
ふたつ、ななじゅう、にげのびた。
みっつ、ばあさま、とりかえし。
「いいか」
リオはチビどもを並べた。
「川は渡るな。字は書くな。兵の前じゃ歌うな。誰に習ったと聞かれたら、知らないおじさん。それだけ言え」
「しらないおじさん」
チビどもは声を揃えた。揃いすぎて、かえって嘘くさかった。
水場の女たちには、台詞まで持たせた。洗いながら、声を張らずに言うのだ。うちの甥がね、封鎖の晩に井戸の水を汲めたんだと。開けたのは役人じゃないらしいよ。誰とは言わないけどさ。
名指しはするな、と婆が言った。
名指しは売りつけだが、匂わせは客が勝手に買うんだと。
夜、リオは爺さんの舟で渡し場へ出た。帝都の内側は残った女たちと、銅貨を握らせた荷運びに任せる。自分は壁の外の掲示板を回る。
賞金首が自分で書くにしては、みみっちい仕事だった。
それでいい。みみっちい仕事ほど、足がつかない。
布告の横の余白に、煤の塊を擦りつける。
放火犯じゃない。井戸を開けた。
書き終えたところで、巡回の足音がした。
リオは煤だらけの手のまま欠伸をして、酔い潰れの真似で杭にもたれた。兵は鼻をつまんで通り過ぎる。
煤と魚の匂いは、こういうとき役に立つ。
*
二日もすると、水が濁り始めた。
「渡し場でね、客同士が揉めてたよ」
爺さんが嬉しそうに報告した。
「火ぃ付けた悪党だって爺と、いや井戸を開けたんだって婆で、櫂を取り合いだ」
「東の市場でチビどもが唄ってた」
荷運びの男が言った。
「教えてもいねえ区画でだ。それと、節が増えてたぜ。よっつ、よなかに、けんぬけた、とか何とか」
「……剣の話は入れてねえぞ」
「噂ってのはそういうもんさ」と婆。「放した魚は、もうあんたの魚じゃない」
悪名は消えていなかった。
施しの列では今も、リオの名に唾を吐く者がいる。賞金の三千を指折り数える者もいる。ただその横に、井戸の話と七十人の話が、雑草みたいに混じり始めていた。
婆の言った通りだった。
ただで濁ったわけでもない。西の市場で、煤書きを請けた男がひとり、聖務院の訴えで流言の咎を受けた。十打。リオは黙って、男の家に米を二日ぶん届けさせた。
名前の値段は、どうやら俺の首だけじゃ払いきれないらしい。
「ね、リオ兄」
夕方、唄の練習を終えた小僧が袖を引いた。火事のあと、壁際で父親の膝に抱かれていた子だ。
「ねずみって、リオ兄のことなんでしょ。いどあけて、ばあちゃんとりかえして……」
小僧は周りを見て、声を小さくした。
「……でも、ゆうしゃみたいだ」
リオは、思いきり嫌な顔をした。
「誰に習った、その言葉」
「しらないおじさん」
仕込んだ口上を、こんなところで使われた。
リオは舌打ちして、小僧の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「鼠でいいんだよ、鼠で」
掻き回しながら言ったが、小僧はきゃらきゃら笑うだけで、聞いちゃいなかった。
*
帝都では、壁が洗われていた。
「小さな汚れにございます」と宰相は言った。「見つけ次第、白く塗らせております。所詮は字も読めぬ者どもの戯れ。放っておいても乾きまする」
「読めぬ者のために、絵がございます」
近衛隊長が言った。
「丸に耳ふたつ、尻尾が一本。鼠の印が、もう三つの区画で見つかっております」
「墨売りの行商を締め出せ」と軍務卿。「聖務院の訴えで、流言の咎を受けた者が五人ほど」
「歌は、鞭では消えませぬ」
近衛隊長が、抑揚のない声で言った。
「歌った子供を、全員引っ張りますか」
誰も答えなかった。
皇太子アルトリウスの手元には、書き写された落書きの一覧があった。聖務院がご丁寧に、場所と日付まで添えて集めてきたものだ。
放火犯じゃない。井戸を開けた。
盗人リオ、七十人を逃がす。
そして一番下に、一行。
聖剣は、盗人を選んだ。
書いてはならぬと布告した、その文章そのものだった。
しかも厄介なことに、書かれているのは起きたことばかりだ。嘘なら、嘘だと布告できる。本当は、白く塗るほかない。
壁は洗える。塗れば白くなる。だが白く塗られたばかりの壁は、街でいちばん書きやすい壁でもあった。布告を貼れば、その横に余白が生まれる。帝国が言葉を増やすたび、隣に座る場所も増えていく。
汚れではない、とアルトリウスは思った。
これは、帝国の言葉の横に別の言葉が並び始めたということだ。
「殿下。いまひとつ、ご報告が」
近衛隊長が声を落とした。
「東の検問所で、妙な触れが回っております。賊を匿う家は、その場で焼き払って構わぬ。皇太子殿下の御内意である、と」
「出していない」
近衛隊長は顎を引いた。
「文書もございません。印もなく、口伝にて」
副璽の布告なら、まだ辿れる。紙があり、印があり、評定の記録がある。だが印のない偽物は、どこを斬ればいいのか。
壁には鼠の名。
街道には、皇太子の御内意。
アルトリウスは落書きの一覧を伏せて置いた。
出した覚えのない自分の声が、もう街道を歩いているらしい。




