第六話 盗人の値段
旧河岸の朝は、灰の匂いから始まった。
誰かがくしゃみをした。
それから、別の誰かが咳をした。
川向こうから風が吹くたび、焼けた路地の匂いが倉庫まで届く。干した襤褸にも子供の髪にも、その匂いが残っている。
欠けた鍋で、粥が煮える。
昨日より、薄い。
水場の女が柄杓で鍋底をさらい、誰にともなく言った。
「米より人のほうが増えるんだから、仕方ないさ」
火事のあと、川を渡ってくる者が続いていた。筵一枚を敷く場所は、もう壁際にしか残っていない。表で灰交じりの雪のようなものが舞い、チビが「きれい」と言って、女に頭をはたかれていた。
「並びな。子供が先だよ」
女が柄杓を振るう。粥を待つ列の脇で、荷車の親父がどこから出したのか干し魚を一枚ずつ売ろうとしている。足元を見やがってと罵られながら、二枚は売れた。
商いと施しの境目が、ここでは朝から曖昧だった。
奥では戸板が二枚並んでいる。
片方には長屋の老婆。
もう片方には婆。
年寄りがふたり。咳がひとつと、皺枯れ声がひとつ。
「薄いねえ、この粥」
椀を受け取って、婆は顔をしかめた。
「牢の粥のほうが、まだ濃かったよ」
「贅沢をお言いでないよ」
水場の女が、椀をもうひとつ子供に渡した。
親父が干し魚を売る手を止める。
「……そういや婆、あんた、いつ帰ってきたんだ」
「今さらかい」
婆は粥をひと口すすり、また顔をしかめた。
「昨夜、橋の下でね。あの馬鹿が、荷車の横からあたしを盗ったのさ。受け止め損ねて、艀の底に転がされたけどね」
*
南橋でリオの艀が闇へ消えたあと、兵の目はしばらく水路を追っていた。
橋を抜けてすぐ、荷揚げ石段の影で艀は一度だけ流れを殺した。
南橋の袂には、荷揚げ用の石段がある。石段は水面まで降りていて、影なら艀ひとつを隠せる。群衆に押され、婆を乗せた荷車は橋を渡り切ったところで、その脇に止まっていた。松明は水路を向き、兵は欄干の向こうを覗き込んでいる。
買い時を間違えるんじゃない。
橋の上で婆が叫んだ声が、リオの耳に残っていた。
買い時。
つまり、今だ。
荷台の横から縄が一本垂れていた。横板を留める縄だ。婆が中から、板のささくれに擦りつけて弱らせていた。
ただ喚くだけで済ませる婆ではない。
リオは櫂の先を伸ばし、垂れた縄を引っかけた。
引く。
荷台の横板が、ぎしりと外れた。
婆が襤褸ごと石段側へ落ちてくる。リオは受け止め、受け止め損ね、二人まとめて艀の底に転がった。
「年寄りを荷物みたいに盗るんじゃないよ」
「荷物の方が静かだ」
「次はせめて、干し草くらい敷いときな」
「次があると思うな」
*
「だから、礼は言わないよ」
婆は椀を持ち直す。
「あれは救出じゃない。回収さ」
リオは壁にもたれたまま言った。
「口封じだよ。婆は俺の商売を知りすぎてる。聖務院で洗いざらい歌われたら、こっちが干上がる。それだけだ」
「で、何を歌わされた」と親父。
「歌うもんかね。向こうの聞きたい節と、あたしの売りたい節は別なんだよ」
毒舌はいつも通りだ。
ただ、椀を持つ手が持ち上がらない。指が震え、縁から粥がこぼれる。ミロが黙って椀に手を添えた。
婆はそれを払わない。
一口すすって二口目の前に、少しだけ目を閉じる。
そのあいだだけ、商売人の顔が剥がれて、ただの婆さんの顔になった。
「……見世物じゃないよ」
目を開けると、もう値踏みの目に戻っている。
「聖務院ってのはね、爪も剥がさないのさ。寝かせないだけ。おかげで夢の続きが分からなくなっちまった」
「しかし、よく連れて帰れたもんだ」と親父が感心半分に言った。「皇太子の網の中からだぜ」
「荷車から落ちてきたのを拾っただけだ」
「拾う場所が怖えんだよ」
ふたりとも、助けたとも助かったとも言わなかった。
この路地では、その二つは値のつかない言葉だった。
*
布告を持ち込んだのは、対岸へ薪を運ぶ舟の爺さんだった。
「渡し場に貼ってあった。夜明け前には、もう新しいのに替わってたよ。剥がすのに難儀した。糊がいいやつでね」
「貼り紙ってのは、剥がすと罪になるのかね」
「もう剥がしちまったろ」
「だから聞いてるんだよ」
濡れて波打った紙が、樽の上に広げられる。
字の読める者は少ない。婆が筵から首を伸ばし、目を細めて読み上げた。質草の目録でも検めるような声だった。
「神器強奪。帝都放火。反逆。賊リオ・ヴェイルの首に、金貨千」
誰かが息を呑んだ。
「聖剣と併せて引き渡した者には、金貨三千。生死は、問わず」
「さんぜん」
親父が変な声を出した。
「おい屋根鼠、いま売れば大儲けだな。塩なんざ量ってる場合じゃねえや」
笑ったのは親父だけで、それも途中でしぼんだ。
リオは紙を覗き込み、口笛を吹く。
「昨日の札から、首は倍。剣込みは三倍。……王子サマ、ずいぶん俺を高く買ったな」
「皇太子の網を抜けたんだ」
婆が粥をすすった。
「安く置いといたら、帝国の顔が安くなる」
「俺の値段じゃなくて、帝国の顔かよ」
「そうさ。値札ってのは、品物だけに貼るもんじゃない」
「冗談にしてる場合か」
低い声がした。
壁際の男だった。火事のあとに渡ってきた組のひとりで、名はまだ誰も知らない。膝に小さいのを二人抱えている。
「匿えば同罪、密告すりゃ褒賞に恩赦、とも書いてあるんだろう。そこも読んでくれよ」
婆は読まなかった。
読まないことが、返事だった。
「なあ」
壁際の男は顔を上げた。
「差し出しちまえば、ここの全員が助かるんじゃねえのか。三千ありゃ冬が越せる。恩赦が出りゃ堂々と川も渡れる。あんたが剣なんか盗むから、路地は焼けたんだ」
倉庫が凍る。
粥の鍋だけが、間の抜けた音で煮えている。
女のひとりが、壁際の男の膝の子へ粥の椀を回した。男の顔は見ない。
水場の女は柄杓を握り直す。親父は何か言いかけて、やめた。
誰も男を殴らない。
同じ算盤が、誰の腹の中でも一度は鳴ったからだ。
リオは怒鳴らなかった。
笑った。
「……まあ、そうな」
指の節で紙を叩く。
「三千ありゃ、ここの七十……いや、増えたか。九十人が二冬は食える。悪くねえ値だ。俺が買い手でも買う」
「リオ兄!」
ミロが立ち上がっていた。壁際の男に掴みかかろうとして、水場の女に襟首を掴まれ、それでも喚く。
「なんで……なんでリオ兄まで値段の話してんだよ! リオ兄は物じゃねえだろ! 売りもんじゃねえだろ!」
声が割れて、最後は言葉にならなかった。ミロは水場の女の手を振りほどき、倉庫を飛び出していく。釣られてチビが泣き出した。
リオの手が宙で止まる。
追う形のまま、行き場をなくした。
壁際の男はもう何も言わず、二人の子を抱え直して下を向く。男の腹も減っているのだった。
剣を担いだ夜から、危ないのは自分の首だけだと思っていた。
違った。
値札ってのは、首にぶら下がるだけじゃない。匿う者の腹の中にも、密告を思いつく者の夢の中にも貼られていく。
俺は剣だけじゃなく、ここの連中の間にまで火種を持ち込んだのだ。
婆が、樽の上の布告をひらりと裏返した。
「売るなら高くお売り。止めやしないよ」
筵に沈みながら、付け足す。
「ただね坊や、密告の褒賞ってのは、あたしの知る限り満額払われた例がない。払う側が値段を決める商いなんてのは、そういうもんさ」
慰めでも説教でもなく、ただの相場の話だった。
だから誰も言い返せなかった。
柱に立てかけた油布の包みだけが、最後まで黙っていた。
*
同じ布告は、帝都の辻という辻に貼られていた。
皇太子アルトリウスは執務室の机でその写しを睨んでいた。末尾には自分の名がある。「皇太子の名において」と。印も捺してある。副璽だった。
「私は、生死を問わずとは命じていない」
「評定の決にございます」
老宰相は悪びれもしなかった。
「生け捕りの褒賞では、民は動きませぬ。手間の割に、危のうございますから」
「放火の咎も書いてある」
「布告が、そう申しております」
アルトリウスは宰相の顔を見た。皺の奥の目は、嘘をついている者の目ですらなかった。
布告に書かれたことが事実になる。
この老人は、その順番を疑ったことが一度もないのだ。
「焼くなと、私は命じた」
「御命令は評定の記録にございます。火の出どころは、布告にございます」
堂々巡りだった。
軍務卿が相手なら、まだ怒鳴りようがある。この老人には、怒りを置く場所が見つからない。
アルトリウスは写しを机に置く。
賊を野放しにできないのは分かっている。聖剣を担いだ男が街道をうろつけば、税を嫌う村も、徴兵を恨む辺境も、あれを旗にする。火のついた藁は、踏み消すほかない。
だが、と思う。
強奪犯。
放火犯。
反逆者。
帝国はあの男に、名前を鋳込もうとしている。本物の咎にいくつか嘘を混ぜ、誰にも担げない名前に仕立ててから、民の手で殺させる。
生死を、問わずに。
怪物にするなと命じたのは自分だった。
これはその命令から、いちばん遠い場所にあるやり方だった。
「……隊長」
控えていた近衛隊長に低く言う。
「貧民街の火の検分記録を持て。写しでいい。誰にも言うな」
近衛隊長は顎を引いた。
扉へ向かう前に、隊長がひとつ報告を置いていった。
布告から半日で、訴人が四件。どれも別人だった。うち一件は、賞金欲しさに隣人を縛り上げての連行だという。
布告は、もう働き始めている。
賊を捕らえるより先に、民と民の間で。
それでも布告を引き剥がせば、評定が割れる。
アルトリウスは写しを引き出しに仕舞いかけ、末尾の署名で手を止めた。
書いた覚えのない自分の名が、自分の字に、よく似ていた。
名前を盗まれているのは、どうやら賊だけではないらしい。
*
日が暮れて、リオは川べりでミロを見つけた。
石を投げては、届く前に沈むのを眺めている。隣に座っても、口をきかなかった。
リオは石をひとつ拾い、低く構えて投げる。三つ跳ねて沈んだ。ミロが横目でそれを見て、自分も真似る。ひとつも跳ねなかった。
「手首だ。腕じゃねえ」
「……うるせえ」
「帝都を出りゃ済むと思ってた」
リオは勝手に話した。
「検問は抜けられる。道は盗める。けどな、値札ってのは俺より足が速い。次の渡し場にも、その先の村の辻にも、先回りして貼ってある。どこへ逃げても、売り場ごと付いてくるんだ」
「……じゃあ、どうすんだよ」
ミロがやっと口を開いた。鼻声だった。
リオは懐から、折り畳んだ紙を出した。婆の枕元からくすねてきた、あの濡れて波打った布告だ。広げて、月明かりにかざす。
強奪犯。
放火犯。
反逆者。
賞金首。
どれも、帝国が勝手に貼った値札だった。
「……なるほどな」
リオは笑った。
「次に盗るもんが決まった」
「何を?」
ミロが聞く。
リオは、布告に書かれた自分の名を指で弾いた。
「名前だ」




