第五話 盗り返すもの
廃倉庫の朝は、洗濯紐から始まった。
崩れた梁と梁のあいだに紐が渡され、七十人ぶんの襤褸が干されている。欠けた鍋では豆が煮え、片頬に煤をつけた荷車の親父は、もう「避難価格だ」と塩を倍値で売ろうとしていた。
袖をまくった水場の女が、柄杓でその頭を殴った。
逃げても暮らしは続く。
続いてしまう。
その真ん中で、リオは言った。
「婆を、盗り返しに行く」
倉庫が静かになった。
最初に吐いたのは親父だった。
「七十人逃がした次の朝に帝都へ戻る馬鹿がいるかよ。あんたが捕まりゃ芋づるだ。ここも終わる」
「捕まらねえ」
「屋根鼠だった頃ならな」
水場の女が柄杓を置いた。
「今のあんたは帝都でいちばん高い首だ。あんたが居るだけでここは火薬庫なんだよ」
正論だった。
正論はいつも腹が立つ。
「……口封じだよ」
リオは目を逸らして言った。
「あの婆、俺のことを知りすぎてる。剣の売り先も段取りも。割られる前に取り返す。それだけだ」
「あんた」
女が呆れた。
「嘘が下手になったね」
奥の戸板の上で、長屋の老婆が咳をひとつした。焼け跡から担がれてきた婆さんだ。片腕を布で吊ったまま、掠れた声を出す。
「あの婆はね、あんたに貸しを作ったんじゃない。先払いをしたのさ。……先払いの取り立てを急ぐと、安く買い叩かれるよ」
商売人の理屈だった。この路地の年寄りは、みんな同じ言葉で喋る。
「盗り返すって言っただろ」
リオは包みの聖剣を担ぎ上げた。
「言ったからには値がつく。盗人の口約束は安くねえんだ」
「リオ兄」
ミロが前に立った。
「俺も行く。俺も盗む。婆さん、俺たちのために捕まったんだろ」
「子供は置いていく」
「なんでだよ!」
「足手まといだからだ」
ミロの顔が歪んだ。それから震える声で言った。
「……じゃあ、リオ兄は何なの。勇者じゃない、王様でもない、盗人だって言うけどさ。盗人なら、盗られたものは盗り返すんだろ。なら俺だって──婆さんを盗られた側だ」
刺さった。
リオは屈んで、小僧の額を指で弾いた。
「だから俺が行くんだよ。今日は盗らねえ。値段を見に行くだけだ。いいか、川は渡るな。噂だけ流せ。お前らの仕事はそれだ」
倉庫を出る間際、寝ているチビたちと、布に巻いた聖剣を見比べた。
この包みは火だ。置いていけば、見つかったとき全員に燃え移る。担いでいれば、燃えるのは俺だけで済む。
「……聖剣が邪魔だ。こんな目立つ盗品、持って逃げるもんじゃねえ」
置いていけば、いつもの体に戻れる。屋根を三枚跳んで、風みたいに消えられる。だが置いた剣は盗まれる。盗まれた剣は、いずれ誰かを焼く。
それに、担いだ夜から本当はわかっていた。こいつを持っている限り、俺はもうただの屋根鼠には戻れない。
リオは櫂と竿の束に剣を紛れ込ませ、油布で縛った。川人足の荷だ。
盗品は、荷物の顔をしているときがいちばん見つかりにくい。
*
同じ朝、帝都の城門楼でアルトリウスは台帳を閉じた。
「門の記録は揃えた。通行札は番号で照合せよ。偽札は紙の質では見抜けん。番号で殺せ」
近衛隊長が顎を引いた。
「賊は屋根を使う。ならば屋根を見る兵を置け。鐘楼、火の見、城壁。空を塞げ」
近衛隊長が復唱し、軍旗が掲げられる。レガリアの柄に手を置くと旗の紋章が淡く灯った。命令が声より速く区画から区画へ渡っていく。配置の穴が開けば隣の旗が瞬き、三十数える前に埋まる。
「それと全隊に徹底させよ。声を聞くな。旗を見ろ。呼子も悲鳴も囮だ。従うのは、殿下の旗のみ」
賊の手口は報告書で読んだ。視線を盗み、伝令を盗み、命令の隙間を抜ける。ならば隙間のない命令を作るまでだ。
「殿下」
軍務卿が進み出た。
「老婆を表へ出す件、よろしいか。賊は必ず婆を見に来ます。南橋を通し、見える場所を運ばせましょう」
老婆を餌にする。
一拍だけ迷って、アルトリウスは頷いた。
「許す。ただし傷つけるな。民を焼くなと命じた。だが、法を曲げるとは言っていない」
言い訳のような響きが、自分でも分かった。
*
聖務院の旧監察塔。その地下石室で、婆は朝飯の粥を検分していた。
「薄いねえ。帝国ってのは、客にこんな飯を出すのかい」
「客ではない。囚人だ」
情報官が言った。
「昨夜の話の続きを聞こう。賊は来るのか」
「来るよ」
婆はあっさり言った。
「ただし正面からは来ない。あの子はね、出口を盗む子じゃない。出口を見てる目ん玉のほうを、盗みに来るのさ」
情報官の筆が走る。婆は粥を啜り、それから扉の向こうの見張りにまで届く声で、わざとらしく付け足した。
「ああそうだ、忠告しといてやるよ。地下へ降りる東側の階段。あそこは使うんじゃないよ。段が腐ってて年寄りにゃ毒だ」
「……囚人が、警備の心配か」
「商売人はね、店の床が抜けるのがいちばん困るのさ」
情報官は眉をひそめ、東側の階段の警備を倍にするよう書きつけた。
婆は粥の椀の底を見つめて、歯のない口の中だけで笑った。
*
リオが帝都に入ったのは昼前だった。
櫂の束を担いだ川人足は、正門ではなく荷揚げ場から入る。そこでは顔ではなく荷を数える。人ではなく札を見る。
その荷札は本物だった。昨夜、酔った荷頭の腰から借りておいたものだ。
兵は札を見て、櫂の束を数え、リオの顔は見なかった。
止められたのは隣の列の男だ。通行札の番号を読み上げられ、台帳と突き合わされ、その場で縄を打たれた。偽札だ。リオの懐にも同じ出来の札が入っている。
番号で照合してやがる。
冷や汗が背中を伝った。札はもう死んだ。門は二度と使えない。
市壁の内側は変わっていた。
辻という辻に布告が貼られている。神器冒涜の賊。流言の罪。「勇者」「継承者」なる呼称の禁止。布告の前で、兵が老人をどやしつけていた。祭り唄の節で、何か替え歌を口ずさんだらしい。
そのすぐ裏の路地で、ガキどもが囁き合っている。
「盗人勇者ってのが、いるんだぜ」
「しっ。兵隊に聞かれたら、親が引っ張られるんだぞ」
「でも、ほんとに抜いたんだろ。みんな見たって」
禁止された言葉ほど、よく回る。布告の墨より噂のほうが速い。
壁の隅には炭の落書き。剣を担いだ鼠の絵だ。兵が水をかけて消した跡の隣に、もう新しいのが描いてあった。
勇者? そんなもん、帝国が勝手に禁止してろ。
リオは目深に笠を下げ、いつもの仕事にかかった。そして、いつもの仕事がことごとく死んでいることを知った。
呼子を吹いた。
誰も来ない。
兵は音のほうを一瞥もせず、旗だけを見ていた。盗んだ呼子は、ただの笛になっていた。兵は人間の耳を捨てて、旗の目だけで動いている。
物干しの布を落とした。穴は開いた。開いた穴は、三十数える前に隣区画から来た二人で埋まった。旗が瞬いただけだった。
屋根に上がろうとして、やめた。鐘楼に、火の見に、城壁に。屋根を見るためだけの兵が立っている。空が塞がれていた。
初めて、帝都が狭かった。
こいつが、王子サマの剣か。
兵がひとつの生き物みたいに動く。命令が血みたいに巡って、傷がすぐ塞がる。盗む隙間がない。
ただ、兵が塞げるのは道だけだ。
水はまだ流れる。飯もまだ運ばれる。火事のあとでも、桶を持つ女たちはどこかに残る。
リオは焼け残った共同水場へ回った。井戸端には、逃げ損ねた女たちが数人いた。誰も顔を上げない。洗濯板の音だけが、わざとらしく続いている。
そのうちのひとりが、濡れた布を絞りながら囁いた。
「婆さんの居場所なら飯が教えてくれたよ。今朝から、聖務院の旧監察塔へ運ぶ粥桶が一つ増えた」
「旧監察塔」
「ああ。地下牢つきで、兵糧を別口で運ぶ建物なんざ、あそこくらいだ」
「入口は」
「地下へ降りる階段が二つある。昼前から、東側だけ兵が倍になった。粥桶を運ぶ女が、二度も止められたってさ」
リオは笑った。
東側だけ兵が増えた。
あの婆が、何か売ったのだ。
あの婆が敵に親切を売るわけがない。売るなら、相手に買わせたうえで、こっちにも値がつくように売る。
階段の話じゃない。
あたしは地下にいる。正気で、まだ店を開けてる。慌てて買いに来るんじゃないよ、と。
「もうひとつ、頼まれてくれ」
リオは銅貨を女の桶に落とした。
「噂を流せ。『夜明け前、南橋の袂で喜捨が出る』。出所は教会。それだけでいい」
奉覧祭の翌日は、余った供物が教会から下げ渡されることがある。まして昨日、神官が「奇跡」と叫んだばかりだ。
教会が失言の詫びに喜捨を出す。
そういう噂なら、腹を空かせた連中は疑うより先に走る。
*
夜。老婆を乗せた荷車が南運河の石橋を渡った。
わざとらしいほどゆっくりと。松明は明るく、護衛は少なく見せかけて、屋根筋に弓兵の影。
招待状か。ご丁寧なこった。
リオは橋桁の梁にへばりつき、頭上を行く車輪の音を聞いていた。荷台から、しわがれた喚き声が降ってくる。
「離しなったら! あたしはまだ売り場にいるんだよ! 買い時を間違えるんじゃない、って言ってんだ、この唐変木!」
「黙れ、婆」
兵はうんざりした声で言い、荷車は橋を渡り切った。
伝わった。まだ売る気だ。なら、今夜は盗らない。
あとは消えるだけだ。来た道とは別の水路を、頭の中でなぞる。
そこまで読まれていた。
荷車は餌じゃない。網だった。道筋に沿って伏せられた「見る目」が、橋桁に張りついた影をとうに数え終えていたのだ。
リオが梁から滑り降り、舫った艀に足をかけた。その瞬間だった。
両岸で一斉に紋章が灯った。
橋の袂、係留杭、対岸の倉の軒。掲げられた小旗が次々に光を渡し、靴音が波みたいに運河へ寄せてくる。水の上にも、鉤竿を構えた小舟が二艘。
逃げ道が音もなく閉じていく。
リオは数えた。水上に二艘。両岸に旗。屋根筋に弓。抜け道──ゼロ。
数えてゼロになったのは、生まれて初めてだった。
「そこの艀の男」
橋の上から声が落ちてきた。
「顔を上げろ。屋根鼠」
リオは、ゆっくりと顔を上げた。
欄干に皇太子が立っていた。礼服ではなく軍装で。腰の帝剣の柄が、旗と同じ色に淡く灯っている。
「王子サマ直々のお出ましかよ。二度目だな」
「聖剣を返せ。あれは帝国のものだ」
「だったら」
リオは櫂の束を担ぎ直した。
「なんで、俺が抜けたんだよ」
橋の上の影が揺れた。沈黙が水音より長く続いた。
「……あの剣を持つ限り、お前はただの盗人ではいられない」
「生憎、盗人以外になった覚えはねえな」
「殺す気はない。逃がす気もない」
リオは笑った。それから、ずっと懐に仕舞っていたものを出した。
「なあ、王子サマ。祭壇でよ。あんた、俺に踏み込みながら、聖剣の柄に手ぇかけたろ」
橋の下で水が鳴った。
「動かなかったよな。指一本ぶんも」
アルトリウスの手が帝剣の柄にかかる。
旗の光が一瞬だけ揺れた。
「俺は盗人だ。隠したもんは、見えるんだよ」
一拍、置いて。
「あんた、俺が聖剣を盗んで、少しホッとしただろ」
違う。
その一言が出てこなかった。
帝剣レガリアが抜かれた。
帝国の刃は、今夜も素直に鞘を離れた。
素直に抜けて──振り下ろす先がなかった。
「……お前は」
アルトリウスの声は、怒鳴り声よりも低かった。
「世界が欲しいと、言ったな。あの祭壇で。だが見ろ。お前が手にしたのは、盗んだ剣と、逃げ場所を失った者たちだけだ」
今度は、リオが黙る番だった。
廃倉庫の洗濯紐。煮える豆。咳。避難価格の塩。
肩の包みが、油布の下でかすかに熱い。
「なら」
リオは言った。
「それが、俺の世界だ」
そのとき、橋の袂で歓声が弾けた。
「喜捨だ!」「南橋で施しが出るぞ!」「教会様の喜捨だ!」
闇の中から人が湧いた。襤褸をまとった群れが、橋へ、岸へ、なだれを打って押し寄せる。封鎖の旗と旗のあいだに、空腹が割り込んでいく。
「民に手を出すな! 押し返すな、退かせるだけにしろ!」
アルトリウスの命令が、自分の首を絞めた。焼くなと命じた壁が、いま、群衆の壁になって賊を隠していく。
リオは舫い綱を切った。艀が音もなく闇へ滑り出す。
「リオ・ヴェイル!」
橋の上から声が追ってきた。
「私は、お前を勇者にはしない!」
勝手に決めろ、とリオは思った。俺は俺で、盗るものを決める。
艀は橋の灯りの届かない水路へ消えた。
*
「逃げられた、かい」
地下の石室で、報告を又聞きした婆は、さも残念そうに言って、それから堪えきれずに笑い出した。
「何がおかしい」と見張りの兵。
「いやなに、商売の話さ」
婆は薄い粥の最後の一口を、大事そうに飲み干した。
「……高く売れそうな話だねえ」




