第四話 火種は灰に
火は、命令より早く走った。
夜明け前の帝都に鐘が鳴った。
祭りの鐘ではない。勝利の鐘でもない。火事を知らせる低く濁った鐘だ。眠っていた貴族街の窓が開き、商館の番人が屋根へ登り、教会の神官たちが寝間着のまま聖印を切った。
帝都の東に赤い柱が立っていた。
貧民街だった。
*
アルトリウスが報を受けたのは、まだ宮廷会議の余熱が残っている刻限だった。
燭台の蝋は半分まで溶け、卓上の地図には貧民街の封鎖線が赤い紐で示されたままだった。母后は去り、老宰相も軍務卿もようやく席を立ったばかりだった。
「火災にございます」
伝令は膝をついたまま、息を切らしていた。
「東貧民街、染物屋筋より出火。現在、南東へ延焼中。現場指揮官より、封鎖維持のため増援要請が出ております」
アルトリウスはしばらく返事をしなかった。
火災。
便利な言葉だ。
誰が火をつけたかをまだ言わなくていい言葉だ。
アルトリウスは地図の端に落ちた蝋を親指で拭った。
熱い。
だが、指を引くのが少し遅れた。
「私は、民を焼くなと命じた」
伝令の肩が、ぴくりと震えた。
「……現場からは、強奪犯一味による逃走時の放火との報告が」
「誰の報告だ」
「東区封鎖隊、副指揮官ガレオス卿の名で」
軍務卿の部下だ。
アルトリウスは卓上の地図に目を落とした。井戸。木戸。染物屋筋。暗渠。逃げた住人。拘束された老婆。
そして、火。
火種は、灰にしてしまえば火種ではなくなる。
つい先ほど、軍務卿はそう言った。あれは意見ではなかったのだ。すでに、現場へ流していた方針だったのかもしれない。
「馬を用意しろ」
近侍が息を呑んだ。
「殿下、自ら現場へ?」
「私の名で動いた兵が、私の命令に背いたかを見に行く」
「危険です。聖剣強奪犯が潜伏している可能性が」
「ならばなおさらだ」
アルトリウスは腰の帝剣を取った。
「帝国の剣が、帝国の火から逃げるわけにはいかない」
*
貧民街は、燃えるとよく燃えた。
木と布と油と、何十年も乾ききった貧しさでできた街だ。火は屋根から屋根へ跳び、狭い路地を風が煽り、吊るされた洗濯物が一息で黒く縮んだ。
井戸は押さえられていた。
だから、人々は火を消せなかった。
水を求めて走った女が槍で押し戻され、桶を持った老人が転び、子供が泣いた。兵は叫んでいた。近づくな。封鎖線を越えるな。火元は危険だ。強奪犯が潜んでいる。
封鎖は、火消しのためではない。
燃えるものが、外へ逃げないための囲いだった。
*
旧河岸の倉庫にも、煙は届いた。
はじめは、誰かが濡れ薪でも焚いたのかと思う程度だった。だが川風が変わった瞬間、藍と煤と焼けた布の匂いが一度に流れ込んできた。
ミロが先に気づいた。
「リオ兄」
リオは倉庫の割れ窓から外を見た。
帝都の空が、赤い。
昨日まで自分の庭だった屋根の並びが、遠くで火に縁取られていた。どの煙が水場で、どの火が染物屋で、どの黒い影が長屋なのか分かってしまう。足の裏が覚えている道がひとつずつ消えていく。
逃げてきた連中が倉庫の外へ出た。
誰も声を出さなかった。
泣くには、遠すぎた。怒鳴るには、近すぎた。
「……あそこ、俺の箱」
チビが言った。
宝物の木箱。
置いてきたものだ。
リオは口を開きかけて、閉じた。後で盗り返してやる、と言った。命より重い宝はない、と言った。どちらも嘘ではなかった。
だが、燃えたものは盗り返せない。
ミロが拳を握っていた。
「リオ兄。帝国がやったの?」
リオは答えなかった。
聖剣は壁に立てかけてある。薄布を巻いても、夜明けの闇の中で白く浮いている。あれを盗んだ。だから、火が来た。
その考えをリオはすぐに噛み殺した。
違う。
火をつけたのは俺じゃない。
火をつける理由を、欲しがっていた連中がいるだけだ。
「燃やしたのは、帝国だ」
リオは言った。
声は低かった。だが倉庫の中にいた全員に届いた。
「俺のせいにする気だろうけどな」
*
夜明けの東貧民街は、地獄より整っていた。
アルトリウスが到着したとき、火はまだ生きていた。燃え尽きた家々の向こうで、残った梁が赤く光り、風が吹くたび火の粉が舞い上がる。兵たちは濡れ布を口に巻き、槍の列で人を押し戻していた。
消火隊は、封鎖線の外。
水桶を抱えた男が、何度も足を踏み替えていた。桶の中の水だけが急かすように揺れている。
「なぜ通さない」
アルトリウスが問うと、現場の副指揮官ガレオスは膝をついた。
「殿下。強奪犯一味の潜伏および再逃走を防ぐためです。火元周辺は危険であり、無秩序な出入りは」
「火を消す者を止めて、何を守っている」
「封鎖線にございます」
「守るべきは民だ」
ガレオスは顔を上げなかった。
「殿下の御命令は、強奪犯を生かして捕らえ、聖剣を取り戻すことと承っております。そのためには封鎖線の維持が不可欠にございます」
言葉は丁寧だった。
だが意味は違った。
あなたの命令は、こう解釈できます。
そう言っている。
その背後で、消火隊の女が桶を持ち直した。縁から水がこぼれ、灰の上で音もなく消えた。
アルトリウスは焼け跡を見た。崩れた屋根。半分炭になった荷車。藍の染みが残る石畳。誰かが置いていった木箱の黒い残骸。
帝都の汚点。
反逆の旗。
火種。
灰。
どれも、人を燃やす前に用意された言葉だった。
「封鎖線を下げろ。消火隊を入れろ」
「ですが」
「二度は言わない」
ガレオスの喉が動いた。
そこへ、軍務卿が到着した。
重い外套を翻し、煤ひとつつけずに馬から降りる。火の匂いの中でも、その男だけが宮廷の廊下から切り出したように整っていた。
「殿下。現場の士気を乱してはなりませぬ」
「士気ではない。命令違反だ」
「火をつけたのは強奪犯一味です」
「見た者がいるのか」
「密告がありました。強奪犯の一味が染物屋裏を使って逃走した、と」
「それは暗渠の話だ。火の話ではない」
軍務卿は、わずかに目を細めた。
「では、偶然に火が出たと?」
「火は命令より早く走る。だが、命令より先に準備されることもある」
周囲の兵が、息を殺した。
軍務卿は一礼した。
「殿下は、お疲れでございます。聖剣の喪失、使節対応、民の不安。すべてを御一身に背負われている。だからこそ、現場の汚れ仕事は我らにお任せを」
「汚れ仕事という名で、民を焼くな」
「民であれば、でございます」
アルトリウスの手が、帝剣の柄に触れた。
軍務卿は、それでも声を変えなかった。
「名簿に従わず、税に従わず、強奪犯を匿い、逃がし、聖剣に選ばれたなどと囃し立てる。殿下。帝国は、従う者を守るためにあります。従わぬ者まで同じく守れば、従う者が馬鹿を見る」
「それが帝国の正義か」
「帝国の維持でございます」
背後で、水桶がひとつ倒れた。
誰も拾いに行けない。こぼれた水は灰に吸われ、黒い筋になって消えた。
維持。
アルトリウスは、その言葉を知っていた。
何かを守るために、何かを捨てるときに使われる言葉だ。責任者の顔を、火の煙で隠すための言葉だ。
「消火隊を入れろ」
アルトリウスは言った。
軍務卿が動かない。
「入れろ」
今度は近衛が動いた。
皇太子直属の近衛が封鎖線を開き、消火隊が駆け込む。水桶が渡され、焼け残った壁に水がかけられる。だが遅かった。救えたのは、灰にならずに残った縁だけだった。
ガレオスが小さく言った。
「殿下。御慈悲は、噂になります」
「構わない」
「強奪犯を勇者にするな、との御命令では」
アルトリウスは、ガレオスを見下ろした。
「そのために、民を焼いていい理由にはならない」
誰も答えなかった。
*
そのころ、帝都ではもう別の話が歩き始めていた。
貧民街を焼いたのは、聖剣強奪犯リオ。
逃走のため、己の塒に火を放った。
住人を脅して連れ去った。
老婆を口封じに使い捨てた。
噂は、兵より足が速い。
夜明けの市場では魚売りがもうその話をしていた。聖剣を盗んだ男は、炎も操るらしい。いや、聖剣が火を呼んだのだ。いやいや、貧民街の者どもが帝都を焼こうとしたのだ。
誰も、燃えた家の場所など知らない。
誰も、井戸を押さえられていたことなど知らない。
ただ分かりやすい悪人だけが、朝の売り物になっていた。
*
その噂を旧河岸の倉庫へ持ち込んだのは、荷車の親父だった。
夜明けの闇に紛れて、また帝都の外縁を回ってきたらしい。顔は煤で汚れ、いつもの軽口も半分しか残っていなかった。
「やってくれるぜ、帝国サマは」
親父は床に座り込むなり、吐き捨てた。
「お前が火をつけたことになってる。聖剣で燃やしたとか、住人を盾にしたとか、まあ、盛る盛る」
「値段は?」
リオが聞いた。
「何の」
「俺の首」
「……金貨五百。聖剣込みなら千」
「安いな」
「上がるさ。あんた、生きてるだけで相場が動く男になった」
親父は乾いた笑いを漏らした。それから、懐から一枚の紙を出した。
湿って、端が焦げた布告だった。
強奪犯リオ。
聖剣奪取。
貧民街放火。
住人扇動。
帝国反逆。
罪名が、ずらりと並んでいた。どれも立派で、どれも高そうだった。自分ではとても盗れない肩書きばかりだ。
その下に、小さな文字があった。
「拘束した故買屋の老婆は、聖務院にて尋問ののち、公開裁可に付す」
リオの目が、そこで止まった。
「聖務院?」
ミロが聞いた。
親父が顔をしかめる。
「神官と役人の巣だよ。表向きは聖物の管理と審理。実際は、都合の悪い話を神サマの名前で黙らせる場所だ」
「公開裁可って何」
「見せしめだ」
リオは布告を折った。
折り目が、老婆の一文に重なった。
「いつだ」
「明日の正午。中央広場」
「早いな」
「早く殺したいんだろ。婆さんは、知りすぎてる」
その言葉は、リオが自分に言い聞かせていた理由と同じだった。
口封じのため。
知りすぎているから、取り返す。
それだけだ。
そういうことに、しておきたい。
*
アルトリウスが聖務院へ着いたのは、陽が昇りきる前だった。
聖務院は、帝都中央神殿の北棟にある。白い石でできた建物だ。窓は細く、扉は厚い。外から見れば祈りの場所に見えるが、中へ入れば帳簿と鎖の匂いがする。
拘束された老婆は、地下の小部屋にいた。
椅子に縛られてはいなかった。だが部屋の外に兵が二人、内側に神官が一人。逃げられる作りではない。
老婆は出された水に手もつけず、椅子に座っていた。歯のない口元にいつもの笑いを浮かべている。
「皇太子殿下が、わざわざ年寄りを見物かい」
「名を」
「名乗るほどの値はないね。みんな婆で足りてる」
「聖剣を抜いた男はどこだ」
「さあね。屋根鼠の巣なんざ、猫に聞いた方が早いよ」
神官が眉をひそめる。
「殿下。この者は非協力的です。聖剣の行方、強奪犯の意図、逃亡先。いずれも黙秘しております」
「拷問は」
「まだです」
まだ。
その一語に、アルトリウスは目を閉じた。
「するな」
神官は一瞬、返事をしなかった。
「しかし、聖剣の所在が」
「するなと言った」
老婆が、ひひ、と笑った。
「若いのに苦労するねえ、殿下」
「笑う状況ではない」
「笑えるうちは、値がつくんだよ」
老婆はアルトリウスを見た。
濁った目だった。だが、弱くはなかった。
「あんた、あの子をどうする気だい」
「聖剣を返させる」
「返したら?」
「罪は問う」
「それで、祭りの台に飾るのかい」
アルトリウスは答えなかった。
老婆は笑った。
「そうかい。そりゃ難しい商いだ。あの子はね、勇者になんかなりたかないんだよ。だから余計に、周りがそう呼びたがる」
「私は呼ばせない」
「呼ばせない、か」
老婆は、薄い肩を揺らした。
「帝国は、あんたの言うことをよく聞くのかい」
言葉は小さかった。
だが、焼け跡の煙より痛かった。
*
その日の昼前、帝都の掲示板に新しい布告が貼られた。
聖剣強奪犯リオは、貧民街に火を放ち、多数の住人を連れ去った反逆者である。
故買屋の老婆は、その協力者として拘束された。
明日正午、中央広場にて公開裁可を行う。
聖剣を返還し、自首する者には、皇太子殿下の慈悲により、寛大な裁きを与える。
布告の最後にアルトリウスの名があった。
彼は、その文面を許可していない。
だが民はそんなことを知らない。
*
夕方の旧河岸の倉庫には、拾ってきた鍋が三つ並んだ。
豆を煮る匂いがした。焦げた街の匂いをごまかすには、弱すぎる匂いだった。
子供たちは疲れて眠っていた。女たちは黙って布を裂き、怪我人の手当てをしている。親父は値段をつける元気もなく、焦げたパンを配っていた。
リオはひとり倉庫の外で布告を広げていた。
聖剣は背中にある。
火の匂いはまだ消えない。
ミロが隣に来た。
「行くの?」
「どこへ」
「婆さんのとこ」
「行かねえよ」
リオは即答した。
「帝都のど真ん中だぞ。中央広場。兵も神官も貴族も集まる。罠に決まってる」
「うん」
「俺が出ていけば、全員終わりだ。聖剣も取り返される。ここにいる連中も見つかる」
「うん」
「だから行かねえ」
「うん」
ミロは頷いた。
頷いたまま、リオを見ていた。
「……何だよ」
「リオ兄、嘘つくとき、早口になる」
リオは布告を握り潰した。
紙の上でアルトリウスの名が歪んだ。
皇太子。
聖剣を抜けなかった男。
それなのに布告の最後に名を使われる男。
帝国は、リオから路地を奪った。
婆を奪った。
今度は皇太子の名まで使って、リオを悪人に仕立てる。
盗人から盗むとは、いい度胸だ。
リオは笑った。
笑えたことに自分で少し驚いた。
「ミロ」
「なに」
「寝とけ。明日は忙しい」
「やっぱり行くんじゃん」
「行かねえって言ったろ」
「うん。知ってる」
ミロは笑った。
リオは潰した布告を懐に入れた。
逃げ道は盗った。
今度は、奪われたものを盗り返す番だ。




