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第三話 逃げ道を盗む

 階下で、槍の石突きが二度目に扉を叩いた。


「開けろ! 帝国軍である!」


 屋根裏の空気が固まった。


 ガキどもが息を呑む音さえ、大きく聞こえる。リオは唇に指を立て、天井板の節穴に目を寄せた。


 背後では、外套に包んだ聖剣がはりの陰でやけに白く浮いていた。灯りを消しても、布をかぶせても、そこにあると分かる。盗人の隠れ家に、これほど隠しにくい盗品はない。


 落ち着け。数えろ。


 石突きの音はふたつ。扉の前に二人。裏手へ回った靴音がひとり。多くはない。この染物屋は「ついで」だ。本命の足音は、もっと奥。井戸のほうで鳴っている。


 割れた天窓から、暮れた路地が見えた。


 井戸広場に、篝火かがりび。槍の穂先が火を照り返して、林みたいに立っている。出口の木戸じゃない。連中はまず、井戸を押さえた。


 分かってやがる。


 路地は迷路だ。家探しをすれば夜が明ける。だが水は一箇所しかない。井戸を握れば、住人のほうから兵の前へ並びに来る。探す手間を、こっちに払わせる仕組みだ。


 広場から、役人の声がした。


「次。東棟、織子のハンナ。前へ。……次。荷運びのコルト。おらぬのか。答えぬ家は、戸を破れ」


 名簿だ。名前をひとつ読み上げるたび、どこかの戸が軋む。


 リオは奥歯を噛んで、笑った。


「ミロ。床板」


 囁いて、二枚目の床板を外す。隣家の梁へ渡る、十年もののけもの道だ。ガキどもを先に送り込む。いちばんチビが、宝物の木箱へ手を伸ばした。


「置いてけ」


「でも」


「命より重い宝はねえよ。……後で、盗り返してやる」


 チビは箱を置いた。置いた手が、しばらく離れなかった。


 最後にリオが梁へ移った、その背中で階下の扉が破られる音がした。土足が階段を駆け上がり、屋根裏を検め、毛布を蹴り散らす。


ねぐらだ! ついさっきまでいたぞ!」


 ああ、いたとも。


 リオは隣家の屋根の上で、声を出さずに笑った。


 兵ってのは、探し終えた場所を二度は探さない。あの染物屋は、たった今、この区画でいちばん安全な穴になった。


     *


 屋根の上からは、封鎖の全部が見えた。


 篝火の列が、路地の出口という出口を縫っている。伝令の兵が、井戸広場と各木戸のあいだを決まった筋で行き来する。広場の中央、ひときわ大きな篝火の脇で、隊長格が顎をしゃくるたび槍の列が動いた。


 ミロが横で囁いた。


「リオ兄、出口、全部ふさがれてる」


「ああ。きれいなもんだ」


「……逃げられないの」


「逃げ道はな、逃げる奴だけが持ってるもんじゃねえ」


 リオは篝火の列を、端から端まで値踏みするように眺めた。


「兵隊にも逃げ道はある。命令、伝令、井戸、名簿。連中はそれに繋がれて動いてる。そこを盗れば、迷子になるのは連中のほうだ」


 出口をこじ開けるんじゃない。


 連中が頼っている道を、こっちの逃げ道に変える。


     *


 故買屋こばいやの裏は、質草の山だった。


 欠けた燭台。紐の切れた靴。誰かの形見らしい指輪。値の付かなかった人生の欠片に埋もれて、顔ぶれが揃っていた。


 封鎖の夜、路地の連中が最初に逃げ込む場所は決まっている。教会ではない。役所でもない。故買屋の裏だ。金にならない人生の端切れを、ここだけは一応、預かってくれる。


 戸板ごと運ばれてきた長屋の婆さん。荷車の親父。水場の女がふたり。そして店の主、歯のない故買屋の婆。


「で?」


 荷車の親父が先に噛みついた。


「荷車は俺の店だぞ。潰されたら誰が弁償してくれる」


「その荷車に積んでるカビパンなんざ、兵隊だって盗らないよ」


 水場の女が返す。


「うるせえ、祭り価格だ」


「今は戦時価格だろ」


「だったら三倍だな」


「お黙り」


 故買屋の婆が、煙管きせるで床を叩いた。それからリオを見る。


「……それで、屋根鼠。あんた、何を盗む気だい」


「連中の段取りだ」


 リオは床に炭で線を引いた。井戸。木戸。篝火。伝令の筋。


「今夜やるのは戦じゃねえ。盗みだ。盗るのは三つ。兵の目、兵の耳、それから名簿」


 水場の女の顔が強張った。読み上げられる名前。答えなかった家。破られた戸。


「全員は連れて出ねえ」


 リオは、先に言った。


 部屋の空気が少しだけ硬くなる。


「名簿の上で綺麗なやつは、並んで名乗れ。それも立派な逃げ道だ。連れて出るのは、親なしのガキ。名簿に載ってねえ流れ者。施療所の、動かせる病人。それと、俺の顔を知ってる間抜けども」


「なんで親なしからなんだよ」


 部屋の隅で、誰かが言った。


「うちの子はどうなる。名簿に載ってたら置いてけってのか」


「置いてけるならな」


 リオは即答した。


「名簿に載ってて、家もあって、今日だけ頭を下げりゃ済むやつは、まずそれをやれ。逃げるってのは、一番最後の札だ。先に切ると、戻る場所がなくなる」


「じゃあ、お前を差し出せば済む話じゃないのか」


 別の男が、ぼそりと言った。


 部屋の空気が、一瞬で冷えた。


 リオは笑った。


「売るなら今じゃねえ。聖剣込みで、もっと高く売れ」


「冗談に聞こえないね」と水場の女が言う。


「冗談で済むうちは、まだ安い」


 故買屋の婆が煙を吐いた。


「続けな、屋根鼠」


「あたしらは?」


 水場の女が鼻を鳴らした。


「兵の目を盗る。井戸で揉めろ。できるだけ派手に」


「得意だよ」


「俺も盗む」


 ミロが手を挙げた。


「俺、足速いし」


「お前は呼子だ。北の屋根で吹いて、吹いたら走れ。振り向くな」


「振り向かなかったら、どこ走ればいいの」


「前だ」


「そりゃそうだ」


 荷車の親父が「俺は?」と口を挟む。


「お前は喋れ」


「得意だ」


「知ってる。だから黙らなくていい。検問で、祭りの愚痴を吐き続けろ」


「祭り価格の説明もしていいか」


「兵が寝るまでならな」


 長屋の婆さんが、咳の合間にかすれた声を出した。


「……染物屋の洗い場の下。あたしが嫁に来たころは、まだ川と繋がってたんだ。暗渠あんきょだよ。五十年前に格子を嵌められたけど」


「その格子なら」


 故買屋の婆が煙を吐いた。


「昔、鍵がうちを通ったね。抜け荷屋の道具だ。南側の三本には、とうにのこが入ってるよ」


「婆さんは?」


 ミロが聞いた。


 故買屋の婆は、煙管を咥え直した。


「あたしの足じゃ、走れば邪魔になる。店番でもさせておきな」


 リオは、一瞬だけ婆を見た。


「……まだ役は振ってねえ」


「振られなくても、余った役くらい拾えるさ」


 リオは口の端を上げた。


「ありがてえ。……言っとくが、助けるんじゃねえぞ。俺の路地を、勝手に漁らせねえだけだ」


「はいはい」


 婆は、歯のない口で笑った。


 部屋の隅で、男がひとりそわそわと腰を浮かせた。兵に煙草を恵んでもらうので名の知れた男だ。リオはそいつに届く声で、わざと言った。


「段取りは決まりだ。次の鐘で、北の木戸を破る。全員一斉にだ」


 男は、かわやだと言って出ていった。


「いいのかい」と親父。


「あいつには何も渡さねえ」


 リオは炭を折った。


「ただし嘘だけは、たっぷり持たせてやる」


     *


 夜が、動き出した。


 最初に動いたのは、密告だった。北の木戸、次の鐘、一斉突破。男の早口を、伍長が隊長のもとへ走らせる。


 それは、リオが持たせた嘘だった。


 だが男は、余計なものまで売っていた。


「それと、染物屋の裏に、古い水道があるらしい」


 その一言は、嘘ではなかった。


 ほどなく、北の闇で呼子が鳴いた。短く、三度。場所を変えて、また三度。


 兵は、音だけなら疑う。密告だけでも疑う。だが、ふたつが重なれば信じる。


 井戸広場の篝火が割れた。槍の列の三分の一が、靴音を揃えて北へ流れていく。


 兵だけではない。伝令の足も、そちらへ曲がった。


 井戸広場と南の検問を結ぶ命令の筋が、一拍だけ細くなる。


 リオは、その一拍を待っていた。


 ただし、隊長格だけは北へ動かなかった。


 密告と呼子が揃いすぎている、とでも思ったのか。その男の目は、北ではなく染物屋の並びを見ていた。


 やるな。


 屋根の上で、リオは舌を鳴らした。


 井戸端では、水場の女たちが取っ組み合いを始めていた。順番がどうした、桶がどうした。髪を掴み、水を浴びせ、見事な啖呵たんかが飛び交う。兵は槍を出せない。貧民街で女の喧嘩に槍を向ければ、それこそ暴動の火種になる。素手で引き剥がしにかかった兵の足元で、藍甕あいがめの汁をたっぷり張った桶が「転んだ」。


 帳場の机が、藍に沈んだ。


「な、名簿が!」


 役人の悲鳴。一冊は表紙まで藍に染まり、文字ごと溶けた。役人はもう一冊を胸に抱え、護衛に囲まれて広場の外へ退いていく。


 半分か。


 屋根の上で、リオは舌打ちした。盗みってのは、いつもそうだ。全部は、まず盗れない。


 南の検問では、親父の荷車が止められていた。荷台には祭りののぼりと、空の染料樽。樽の陰には戸板ごと乗せた長屋の婆さんと、施療所の病人がふたり、チビが三人。


「札を」


「ほらよ、神殿の片付け人足だ。祭りのあとってのは、なんだって俺らに回ってくる。神官サマは手も汚さねえでよ」


 親父の愚痴が、わざとらしく長い。兵の手が幌にかかる。幌の下で、婆さんの咳がこみ上げて。


 北で、また呼子が鳴いた。


 兵の顎が一瞬そちらを向く。咳は、親父の怒鳴り声に呑まれた。


「……行け。次!」


 荷車が、軋みながら検問を抜けていった。


 そして暗渠の口には、二十人ばかりが息を潜めて並んでいた。染物屋は、もう誰も探さない。洗い場の床下、錆びた格子。南側の三本を外せば、人ひとりが通れる。


 呼子を吹き終えたミロが、屋根伝いに滑り込んでくる。列が、ひとりずつ地の下へ消えていく。その途中だった。


 別の角から、もうひと組が現れた。


 伍長がひとり、兵がふたり。


 今度は近すぎる。格子はまだ開いたままだ。隠す時間がない。


 さらに、井戸広場に残っていた隊長格の視線が、染物屋の裏へ向いている。


 あの密告男が売った余計な一言が、ここで効いていた。


 リオの手が、柄にかかった。


 三人なら。


 その算盤そろばんを、しわがれた声が叩き割った。


「兵隊さん」


 故買屋の婆だった。店の軒先からひょこりと出て、伍長の前に立ち塞がる。


「屋根鼠の話、買わないかい。あの男なら、とっくに川向こうさ。渡し守に金を握らせるのを、この目で見たんだよ」


「……婆。貴様、強奪犯の故買と通じておるという話だが」


「おやおや。商売人を捕まえて、人聞きの悪い」


 婆は笑いながら、わざと大きな足音で店のほうへ兵を引いていく。暗渠から、一歩ずつ遠くへ。


 それでも、隊長格の目は完全には外れなかった。


 婆は煙管を懐から取り出し、わざと落とした。火皿からこぼれた灰が、染料の残った濡れ床に落ち、青黒い煙がふわりと立つ。


「おっと。年寄りは手元が悪くてね」


 兵の一人が咳き込み、松明たいまつをそちらへ向けた。視線が、ようやく暗渠から切れた。


 伍長が顎をしゃくった。兵が、婆の両腕を取る。


「詳しく聞かせてもらおう。連行しろ」


 引き立てられながら、婆は一度だけ、暗渠のある闇へ向かって歯のない口で笑ってみせた。


「盗られたもんは、盗り返す。商いの基本さね」


 リオは、動かなかった。


 動けば、二十人が死ぬ。分かっているのに、柄にかけた指の震えが止まらなかった。


 逃げ道は盗った。


 だが、全員ぶんではなかった。


 婆は知っている。リオの算段を。剣をばらして金に変える段取りも、帝国に買い戻させる筋書きも、ぜんぶだ。


 それでも婆は、北でも川向こうでもなく、嘘だけを売って連れていかれた。


     *


 同じ夜。


 宮廷の燭台は、嫌になるほど明るかった。


 奉覧祭ほうらんさいの責任者として、追捕ついほの初動はアルトリウスの名で動いている。皇帝は六カ国使節への対応に追われ、現場の判断は皇太子へ預けられていた。


「封鎖区画より、住人多数の脱走。名簿一冊を損失。強奪犯の故買と目される老婆を一名、拘束。剣は、未発見にございます」


 報告が読み上げられるなり、老宰相の杖が床を打った。


「殿下。貧民街は、これまでも帝都の汚点でございました。だが今や、ただの汚点では済みませぬ」


 老宰相の声は低かった。


「聖剣に選ばれた盗人。その名を隠し、逃がし、はやし立てる者どもがいる。放置すれば、あの区画そのものが反逆の旗になります」


「噂は今夜のうちに潰すべきです」


 将のひとりが続いた。


「貧民街の者どもは、もとより名簿にも税にも従わぬ連中。ここで甘く見せれば、帝都の他区画にも反乱の火が移ります」


 軍務卿が地図の貧民街区画を指で叩いた。


「火種は、灰にしてしまえば火種ではなくなります。区画ごとあぶり出せます。水場は押さえました。逃げた者も、戻る場所を失えば散ります」


 母后は、何も言わなかった。


 ただ、息子を見ていた。その沈黙が、誰の言葉よりも重く答えを促していた。


 六カ国の使節は、まだ帝都にいる。割れかけた帝国の継ぎ目を、値踏みする目で。


 アルトリウスは、目を閉じた。


 瞼の裏に、祭壇の光景が残っている。あの盗人は、矢が子供へ向かわぬ位置へ、半歩、体をずらした。


 怪物のやることでは、ない。


「……生かして捕らえろ」


 声は、震えていなかった。


「聖剣は取り戻す。だが、民を焼くな。帝国が守るべきものを、帝国の手で減らすな」


 宰相が何か言いかけ、母后の視線に呑まれて口を閉じた。


 あの男を、勇者にしてはならない。


 だが、怪物にするのも違う。


 アルトリウスは、腰の帝剣に手を置いた。


 帝国の剣は、今夜も素直に手に馴染んだ。


     *


 川風は、煙と藍の匂いがした。


 旧河岸の崩れた倉庫に、七十に足りない人影が身を寄せていた。親父が荷車の上から、質草でもあらためるみたいに頭数を数えている。長屋の婆さんの咳が、川音に混じって聞こえた。生きている咳だ。


 ミロが、隣に座った。


「リオ兄、勝ったの?」


 リオは、笑わなかった。


「半分な。盗人の勝ちは、だいたい半分だ」


「勇者じゃないならさ」


 チビが膝の上から見上げる。


「リオ兄って、なんなの」


「じゃあ、盗人の王様?」とミロ。


「……王様は、嫌いだ」


 ガキどもは笑った。リオは笑わないまま、川の向こうを見た。


 封鎖区画の篝火が、まだ並んでいる。あの灯りの下に、藍に溶け残った半分の名簿と、宝物の木箱と、歯のない笑い顔を置いてきた。


 盗めなかった、んじゃない。


 置いてきたのだ。その違いが、肩の剣より重かった。


 婆は口を割らない。たぶん、当分は。だが帝国の地下で、その「当分」がどれだけ保つものか。考えたくもなかった。


 口封じのためだ、とリオは自分に言い聞かせた。婆は俺の算段を知りすぎている。だから取り返す。それだけだ。


 嘘のつき方が、下手になったな。


 自分で、そう思った。


 リオは立ち上がり、聖剣を握り直した。


「次は、あいつを盗り返す」


 それが口封じのためなのか、恩返しのためなのか。


 リオは、考えないことにした。

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