第二話 屋根鼠のリオ
帝都じゅうの鐘が、鳴りやまなかった。
誰も鳴らしていない鐘だ。聖塔の七連鐘も、教会の晩鐘も、商館の時鐘も、勝手に鳴って、勝手に騒いでいる。
うるせえな。
「盗まれました」って、国じゅうに触れ回ってんじゃねえよ。
リオは瓦を三枚またいで跳び、煙突の陰に背中を押しつけた。眼下の大路を近衛の甲冑が列をなして駆け抜けていく。角灯、笛、怒号。ついさっきまで聖剣サマ万歳と浮かれていた人波が、堰を切ったように乱れ、薙ぎ倒された屋台の花飾りが踏まれていた。
肩には、外套でぐるぐる巻きにした聖剣。
重い。
鉄の重さじゃない。金貨の袋なら千回担いだ。貴族の宝剣も、教会の燭台も担いだ。けど、こんな重さは知らねえ。腕じゃなく、背骨の芯にのしかかってくる。盗んだものの重さだった。
いつもなら届くはずの庇に、指先が半寸足りない。聖剣の重さが、背中で笑っている。
短い笛が二度。東区画の警備が持ち場を移る合図だ。三日前、酔い潰れた警備兵の口から盗んでおいた知識だった。リオは入れ替わりに生まれる目の空白へ滑り込み、ついでに物干し紐を一本だけ断ち切って落とす。下の路地でシーツが翻り、追手の半分が「飛び降りたぞ」と喚いて、そちらへ雪崩れた。
人の視線ってのは、盗める。財布より、よっぽど簡単に。
懐から、警備兵の呼子を抜く。これも昨日のうちに拝借しておいた品だ。短く三度。「西区画にて発見」の符丁。眼下の兵が、面白いように西へ折れていく。
屋根の上は、庭だ。どの瓦が鳴いて、どの庇が腐っているか、足の裏が覚えている。
通行札も、水門の合鍵も揃っている。逃げ道は三本仕込んで、三本とも生きている。何もかも、下調べどおりだ。
聖剣が抜けちまったこと以外は、な。
煙突の陰で、リオは一度だけ深く息を吐いた。指が、まだ震えている。笑ってやろうとしたら、頬が強張った。
盗んだつもりだった。
だがどうやら、とんでもねえものに、こっちのほうが盗まれたらしい。
*
その重さを、リオは今朝まで知らなかった。
神器奉覧祭の朝。表通りが花と旗で飾られていくころ、貧民街はいつもどおりの匂いで目を覚ました。
濡れた石畳。煮詰めすぎた豆のスープ。湿気た薪の煙。寄りかかり合って傾いだ家々は、どっちが先に倒れるかで住人同士の賭けが成立している。路地は狭く、空は屋根と屋根の隙間にしかない。
それでも、朝は騒がしい。
水場では女たちが昨日の喧嘩の続きを再開し、屋台崩れの親父はカビの浮いたパンを「祭り価格だ」と倍値で売ろうとして、芋の皮を投げつけられていた。教会の施しは月に二度。今日は祭りで、それも休みだ。ガキどもは兵士の靴音を聞き分けては、樽の陰と床下へ消える遊びがやたらと上手い。奥の長屋からは、婆さんの咳が聞こえる。冬を越すたび、ひとつずつ深くなる咳だ。
祭りの日、貧民は表通りへ出られない。景観を損ねるから、だそうだ。
風向きによっては、表の楽の音がここまで流れてくる。手を止めて聴く者は、誰もいない。
リオは崩れかけた塀の上に腰かけて、その路地を見下ろしていた。
足元には、ガキどもが群がっている。
「リオ兄、今日、聖剣のお祭りなんだろ」
「ああ」
「聖剣ってさ、ほんとに盗めるの?」
訊いたのは、前歯の欠けたミロだ。リオは欠伸まじりに答えた。
「盗めないものなんてねえよ。鍵も、金も、名前もな」
「じゃあ、世界も?」
リオは、一拍だけ黙った。
「……世界? 高いな。まずは剣からだ」
冗談のつもりだった。ガキどもはげらげら笑う。だがミロだけは笑わずに、リオの顔をじっと見上げていた。半分、本気の目だった。
リオは目を逸らして、塀から飛び降りた。昨日「拾った」パンの包みを、いちばんチビの腹に押しつける。薬種屋からくすねた熱冷ましは、奥の長屋の婆さんへ。穴の空いた毛布は、施療所の裏へ置いてくる。
ただし、誰にでも配るわけじゃない。
口の軽い奴。兵に尻尾を振る奴。弱い者からさらに奪う奴。そういう連中には、リオは何も渡さない。昨日まで一緒に笑っていた相手でも、路地を売るなら別だ。
優しいから分けているわけじゃない。
自分の路地を腐らせないために、渡す相手を選んでいるだけだ。
少なくとも、リオはそういうことにしていた。
「リオ兄って、優しいよなあ」
「あ?」
「だって、いっつも分けてくれる」
「……チビの腹の音がうるせえと、こっちまで食った気がしねえんだよ」
ガキどもは、わかったような顔で頷いた。何ひとつわかっていない顔だった。
*
ここ数日、路地の空気は悪かった。
祭りに合わせて、取り締まりが増えた。表向きは治安維持。実際のところは、使節サマの目に入らねえよう、汚いものを奥へ掃き寄せるための箒だ。
それだけなら、毎年のことだ。
だが今年は、嫌な噂が重なっていた。祭りが終わり次第、川沿いの一角を取り壊すらしい。新しい人頭税が来るらしい。親のないガキを「保護」して回る役人が出るらしい。
保護されたガキがどこへ行くのか、知っている者は誰もいない。
噂と笑い飛ばすには、川沿いの空き地に打たれた測量杭は、少しばかり本物すぎた。
リオが聖剣に目をつけたのは、半月前のことだ。
理屈は単純だった。
丸ごと売れるとは思っていない。そんなものを買える奴は、買った瞬間に帝国に殺される。聖剣そのものを買うほどの金持ちは、皇帝の家に睨まれてまで貧民街の盗人と取引しない。
だが、鞘の宝玉、柄の聖印、祭壇の装飾、奉納箱の鍵。ばらせるものは山ほどある。
それでも足りなければ、帝国に買い戻させればいい。
聖剣は、売り物である前に、人質だった。
聖剣級の宝なら、たとえ欠片でも、この路地の連中を何十人か国境の外へ逃がす金にはなる。ついでに、皇帝の家は大陸じゅうに大恥を晒す。あいつらが当たり前みてえな顔で祭壇に飾っているものを、こっちの手で攫ってやる。想像するだけで、安酒がうまかった。
「あんた、義賊ってやつかい」
事情を半分だけ聞いた故買屋の婆は、歯のない口で笑った。
「やめろよ。俺は義賊じゃねえ。腹が減ったから盗ってるだけだ。理由をつけるなら、そうだな。むかつくから盗る。それで全部だ」
嘘じゃない。
ただ、その「腹」が自分ひとりの腹じゃなくなってから、もうずいぶん経つ。それだけの話だった。
*
下調べには、十日かけた。
警備の交代は朝夕の鐘の前後。結界柱は七本で、北東の二本のあいだだけ人ひとり分広い。鐘楼から祭壇までは、庇を四枚。六カ国の使節馬車が大路へ入る刻限、近衛の目は一斉に外へ向く。
そして広場が群衆で埋まる以上、近衛は矢を放てない。放てば、民に当たる。
通行札は門兵の上着から。水門の合鍵は蝋で型を取り、三日で作らせた。屋根の道は、ガキのころから骨身に入っている。
無謀な盗みは、一度もやったことがない。屋根鼠が十年捕まらなかったのは、運じゃない。
誤算は、ひとつだけ。
剣が、抜けたことだ。
*
鐘楼の影から見下ろした祭壇では、皇太子が演説をしていた。
いけすかねえ顔、というのが第一印象だった。仕立てのいい礼服。よく通る声。絵姿から抜け出てきたような、上等な王子サマ。
だが、リオの目は商売柄、人の隠しごとに吸い寄せられる。
皇太子の指先は、演説のあいだじゅう、腰の帝剣の柄を握っては離していた。そして背後の聖剣を、一度も。ただの一度も、振り返らなかった。自慢の宝なら、見るはずだ。守るべき剣なら、背中で意識するはずだ。
あれは、違う。
あの王子サマ、剣を守ってる顔じゃねえな。
剣から、逃げてえ顔に見えた。
何を隠しているのかまでは、読めなかった。だが、隠しごとの匂いだけは、はっきり嗅げた。盗人には、それで十分だった。
ま、王子サマの事情なんざ知ったことか。こっちは、こっちの仕事だ。
*
祭壇で聖剣の柄を掴んだのは、ただの足場のつもりだった。抜けるわけがない。百年、誰にも抜けなかった剣だ。
なのに、声がした。
『――何を望む』
金、と言いかけて、舌が止まった。金なら盗ってきた。盗っても盗っても、路地の腹は減ったままだった。
自由、と言いかけた。門の外へ逃げたところで、立っている土地の持ち主が変わるだけだ。
復讐、と言いかけた。誰にだ。踏みつけてきた連中の顔なんざ、多すぎて、とっくに数えられない。
濡れた石畳。
豆のスープの湯気。
樽の陰に隠れるのがうますぎるガキども。
祭りの日にだけ、追い払われる路地。
その全部が、喉の奥で引っかかった。
「……世界だ」
刃が応えた。
*
そして現在。
鐘は、まだ鳴っている。
リオは水門の道を捨て、第二の筋、潰れた染物屋の屋根裏から市壁へ抜ける道へ乗り換えていた。あと路地を二本越えれば、追手は撒ける。
その路地の先で、悲鳴が上がった。
見下ろせば、見知った顔ぶれが走っていた。ミロだ。前歯の欠けた小僧と、路地のガキが四人。祭りの混乱に巻き込まれた。いや、違う。追っている兵の足の運びは、迷子を保護する動きじゃない。狩りの動きだ。
リオの足が、止まった。
行けよ、馬鹿。お前は今、帝国でいちばん追われてる男だぞ。
頭は正しいことを言っていた。聖剣を担いだまま兵の前へ出るのは、首を差し出すのと同じだ。逃げろ。いつもそうしてきた。盗人の商売道具は、逃げ足だ。ここで屋根を降りるのは、その商売道具を自分で捨てるのと同じだった。
ガキのひとりが、転んだ。
気づいたときには、屋根を蹴っていた。
「――こっちだ、走れ!」
自分でも驚くほど、声が通った。
いや。通った、どころじゃない。ガキどもが弾かれたように顔を上げ、一斉に駆け出す。それだけじゃない。路地に居合わせた野次馬までもが、申し合わせたように壁際へ退いて、道を開けたのだ。開いた人垣に流れを崩されて、兵の隊列が詰まる。
肩の剣が、外套の下でかすかに熱を帯びた気がした。
……何だよ、今の。
考えるのは後だ。リオは雨樋を滑り降り、ガキどもの襟首を順に掴んで染物屋の裏へ押し込んだ。干し場の布を引き倒し、追手の視界を白く塗り潰す。屋根裏への抜け道。床板二枚。十年使って、誰にも教えていない道だ。
暗がりで、ミロが息を切らせながら言った。
「リオ兄、助けに来てくれたんだ」
「は? 寝言は寝て言え」
リオは床板を元に戻しながら、いつもの顔を作った。
「助けたんじゃねえよ。逃げ道が同じだっただけだ」
ミロは、笑った。
「うん。知ってる」
*
隠れ家は、その染物屋の屋根裏だった。
梁のあいだに毛布が三枚。欠けた椀がいくつか。ガキどもの「宝物」を詰めた木箱。雨漏りの染みが、天井板に地図みたいに広がっている。それだけの、城だった。
外套をほどくと、聖剣は薄闇の中で勝手に光った。灯りひとつないのに、刃の形だけが闇から浮かび上がる。
ガキどもが、息を呑んだ。
「すげえ……本物だ」
「これ、百年抜けなかったやつだろ」
「リオ兄が、抜いたの?」
リオは答えず、戸棚から固いパンを出して割り、順に配った。噛んでいるあいだだけ、屋根裏は静かになった。
「リオ兄のパン、いっつも固い」
「文句があるなら残せ」
「やだ」
「じゃあさ」
口の中をいっぱいにしたまま、いちばんチビが言った。
「リオ兄、勇者なんだ」
「やめろ」
思ったより、硬い声が出た。
「勇者? やめろ。盗人に失礼だ」
ガキどもは笑った。だが、目の色が変わっていた。昨日までは「パンをくれる兄ちゃん」を見る目だった。今は違う。すがるような、祈るような、重い目だ。
リオは、その視線から剣ごと顔を背けた。
*
外が騒がしくなったのは、そのときだった。
甲冑の音。ひとつやふたつじゃない。通りという通りを、靴音が埋めていく。
「――貧民街を封鎖しろ!」
割れた天窓越しに、号令が降ってきた。
「聖剣強奪犯の塒はこの区画だ! 関係者をひとりも逃がすな。孤児院、施療所、裏宿――残らず押さえろ。住人の名簿を持ってこい!」
リオの顔から、笑みが消えた。
名簿、ときたか。
あいつら、俺を追ってるんじゃねえ。
この路地ごと、狩る気だ。
兵が最初に押さえたのは、出口ではなかった。
井戸だった。
水場へ向かっていた女が突き飛ばされ、桶が転がる。役人が濡れた名簿を広げ、名前を一つずつ読み上げ始めた。井戸端に集まっていた住人たちが押し戻され、兵の槍が水場の前で横に並ぶ。
逃げる前に、まず生きる場所を押さえる。
帝国のやり方は、盗人よりずっと手慣れていた。
ガキどもが身を寄せ合う。兵の靴音の合間に、あの婆さんの咳だけが、やけに大きく聞こえた。聖剣だけが、薄闇の中で静かに光っている。
盗んだつもりだったんだけどな。
どうやら本当に、俺のほうがこいつに盗まれたらしい。
路地ごと、まとめて。
「リオ兄」
ミロが、袖を引いた。
「……これから、どうするの」
逃げる、と言うはずだった。
いつもなら、迷わずそう言う。逃げるが勝ちで、十年勝ってきた男だ。
階下で、槍の石突きが扉を叩いた。
リオの目は、兵の背中ではなく、その後ろにあった。
井戸。名簿。伝令。封鎖線。指揮官。鐘。
逃げ道は、逃げる側だけが持っているものじゃない。
リオは笑った。
「決まってんだろ」
聖剣を、握り直す。
「――まずは、あいつらの逃げ道を盗む」




