表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

第一話 皇太子は聖剣を抜けない

 帝都レギオニアの朝は、鐘の音から始まる。


 東の聖塔から、大小七つの鐘が順に打ち鳴らされていく。その響きは石畳を伝い、露店ののぼりを揺らし、まだ眠りの中にいる者の枕元にまで届く。年に一度、この日にだけ許される七連打。神器奉覧祭じんぎほうらんさいの合図である。


 通りという通りが人で溢れていた。串焼きの煙、焼き菓子の甘い匂い、空になった酒樽を転がす音。六カ国の使節を乗せた馬車が大路を進むたび、群衆がどよめき、子供たちが小旗を振る。教会の白い法衣、貴族の絹、近衛の磨き上げられた甲冑――帝国の威信をそのまま形にしたような、晴れがましい一日だった。


 その日、帝都の誰もが聖剣の目覚めを願っていた。


 ただ一人。


 本来、その聖剣を継ぐはずの男を除いて。


 大路に居並ぶ六カ国の使節たちの目は笑っていない。年に一度のこの日、彼らは祝いに来ているのではない。確かめに来ているのだ。レギオン帝国が、いまだ大陸の盟主たるに足る国なのか。聖剣が、いまだその玉座を支えているのか。


 祝祭の顔をした、品定めの日。


 その緊張をいちばん近くで知っている者がいる。


 青空の下でただ一人。


 皇太子アルトリウス・レギオンだけが、聖剣に二度と触れずに済むことを祈っていた。


     *


 昨夜のことだ。


 人払いをした大聖堂で、アルトリウスは聖剣レギオンの前に立っていた。月の光だけが、祭壇に据えられた刃を青白く照らしている。


 誰にも言えなかった。だが確かめずにはいられなかった。


 柄に手をかける。


 冷たかった。


 氷のような冷たさが、手のひらから肘へ、肘から胸へと這いのぼってくる。


 引いた。


 動かなかった。


 両手で握り、全身の力を込めても、刃は鞘から指一本ぶんも出てはこない。聖剣はただ静かに彼を拒んでいた。百年前、最後の継承者を見送ったときと変わらぬ沈黙のままで。


 肩に力を込めすぎて、腕が痛んだ。


 誰もいない大聖堂で、アルトリウスは息を殺す。誰にも見られていない。誰にも知られていない。それなのに、聖剣の沈黙そのものが彼を見下ろしているようだった。


 自分の力ではない。


 自分の血が、拒まれた気がした。


 その沈黙を、アルトリウスは今も手のひらに覚えている。


     *


「顔色がよくないな、アルトリウス」


 控えの間で、皇帝ガイウス・レギオンが言った。齢六十を超えてなお、玉座よりも戦場の似合う体躯をした男である。


「緊張しているだけです、父上」


「なら結構だ」


 皇帝は短く笑う。


「緊張を知らん王は、先に臣下を疲れさせる」


 その手が息子の肩に置かれた。重い手だった。期待の重さというものを、アルトリウスは初めて知った気がした。


 この父は、若い頃、北の蛮族を一度の遠征で退けた将であり、東の反乱を一冬で鎮めた皇帝である。聖剣を抜けずとも、剣そのもので国を束ねてきた男だ。


 だが、その治世も終わりに近い。


 次の百年を支えるのは聖剣なのだと――宮廷の誰もが信じている。


 父すらも。


「百年でございます」


 傍らの老宰相が声を潜める。


「百年、聖剣は誰も選ばなかった。ですが殿下――今年こそは、と祭壇の前で誰もが囁いておりますぞ」


 母后ぼこうは何も言わなかった。


 ただ息子の頬にそっと触れ、微笑む。その微笑みのほうが、宰相のどんな言葉よりもよほど重い。


 アルトリウスは、腰に帝剣レガリアを帯びていた。聖剣を模して鍛えられた、儀礼のための剣。抜けば見事に抜ける。


 だが、それは聖剣ではない。


 誰もが知っていて、誰も口にしない。


 腰のレガリアなら、抜ける。


 聖剣は、抜けなかった。


 そのことを、この場の誰一人としてまだ知らない。


     *


 広場は、人の海だった。


 祭壇の上、七重の結界に守られて、聖剣レギオンが陽光を弾いていた。その刃を見上げるためだけに、帝都じゅうの人間が集まったかと思うほどの群衆。最前列には六カ国の使節が居並び、その後ろを貴族が、さらに後ろを民衆が埋めている。


 演壇に立ったアルトリウスへ、無数の視線が注がれた。


 いや――彼に、ではない。


 正確には、彼のすぐ背後に飾られた聖剣に、だ。人々が見ているのは皇太子その人ではなく、皇太子が背負うべきものだった。歓声も期待も祈りも、すべては鞘の中の刃に向けられている。


 自分は、その刃を引き立てるための台座にすぎないのではないか。


 そんな考えを、アルトリウスは奥へ押し込んだ。


 彼は口を開く。


「七神器は、今も帝国と共にある」


 声はよく通った。震えてはいなかった。我ながら見事なものだ、と他人事のように思う。


「神代より受け継がれしくさびは、いまだ衰えを知らぬ。レギオン帝国は、これからも大陸の秩序を守る盟主であり続けるだろう。――この聖剣こそが、その証だ」


 歓声が上がった。


 その歓声の中で、アルトリウスは自分の言葉に、静かに刺し貫かれていた。


 聖剣こそが証だと、彼は言った。


 ならば、聖剣に拒まれた自分は、いったい何の証になるというのか。


 背に飾られた刃が、群衆の歓声の向こうで冷たくこちらを見ている気がした。


     *


 異変は、歓声がまだ収まらぬうちに起きた。


 祭壇の真上――鐘楼の影から、何かが落ちてくる。


 黒い影だった。


 屋根から屋根へ伝ってきたのだろう。軽々とひさしを蹴り、結界の柱に手をかけ、警備の騎士たちが反応するよりも早く祭壇の縁へと滑り降りる。


 身軽そうな、若い男だった。


「悪いな」


 男は場違いなほど軽い声で言った。


「ちょいと、こいつを借りてくぜ」


 広場が凍りつく。


「世界を守る剣なんだろ?」


 男は聖剣を顎で示した。


「だったらよ、貧民街のガキどもの腹くらい、ついでに守ってくれてもいいはずだ。あいつら、帝国の外に住んでるわけじゃねえんだから」


 その声は笑っていた。


 だがアルトリウスには、その笑みの奥だけが笑っていないように見えた。


 誰かが叫んだ。


 屋根鼠やねねずみだ、と。


 帝都の裏路地で語られる盗人の通り名。捕まえようとして、ついぞ誰も捕まえられなかった影。屋根鼠のリオ。


 近衛が一斉に剣を抜いた。


 だが、祭壇を囲む七重の結界は、外からの刃と魔術を弾くためのものだ。近衛といえど、神官の解除なしに内へ踏み込めない。


 そのうえ背後には群衆が満ちている。下手に矢を放てば、流れ弾が民を貫く。


 騎士たちは抜き身のまま、踏み込めずにいた。


 その一拍の隙を、男は読んでいた。


 読んだ上で笑っていた。まるで、剣を向けられること自体が初めてではないかのように。


     *


「――退け!」


 声を上げたのは、アルトリウスだった。


 抜き放ったレガリアの切っ先で、駆け寄ろうとする近衛たちを制す。混乱のまま群衆を巻き込めば、死人が出る。盗人ひとり、自分が抑える。そう判断するだけの頭の冷たさは、まだ彼に残っていた。


 皇太子は自ら祭壇へと駆け上がった。


 リオとの間合いを詰めながら、その身が一瞬、聖剣の傍らをかすめる。手がほとんど無意識に、柄へと伸びた。


 抜けなかった。


 やはり、抜けなかった。


 刃は昨夜と同じ沈黙のまま、指一本ぶんも動かない。混乱に紛れて、誰もそれに気づかなかった。気づかれなかったことに、アルトリウスは奥歯を噛んだ。


「おっと」


 リオが後ずさる。


「王子さま直々のお出ましかよ。光栄だね」


「聖剣から手を離せ」


「まだ触ってねえよ」


「なら、触れるな」


 リオは肩をすくめた。


 アルトリウスの剣先が、わずかに下がる。


 リオはその角度を見て、また半歩だけ退いた。


「無茶言うなよ。盗人に盗むなって言って、聞くと思うか?」


 言葉は軽い。


 だがリオの目は、逃げ道と騎士の位置と群衆の密度を絶えず測っていた。軽口の裏で、この男は一度も油断していない。


 アルトリウスは剣を構え直した。


 その瞬間、群衆の中で子供が泣いた。押し合いに巻き込まれたのだろう。小さな体が、柵の下に倒れかけている。


 リオの視線が、一瞬だけそちらへ走った。


 ほんの一瞬。


 だがアルトリウスは見逃さなかった。


 その隙に踏み込もうとして、しかし踏み込めなかった。なぜならリオは、倒れかけた子供へ近衛の矢が向かない位置へ、半歩、体をずらしていたからだ。


 盗人のくせに。


 そう思った自分を、アルトリウスはすぐに恥じた。


     *


 そして、リオの手が聖剣の柄を掴んだ。


 逃げるための、ただの足がかりのつもりだった。


 盗むにしたところで、抜けるはずがない。百年抜けなかった剣だという話くらい、リオでも知っていた。


 掴んだ、その瞬間。


 声がした。


 リオの耳の奥にだけ、それは響く。鐘の音にも、群衆のざわめきにも紛れぬ、ひどく静かな声だった。


『――何を望む』


「は?」


『おまえは、何を望む』


 金、と言いかけた。


 違う。


 金なら盗んできた。盗んでも盗んでも、朝になれば腹は減った。


 自由、と言いかけた。門の外へ逃げたところで、立っている土地の持ち主が変わるだけだ。


 復讐、と言いかけた。誰にだ。踏みつけてきた連中の顔なんざ、多すぎて、もう一つに絞れない。


 濡れた石畳。


 豆のスープの湯気。


 樽の陰に隠れるのがうますぎるガキども。


 祭りの日にだけ、追い払われる路地。


 その全部が、喉の奥で引っかかった。


「……世界だ」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 刃が鳴った。


     *


 刃が、鞘から滑り出た。


 百年、誰の手にも応えなかった聖剣が、身軽そうな盗人の手の中で陽光を浴びて白く燃えた。


 その瞬間、帝都じゅうの鐘という鐘がいっせいに鳴り出す。誰も鳴らしていない鐘が、ひとりでに。


 祭壇を守っていた七重の結界が、内側から軋んだ。


 外敵を拒むための結界は、聖剣に選ばれた者を拒まなかった。


 硝子のような音を立てて、光の破片が空へ散る。


 同じ瞬間。


 はるか北方の封印領で、永く凍てついていたものがひとつ、薄く目を覚ました。


 世界を縛っていた何かが、音もなく外れる。


 広場は、悲鳴と沈黙が同時に満ちる奇妙な静けさに包まれた。


 六カ国の使節が凍りつく。


 教会の者が、奇跡だ、と叫んだ。


 貴族たちは青ざめて互いの顔を見合わせる。


 民衆はただ、ざわめいた。


 演壇の奥で、皇帝が立ち上がっていた。あの戦場でも崩れたことのなかった父の顔が、いま、はっきりと強張っている。老宰相が何かを叫び、近衛が殺到しようとして、しかし誰一人、抜き放たれた聖剣の輝きに踏み込めずにいた。


 百年ぶりに目覚めた刃を前に、帝国そのものが足を止めている。


 アルトリウスは、抜かれた聖剣を見つめたまま立ち尽くしていた。


 怒りがあった。


 屈辱があった。


 恐怖があった。


 継ぐべき自分ではなく、名も知れぬ盗人の手で聖剣が抜かれた。王家の正統性が、無数の目の前で音を立てて崩れていく。


 だが――その奥底で。


 息がわずかに楽になってしまった。


 これで、見られずに済む。


 聖剣に拒まれた、この手のことを。昨夜のあの沈黙を。もう、誰の目にも晒されずに済む。


 そう思った自分に気づいた瞬間、アルトリウスは帝剣の柄を握り込んでいた。


 革巻きが軋む。


 爪の下が白くなる。


 国が割れかけている。


 その瞬間に、自分は救われたと思った。


     *


 一方、当の盗人は。


 抜き放った聖剣を手に、リオは呆然と立っていた。鳴りやまぬ鐘。砕けた結界。凍りついた使節。青ざめた貴族。そのすべてが、たった一人の自分を見ている。


 何が起きたのか、半分も理解できていなかった。


 指が震えている。


 それに気づかれたくなくて、リオは笑った。


「……俺、盗みに来ただけなんだけどな」


 そう呟いて、聖剣を肩に担ぐ。


「じゃあ――まずはこの国から、盗るか」


 その言葉に、広場の空気が変わった。


 勇者の誕生ではない。


 反逆の宣言だった。


 近衛が動こうとした。貴族たちが叫んだ。教会の者が祈りの言葉を取り落とした。


 その混乱の中央で、アルトリウスはようやく息を吸った。


 怒りを。屈辱を。救われてしまった自分を。


 すべて、皇太子の顔の下に押し込める。


 そして命じた。


「聖剣を取り戻せ」


 声は震えていなかった。


「――あの男を、勇者にするな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ