第一話 皇太子は聖剣を抜けない
帝都レギオニアの朝は、鐘の音から始まる。
東の聖塔から、大小七つの鐘が順に打ち鳴らされていく。その響きは石畳を伝い、露店の幟を揺らし、まだ眠りの中にいる者の枕元にまで届く。年に一度、この日にだけ許される七連打。神器奉覧祭の合図である。
通りという通りが人で溢れていた。串焼きの煙、焼き菓子の甘い匂い、空になった酒樽を転がす音。六カ国の使節を乗せた馬車が大路を進むたび、群衆がどよめき、子供たちが小旗を振る。教会の白い法衣、貴族の絹、近衛の磨き上げられた甲冑――帝国の威信をそのまま形にしたような、晴れがましい一日だった。
その日、帝都の誰もが聖剣の目覚めを願っていた。
ただ一人。
本来、その聖剣を継ぐはずの男を除いて。
大路に居並ぶ六カ国の使節たちの目は笑っていない。年に一度のこの日、彼らは祝いに来ているのではない。確かめに来ているのだ。レギオン帝国が、いまだ大陸の盟主たるに足る国なのか。聖剣が、いまだその玉座を支えているのか。
祝祭の顔をした、品定めの日。
その緊張をいちばん近くで知っている者がいる。
青空の下でただ一人。
皇太子アルトリウス・レギオンだけが、聖剣に二度と触れずに済むことを祈っていた。
*
昨夜のことだ。
人払いをした大聖堂で、アルトリウスは聖剣の前に立っていた。月の光だけが、祭壇に据えられた刃を青白く照らしている。
誰にも言えなかった。だが確かめずにはいられなかった。
柄に手をかける。
冷たかった。
氷のような冷たさが、手のひらから肘へ、肘から胸へと這いのぼってくる。
引いた。
動かなかった。
両手で握り、全身の力を込めても、刃は鞘から指一本ぶんも出てはこない。聖剣はただ静かに彼を拒んでいた。百年前、最後の継承者を見送ったときと変わらぬ沈黙のままで。
肩に力を込めすぎて、腕が痛んだ。
誰もいない大聖堂で、アルトリウスは息を殺す。誰にも見られていない。誰にも知られていない。それなのに、聖剣の沈黙そのものが彼を見下ろしているようだった。
自分の力ではない。
自分の血が、拒まれた気がした。
その沈黙を、アルトリウスは今も手のひらに覚えている。
*
「顔色がよくないな、アルトリウス」
控えの間で、皇帝ガイウス・レギオンが言った。齢六十を超えてなお、玉座よりも戦場の似合う体躯をした男である。
「緊張しているだけです、父上」
「なら結構だ」
皇帝は短く笑う。
「緊張を知らん王は、先に臣下を疲れさせる」
その手が息子の肩に置かれた。重い手だった。期待の重さというものを、アルトリウスは初めて知った気がした。
この父は、若い頃、北の蛮族を一度の遠征で退けた将であり、東の反乱を一冬で鎮めた皇帝である。聖剣を抜けずとも、剣そのもので国を束ねてきた男だ。
だが、その治世も終わりに近い。
次の百年を支えるのは聖剣なのだと――宮廷の誰もが信じている。
父すらも。
「百年でございます」
傍らの老宰相が声を潜める。
「百年、聖剣は誰も選ばなかった。ですが殿下――今年こそは、と祭壇の前で誰もが囁いておりますぞ」
母后は何も言わなかった。
ただ息子の頬にそっと触れ、微笑む。その微笑みのほうが、宰相のどんな言葉よりもよほど重い。
アルトリウスは、腰に帝剣レガリアを帯びていた。聖剣を模して鍛えられた、儀礼のための剣。抜けば見事に抜ける。
だが、それは聖剣ではない。
誰もが知っていて、誰も口にしない。
腰のレガリアなら、抜ける。
聖剣は、抜けなかった。
そのことを、この場の誰一人としてまだ知らない。
*
広場は、人の海だった。
祭壇の上、七重の結界に守られて、聖剣が陽光を弾いていた。その刃を見上げるためだけに、帝都じゅうの人間が集まったかと思うほどの群衆。最前列には六カ国の使節が居並び、その後ろを貴族が、さらに後ろを民衆が埋めている。
演壇に立ったアルトリウスへ、無数の視線が注がれた。
いや――彼に、ではない。
正確には、彼のすぐ背後に飾られた聖剣に、だ。人々が見ているのは皇太子その人ではなく、皇太子が背負うべきものだった。歓声も期待も祈りも、すべては鞘の中の刃に向けられている。
自分は、その刃を引き立てるための台座にすぎないのではないか。
そんな考えを、アルトリウスは奥へ押し込んだ。
彼は口を開く。
「七神器は、今も帝国と共にある」
声はよく通った。震えてはいなかった。我ながら見事なものだ、と他人事のように思う。
「神代より受け継がれし楔は、いまだ衰えを知らぬ。レギオン帝国は、これからも大陸の秩序を守る盟主であり続けるだろう。――この聖剣こそが、その証だ」
歓声が上がった。
その歓声の中で、アルトリウスは自分の言葉に、静かに刺し貫かれていた。
聖剣こそが証だと、彼は言った。
ならば、聖剣に拒まれた自分は、いったい何の証になるというのか。
背に飾られた刃が、群衆の歓声の向こうで冷たくこちらを見ている気がした。
*
異変は、歓声がまだ収まらぬうちに起きた。
祭壇の真上――鐘楼の影から、何かが落ちてくる。
黒い影だった。
屋根から屋根へ伝ってきたのだろう。軽々と庇を蹴り、結界の柱に手をかけ、警備の騎士たちが反応するよりも早く祭壇の縁へと滑り降りる。
身軽そうな、若い男だった。
「悪いな」
男は場違いなほど軽い声で言った。
「ちょいと、こいつを借りてくぜ」
広場が凍りつく。
「世界を守る剣なんだろ?」
男は聖剣を顎で示した。
「だったらよ、貧民街のガキどもの腹くらい、ついでに守ってくれてもいいはずだ。あいつら、帝国の外に住んでるわけじゃねえんだから」
その声は笑っていた。
だがアルトリウスには、その笑みの奥だけが笑っていないように見えた。
誰かが叫んだ。
屋根鼠だ、と。
帝都の裏路地で語られる盗人の通り名。捕まえようとして、ついぞ誰も捕まえられなかった影。屋根鼠のリオ。
近衛が一斉に剣を抜いた。
だが、祭壇を囲む七重の結界は、外からの刃と魔術を弾くためのものだ。近衛といえど、神官の解除なしに内へ踏み込めない。
そのうえ背後には群衆が満ちている。下手に矢を放てば、流れ弾が民を貫く。
騎士たちは抜き身のまま、踏み込めずにいた。
その一拍の隙を、男は読んでいた。
読んだ上で笑っていた。まるで、剣を向けられること自体が初めてではないかのように。
*
「――退け!」
声を上げたのは、アルトリウスだった。
抜き放ったレガリアの切っ先で、駆け寄ろうとする近衛たちを制す。混乱のまま群衆を巻き込めば、死人が出る。盗人ひとり、自分が抑える。そう判断するだけの頭の冷たさは、まだ彼に残っていた。
皇太子は自ら祭壇へと駆け上がった。
リオとの間合いを詰めながら、その身が一瞬、聖剣の傍らをかすめる。手がほとんど無意識に、柄へと伸びた。
抜けなかった。
やはり、抜けなかった。
刃は昨夜と同じ沈黙のまま、指一本ぶんも動かない。混乱に紛れて、誰もそれに気づかなかった。気づかれなかったことに、アルトリウスは奥歯を噛んだ。
「おっと」
リオが後ずさる。
「王子さま直々のお出ましかよ。光栄だね」
「聖剣から手を離せ」
「まだ触ってねえよ」
「なら、触れるな」
リオは肩をすくめた。
アルトリウスの剣先が、わずかに下がる。
リオはその角度を見て、また半歩だけ退いた。
「無茶言うなよ。盗人に盗むなって言って、聞くと思うか?」
言葉は軽い。
だがリオの目は、逃げ道と騎士の位置と群衆の密度を絶えず測っていた。軽口の裏で、この男は一度も油断していない。
アルトリウスは剣を構え直した。
その瞬間、群衆の中で子供が泣いた。押し合いに巻き込まれたのだろう。小さな体が、柵の下に倒れかけている。
リオの視線が、一瞬だけそちらへ走った。
ほんの一瞬。
だがアルトリウスは見逃さなかった。
その隙に踏み込もうとして、しかし踏み込めなかった。なぜならリオは、倒れかけた子供へ近衛の矢が向かない位置へ、半歩、体をずらしていたからだ。
盗人のくせに。
そう思った自分を、アルトリウスはすぐに恥じた。
*
そして、リオの手が聖剣の柄を掴んだ。
逃げるための、ただの足がかりのつもりだった。
盗むにしたところで、抜けるはずがない。百年抜けなかった剣だという話くらい、リオでも知っていた。
掴んだ、その瞬間。
声がした。
リオの耳の奥にだけ、それは響く。鐘の音にも、群衆のざわめきにも紛れぬ、ひどく静かな声だった。
『――何を望む』
「は?」
『おまえは、何を望む』
金、と言いかけた。
違う。
金なら盗んできた。盗んでも盗んでも、朝になれば腹は減った。
自由、と言いかけた。門の外へ逃げたところで、立っている土地の持ち主が変わるだけだ。
復讐、と言いかけた。誰にだ。踏みつけてきた連中の顔なんざ、多すぎて、もう一つに絞れない。
濡れた石畳。
豆のスープの湯気。
樽の陰に隠れるのがうますぎるガキども。
祭りの日にだけ、追い払われる路地。
その全部が、喉の奥で引っかかった。
「……世界だ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
刃が鳴った。
*
刃が、鞘から滑り出た。
百年、誰の手にも応えなかった聖剣が、身軽そうな盗人の手の中で陽光を浴びて白く燃えた。
その瞬間、帝都じゅうの鐘という鐘がいっせいに鳴り出す。誰も鳴らしていない鐘が、ひとりでに。
祭壇を守っていた七重の結界が、内側から軋んだ。
外敵を拒むための結界は、聖剣に選ばれた者を拒まなかった。
硝子のような音を立てて、光の破片が空へ散る。
同じ瞬間。
はるか北方の封印領で、永く凍てついていたものがひとつ、薄く目を覚ました。
世界を縛っていた何かが、音もなく外れる。
広場は、悲鳴と沈黙が同時に満ちる奇妙な静けさに包まれた。
六カ国の使節が凍りつく。
教会の者が、奇跡だ、と叫んだ。
貴族たちは青ざめて互いの顔を見合わせる。
民衆はただ、ざわめいた。
演壇の奥で、皇帝が立ち上がっていた。あの戦場でも崩れたことのなかった父の顔が、いま、はっきりと強張っている。老宰相が何かを叫び、近衛が殺到しようとして、しかし誰一人、抜き放たれた聖剣の輝きに踏み込めずにいた。
百年ぶりに目覚めた刃を前に、帝国そのものが足を止めている。
アルトリウスは、抜かれた聖剣を見つめたまま立ち尽くしていた。
怒りがあった。
屈辱があった。
恐怖があった。
継ぐべき自分ではなく、名も知れぬ盗人の手で聖剣が抜かれた。王家の正統性が、無数の目の前で音を立てて崩れていく。
だが――その奥底で。
息がわずかに楽になってしまった。
これで、見られずに済む。
聖剣に拒まれた、この手のことを。昨夜のあの沈黙を。もう、誰の目にも晒されずに済む。
そう思った自分に気づいた瞬間、アルトリウスは帝剣の柄を握り込んでいた。
革巻きが軋む。
爪の下が白くなる。
国が割れかけている。
その瞬間に、自分は救われたと思った。
*
一方、当の盗人は。
抜き放った聖剣を手に、リオは呆然と立っていた。鳴りやまぬ鐘。砕けた結界。凍りついた使節。青ざめた貴族。そのすべてが、たった一人の自分を見ている。
何が起きたのか、半分も理解できていなかった。
指が震えている。
それに気づかれたくなくて、リオは笑った。
「……俺、盗みに来ただけなんだけどな」
そう呟いて、聖剣を肩に担ぐ。
「じゃあ――まずはこの国から、盗るか」
その言葉に、広場の空気が変わった。
勇者の誕生ではない。
反逆の宣言だった。
近衛が動こうとした。貴族たちが叫んだ。教会の者が祈りの言葉を取り落とした。
その混乱の中央で、アルトリウスはようやく息を吸った。
怒りを。屈辱を。救われてしまった自分を。
すべて、皇太子の顔の下に押し込める。
そして命じた。
「聖剣を取り戻せ」
声は震えていなかった。
「――あの男を、勇者にするな」




