9. 過去形で言われると、なぜか現在形で刺さる
五日おいて、十月二十二日。放課後の渡り廊下を、傾いた夕日が赤く、長く染めている。
保健室の前を通るこの廊下は、床が白っぽいリノリウムで、天井には蛍光灯が一列、どこまでも続いている。夕日の赤と蛍光灯の白が混ざると、景色は昼にも夜にもなりきれない、頼りない色になる。扉の隙間からは消毒の匂いが細く漏れ、鼻の奥に冷たく残る。歩くたび、上履きの底が床へ貼りついては剥がれる、あの乾いた音が鳴る廊下だ。
「本物の病院は、さすがに安くないでしょお」
「借りられないんです――」
「借りられるわけないでしょお。あんた、バカなのぉ?」
マコは配膳台を廊下の端まで押していき、白い布もないそれを、ストレッチャーの見立てにした。
「これ、何に見える?」
「配膳台です」
「見立てって言葉、知らないのぉ?」
「……ストレッチャーです」
「よぉし」
灯が保健室の扉の脇に立ち、腕を組む。何役だろう、と聞く前から、目が少し弾んでいる。
「わたし、今日は看護師役?」
「通行人」
「えー……。また名前がないのぉ?」
「名前のない役は化けるって、言ったでしょお」
廊下の向こうから歩いてきた先生が、汐見を見つけて手を上げる。
「汐見、大会がんばれよ」
「はい。ありがとうございます」
俺には目も向けず、そのまま通り過ぎていった。同じ廊下に立ち、同じ機材の横にいても、先生にとって用があるのは向こう側だけだ。そういう扱いには慣れている。けれど、慣れているというのは、痛まなくなったこととは違う。痛むたび、うまく顔に出さなくなっただけである。
〈ゴリラ〉にカードを挿す。小さな電子音のあと、赤が点く。
「――では、まいりましょう」
九編目。
『病院の廊下、時刻は夕方。告白を、過去形で言う』
汐見の目が、まっすぐ俺を捉える。稽古が始まるときだけ見せる、逃げ道をふさぐような目だ。
「あのね。わたし、好きだったの」
過去形である。たったそれだけのはずなのに、「好き」だけが現在形のまま、胸の奥へ刺さる。
「そこの角を曲がったところで、いつも待ってたの。……気づいてなかったでしょ」
「……そう」
俺の台詞は「そう」の二文字だ。二文字しか用意されていない役なら、二文字ぶんの責任だけ負えばいい。そう思えば楽な役である。けれど、楽な役ほど、油断したところからあとで効いてくる。
「待ってるあいだ、何を言うか、ずっと考えてた。考えてるうちに、あなたは通り過ぎるの」
台本どおりである。それなのに、白い廊下の長さが、そのまま言えなかった時間の長さに見えてくる。彼女の声が進むたび、夕日の中に見えない距離だけが伸びていく。
「言えないまま終わっちゃったけどね。もう、終わったことだから」
汐見はそこで息を継ぎ、なおも言葉をつなぐ。次の台詞は、台本のどこにもない。
「……終わったことにすれば、言えるんだよ」
夕日は廊下の端から端まで、細い道のように一直線に伸びている。光の上に落ちた俺と汐見の影は、触れそうで触れないまま並んでいる。
過去形にすれば言える。裏を返せば、いま在るものは、終わったふりをさせなければ口にできないということだ。その不器用な逃げ道が、なぜか俺には他人事と思えない。
胸の奥で何かがほどけるより先に、俺の口が勝手に動いていた。
「終わってません」
言った瞬間、自分が何を言わなかったのかに気づく。何が終わっていないのかを、俺は何も示していない。言い切った声だけがそこにあり、中身は空っぽだ。三年前の三十秒が終わっていないのか、この稽古が終わっていないのか、それとも――そこから先へ思いを向けた途端、言葉は喉の奥で形を失う。汐見に届いてほしいと思うくせに、届いたら困る自分もいる。
汐見の視線が、ふっと俺から外れた。ほんのわずかな動きなのに、胸の内側を指でなぞられたようにわかる。
稽古の中では、この人は必ず俺の目を見る。一編目からずっと、たとえ声が揺れても、視線だけは逃がさなかった。見ないのは、今日が初めてである。
赤は点いている。則一。撮り直しはしない。俺が投げた中身のない一言も、汐見が目をそらした沈黙も、そのまま記録に残る。
「はい、おしまい。カット、カットぉ!」
◇
汐見が先に行ったあと、マコは俺を呼び止めるでもなく、〈ゴリラ〉のほうへ顎をしゃくる。いつもの雑な仕草なのに、目だけが落ち着かない。
「ねえ。いまの、あたしにも、もう一回聞かせ――」
言い終えるより早く、マコははっと目を見開き、自分の口を手で塞いだ。指の隙間から、言ってしまいかけた言葉への焦りがのぞく。
「……なし。いまの、なし」
「先輩?」
「聞かなかったことにして」
マコはようやく手を下ろし、配膳台の縁を指先で叩く。爪が金属に当たる乾いた音が、三回鳴る。間を埋めるには短すぎて、迷いをごまかすには正直すぎる。
「則五って、先輩が作ったんですよね?」
「そうよぉ」
「なんで作ったんで――」
「知らなくていーの!」
マコは逃げるように配膳台を押していってしまった。小さく軋む車輪の音が遠ざかり、廊下の端でぷつりと消える。
則を作った本人が、いちばん先に破りかけ、それでも自分で止めた。なぜ止めたのかを、俺はまだ知らない。知ろうとしていいのかさえ、わからない。
◇
灯が、少し離れた壁にもたれて待っている。さっきまでの軽い顔は消え、俺が来るまで言葉を胸の中で選んでいたように見えた。
「別に、言うことじゃないけど」
「なんだ?」
「汐見さん、先月の終わりに休んでたでしょ。家のことだって。……一年の教室、いまごろその話で回ってるの」
「家のこと?」
「それ以上は知らない。ほんとに」
灯は上履きの先を、廊下の床の継ぎ目にぴたりと揃える。俺の顔を見ないのは、余計なことを言った後ろめたさか、それとも、余計ではないと思っているからか。
「……訊いてないぞ」
「訊かないから、言っただけだけど」
灯は珍しく、からかうような顔をしなかった。代わりに、こちらが傷つく場所を知っている人のような、静かな顔をしている。
ノートは鞄の中にある。取り出して開く必要はない。九編ぶんの場所なら、もらった日に一度読んだきりで、紙の並びまで全部覚えている。
病院の廊下。
あの欄は、九月四日に書かれている。だとしたら、家のことは、九月四日より前から――。胸の奥で、まだ名もない予感が冷たく形を持ちかける。
そこまで来て、俺は自分を止める。怖いのは答えではない。少ない手がかりで、汐見の事情を都合よく決めつける自分のほうだった。
灯は「病院」とは一言も言っていない。「家のこと」としか言っていない。その二つを勝手な線でつないだのは、俺だ。
それに、あの十編は、場所がわざと散らしてある。海辺から病院の廊下まで、告白の型をひとつずつ並べた一揃いだ。病院の廊下も、ただ芝居の場所として選ばれただけかもしれない。そう考えれば、胸に浮いた予感を消せるはずなのに、なぜか消えてくれない。
同じ青だから同じ日だ、とは言えなかった。足音が乱れたから言おうとしたのだ、とも言えない。今度も同じことである。目の前の手がかりを並べて答えらしい形にすることと、その人の本当を知ることは、きっと違う。
結局、俺にわかるのは、ひとつだけだ。
稽古の外にいるこの人について、俺は何ひとつ知らない。好きなものも、嫌いなものも、休んだ日にどんな顔で朝を迎えたのかも知らない。稽古の中で向けられるまっすぐな目を、知っているつもりになっていただけだ。
九編ぶんの稽古に付き合い、台詞を暗記するほど何度も聞いておきながら、休んだ理由ひとつ知らずにいた。相手役というのは、たぶんそういう役である。相手の言葉をすぐそばで受け取りながら、その人の痛みには役の外から触れることもできない。
夕日はもう落ち、窓には青黒い夜の気配がにじんでいる。廊下には、白すぎる蛍光灯の光だけが残る。
◇
昇降口で、汐見が待っていた。靴箱の間を抜ける冷たい風の中、その細い背中だけが、誰かを待つ形で止まっている。
「高瀬くん」
「はい」
「……次で、最後だから」
「はい」
鞄の紐を握り直す音が、しんとした昇降口の天井へ小さく反響する。顔を上げないぶん、そのかすかな音だけが、汐見の迷いを俺に伝えてきた。
「ちゃんと、来てね」
「行きます」
「うん」
目は合わない。合わないまま、汐見はそれだけを残し、先に外へ出ていく。夕暮れの冷気が開いた扉から流れ込み、彼女のいた場所をすぐに満たしたのだ。
来て、と言われたのは初めてだ。稽古の日程を伝えられたことなら何度もある。けれど、来てね、は日程ではない。用件でも命令でもなく、俺に向けて置かれた、小さな願いの形をしていた。
三年ぶんの遠さが、そこだけ一歩ぶん縮んだ気がする。その小さな近さが、もう落ちた夕日よりも長く、胸の奥に残っている。




