8. 何も言わない台本が、いちばん長い
前の稽古から七日おいて、十月十七日。空に残っていた青まで消えたころ、俺たちは神社の参道に集まった。
石段の下に自転車を並べ、鳥居をくぐる。参道は思っていたよりも暗く、石灯籠の橙の明かりだけが、夜の底に足元を丸く浮かび上がらせている。
銀杏の匂いが濃い。枝に実っているものではなく、落ちて踏まれたほうの匂いだ。遠くでは祭りの太鼓が、覚えかけの言葉のように同じ節を何度も繰り返している。来月の支度らしい。
砂利を踏むと、静かな境内に驚くほど大きな音が響いた。
「本物の砂利のほうが安いでしょお」
「安いですけど、うるさいです」
「うるさいのがいいの」
「録音的には最悪で――」
「録音の話はしてないの」
参道を歩いてきた家族連れが、汐見を見て振り返る。一度通り過ぎかけてから二度見して、それから顔を寄せ、小声で何か言い合っている。今日は制服ではない。それでも私服の汐見に、同じことが起きる。
灯が石段に腰かけ、冷えかけた夜気から身を守るように膝を抱えた。
「汐見さん、私服でも汐見さんだね」
「制服じゃないと汐見じゃないのか?」
「そういう意味じゃないけど」
「じゃあ、どういう意味だ?」
「……高瀬さんは、私服だとただの人だよね」
「なっ……」
言い返す言葉が見つからない。腹も立たないあたり、どうしようもなく事実である。
写しが一枚ずつ配られる。今日の紙は、書き忘れたのかと思うほど白い。
八編目。参道、夜、言えずに終わる。
台詞は一行もない。短いト書きだけが、広すぎる余白に取り残されたように、紙の真ん中へ置かれている。
(三分。並んで歩く。鳥居まで来て、何も言わずに別れる)
「三分、何を録ればいいんですか?」
「何もない三分を録るの」
「無理で――」
「無理じゃないの。あんたの得意でしょお」
「と、得意なんかじゃないです」
マコは石灯籠に寄りかかり、こちらの逃げ道をふさぐように腕を組む。
「言葉のないお芝居はね、下手な子だと三十秒でバレるの」
「バレるって、何がですか?」
「何も考えてないのが」
汐見は何も言わない。顔色ひとつ変えずに写しを二つに折り、読まなくても覚えられる台本を鞄へしまう。
録音機の赤が、深くなった闇の中に小さく点く。
「――では、まいりましょう」
俺たちは肩を並べ、鳥居の先へ向かって歩き出す。
砂利が一歩ごとに鳴る。汐見の靴が立てる音は、俺のものより少し軽い。歩幅が半歩ぶん違うせいで、二人の足音は寄り添いきれず、ずっとずれたままだ。そのずれに気づいているはずなのに、どちらも合わせようとはしない。
言葉のない三分は、胸の内側をじわじわ押し広げるほど長い。
台詞のある場面なら、俺は次の音が来るのを待っていればいい。けれど、待つものが無いと、黙った時間がこちらの内側へ入り込み、隠しておきたいものまで勝手に照らしていく。
隣を歩く汐見の腕と、俺の腕のあいだは、拳ふたつぶんくらいだと思う。近いのか遠いのかもわからない。ただ、確かめるために横を向けば、何かまで見透かされそうで顔を上げられない。
灯籠の明かりへ近づくたび、地面に落ちた影が二つに分かれ、離れかけては、暗がりの中でまた一つへ戻る。
三年前、俺は三十秒で引き返した。あのときは、言葉が追いつくには短すぎたのだと、今まで自分に言い聞かせている。
では、長ければ何か言えたのかというと、そうでもないらしい。いま、三分ぶん歩く時間を与えられても、喉の奥は固く閉じたまま、言葉の形にさえ動かない。
鳥居が近づく。終わりが見えたことで、かえって胸の奥がせわしなくなる。
――俺は、足を止めてしまった。
台本には歩き続けると書いてある。ここで止まる理由を知っているのは、演出ではなく俺だけだ。それでもマコは切らない。
汐見も止まる。俺が道の途中に立ち尽くした以上、止まらざるを得ない。
汐見が、砂利を小さく鳴らして振り返る。
赤はまだ点いている。だから、この人は俺を見る。稽古の中でだけ向けられる目が、逃げ場のない暗い参道で、まっすぐ俺の胸の奥まで届いていた。
台詞はない。ト書きにも、振り返るとは書いていない。それでも汐見の目は、何かを待つように動かない。
砂利の音が消え、あとには太鼓だけが残る。石灯籠の明かりが二人の足元を橙に染め、杜のほうから聞こえる虫の声が、埋められない沈黙を縫うように途切れず続いていた。
――言え。
三年ぶん温めたはずの言葉が、喉のどこを探しても見つからない。大事に抱えていたつもりで、本当は置き場所ごと忘れ、思い出すことから逃げていたのだ。
俺は何も言わない。三年前と同じところまで来て、同じように立ち止まっているのに、あのころから少しも変わらない口は、やはり同じだけ動かない。
やがて、待つことに耐えられなくなったように、俺たちはどちらからともなくまた歩き出す。
鳥居を抜けて、何も言わずに別れる。
「はい、おしまい」
◇
台本にない台詞は、とうとうひとつも出なかった。
動きのほうは外れている。俺が止まって、この人が振り返った。台本にも、ト書きにも無い。それなのに、声だけはひとつも外へこぼれていない。
その事実に、俺は自分でも驚くほど深く落胆している。
落胆している自分に気づくと、足の裏から体温が引いていく。俺は、彼女が台本を破る瞬間を待ち望んでいた。つまり、彼女が失敗することを、心のどこかで願っていたのだ。
毎回、台本から外れた一言が出るたびに、俺は苦しくなり、その苦しさのぶんだけ、ようやく息ができた。あれは彼女が崩れる音である。それなのに俺は、次のひびが入る瞬間を待っていた。
「今日はね、いちばん上手だったよ、二人とも」
マコが鳥居の下で、何も見逃していない顔をして言う。
「止まりましたけど」
「止まったのも、お芝居のうちにしてあげる」
「なりますか、そんなの?」
「なるの。誰も何も言ってないんだから、間違えようがないでしょお」
灯が石段のほうから、俺の顔を探るようにじっと見つめてきた。
「高瀬さん、さっき、何か言おうとしたでしょ?」
「……それ、稽古の中の話だ」
「わたし、則を教わってないけど」
マコが鳥居の柱に寄りかかったまま、今度は灯を止めるように指を一本立てる。
「名取さん。あんたのは、ただの野次馬でしょお」
「はぁい」
灯は悪びれもせず肩をすくめ、靴底で乾いた音を立てながら石段を降りはじめる。
「じゃあ、稽古の外の話にする。高瀬さん、明日は大丈夫?」
「何がだ?」
「別に。顔がひどいけど」
顔の話をされても、俺には確かめる手立てがない。けれど、灯に尋ね返す勇気もなく、夜の冷たさだけが頬にまとわりついている。
◇
家へ帰ってから、機材帳面に一行足した。日付、時刻、行き先。〈ゴリラ〉貸出、参道。いつもと変わらない字を並べることに、少しだけ救われる。
校外へ出したときは、必ず書く。一年のときからそうしている。誰も見ない紙だが、空いた欄を残すと、今日のことまで無かったように思えて落ち着かない。
◇
自分の部屋で、あの三分を聞く。
誰も何も言っていないので、残っているのは足音だけである。砂利、砂利、砂利。太鼓。虫。遠くの車。音のひとつひとつが、暗い参道の輪郭を静かになぞっていく。
目を閉じると、参道が壁をすり抜け、そのまま部屋の中へ伸びてくる。どの灯籠のそばで影が重なったか、その位置まで思い出せた。
鳥居の手前で、彼女の足音の間隔が一度だけ乱れている。ほんのわずかな乱れなのに、耳の奥へ小さな棘のように引っかかる。
巻き戻す。もう一度。息を止めて聞き直しても、乱れているのは確かだ。
俺が止まったから止まった、というだけの話かもしれない。二歩ぶん遅れて止まったのなら、きっとそういう乱れ方になる。
だが、そこから先は何度聞いてもわからない。驚いたのか、迷ったのか、それとも何かを期待したのか。記録に残っているのは、ただ乱れた、ということだけだ。
音は、何を言ったかしか残さない。声にならない迷いや、飲み込んだ言葉の形までは拾えない。そして今日は、誰も何も言っていない。
だから今日は、俺たちが言わなかったことだけが、消すことのできない沈黙のまま、まるごと録れている。
俺の持っている音源のなかで、胸の奥にいつまでも終わりが来ない、いちばん長い三分である。
◇
翌日の廊下で、汐見とすれ違った。
彼女は前だけを向いたまま、歩調も変えず、こちらへ顔を寄せることさえなく言う。
「昨日の、消さないでね」
「……消しません」
「うん」
交わしたのはそれだけである。目は合わないまま、互いの足音だけが廊下の反対側へ遠ざかっていく。
九月の廊下では、この人は「消しといてね」と言った。同じ人が、同じ歩き方で、今度は逆の言葉を俺のそばへ置いていく。その意味を尋ねる間も与えずに。
三年前、引き返した俺の後ろで、彼女がどんな顔をしていたのかを、俺は一度も見ていない。




