7. 断られる練習が、いちばん上手くいく
七日おいて、十月十日。暦の数字だけが先へ進み、季節はいつの間にか、夏の名残をきれいに脱ぎ捨てている。
屋上へ上がる階段は、いつも昼から置き去りにされたように薄暗い。踊り場の窓が北を向いているせいで、白い光は差しても、そこに溜まる空気だけがひやりと冷えている。下級生が三人、手すりのそばで肩を寄せて喋っていたが、汐見が階段に足をかけた瞬間、弾んでいた話し声がぷつりと途切れ、全員が息を合わせたように壁側へ寄った。
汐見は何も言わず、できあがった隙間を上がっていく。誰も声をかけない。かけないのではなく、かけられないのだと思う。
道が空くというのは、たぶんこういうことだ。彼女のほうが避けているわけではない。ただ、人のほうが勝手に半歩下がり、そこに見えない境目を引いてしまう。
階段の途中で、マコが肩越しに振り返る。
「あんた、いま何を見てたの?」
「……足元です」
「嘘が下手ねぇ」
「ほんとに足元です。段が欠けていて――」
「はいはい」
屋上の扉を押し開けた途端、冷えた風が待ち構えていたように正面から来た。
十月の風は、九月のそれより硬い。吹き抜けるたび、金網のフェンスが低い声で震える。給水塔の影はコンクリートの上に濃く落ち、手を伸ばしても届かないほど高い空を、白い雲だけが急かされるように走っていく。
俺は自分のジャケットを〈ゴリラ〉に着せ、風上へ背を向けさせる。雨の日と同じ作法である。目に見えないぶん、風は雨よりたちが悪い。マイクの膜を、遠慮もなく直接殴りつけてくるからだ。
「風、入りますけど」
「入っていいの。屋上だもの」
「……はい」
「風のない屋上なんて、嘘くさいでしょお」
灯は給水塔の陰に座り込み、退屈を持て余すように脚を投げ出している。日向と日陰の境目が、靴の先で揺れていた。
「わたし、今日は?」
「見学」
「また?」
「見てるのも仕事なの」
「じゃあ、わたしの仕事はいつ来るの?」
マコは写しを配りながら、慰める気など少しもなさそうな手つきで灯の頭を軽く叩く。
「今日じゃないの」
「名前のない役はねぇ、出番の日を選べないの」
「ひどい部活」
「何言ってんの! いい部活でしょお」
カードを挿す。赤いランプが、吹きつける風にも揺らがず小さく灯る。
「――では、まいりましょう」
七編目――。
『屋上、昼、断るために言う』
紙の上では短いその設定が、今日は妙に重く見えた。
汐見は、好きだと言いながら断る役である。俺は、その言葉を受け取るより先に手放される、断られる側だ。
伏せられていた視線が上がり、迷いなくまっすぐ俺へ届く。稽古の中でだけ向けられる、逃げ場所をなくす目だ。
「好きだよ。ずっと好きだった」
風にさらわれた髪が頬を横切っても、顔の向きだけは少しも変わらない。乱れているのは髪だけで、声も、呼吸も、眼差しも、それ以外のすべてが、この人の側の段取りに静かに従っている。
「ずっと言えなくて、言えないまま好きで、それで、いまここに来たんだけど」
風が一度だけ止む。フェンスの鳴る音も、遠くの運動部の声もふっと消え、世界が息を詰めた隙間に、汐見の声だけが残る。
「だから、ここで終わりにする」
堪えていた息を吐くように、風がまた動き出す。
「返事は、いらない。聞いちゃったら、終わりにできなくなるから」
俺に与えられた台詞は、「なんで」の三文字である。
それなのに、考えるよりも早く、口からこぼれたのは別の言葉だった。
「わかりました」
速い。胸に届く前に喉が答えたのだと、自分でもわかってしまうくらいに速い。
「はやいねぇ、いまの」
風を切って、マコの声が飛んでくる。
「用意してた人の速さ」
喉の奥が急に狭くなる。風は冷たい指で首筋を撫でていくのに、背中だけが逃げ場を失ったように熱を持つ。則一。撮り直しはしない。
俺は、断られる準備だけなら三年ぶんしてある。いつその瞬間が来ても傷ついていない顔を出せるように、ずっと用意してあるから、速いのだ。
三年前、体育館の裏から引き返す道で、俺は自分に何を言ったか。――どうせ駄目だった、言っても同じだった。あの日からずっと、断られるより先に諦め、断られたあとの顔だけを先回りして作り続けてきたことになる。誰にも頼まれていないのに、やめることもできなかった練習である。
その成果を、俺はいま、この屋上で披露している。言うはずだった三文字よりも速く、何度も胸の中で擦り切れさせてきた六文字を。
そこへ、わずかに揺れた汐見の声が割って入る。
「……ちゃんと断れるように、練習しといてよかった」
台本にはない。稽古から外れた言葉は、どうしていつも、いちばん触れられたくないところだけを正確に選んで刺さるのだろう。
この前の朝、俺が運んだ伝言を思い出す。彼女が断らなければならない相手を、ほかでもない俺が、その目の前まで届けたのだ。
あの断りは、たしかに上手かった。上手いということは、必要になったとき迷わず取り出せる形を、前から心のどこかに持っていたということである。
「はい、おしまい」
◇
赤いランプが消えると、張りつめていた空気までほどける。マコは汐見に歩み寄り、その肩を軽く叩く。
「今の、うまかったねぇ」
「……ありがとうございます」
「断るお芝居って、いちばん難しいのよぉ。相手を潰さないで断るんだから」
「はい」
「あんたのは、潰してなかった。上等」
マコは汐見の肩から手を離し、何かを確かめるように俺のほうへ一度だけ目を向ける。
「……上等ですか?」
「上等。あたしが言うんだから間違いないの」
うまい、と言われたのは、好きだと告げたほうではなく、断るほうである。
褒められている汐見の声を、俺は唸る風の中で聞いている。うまく断れる人は、たくさん断ってきた人だ――とは限らない。そんなことはわかっているのに、勝手に過去を数えようとする自分がいる。そして思い浮かべてしまったあとで、その考えがどれほど身勝手で醜いかに気づき、胸の内側が遅れて冷える。
灯が給水塔の陰から抜け出し、何も知らない顔で俺の横に並んだ。
「高瀬さん、顔」
「顔がどうした?」
「別に。風のせいってことにしといてあげるけど」
「……そうしてくれ」
「くぷぷぷ」
灯はフェンスの向こうに広がる空を眺める。笑い声を風にさらしてから、不意に何かを見抜いたような真顔になる。
「高瀬さんさ、あの台詞、なんで言わなかったの?」
「台本の三文字か?」
「うん。『なんで』って訊けば、汐見さん、答えたと思うけど」
「台本どおりに訊いても、答えるのは役のほ――」
「そうかな。今日のは、役じゃなかったと思うけど」
訊けなかった、とは言えない。もし答えが返ってきたら、役では済まなくなる気がして怖かったとも、もっと言えない。
◇
その夜、俺はカードを挿していない。机の明かりに照らされた小さな板は、黙ったまま屋上の続きを待っている。
聞かないと決めたわけではない。ただ、挿そうとする手がどうしても動かなかっただけである。机の上にしばらく置き、目を逸らせないまま眺め、それから逃がすように引き出しへ入れた。
聞き返せば、また何通りにも聞こえてしまう。声の揺れや息の間に意味を探し、断られる声を何通り聞き分けたところで、断られたという事実だけは、どんな音にも変わってくれない。
窓の外では、暗い空を渡る風が電線を細く鳴らしている。屋上で耳にまとわりついた風の続きが、離れずに家までついてきたようだ。
翌朝、俺は音源台帳の再生回数の欄に、ペン先を少しだけ止めてから「零」と書いた。
「再生の欄、零になってるぞ」
恭平さんが俺の肩越しに身を乗り出し、書きたての帳面を覗き込む。
「はい」
「初めてじゃないか?」
「聞いても、わからな――」
「わからないものは、聞いてもわからない」
恭平さんは続きを急かさずに帳面を閉じると、紙の擦れる音と一緒に棚へ戻す。
「でも、まあ、零のほうが健康だな」
「健康ですか?」
「二十七よりはな」
「……その話は、もういいです」
「よくない。書いたものは、そのために書く」
◇
残りは三編である。終わりが見えたはずなのに、その先だけが薄暗い階段のように、まだ形を見せない。
参道と、病院の廊下と、それから――輪ゴムの下。並べた文字の最後だけが、何かを隠すように沈黙している。
うち一編は、まだ誰も読んでいない。




