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6. 他人の告白なら、俺はいくらでも言える

 十月三日。朝の廊下には、まだ人の気配が薄い。


 東向きの窓から差し込む光は、西日とはまるで別の物質でできている。冷たく、白く、漂う埃の粒をひとつずつ指で拾えそうなほど澄んでいた。磨かれた床へ窓枠の四角が長く伸び、その上をまたぐたび、上履きの甲にだけ一瞬、淡いぬくもりが乗る。九月のあいだ、俺が見つめていたのは沈んでいく光ばかりだ。けれど朝の光は、まだ何も終わっていないという顔で、廊下の先まで静かに満ちている。


 九日ぶりの稽古である。その事実だけで、胸の奥に薄く張っていた膜が、朝の光にさらされるように落ち着かない。


 九月のうちにもう一度あるはずだった稽古は、汐見の都合で流れている。理由は聞いていない。マコから届いたのは「次は無し」という短い連絡だけで、それきり、予定の空白だけが残った。


 そのあいだ、稽古の外で汐見と交わした言葉は、ひとつもない。黙っていれば短いはずの空白が、意識した途端、どこまでも長くなる。


 河川敷であの二行を口にして以来、俺は赤いランプの外側で汐見に話しかける方法がわからなくなった。正確に言えば、失ったのはもっと前で、あの夜、手の中に何も残っていないことを自分で確かめただけなのだ。


 図書室の前では、名取灯が壁にもたれ、こちらを待っている。


 朝練の前だからか、いつもは肩に落ちている髪をひとつに縛っている。俺を見つけると、灯は壁から背を離し、ためらいを隠すように、わざわざ廊下の真ん中へ進み出た。


「別に、待ってたわけじゃないけど」


「……何か用か?」


「高瀬さん、頼まれてくれる?」


「内容による」


「うちのクラスの男子が、汐見さんに言いたいことがあるんだけど」


 朝の光が、廊下の床に長い四角を落としている。灯はその白い四角の中に立ちながら、爪先だけを影へ逃がしていた。どちらにも踏み切れずにいるみたいで、俺はなぜか、その足元から目をそらせない。


「手紙は?」


「あの人、もらいすぎて読まないって。だから口で言うしかないんだけど、本人は近づけないの」


「近づけない?」


「近づけるなら、わたしに頼まないでしょ」


 同じ部の後輩が運べば、それで済む話である。そう思った俺は、浮かんだ疑問をそのまま口にした。


「お前が言えばいいだろ。同じ部なんだから」


「わたしが運んだら、部の話になるの。大会前だよ?」


 灯は上履きの先で、床の継ぎ目をゆっくりなぞる。白いゴムの先が線を行き来するたび、口にしにくい事情までそこへ押し込んでいるように見える。


「あの子にも、演劇部の人には言わないでって言われてる」


 それで、外の人間を探した、ということらしい。灯の頼み方が妙に遠回りだった理由だけは、ようやくわかる。


「汐見さんと喋れる外の人は、高瀬さんだけだった」


「その子、なんて言ってた?」


「『好きです』って。それだけ」


「それだけか?」


「それだけ。長いと、高瀬さんが忘れるでしょ」


 忘れない、と言い返すための材料が、俺にはない。実際、自分の言葉なら、たったそれだけでも喉の手前で見失う。


「名前は?」


「言わない。断られたときに、名前だけ残るのは可哀想でしょ」


「……それ、俺は残っていいってこと――」


「高瀬さんなら、隣に立っても誰も騒がないでしょ」


 その言い方に、悪意はない。気遣いですらあるのかもしれない。だからこそ、傷ついた顔をする逃げ道さえなかった。


 汐見詠の隣に立っても騒がれない人間――それはつまり、初めから勘定に入っていない人間のことだ。渡り廊下を歩くだけで周囲の歩調が変わる相手と、同じ部屋で息をしていても、誰ひとり振り返らない。そこにあるのは信用ではない。遠すぎて疑う必要すらない、決定的な距離である。


 喉の奥が、乾いた朝の空気を吸うたび、ひりつくように痛い。まだ何も言っていないうちから、言葉を飲み込んでいるようだ。


「……わかった。伝える」


「ほんとに言う?」


「言うって言っただろ」


「ふうん。……そういうとこは、ちゃんとしてるんだ」


「褒めてるのか?」


 灯は答えず、鞄の紐を肩へ掛け直す。その横顔に浮かんだものが呆れなのか安心なのか、朝の白い光では読み取れない。


 引き受けた理由については、考えないことにした。胸の奥を探れば、たぶん、誰にも見せたくないほど身勝手なものが出てくる。


       ◇


 図書室は、まだ鍵が開いたばかりである。扉の向こうには、夜から取り残されたような静けさが沈んでいた。


 朝の書庫には、紙とニスと、少しの埃の匂いがこもっている。机の天板は夜の冷たさを抱えたままで、手のひらを置けば、じわじわと体温を吸い取られる。窓際の書架では、光の届いた背表紙だけが色を取り戻し、まだ影にいる本との境目をくっきり浮かべている。


 鍵を開けに来た一年の図書委員が、汐見の姿を認めたところで手を止める。貸出票の束がこわばった指から滑り、乾いた音を重ねながら床へ散った。


「あ、す、すみませんっ」


「大丈夫。拾うわ」


 汐見が迷いなく屈む。一年は頬まで赤くしたまま顔を上げず、何度も頭を下げると、逃げるような足取りで図書室を出ていく。


 この人がいる場所では、いつもこういうことが起きる。物を落とす。言葉が詰まる。呼び方を言い間違える。それでも汐見を咎める目は、誰ひとり向けない。向けないまま、みんな自分のほうを半歩ぶん外し、その小さなずれに気づかないふりをする。


 マコは書架のあいだにパイプ椅子を二つ置き、向きまで確かめながら位置を決めている。


「朝がいいの。人がいないから」


「朝って、眠くないんですか?」


「役者は寝てても声が出るの」


「出ますか?」


「出るのよぉ。あたしは六歳から出てるもの」


 マコが二つ折りの写しを配る。俺のぶんに刷られた台詞は一行だけで、残りはすべて「(黙って聞く)」だ。紙の余白の白さが、今日はやけに広く見える。


 汐見は写しの端を折り返し、指の腹で丁寧に線をつけている。九日ぶりに見る手つきなのに、指先の癖まで覚えていた自分が嫌になる。


 目は合わない。挨拶もない。九日ぶんの間を埋められる言葉を、俺は持っていない。そして持っていないという事実を、逃げ場のない朝の光の下で、もう一度突きつけられる。


 カードを挿す。指の腹へ、押し込むときの小さな抵抗が返ってくる。薄い板を境に、逃げられない場所へ入っていくような感触だった。


 赤が点く。胸の内側にも、同じ色の火が灯る。


「――では、まいりましょう」


 六編目。


『図書室、朝、他人の代わりに言う』


 汐見は、友達の代わりに言葉を運んできた役である。俺に与えられた台詞は一行しかない。その少なさにほっとしたはずなのに、紙を持つ指は落ち着かなかった。


 伏せられていた汐見の視線が上がり、まっすぐ俺へ届く。稽古の中でだけ向けられる目だ。九日ぶりにその目に捕まって、心臓がひとつぶん遅れて強く鳴る。


「あのね。……これ、わたしの言葉じゃないの」


 声が、書架のあいだを澄んで通る。本は音を吸う。それでも、吸われるはずの部屋で、この人の声だけは最後の棚まで届き、そこに見えない糸を張る。


「あの子が、ずっと言えなくて。だから代わりに来たの。……好きです、って」


「……その人は、来ないんですか?」


「来ない。来られないの。……言えない人は、来られないんだよ」


 俺の一行は、それで終わりだ。台本も、そこで閉じるはずなのだ。


 けれど、汐見は終わらなかった。小さく息を吸う気配が、静まり返った書庫で妙に近く聞こえる。


「……わたしの代わりに、誰かが言ってくれたらいいのに」


 台本にはない。けれど、俺の中にはずっとあった問いを、逆向きに差し出されたような気がする。


 書架のあいだの空気が、すっと一段冷えたように感じる。灯もマコも、息を潜めたまま何も言わない。稽古を止められるのは演出だけだ。けれどマコは、面白がる顔さえ見せず、止めようとしない。


 言ってはいけない。俺の役は代わりに告げられる側で、台本にはもう一行も残っていない。黙って首を振れば、それで済むはずだ。汐見の今の言葉まで、稽古の中のものとして受け取ればいい。


 それなのに、胸の奥で押し殺していたものが、考えるより先に口をこじ開ける。


「代わりじゃ、駄目だ」


 言葉が落ちてから、それが相手役の答えではないと気づく。丁寧語まで消えている。俺は本気になると、いつも敬語から先に落としてしまう。まるで礼儀という薄い壁さえ、気持ちの熱には耐えられないみたいに。


「わぁお」


 マコの声が書架の向こうから飛んでくる。楽しさを隠す気のない、弾んだ声である。


 喉の奥が焼けるように熱い。この一言も、逃げ場を失ったままカードの上に乗っている。則一。撮り直しはしない。九日ぶんの沈黙の果てに俺が録らせたものは、これになった。


「はい、おしまい」


       ◇


 片付けが終わったあと、書架のあいだで汐見を呼び止める。声をかけるだけなのに、さっきよりも胸がうるさい。


「汐見。……これ、俺のじゃないんだけど……」


「うん?」


「一年に頼まれた。名前は聞いてない。……好きです、って」


 言い終えた瞬間、自分の口の軽さに驚く。他人の言葉なら、どこにも引っかからない。喉の途中で熱を帯びることも、形を失うこともなく、借り物のまま、すんなり外へ出ていく。


 汐見の息が、わずかに深くなる。背筋がすっと伸び、声が通る側へ切り替わっていく。その変化を、俺はもう知っている。


「ありがとう、って伝えて。うれしかった、って」


「……はい」


「でも、ごめんなさい、って」


「……わかりました」


「ちゃんと言ってあげてね。ちゃんとした言葉で」


 汐見は本の背に指をかけたまま、こちらを見ようとしない。指先だけが、読まないはずの題名をなぞるように、ほんの少し動いている。


「……ちゃんとした言葉って、どういうのですか?」


「その子が言いそうな言い方。わたしのじゃなくて」


 完璧だった。舞台の上と同じ声で、相手を傷つけないための断りだけが、磨かれた小道具のように置かれる。息の深さも、語尾の落とし方も、稽古のときと変わらない。


 ただ、目は本の背に貼りついたままである。俺のいる側へは、どうしても上がってこない。


 赤はもう点いていない。切れたあとのこの人は、やはり俺を見ない。わかっていたはずのことが、今は胸の奥へ細い棘のように残る。


 声だけが、稽古の外まで出てきている。けれど目は、赤い光の向こうに取り残されたままだ。


 その差が、今日はやけにはっきり見える。見えてしまえば、気づかなかった頃には戻れない。


       ◇


 廊下では、灯が壁際に立って待っている。窓から射す光が少し高くなり、その横顔を白く縁取っていた。


「ちゃんと伝えた?」


「言われたとおりに言った」


「なんて?」


「ありがとう、うれしかった。……でも、ごめんなさい、って」


「……そう」


 灯は驚かない。ただ、しばらくのあいだ、その三つの言葉を口の中でそっと転がし、誰かの痛みに合う形へ整えているように見える。


「そのまま伝えろって。言い方も、その子が言いそうな言い方でって」


「わかった。そのまま渡す」


「本人には、お前が言うのか?」


「わたしが言う。名前を伏せたのは、わたしだから」


 灯は鞄の紐を肩へ掛け直し、朝の光が満ちるほうへ歩き出す。細い背中が、白い四角の中へ入っていく。


「……悪かったな」


「別に。断られるのは、あの子も知ってたと思うけど」


 床に落ちた窓枠の四角の中で、灯が一度だけ足を止める。肩越しに振り向いた目には、からかいよりも、確かめるような静けさがあった。


「高瀬さんの分は、誰が代わりに言うの?」


「……え?」


 答えられない。息だけが喉につかえ、そこにあるはずの言葉へ手が届かない。


「ふふっ」


 灯はそれ以上訊かず、小さな笑いだけを廊下に残して角を曲がっていく。その姿が消えたあとも、さっきの問いだけは、朝の光の中に置き去りになっていた。


 ――他人の告白なら、俺はいくらでも言える。他人の言葉は、口の中のどこにも引っかからず、俺を傷つけないまま外へ出ていくからだ。


 俺のぶんだけが、誰の手にも渡せず、誰の口にも運んでもらえない。胸の内側で形を持ちながら、声になる場所まで辿り着けない。


 そして、引き受けた理由が、いまごろになって喉までせり上がってくる。稽古の外で汐見に話しかける口実が、九日ぶりに手に入ったからだ。ただそれだけのために、俺は他人の告白を運んだ。卑怯だとわかっていても、あの人に向けて声を出せる理由を、手放せなかったのだ。


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