5. 嫉妬の稽古が、稽古じゃなくなる
九月二十四日。放課後の教室へ、西日が蜂蜜色の帯になって斜めに差し込んでいた。
机の乾いた木の匂い、床に残る消しゴムのかす、隣の棟から風に乗ってほどけてくる吹奏楽の音。誰もいない教室では、どの気配も壁や窓に当たり、いつまでも消えずに回っている。
窓の外の渡り廊下を、下校する生徒の列が流れていく。そのうちの何人かがこちらを見て、思わず足を止めた。視線の先にいるのは俺ではない。窓際で夕日に縁取られた汐見のほうだ。二年の教室に汐見詠がいる――ただそれだけで、渡り廊下を行く足まで、目に見えて遅くなる。
俺はそっと窓を閉める。外の音を切り離すためでもあり――たぶん、彼らの視線から汐見を隠したいという、名前のつかない気持ちもあったのだと思う。
マコが「ここでやる」と決めたため、演劇部の稽古はこの日だけ、いつもの場所を離れて校舎の端へ移されている。
「なんで教室なんですか?」
「教室がいちばん、逃げ場がないから」
「逃げ場が、ないんですか?」
「そう。海も駅も、走れば出られるでしょお。教室はね、出ようとしたら、みんなの前を通るしかないの」
灯が机の上に鞄を置き、そこへ腰かけて、落ち着かなそうに脚をぶらぶらさせる。
「わたし、今日は何の役?」
「別の誰か」
「誰かって、誰?」
「じゃあ、せめて名前くらい――」
「無いの。無いのがいいの」
灯が納得のいかない顔で眉を寄せ、マコを見上げる。
「台本には書いてない。だから、誰でもいいの」
灯は唇を尖らせ、机の脚を踵で軽く小突いた。乾いた音が、不満の代わりに教室へ転がる。
「ひどい役」
「いい役よぉ。名前のない役は、あとでいくらでも化けられるから」
レコーダーにカードを挿す。赤いランプが、夕暮れの教室に小さく点る。
「――では、まいりましょう」
五編目。
『教室、放課後、妬みながら言う』
台本の上では、俺は「別の誰かと歩いていた」ことになっている。彼女はそれを目にした側であり、胸に湧いた妬みを隠しきれないまま、俺へ告げる側だ。
「臨場感がいるでしょお。はい、灯さん、そこ歩いて」
「なんでわたし?」
「一年だから」
「理由になってない」
「なってるよぉ。歩いて」
灯は深いため息を落とし、廊下側をしぶしぶ歩き出す。上履きが床を擦る音は、静まり返った教室では妙に生々しく、誰かが遠ざかっていく足音のように響いた。
汐見の目が、まっすぐ俺を捉える。ふだんは決して向けられない、稽古の中でだけ俺に届く、あの目だ。
「……見たよ。昨日」
台詞だ。ここまでは、台本に書いてある。
「べつに、いいんだけどね。わたしが何か言える立場じゃないし。でも――」
その先で、言葉の流れが急に速くなる。
台詞が飛んだのではない。ただ、速くなった。息継ぎは浅く、語尾はつまずくように前へ前へと倒れていく。あれは役者が整えた呼吸ではない。胸の奥からあふれるものに追われ、必死に走っている人間の呼吸だった。
「でも、わたしのほうが先に見つけたのに、とか、そういうの、ぜんぶ、いま――」
廊下側で、灯の足が止まる。それきり、命じられた役さえ忘れたように動かない。この子は芝居を見る目がいちばん正確だ。だからこそ、いま目の前で起きているものが芝居ではないと気づき、止まったのだと思う。
「……なんで、あの日は呼び止めたの?」
台本には、ない。
「え? あ、あの……その……」
俺は答えを探すことも、視線を外すこともできなかった。胸の奥だけが不意に掴まれ、息の仕方を忘れている。
「はい、名取さん。出て」
マコがぱん、と手を叩く。灯を廊下へ追い出し、自分もその背中を押すように出ていった。
「ちょ、ちょっと先輩! まだ途中――」
「カット! カットぉぉぉ!!」
廊下から飛んできた声に押されるように、俺は録音を止める。赤いランプが消え、教室から急に熱が引いた。切るのは演出の役目である。けれど今日は、「おしまい」の一言さえ落ちてこない。
◇
片付けは、俺一人で引き受けた。汐見はもう鞄を抱え、何も言わず先に廊下へ出ている。
机を戻し終えるころには、西日は窓の下の桟まで沈み、最後の細い光だけを残していた。教室は、誰かが幕を引いたように急に暗くなる。俺は壁際まで歩き、蛍光灯のスイッチを押した。
ぱっと広がった白い光が、机の傷も色もいちどきに薄め、どの面も同じように平らにしてしまう。
ノートを鞄へ戻そうとした瞬間、指先が滑った。床へ落ちかけたそれを掴むと、一編目の見開きがぱらりと開く。いつも右手で押さえている右のページ、その下端が、隠しようもなく白い光の下へさらされた。
いちばん下の罫の、右の端。見落としてしまいそうなほど小さく、けれど確かに書かれている。
九/四。
青だった。〈相手役〉の欄を埋めているのと、まったく同じ青である。
四日前の夜、机の蛍光灯の下で、あの欄の文字が青だと知った。同じ白い光に照らされなければ、今日もきっと黒にしか見えなかったはずだ。
ページをめくる。二編目、三編目、四編目。五編目から先は、台詞を読んでしまわないよう、隅だけを目でなぞって送った。鼓動だけが耳元へ近づいてくるような気がしながら、開けたのは九編。十編目は輪ゴムの下に閉じ込められ、そこだけはどうしても確かめられない。
九編とも、九/四だった。
――だが、これは彼女が書き入れた日付にすぎない。書こうと思えば、どの日付だって書ける。そう言い聞かせる声が、頭の中でやけに冷静だ。
そう思いながら、一編目の右のページへ戻る。台詞は黒い。一編目だけは長く、最終行が罫の右の端まで伸び、その先にある「九」へ触れていた。
台詞の最後の一字、その払いが、青い線の上へわずかに乗っている。
黒が上だ。あとから書かれたものだけが、下の色を覆う。つまり、台詞が来たのは、この日付より後なのだ。
理解できたのは、そこまでだった。その先にある意味を考えようとすると、頭の中が白く途切れる。
指先から、じわじわと冷たさが広がっていく。蛍光灯に照らされた手の甲まで紙と同じ色に見え、自分の手ではないようだった。
九月四日。
――俺は、その日に何をしていた。
◇
放送室には、恭平さんがまだ残っている。天井の蛍光灯は、さっきの教室より少しだけ青く、機材の角に硬い影を落としている。
「まだいたのか?」
「……帳面、見てもいいですか?」
「部の帳面だ。書いたのはお前だろ」
棚から機材帳面を取り出し、震えそうになる指でページをさかのぼる。日付、時刻、行き先。一年のときから毎日欠かさず書いてきた欄に、見慣れた俺の字がずっと連なっている。
九月四日。
一六二〇。〈ゴリラ〉貸出。第二視聴覚室。返却の字は、その下の行にある。
その字を見た瞬間、記憶の底に沈んでいたあの日の部屋が、光も匂いも連れて一気に戻ってくる。
暗幕は開いており、傾いた西日が床の奥まで長く届いていた。汐見は広い部屋に一人だけ残り、机に薄緑のノートを開いて、何かに追いつこうとするようにペンを走らせている。手が動いていたのは、見開きの下ではない。頭のほうだった。
俺は、卓へ寄る途中、何気なくそのページへ目を落とす。
欄の中に、「高瀬律」。
あのときの俺は、それを音響の当番名だと思い込んだ。演劇部は、頼む相手の名前を稽古の紙に書く。俺は機材を貸しに来た側で、目の前の紙はどう見ても稽古の紙に見える。それだけで勝手に納得し、「お疲れ」の一言さえ渡さず、〈ゴリラ〉を卓の上へ置いて部屋を出た。
色までは思い出せない。あの部屋も西日に染まり、青は黒の底へ沈んでいた。俺が青だと知ったのは、四日前の夜である。
だが、字だけは読んでいる。あの場で、間違いなく目に入れていた。
――九月四日。あの欄には、そのときもう、俺の名前が在る。
汐見が放送室へ来たのは、九月十一日である。
七日前だ。
◇
帰り道の河川敷。暮れ残る土手を、汐見が自転車を押して歩いている。追いつこうと足を速めたのは、俺のほうだった。
乾いた草が、昼の熱を吐き出すような匂いを立てている。日はもう向こうの山へ沈み、川面には空の名残だけが薄紫の筋になって伸びていた。斜面の下に咲く彼岸花は赤を失い、夜の入口に散らばる黒い点へ変わっている。
声をかけられないまま、堤防を百歩ぶん並んで歩いた。自転車の車輪が砂を噛む音と、互いの靴音だけが、近いようで遠い距離を測っている。
何かを言うために追いついたわけではない。ただ隣を歩き、この沈黙のまま別れるつもりでいる。そうすれば、今日の稽古も、胸の奥で騒いでいるものも、まだ名前をつけずに済むはずだった。
それなのに、胸より先に口が動く。
「汐見。さっき、なんであの日は呼び止めたのかって、訊いたよな?」
汐見の手の中で、自転車がぴたりと止まる。
言い終えた瞬間、自分がどこから何を持ち出してしまったのか、遅れてわかった。喉の奥がひやりと冷える。
あれは、赤が点いているあいだにこぼれた言葉だ。台本にない一行を、赤が消えたあとの土手まで持ち出してしまった。則四。切ったら、稽古場の外へ持ち出さない。
撮り直しはきかない。ここには、撮っているものすら無い。逃げ道にしてきた赤いランプも、いまはどこにも点いていない。
けれど、もう出てしまった。引き返せないなら、せめて残りも言葉にする。
「あのノート、最初から俺じゃなきゃ駄目だったんだよな?」
返事の代わりに、長い間が降りる。川の音が、その空白を隅から隅まで埋めていく。土手の草は風に押されて一斉に傾き、ためらうように身を震わせてから戻った。誰かの家の換気扇が、遠くで低く回っている。俺は、拾わなくていい音ばかりを正確に拾ってしまう人間だ。いま欲しいのは音ではないのに、耳だけが答えを待つ怖さから逃げるように、世界の端まで働き続けている。
汐見は俺を見ない。ハンドルを握る指へわずかに力を込め、曲がってもいない前輪の向きを直す。その小さな仕草のあとで返ってきたのは、俺たちを守る壁のような、台本の側の言い方だった。
「……それ、何編目の台詞?」
「台本にない」
「そう」
自転車のスタンドが、かちりと硬い音を立てる。
「じゃあ、いま録ってる?」
「……録ってない」
「そう」
「汐見」
「……じゃあ、聞かなかったことにする」
自転車が動き出す。前照灯が点いて、土手の草を冷たい白で撫でながら遠ざかっていく。ペダルの軋みが二度鳴り、三度目からは風に溶けて聞こえなくなる。
俺は追わなかった。――いや、遠ざかる白い光へ足を踏み出せなかった、というほうが正しい。
◇
気づけば、広すぎる堤防に一人で立ち尽くしていた。川風だけが、汐見のいた場所を通り抜けていく。
赤いランプは、どこにも点いていない。
録れていない。だから、なかったことにできる。そうやって逃げれば、俺たちのあいだにある何かも、まだ壊さずに済む。
そう思った瞬間、胸の奥に遅れて穴が開く。その痛みで初めて、自分が何を失ったのかを知った。




