4. 謝罪の場面で、俺は謝る側じゃなかった
九月二十日は、朝から雨だった――。薄い灰色の空が校舎の屋根すれすれまで垂れこめ、窓ガラスを細かな雨粒が休みなく叩いている。
「本物の雨のほうが安いでしょお」
マコが折りたたみ傘を指揮棒のように振りながらそう言って、俺たちを昇降口へ連れ出した。傘立ての金属と、濡れた上履きと、雨を吸ったコンクリートが混ざり合う、冷たく湿った匂い。庇の先からこぼれる水が、たたきに黒く細い線を次々と引いていく。
「稽古場、出ちゃいますけど」
「稽古場は場所じゃないの。もう忘れたの?」
「……すみません。〈ゴリラ〉が濡れます」
「濡らさないの。あんたの仕事でしょ」
俺は自前のジャケットを機械に着せた。庇の下ぎりぎりに置き、風上へ背を向けさせる。雨の日の録音では、雨音そのものより、風が機械を叩く鈍い音のほうが邪魔になる。濡れる寒さより失敗のほうが怖くて、俺は襟元を念入りに確かめる。
名取灯が傘を差して、少し離れた柱の陰に立っている。こちらへ混ざる気はないくせに、帰るつもりもないらしい。傘の縁から落ちる雫だけが細い幕となり、灯と俺たちを隔てていた。
「わたし、なんでいるの?」
「見学」
マコは、そんな疑問など初めから存在しないみたいに答える。
「見学、いる?」
「いるの」
灯はそれ以上言い返さずに、ふんっと鼻を鳴らすと傘の柄を肩へ預けた。わずかに尖った唇が、ここにいる理由など本当はどうでもいい、と言い張っている。
そこへ、恭平さんが雨の薄幕をくぐり、傘を畳みながら現れた。制服の肩から落ちた雫が、足元で小さく弾ける。
「高瀬。音源台帳、十七日のところ」
「……はい」
「再生二十七回って、自分で書いてあるぞ」
――よりにもよって、自分で書いた台帳である。逃げ道まで自分の字で塞いでいた。
放送で使う音には、何回聞いて決めたかを書く。恭平さんが一年に教える作法で、俺はそれを稽古の音にも機械的に当てはめてしまった。空欄を見ると、考えるより先に手が埋める。几帳面さは褒められるためのものだと思っていたのに、こういうときだけ刃先をこちらへ向けてくる。
汐見が、庇の下で黙って聞いていた。その横顔からは、台帳の話をどう受け取ったのか、まるで読めない。
「はい、そこまで。音の話は音の話」
マコが手のひらを立てて、二人のあいだへ薄い壁のように差し入れる。
「四じゃないから、いまのは咎めない。でも、あぶないよぉ」
あぶない、の意味はわかる。音の話は音の話として片づけられるうちはいい。けれど、そのすぐ隣にはいつも、片づかないほうの話が息を潜めて立っている。
恭平さんは傘を持ったまま、録音の届かない庇の奥へ下がった。床に長く伸びた影だけが、その場に残る。
〈ゴリラ〉の赤が点く。雨に冷えた世界の中で、そこだけが熱を持ったように見えた。
「――では、まいりましょう」
四編目。
『昇降口、雨、謝りながら言う』
この編で、俺は初めて決める側に置かれた。彼女が謝りながら告げ、俺は許すか、許さないかを選ぶ。台本には両方の分岐が書いてある。どちらを選んでもいい、というのがいちばん重い。その自由が、逃げ道のない命令より深く胸にのしかかる。
汐見の目が、ぐっと俺に来る。稽古の中でだけまっすぐに届く、あの目だ。役の向こうから見られているはずなのに、隠してきた俺自身を見つけられたようで、胸の奥が狭くなる。
「ごめん。ずっと言えなかった」
汐見の声が、雨の中をまっすぐ抜けてくる。雨は音を吸うから、ふつうなら声は遠のく。それでも耳元まで届くのは、汐見が息を細く強く支え、通るように出しているからだ。
濡れた前髪が額に貼りついている。それさえ役の痛みを映す段取りのように見えた。俺のほうは、髪から雫を垂らし、返す言葉も持てない、ただの濡れた男子高校生でしかない。
「言えなかったのは、こわかったからじゃなくて……、たぶん、ずるかったからで」
台詞が終わる。雨に空いた短い沈黙へ、俺の番だけが取り残される。
許すほうの台詞は「いいよ」。許さないほうは「もう遅い」。どちらも三文字か四文字でしかないのに、口にすれば、もう戻れない線を引く気がした。許せるほどわかってもいない。拒めるほど傷ついた側でもない。だから、どちらも俺の口から出れば嘘になる。
息を吸う。喉の奥が、雨の匂いに冷やされて痛い。選べばいいだけの話だ。台本に書いてある。書いてあるほうを読むのが俺の仕事で、それ以外の何かをしろとは、誰にも頼まれていない。そう言い聞かせるほど、胸の奥では、選べない理由だけが大きくなっていく。
なのに、口が動かなかった。唇の裏に、言葉より重いものが貼りついている。
そこへ、書かれていない一行が来る。雨音の隙間を縫い、残っていた逃げ道まで静かに塞ぐ。
「……あのとき、なんでもないって言われて、わたし、うん、って言ったの」
「!?」
雨の音が、急に遠くなった。目の前の景色が薄れていき、代わりに、しまい込んだはずの光景が胸の裏側で鮮やかになる。
三年前の九月。体育館の裏。三十秒。
俺は自分の失敗を、自分ひとりの荷物だと思って三年運んできた。誰にも触れられないように抱え、その重さまで自分だけの罰だと決め込んでいる。その荷物に、いま初めて、もう一人ぶんの重さが乗る。腕の中で、知っていたはずの形が音もなく崩れていく。
――彼女の側には、中身まで残っている。俺が失敗という輪郭だけにして封じた記憶を、彼女は言葉も痛みもこぼさず抱えていたのだ。
そして、彼女は止まらなかった。俺が飲み込めるまで、待ってはくれない。
「……何回、聞いたの?」
台本にない。二行続けて、外れている。なのに汐見の声には迷いがなく、そのぶん、俺の足元だけが頼りなく揺れる。
「くっ……」
喉が、内側から貼りつくように乾いた。指の腹にはじっとりと汗がにじむ。庇から落ちる水の音が、追い立てるように耳を叩く。
赤は点いている。則三、芝居は止めない。止めるのは演出だけだ。マコは止めない。視線さえ寄越さず、黙ったまま、俺が続けるのを待っている。
「……三回?」
嘘をついた。
言い終えた瞬間、〈ゴリラ〉の赤が視野の隅で冷たく光っているのが見える。則一、撮り直しはしない。消したいと思ったときには、もう音になって残っている。
いま吐いた嘘は、そのまま録られた。雨音に包まれても薄まらず、俺の声の形をしたまま残っていく。
嘘をついたことのほうが、二十七回よりも、ずっと恥ずかしい。二十七回は、ただの回数だ。三回は、俺がそれを恥じているという告白である。嘘で小さくしようとしたぶんだけ、隠した気持ちの大きさまで見えてしまう。
「ほんとは、もっと――」
「はい、おしまい」
マコが切った。俺と汐見を交互に見て、それから傘の先で、たたきの水をひと払いする。細い水の筋が崩れ、何事もなかったように雨の輪へまぎれた。俺は結局、許すほうの台詞も、許さないほうの台詞も言えていない。決める側に立たされて初めて、あの日の自分が何から逃げたのかがわかる。俺は傷つけられた側の顔をして、自分が置き去りにしたものを見ないふりしていた。許すかどうかを決める前に、俺のほうが謝らなければならなかったのだ。
◇
「三回? ふ~ん」
灯は数を繰り返しただけである。嘘だと責められるより、繰り返されるほうが逃げ場はない。傘をくるりと回し、縁から雫を散らしながら言う。
「恭平先輩。台帳、消せますか?」
「消せる。でも消さない」
「でも、あれは稽古の――」
「ははっ、稽古のだから消さないんだ」
恭平さんは傘の柄を持ち替えて、少しだけこちらへ寄せた。笑い声は軽いのに、逃げずに聞けと言うような目をしている。
「……なんでですか?」
「消したくなるものは、だいたい、あとで要るからだ」
「要りません」
「ふふっ、そう思ってるうちは、まだ要る」
恭平さんは傘を開いて、俺の頭の上へ差し出す。傘はこちらへ深く傾き、そのぶん、自分の肩が濡れている。それでも角度を戻そうとはしない。
「まぁ僕の趣味だ」
「……濡れますよ」
「濡れてる。知ってる」
水の膜が、恭平さんの肩で細かく光っている。曇り空の白を映した雫はすぐ布へ沈み、そのたびに、さっきの言葉だけが胸の奥へ残っていく。礼を言えば、この傘の意味まで認めてしまいそうで、俺は何も言えない。
◇
その夜、机の蛍光灯の下でノートを開いた。部屋は静かなのに、紙へ落ちる白い光の中では、昼間の雨音がまだ耳の底に残っている。
左のページの頭。〈相手役〉の欄だけ、ほかと色が違う。青い。九箇所とも、同じ青である。十編目は輪ゴムの下に閉ざされ、開かない。
俺が確かめたのは、そこだけだった。台詞は読まない約束だから、ページの終わりまでは見ていない。そう決めた自分を守るように、視線を欄の中へ押し込める。
欄の中に、人の名前が書いてある。当たり前だ。〈相手役〉の欄なのだから。なのに、その字だけが紙の上からわずかに浮いて見える。
当たり前なのに、何かが引っかかった。小さな棘のように胸の内側をこするのに、その正体だけが言葉にならない。
この字を見たのは、もらった日の放送室の西日の下だけだ。あれから九日、ノートを開いても、頭の四欄は読み返さなかった。あの日は夕日の色が紙を染め、いまは蛍光灯の白が青だけを冷たく浮かび上がらせている。光がひとつ変わるだけで、見ていたものが別のものになる。
知らない色は、探しようがない。違いがあると知らなければ、疑うことさえできない。
翌日、第二視聴覚室でマコに聞く。胸の引っかかりを悟られないよう、声だけは平らに整える。
「汐見って、相手役、最初から決めてたんですか?」
「あの子ねぇ、キャスティングだけは絶対に譲らないの」
「……変えない、んですか?」
「書いたら、変えない。昔からそう」
マコは台本の角を親指で弾いた。紙の鳴る音が、二回。軽い音なのに、返事を待つ俺の胸には妙に大きく響く。
「昔って、いつからですか?」
「あたしが知ってるかぎりでは、ずっと」
聞いてから、まずかったかと思う。稽古の外で、稽古の話をしている。胸の奥が遅れて縮み、返事を待つ時間だけが細く張りつめる。
「ふふっ。段取りの話ならいいのよ?」
マコは台本を丸めて、俺の肩を軽く叩いた。その軽さに、張っていた肩から少しだけ力が抜けていく。
「中で言ったことを外で持ち出すのが四。配役表とか日程とかは、ただの段取りでしょお?」
窓の外は、もう晴れている。薄い日差しが校舎の壁と濡れたグラウンドを明るく洗っているのに、水たまりだけが、昨日の形のまま残っている。晴れたからといって、雨の跡まで消えるわけではないらしい。
「変えない」は聞いた。だが、「いつ書いた」は、まだ誰も言っていない。俺が知りたいのは、そっちだ。問いの形をした何かが、昨日の水たまりみたいに胸の中に残っている。その答えの向こうに、俺の知らない汐見の時間がある。




