3. 別れの台詞で、なぜか本当に泣く
九月十七日。放課後の第二視聴覚室が、夜の駅のホームになった――。
パイプ椅子を一列に並べてベンチにし、床には黄色いビニールテープをまっすぐ貼る。マコが照明を落とした途端、部屋は闇に沈み、非常口の緑だけが残った。その冷たい光は、人の顔から血の気を奪う。俺の手の甲も、死人のものみたいに青白い。
けれど、汐見の頬だけは、そう見えなかった。同じ緑の光にさらされているのに、この人の輪郭だけはやわらかな体温を失わず、闇にも溶けずにそこにいる。
汐見は黄色い線をまたぎながら、足を止めることもなく、こちらを見ないまま言う。
「消した?」
「……消してません」
「なんで?」
「則五があるので」
答えた瞬間、自分の声に混じったずるさに気づいた。則を盾にすれば、それ以上は訊かれない。訊かれないように、わざと使ったのだ。
「……ずるい」
吐息にまぎれて消えそうな、小さな声だった。俺は返事をしない。
ずるい、と言われても、否定する言葉が出ない。それがいちばん痛かった。彼女は俺が則の陰へ逃げたことを、たった三文字で見抜いてしまう。
「電車、あんたが出すんでしょ?」
マコが横から口をはさみ、俺の肩を軽く叩く。手のひらは驚くほど小さく、それでも触れたところだけが妙にあたたかい。
「出します」
「録ってきたの?」
「単線の駅で二時間ねばりました」
「二時間も!? あんたバカなのぉ?」
バカと言われて平気な奴はいない。胸の奥がわずかに縮んだが、顔には出さず、できるだけ平らな声を返す。
「いい音を出す電車って、なかなか来ないんです。大変なんですよ?」
「はぁ……あんた、いい趣味してるねぇ」
「趣味じゃありません。仕事です」
「同じことでしょお」
ゴリラにカードを挿す。指の腹へ、押し込むときだけの小さな抵抗が返ってくる。この確かな感触が、俺にとっては開演のベルになる。
録音を告げる赤が、暗がりにぽつりと点いた。
「では、まいりましょう!」
三編目――――。
『駅のホーム、夜、別れとして言う』
俺は卓の前に立ち、指を待機の位置へ置く。台詞の五行目で電車を鳴らす。それまでは、息の音さえ邪魔をしないように静かにしておく。
「わたし、行くね」
台詞が、夜のホームへそっと置かれた。俺の役は、去られる側だ。何も言わない。それが台本であり、俺たちのあいだに引かれた、越えてはいけない線でもある。
「ずっと言えなかったこと、いま言っていい? ……好きだよ。だから、行く」
「好きだよ」を現在形のまま残して、彼女は出ていく。台本に書いてあるのは、ここまでだ。
「!?」
汐見が泣いている――――。そう気づいた途端、胸の奥で何かがひやりと沈み、耳の中では自分の脈だけが大きくなる。
ト書きにはない。声は崩れない。台詞も飛ばない。ただ涙だけが、緑の光に濡れながら細い線を二本つくり、頬を静かに降りていく。
「……あの日、言ってくれてたら、わたし――」
その息の揺れに触れた気がして、気づけば俺は、芝居を止めている。
「……大丈夫か? ……あっ……」
声が口を離れたあとで、自分が何をしてしまったのか理解した。則三。芝居は止めない。止められるのは演出だけだ。
部屋の空気が、音もなく床へ落ちた。電車を待っていた俺の指だけが、待機の位置に置かれたまま、行き場をなくす。
「はい! カットぉーー!」
声はいつものように高く、長く伸びている。それなのに、マコの目だけは笑わず、演出家の目をしていた。
赤は、まだ点いている。汐見は涙を袖で拭おうともせず、まっすぐ俺を見てきた。稽古の中でだけ、この人は逃げずに俺の目を見てくれる。
「……止めないでよ。せっかく、出てたのに」
出てた、という言い方が胸に刺さる。救われたかったのではないらしい。俺に涙を止めてほしかったのでもない。ただ、あの別れを最後まで続けたかったのだ――そう聞こえた。
マコが卓へ来て、何も言わずに録音を止める。闇の中から、赤が消える。
今日はここで切るのだと、急に戻ってきた暗さだけで分かる。
◇
「はい、二人とも残って」
マコは俺たちを座らせ、自分だけ廊下へ出る。そして、ためらいもなく外から鍵を回す。
「二十分。反省しなさぁい」
「先輩、それ監禁じゃ――」
「演出は則の外にいるので」
「それ、則じゃないですよね?」
「則の外の話は、則じゃないでしょお」
何だかよく分からない理屈を言い放たれ、返事を組み立てているうちに、マコの足音は廊下の向こうへ遠ざかっていく。
あとに残るのは、非常口の緑と、扇風機が首を振るたびに鳴らす、乾いた音だけだ。
「……悪かった」
「謝らないで」
「でも」
「謝られると、わたしが悪いみたいになる」
汐見はベンチ代わりのパイプ椅子に座り直し、膝の上で指を組む。絡んだ指は、ほどけないように互いをきつくつかんでいる。目は合わない。稽古が切れたあとのこの人は、俺を見てくれない。
「汐見は……悪くない」
「うん。謝らないで」
「じゃあ、何を言えばいい?」
「べつに。何も言わなくていい」
その「言わなくていい」は、三日前に俺が口にしたのと同じ言葉なのに、まるで違う温度をしている。俺のは彼女を胸の外へ押し出す言葉で、彼女のは俺の目の前で静かに扉を閉める言葉に聞こえる。
それきり、会話は続かなかった。汐見は椅子の背に指を置き、爪の先で木目をなぞっている。爪が引っかかるたび、小さな音が鳴る。俺はその音を数えていた。何か言えばまた傷つけそうで、口を開くのが怖い。数えるのは、今の俺にできる唯一のことだからである。
窓の外では、部活の掛け声が二回上がって、二回とも途中で切れる。暗幕の隙間から差す細い光が、宙のほこりを浮かび上がらせながら、床の上を少しずつ滑っていく。俺はその線が椅子の脚へ届くまで、ただ黙って見つめる。
二十分のうち、十五分が過ぎた。俺は言うべきことを探し続け、それでもひとつも見つけられない。三年前と同じである。あのときも、俺は三十秒かけて、結局何も言えなかった。今もまた、同じ沈黙の中に取り残されている。
鍵が開く。硬い金属音が静けさを割り、廊下の白い光が部屋へ差し込む。
「はい、出た出た。反省した?」
「……してません」
「正直だねぇ。くっくっく」
◇
家で、俺は音源を聞いた。部屋の明かりもつけず、ヘッドホンの内側にだけ、あの夜のホームを戻す。
泣く直前のかすかな呼吸音を増幅し、何度も巻き戻す。吸って、止めて、吐いている。その息だけが、耳のすぐそばで何度もよみがえる。
演技の呼吸なら、こうする。けれど、演技ではないときも、人はたぶん同じように息をする。
俺の耳は、音の大小も、間の長さも、息の深さも聞き分けられる。けれど、その違いが何を意味するのかだけは言葉にできない。物差しだけを握らされ、どこへ当てればいいのか教わらないまま、広い場所へ放り出された人間みたいなものだ。三年前から、俺はずっと、同じ場所で立ち尽くしている。
波形を拡大しても、画面に並ぶのは山と谷だけだ。見つめても、聞き返しても、汐見の心の形にはならない。近づこうとするほど、答えだけが遠ざかる。
今日の写しをノートへ挟もうとして、三編目を開いた。頭の四欄は、もらった日に放送室で一度読んだきりである。場所も時刻も感情も、その日の写しに全部書き写してあるから、二度読む必要がない。そう思っていたのに、目がふと罫の外へ吸い寄せられる――――。
「あれ……?」
左のページの、罫の外の左端――そこに、紙の白さへ溶けかけた、掠れた字が浮かんでいた。台詞ではない。
「言えたためし、なし」
消しゴムで、消しきれなかったのか?
書いた日はわからない。誰に向けた言葉なのかも、わからない。ただ、台詞ではないものが一行だけ紛れ込んでいる。その事実が、紙に触れた指先から胸の奥へ入り込み、抜けない小さな棘になって残る。




