2. 嘘の告白は、上手いほうが負ける
三日おいて、九月十四日――――。
第二視聴覚室は、窓を閉め切っているせいで息苦しいほど暑い。こもった空気をかき回すように扇風機が首を振り、風が届くたび、机に積んだ紙束の端が白い羽のようにめくれ上がる。この低い唸りも録音には入る。けれど、あえて入れておく。保健室という設定なのだから、換気扇の音だと思えば嘘にはならない。
汐見はパイプ椅子を黙々と並べ、保健室のベッドに見立てていた。細い指が背もたれに触れるたび、金属がかすかに鳴る。今日も、俺の目だけは見ようとしない。
「暑いね」
感情の波をきれいに隠した、淡々とした声だった。だからこそ、その奥に何かあるような気がしてしまう。
「し、閉めないと外の音が入るので」
俺のこだわりのせいで、汐見にまでこの暑さを我慢させている。それが申し訳なくて喉の奥が狭くなるけれど、ここだけは譲れないのだ。
「うん。じゃあ、暑いままでいいよ」
「……ごめん」
「謝ることじゃないでしょ」
会話はそこで途切れた。壁の時計だけが、秒針の音をひとつずつ律儀に置いていく。汗が背中を細く伝い、シャツがじっとりと肌に貼りつく。何か言わなければと思うのに言葉は見つからず、俺は汐見の作業を見つめることしかできない。
「ふふん、別に、見に来たわけじゃないけどぉ」
甘く鼻にかけた声とともに、名取灯が壁際へ腰を下ろした。一年で、演劇部で、先輩を先輩と呼ばない。
「音響の人が、役者やるんだって?」
「役者じゃない。相手役だ」
「ふうん。違うんだ、それ?」
「まったくの別物だよ」
灯は膝を抱えたまま、観察するように俺を見上げる。まばたきの少ない子である。その黒い瞳にじっと映されていると、胸の内まで見透かされそうで落ち着かない。
「どう違うの?」
「……立ってるだけだから」
「立ってるだけの人が、あんな顔しないと思うけど。ふふっ」
「あ、あんな顔って何だよ!?」
灯は膝の上で頬杖をつき、俺の慌てぶりを楽しむように、ほんの少しだけ首を傾けた。
「ふふーん。どんな顔かしらね。くぷぷぷ」
こういう含みのある笑い方をされると、否定すればするほど、自分から答えを白状している気分になる。
「……はいはい」
「高瀬さん、録るときは目を細めるでしょ?」
「……そうだったか」
「今日はずっと開いてたわよ。くぷぷぷ」
汐見はベッドに見立てた椅子の位置を直している。こちらの会話など聞こえていないふりをするように、横顔さえ見せない。
「わたし、汐見さんの練習を三回見たけどね」
「……そう」
「今日のは、相手がいる。それだけで別の芝居になるわ」
◇
マコもやってきて、熱のこもった部屋の空気がわずかに引き締まる。いよいよ始まる。
カードを挿し、録音ボタンを押す。小さな赤い灯が点る。それだけで、さっきまでの雑音まで意味のある音に変わっていく。
「――では、まいりましょう」
マコのよく通る声が、閉め切った第二視聴覚室の壁を震わせた。
二編目――――。
『保健室、昼、嘘として言う』
汐見の役は、罰ゲームで嘘の告白をする側だ。俺の役は、それが嘘だと知りながら、それでも受け入れる側らしい。たったそれだけの設定なのに、胸の奥が妙にざわつく。
伏せられていた汐見の視線が、ゆっくりと上がった。普段は決して俺に向けられない、芝居の中でだけまっすぐ届く、あの目である。
「好きです。わたしと、付き合って」
声が、逃げ道を塞ぐようにまっすぐ届いた。台本には「軽く、投げるように」とト書きがある。けれど、彼女は投げなかった。壊れものを差し出すように、一語ずつ俺の前へ置いてくる。
そんなふうに置かれたものは、受け取るしかない。たとえ嘘だとわかっていても、床へ落とすことなどできなかった。
俺の台詞は「いいよ」の三文字。浅く息を吸い、胸の震えまで声に混ざらないようにして、それを言う。
「……信じるの?」
これも台本にある。ここまでは、まだ決められた言葉だ。俺たちはぎりぎり、芝居の中にいる。
「うん」
「わたし、嘘つきなのに」
「知ってる」
次に来るのは「冗談だよ」――――そのはずだった。
「……冗談だよ、って言えばいい?」
「!?」
語尾が、台本にはない問いの形になっている。役の向こう側から、汐見本人が俺に訊いている。
言ってはいけない。台本にないし、俺の役が返す言葉でもない。芝居を壊さずに続ける方法なら、いくらでもあった。黙って首を振れば、それだけで済む話だ。
それでも、胸の奥に押し込めていた何かが、熱を持って一気にこみあげてくる。気づいたときには、考えるより先に口が動いている。
「言わなくていい!」
強く言ってしまった。自分の耳にさえ刺さるほど、あまりにも強い。
言い切った瞬間、部屋の空気がひと息に重くなる。扇風機の羽音だけが、急に耳のすぐそばまで迫ってきた。汗は引くどころか、さっきとは別の場所から噴き出してくる。
「わぁお。いいねいいね!」
マコの弾んだ声が飛ぶ。壁際では、灯が面白いものを見つけたように小さく口笛を吹いた。
「あ、いや、でもこれは……」
俺はこの事態をどう受け止めればいいのかわからず、救いを求めるようにマコのほうを向く。
「則一。撮り直しはしない」
「……はい」
「あんた、いま何を録ったか、わかってる?」
「……録音の頭出しなら――」
「そういうことじゃないの」
マコの声から浮ついた響きが消え、容赦のない演出家のものへ戻っている。
「……はい」
「はい、おしまい」
汐見は何も言わなかった。ベッドに見立てたパイプ椅子をひとつずつばらし、元の位置へ戻していく。こちらに向けられるのは背中だけで、その沈黙がどんな言葉よりも胸に重い。
灯が立ち上がりぎわに俺の横を通り、ふと思い出したように足を止めた。
「ねえ。汐見さんの台詞、変わったの気づいた?」
「……ああ」
「じゃあ、なんで受けたの?」
「それは、台本が――」
「台本の話はしてないの!」
灯が逃がさないとでもいうように、下から俺の顔を覗き込んでくる。やはり、まばたきをしない。
「そ、そう言われても……」
答えられない。答えを持っていないのではなく、声にした途端、認めたくない何かまで形になってしまいそうなのだ。
灯は「ふうん」とさえ言わず、そのまま部屋を出ていった。呆れられるよりも、何も言わずに行かれるほうがよほどこたえる。
◇
その夜、俺は暗い部屋で、自分の声を四回聞いた。
一回目は、ただ気持ち悪い。二回目には、「言わなくていい」の「い」がかすかに上ずっているのがわかる。三回目は、上ずっていないようにも聞こえた。けれど四回目になると、やはり上ずって耳に刺さる。聞くたびに答えが変わるのは、音ではなく、たぶん俺のほうだ。
耐えきれず、頭まで布団をかぶった。耳が熱い。足の裏まで熱い。暗闇の中で目を開けていると、天井のいちばん暗いところに、あのとき何も言わなかった汐見の背中が浮かんでいた。
音は、何を言ったかしか残さない。どんな顔で言ったのかも、胸の奥で何が揺れていたのかも、本気だったかどうかさえ残してはくれない。
残らないのなら、なぜ俺は、答えを探すように何度も聞き返しているのだろう。
いや、本当はわかっている。俺が確かめたいのは、汐見が本気だったかどうかではない。俺の声から、自分でも隠していた気持ちがどこまで漏れてしまったのか、それが怖いのだ。
「言わなくていい」は、彼女に向けた台詞のようでいて、いちばん深いところでは俺自身に言っている。嘘でも冗談でも構わないから、もう一度だけ、あの日の続きをやり直したい――そんな願いが、隠しきれずに滲んだ声なのだ。
三年前、俺は言うべきときに言葉を出せなかった。今度は、出してはいけない場所で、止める間もなく出している。
黙っても間違える。口にしても間違える。どっちにしても、うまくいかない。
「はぁぁぁ……」
俺は布団の中で身を丸め、熱の逃げない頭を両腕で抱え込んだ。
◇
翌朝の放送室。常磐恭平が、窓から差し込む薄い朝の光の中で、機材の帳面をめくっていた。三年で、放送部長で、部員七名の面倒を全部見ている人である。
放送部では、機材の出し入れを帳面に書く。日付と、時刻と、行き先。俺は一年のときから、欠かさず毎日書いている。放送に使う音のほうは音源台帳へ、何回聞いて決めたかまで残す。恭平さんが一年に教える、几帳面で少し古めかしい作法だ。
演劇部の側でも、頼む相手の名前を稽古の紙に書くらしい。どちらも、書いた本人以外は、あとで誰も見ないような紙だ。それでも恭平さんは、薄い紙が立てる音に耳を澄ますように、毎朝きちんとめくる。
「高瀬。昨日、〈ゴリラ〉の電池が減ってた。稽古か?」
「……はい」
「それは仕事だ」
恭平さんは帳面を静かに閉じた。それから、記録された文字ではなく、俺の顔を見る。
「で、顔が赤いのは仕事じゃないな」
「暑いんです」
「九月だからな」
「……そうです」
窓の外では、朝の水やりのホースが細かな水しぶきを散らし、淡い虹を作っていた。恭平さんはそちらへ視線を逃がすようにして言う。
「僕はそれ以上訊かない。訊くのも仕事じゃない」
「……ありがとうございます」
「礼を言われることでもないよ。ただ、機材は返せ」
「……はい」
◇
放送室を出て廊下へ踏み出したところで、汐見とすれ違った。彼女はまっすぐ前を向いたまま、歩調さえ変えずに言う。
「昨日の、消しといてね」
「えっ? あ、あぁ……」
すれ違いざまの、ほんの二歩ぶんだけ交わされた言葉だった。振り返る間もないほど短いのに、耳の奥にはっきりと残る。
則五は「残す」だ。彼女は、俺に則を破れと言っている。それほどまでに、あの声を残しておきたくないということなのか。
それにこの人は、稽古の外で、稽古の話をしたのだ。避け続けていた境目を、向こうからほんの少しだけ踏み越えてきた。
それは、則四には触れるのではないか――――?
残暑のこもる廊下にいるはずなのに、背中だけが、冷たい指でなぞられたようにすっと冷たくなった。




