1. 相手役は、なぜか全部俺だった
九月の夕方は、放送室でいちばん扱いに困る時間だ。
この部屋は西向きで、四時を回ると光が一段濃くなる。傾いた陽射しが卓のフェーダーの銀を細く灼き、舞い上がる埃を金色の粒へ変えていく。棚のラベルは色を失い、青も緑も似たような黒へ沈む。だから俺には、ラベルを読むときも、音の底へ意識を沈めるときも、目を細める癖がついた。
明日の昼放送に使う曲の、頭を二秒ぶん切っている。イントロの手前に針先ほどのノイズが乗っていて、たぶん誰も気づかない。それでも、誰にも気づかれないところを黙って直すのが、俺の仕事である。
――ノックが二回。薄い扉が、控えめに震える。
「ん――? !?」
振り向くと、汐見詠が立っていた。流れる黒髪を西日が縁取り、その姿だけで、胸の奥に隠していた扉まで静かにノックされる。演劇部の誰もが目で追う美少女――なのに今は、いつもの堂々とした気配がどこか頼りない。
「高瀬くん。いま、いい?」
「ど、どうぞ」
高嶺の花――演劇部の看板役者が、放送室の敷居をまたぐ。上履きの先は、ためらいを隠すように少しだけ内側を向いている。彼女は俺の顔を見ようとしない。窓の外のまぶしい夕暮れを見て、それから逃げ場を探すように、自分の手元へ視線を落とす。
その順番を、俺はなぜか鮮明に覚えてしまう。目が合わない。ただそれだけの事実が、さっきまで西日に灼かれていた部屋の温度をひとつ、静かに下げていく。
「練習相手に――――なってくれない?」
「……練習?」
「秋の大会に出す新作。告白の場面だけ、嘘くさくなる」
「嘘くさい?」
「うん。わたしが下手なの」
そんなわけがない。彼女の芝居なら、去年の大会で袖から見ている。音を出す係として、俺は舞台裏の暗がりに座り、合図を待つだけだった。三百人で埋まった客席から、咳がひとつも聞こえない。あれは静かだったのではない。彼女の声に、全員が息を奪われていたのだ。
「な、なんで……俺なんだ?」
「あとで言う」
「先に言ってほし――」「あ・と・で」
語尾を鮮やかに切られる。声は羽のように柔らかいのに、切り口だけは定規を当てたように平らだった。
汐見は鞄から一冊のノートを取り出す。B5の大学ノートで、表紙は若葉を日に透かしたような薄い緑だ。背には丸めた癖が残り、机へ置くと、待ちきれないように勝手に浅く開く。
「これ、『告白練習ノート』。十編ある」
「……十編も?」
「場所と時刻と、演じる感情。ぜんぶ違うの」
受け取った瞬間、紙越しに彼女の体温を探しそうになって、慌てて開く。ノートは最初の見開きで止まった。横罫の左綴じ。一編につき見開き二ページだ。左のページの頭には四つの欄が並び、台詞はそこから始まって、右のページの下のほうで息をひそめるように終わっている。
〈場所〉〈時刻〉〈感情〉〈相手役〉
海辺、夕方、まっすぐ言う。
保健室、昼、嘘として言う。
駅のホーム、夜、別れとして言う。
昇降口、雨、謝りながら言う。
教室、放課後、妬みながら言う。
図書室、屋上、参道、病院の廊下――――。
ページを繰るたび、紙とインクの匂いがかすかに立つ。手のひらの下で、よく乾いた紙が、秘密を押し返すような音を立てた。
場所も時刻も、そこで演じる感情も、一編ずつ違う。彼女が用意した告白は、どれも別の色をしている。
だが、いくら目で追っても違わない欄が、ひとつだけあった。
〈相手役〉高瀬律
〈相手役〉高瀬律
〈相手役〉高瀬律
喉が、ごくりと鳴る。なのに指は、怖いものへ吸い寄せられるように止まらない。九枚めくって、九回、高瀬律という自分の名前を読む。読むたび、胸の内側を指でなぞられるようだった。
西日を受けて、その字はどれも、ほかの何よりくっきりと黒く見える。
「……なあ、これ」
「キミがね、一番演技しやすいんだ」
汐見はそう言って、初めて笑う。西日に縁取られたその笑顔はまぶしすぎて、心臓がドクンと大きく鳴り、胸の内側を強く叩いた。
「そ、それ……答えになってないと思うけど」
「なってるよ。役者の理由なんて、だいたいそれだけ」
「でも十編ぜんぶだぞ」
「そう、十編ぜんぶ。同じ理由だっていいじゃない?」
その言い方には、針先ほどの淀みもない。あらかじめ用意してきた台詞のようにも、ほんとうに何度も胸の内で言い聞かせ、ようやく口へ出せた言葉のようにも聞こえる。音の違いなら拾えるはずの俺の耳でも、そのふたつだけは区別がつかない。
十編目のページだけは、輪ゴムで固く留めてある。指の腹で押すと、ページの束が拒むように跳ね返る。隅には封の細かな切れ込みまであり、開けばもう元通りにはなりそうにない。
「ダメ! そこは本番で使うから、まだ見ないで」
汐見は慌ててノートをひったくると、胸元へ引き寄せる。
「台詞、まだ読んでないんだけど?」
「台詞は読まないでね。当日、写しを渡すから」
そう言い終えるなり、俺のカバンの上へポンと置いた。
「なんで?」
「初見の顔が要るの」
顔、と言われて、俺は自分が音を出す舞台裏ではなく、見られる側へ立たされるのだと遅れて理解する。胸のどこかが、期待とも不安ともつかない音を立てた。
「最後の本番って?」
「うん。ぜんぶ終わったら教える」
汐見の爽やかな笑顔は、最後まで揺らがない――――けれど、その奥に隠された意味を、自分にはとても読み解けそうにない。
「わ……わかったよ……」
この不思議な依頼に、俺の胸は落ち着きなく揺れ動き続けた。
◇
いよいよ初日がやってきた――。
なのに、心の準備だけが追いつかない。
第二視聴覚室は、暗幕が半分だけ引かれ、夕方の光を鈍く飲み込んでいる。埃と床用ワックスと古い緞帳の匂いが、長く閉めた箱の中のように層を作る。演劇部は部員十一名いるはずだが、残っていたのは一人だけだった。
「おっ! 来た来た!」
天ヶ瀬マコ。三年で、演劇部長で、六歳から十二歳まで朝の連続ドラマと洗剤の広告に出ていた人である。背は俺の肩より低く、ぱっと見は小柄な後輩にしか見えない。学年章がなければ、廊下ですれ違ってもそう思うだろう。けれど、こちらを値踏みする目だけは、舞台の照明よりずっと鋭い。
「あんた、いい耳してるよねぇ。声はどう?」
「……出ません」
「けっこう」
「けっこう……なんですか?」
「うん。出る子はね、聞かないの」
なんでもない言い方だった。それなのに、胸の奥のいちばん薄いところを、指先でそっと押された気がする。痛いわけではない。ただ、自分でも触れずにいた傷の形だけが、急にはっきりした。
マコはパイプ椅子へ逆向きにまたがり、背もたれに顎を乗せる。小さな体なのに、部屋の空気はすっかり彼女のものだ。
「あの、俺、芝居のことは何も――」
「知らなくていーの!」
マコの声の高さが、するりと変わる。同じ人の喉から、まるで別の楽器が鳴ったようで、耳の奥がくすぐられる。
「あんたは録って、そこに立ってればいいの!」
マコは、俺の抗弁など最後まで聞く気がないらしい。笑っているのに、その目はもう稽古の先を見ている。
「稽古の則、五箇条。読むよ」
「はぁ……」
一 一編一回。撮り直しはしない。
二 相手役は変えない。
三 芝居は止めない。止めるのは演出だけ。
四 終わりは演出が切る。切ったら、稽古場の外へ持ち出さない。
五 音は残す。ただし、二人のほかには聞かせない。
「稽古場って、この部屋のことですか?」
マコは指を一本立て、そのまま天井のほうへ向ける。そこに見えない境界線でも引くような仕草だった。
「違うの。赤が点いてから、あたしが切るまで。そのあいだが稽古場」
「……時間、ですか?」
「そう。だから四が禁じてるのは、稽古の中身。台詞とか、その場で起きたこととか。音の置きかたは五の話で、四じゃない」
「二人って、誰と誰ですか?」
「あんたと汐見。あたしはその場でしか聞かない」
汐見はうなずきもせず、床の一点へ視線を縫いつけている。爪先で床のテープの端をなぞる仕草だけが、かすかな落ち着かなさを語っている。
「守れる?」
「ま、守るけど……」
返事をしながら、俺は汐見の顔を見る。同じ約束を口にする彼女の声を、なぜか先に確かめたくなる。
「守るわ」
汐見は短くうなずく。その横顔は固く、何かを決めてきた人のものに見える。
「台詞は当日、写しを読むこと。ノートは持ってるだけ。分かった?」
「事前に読むなって、汐見にも言われました」
「でしょお。よぉし。じゃ、一編目。海辺、夕方、まっすぐ」
マコが二つ折りの紙を一枚ずつ配る。ノートの一編目を写したもので、まだ折り目が鋭い。俺のぶんには、汐見の台詞の下に「(黙って聞く)」とだけ書かれている。その短い指示が、下手な長台詞よりも重く見える。
俺は鞄から〈ゴリラ〉を出す。放送部の録音機で、防風スポンジが毛羽立ち、猿に見えることから代々そう呼ばれている。自分のカードを挿し、録音ボタンを押す。稽古が終わればカードは抜いて持ち帰るから、本体には何も残らない。則五を、機械の側から守る方法はこれしかない。
赤が点く。小さな灯りなのに、その瞬間、部屋の隅々までが息をひそめたように思える。
「――では、まいりましょう。ふふっ」
◇
汐見の背筋が、見えない糸に引かれたように、すっと伸びる。
「行くわよ?」
同じ人が、同じ制服のまま、目の前で別人になる。伏せがちだった目線は高く上がり、迷いなく俺を捉えた。呼吸が深くなるにつれて、声は部屋の奥へまっすぐ届く。暗幕に積もった埃さえ、その声に震えたように見えた。
――目が、合っている。
さっきまで一度も重ならなかった視線が、芝居に入った途端、逃げ道をふさぐようにまっすぐ届く。澄んだ瞳の奥にあるのは、演技と呼ぶにはあまりに切実な光だった。その真剣さに胸の内を見透かされた気がして、俺は息をのむ。
「ずっと、言わなきゃって思ってた」
台本の三行目。俺の役は、ただそこに立ち、彼女の言葉を受けるだけの相手役だ。なのに、その視線だけで、台本にない返事まで求められている気がする。
「波の音がうるさいから、ちょうどいいと思ったの。聞こえなくても、言ったことになる」
いい声だ――――ただ耳に心地いいだけではない。しまい込んだ記憶の蓋へ、やさしく指をかけてくるような声だ。
だが四行目。ここで彼女は、書かれていない一言を、ためらうように挟んだ。
「……ねえ。三年前の九月、体育館の裏」
空気が、抜ける。
「へ……?」
忘れたふりをしていた記憶だけが、胸の奥に冷たい穴を開けた。
汐見はそこで、間をひとつ置く。俺が思い出す時間を、わざわざ残すような沈黙だった。それから声の高さを落とし、こぼすように言う。
「……なんでもない」
海辺の台詞のただ中へ、まったく別の場所の名が落ちてくる。その瞬間、暗幕とワックスの匂いが遠のき、鼻の奥をあの日の砂ぼこりがかすめた。記憶は思い出すものではない。向こうから突然、今を塗り替えてくるものらしい。
「おぉ、いいねぇ……。くふふふ」
マコの声が、離れたところから飛んでくる。けれど切れたわけではない。赤は点いたままで、稽古はまだ続いている。
その声は弾んでいた。褒めている響きではない。隠れていたものを見つけた――そんな喜びがにじんでいた。誰も名指しされていないのに、俺にはそうとしか聞こえない。
汐見の肩から、わずかに力が抜ける。役からこぼれた安堵なのか、それとも別の感情なのか、俺にはわからない。その答えを問うより先に、俺の口が勝手に動いていた。
「それ、俺の――」
ぎりぎりで飲み込む。舌の上には、言いかけた言葉の形だけが、まだ熱を持って残っている。
言葉を飲み込むというのは、腹の底へ落とすことではない。喉の途中に刺さり、声になれないまま、そこだけがいつまでも熱を持ち続けることだ。
「はい、カットー!!」
その声が消えてから二拍おいて、マコが乾いた音で手を打つ。
「はい、おしまい! お疲れ様でしたー!」
赤が消える。同時に、張りつめていた空気もほどけ、稽古場はただの第二視聴覚室へ戻っていく。
二人はそのまま、今の出来事などなかったように帰り支度を始める。椅子の脚が床を短く鳴らし、俺へ何も言わないまま、帰っていってしまう。
「え……?」
俺は一人、何を尋ねればいいのかさえわからず、その場に立ち尽くす――――胸の中では、切られたはずの稽古だけがまだ続いている。
◇
家に帰って、机に鞄を置くより先に、音源を再生する。
自分の息の音が、妙に近い。「これ、俺の」の「お」で、喉がきつく締まっている。あの場の誰も気づかないはずだ。けれど俺だけは、この二秒を何度でも取り出し、あの瞬間へ戻れてしまう。
消せない。則五がある。あれを守りたいのか、彼女との約束を失いたくないのか、自分でもわからない。
――――三年前の九月。中学二年の文化祭。
体育館の裏には、使わなくなった跳び箱と、ぬるい風がある。前夜の雨を吸った土はまだ湿り、上履きの底へ細かな砂がまとわりついた。校舎のほうから吹奏楽の音が風にちぎれて飛んできて、ふいに切れ、何事もなかったようにまた始まる。あの途切れた間だけ、世界が俺たちの返事を待っている。
俺は「汐見」と呼んだ。それだけは、喉につかえず、はっきり声になる。
彼女が振り返る。上履きの爪先が、迷いもなくこっちへ向いた。その小さな動きだけで、胸の底に隠していた期待が、勝手に灯る。
俺は顔を上げられない。地面と、跳び箱の脚と、彼女の上履きだけを見つめていた。そのあいだに、言おうとしていた言葉は、言ったあとの怖さばかりを残して、全部どこかへ消えてしまう。
「……なんでもない」
そう言って、俺は逃げるように引き返す。背中へ彼女の視線が触れている気がしたのに、確かめる勇気はなかった。
三十秒。歩数にして十歩ぶんの距離を、俺は一生ぶんの遠さへ変えて帰ってきた。たったあの三十秒で、俺は自分の声を嫌いになり、それからずっと、言えなかった言葉ごと胸の底へ押し込んでいる。
彼女は後ろで、小さく「うん」と言った。それだけの出来事だ。俺が勝手にしくじり、勝手に持ち帰っただけで、彼女の側には何も残っていない――ずっと、そう思い込んできた。
そう思っていたほうが楽である。彼女に何も残っていないのなら、恥も痛みも俺の中だけで完結する。忘れられずにいる自分を笑えば済む。
――待て。
再生位置を巻き戻す。汐見が間を置き、そのあと息を落としたところまで。
もう一度。もう一度。
あの一言が、音ではなく、抜けない棘みたいに耳の奥へ残り続ける。
息の切り方。最後に、声が下がる角度。「な」で息を落とし、「い」は言い切らず、そこへ置いていく。まるで、先の言葉だけを喉の奥に隠すように。
俺の言い方だった。
芝居のうまい人なら、言葉をどう響かせるかまで作れる。あの人は、間さえ自分の側へ引き込み、意味を与えてしまう。それは、俺にもわかる。
でも、三年前に俺がどう言ったか、その記憶までは作れない。作れるはずがない。
一度きり聞いた一言を、三年たってから、息の切り方まで同じにして言える人間はいない――――そう思うのに。
それでも、何度巻き戻しても、耳に触れるのは俺の言い方でしかない。似ている、では済ませられないほど、俺自身の声だった。
わかるのは、ひとつだけ。
俺の声が、他人の口から出てきた。忘れたかったはずなのに、胸の奥で、また息を吹き返してしまう。
三年前に捨てたつもりだった一言を、あの人は今も持っている。俺が手放したあとも、なくさず、忘れずに。




