10. 十編目は……
五日おいて、十月二十七日。地区大会は十一月三日で、あと七日である。カレンダーの数字より先に、その近さは部屋じゅうを駆ける足音へ染み出していた。
第二視聴覚室には、朝から人の出入りが絶えない。十一名がいっぺんに動けば、見慣れた部屋も息苦しいほど狭くなる。舞い上がる埃に、切りたての木と、塗りたてのペンキの匂いが混ざり、鼻の奥がつんとした。暗幕は全部開け放たれ、斜めに差す朝日が、床の養生テープを白く光らせている。
大道具の板が廊下へ運び出され、衣装の箱は壁際へ高く積み上がる。その隙間を縫って人が行き交い、呼ぶ声と応える声が、途切れる間もなく飛び交っていた。
そのせわしない渦の真ん中に、汐見が立っている。背筋は細くまっすぐで、誰より小さく見えるのに、なぜか誰より大きな場所を占めている。
「そこ、もう半歩下がって。照明が届かないから」
「はい!」
「灯ちゃん、袖から出るのは太鼓の二拍あと」
「二拍あとって、どっちの――」
「二拍あと!」
声が通る。人が動く。汐見が指をさすたび、ばらばらだった人と物が、舞台の形へ組み上がっていく。その迷いのない横顔が、開け放した窓から入る光よりまぶしい。
「先輩、この裾、まだ長いんですけど」
「上げる。持ってきて」
「上げたら短いって言うくせに」
ヤジが飛んで灯は無言でそちらをにらむ。
「ははっ、言うわねぇ。それでも持ってきて」
灯が衣装を抱え直し、部屋の端から端まで走っていく。腕からあふれた布が、急ぐ背中のあとを鮮やかに追いかける。
「先輩、緞帳の紐、どこまで下ろします?」
「床から拳ひとつ!」
「誰の拳ですか?」
「あたしの!」
小さすぎる。たぶんその場の全員が同じことを思ったのに、誰も言わない。
俺は端で、パイプ椅子を積んでいる。冷たい金属の脚が触れ合って小さく鳴るたび、自分まで壁際へきちんと片づけられていく気がする。
高嶺の花という言い方を、俺はずっと、遠い誰かを飾るためのたとえだと思っていた。けれど実際には、位置の話なのだ。同じ部屋にいて、同じ埃を吸い、同じ光の下にいても、立っている場所が違う。あの人は真ん中で人も物も動かし、俺は壁際で、崩れないよう椅子を数えている。数えているあいだだけは、誰の邪魔にもならずに済む気がする。
恭平さんが、卓の配線の束を両腕に抱えて入ってきた。大会の音響は放送部が手伝う慣例で、当日の段取りを詰めに来たらしい。絡みそうな線はきれいに巻かれ、その几帳面さだけで持ち主がわかる。
「大会の音響は誰がやる?」
「俺です。放送部の仕事なので」
「それは仕事だ」
「はい」
「じゃあ、ちゃんとやれ」
恭平さんは配線の束を、机の角へきちんと揃えて置く。無造作に置けば崩れるものを、この人は決して無造作に扱わない。
「当日の朝は、僕が電池を替えておく」
「自分でやります」
「お前は当日、自分の仕事で手一杯になる。これも仕事の話だ」
「……手一杯って、何が――」
「わからないならいい。わかる日に、わかる」
恭平さんはそれ以上、何も訊かずに出ていく。訊かないのが、この人のやり方であり、口にしない気遣いなのだ。
「先輩、椅子はここに――」
「積んで! 全部! はい、今日はここまでー! みんな帰る!」
マコが、ぱん、と手を叩く。乾いた音が天井へ跳ね、散らばっていた視線が一斉に集まる。
「え、まだ裾が」
「明日やるの! 帰る!」
人が引いていくにつれ、第二視聴覚室は水が退くように静まり、急に広くなる。ついさっきまで満ちていた熱だけが、床や壁に薄く残っていた。
「あたしも帰るからね。ちゃんと戸締まりしなさぁい」
扉が閉まる。廊下を遠ざかる足音が、二人ぶん、三人ぶんと減っていく。静けさが、閉じた扉の隙間からゆっくり部屋へ満ちてくる。
◇
残ったのは二人だけである。さっきまでの騒がしさが嘘のように、互いの呼吸まで近い。
蛍光灯が点いている。西日はもう入ってこない。影まで薄く平らになり、青が青に見える、逃げ場のない光だ。
「今日、稽古は?」
「しない」
「じゃあ、何を――」
「ノート、出して」
鞄から取り出し、机に置く。背の癖で、勝手に浅く開いた。もらった日から毎日運んでいるので、表紙の薄緑は角が丸くなり、手になじむ柔らかさを帯びている。
持っているだけでいい、と言われて預かった物である。中身を決めるのは、ずっと向こう側だった。俺は意味も知らず、その重さだけを運んできたのだ。
「十編目」
汐見の指が、輪ゴムにかかる。すぐ外すこともできるのに、爪の先でためらうように、わずかに止まる。
外す音は、思ったより大きく、誰もいない部屋の隅まで響く。胸の奥で、何かを留めていたものが外れた音にも聞こえる。
九月十一日からずっと、この束は硬く閉じていた。指で押せば跳ね返してきた紙の束が、今日はなんの抵抗もなくほどけていく。
見開きが開いた。白い面が、ずっと隠されていた沈黙そのもののように、こちらを向く。
左のページ、その頭には、見慣れた項目が並んでいる。
〈場所〉
〈時刻〉
〈感情〉
――どれも、空欄である。書かれるはずだった気配だけが、白い欄の中に残っている。
〈相手役〉高瀬律
そこだけが、青で埋まっている。白の中で、その名前だけが痛いほど鮮やかだった。
右のページの隅へ目を移す。いちばん下の罫の、右の端。
九/四。
台詞は、一行もない。名前の横へ戻ってきても、読むべき声はどこにも見つからない。
白い。台詞を書くための罫が、見開き二ページぶん、息を止めたようにまるごと白い。
欄の中の名前と、隅の日付。埋まっているのは、その二つだけだ。あとはどの罫の上にも何も乗っていない。一編目の見開きと同じ形をしているのに、乗るものだけがない。形だけを残して、中身が抜け落ちている。
「……書けなかった」
汐見の声が、役をまとわない素の側へ戻っている。強く通していた響きがほどけ、触れれば消えそうに細い。
「九編目までは書けたのに?」
「うん」
「なんで?」
「借りてきた言葉じゃ、駄目だったの」
紙の白さが、蛍光灯を冷たく跳ね返している。指を置くと、乾いた冷たさが皮膚を通り、胸の内側へじわりと伝わってくる。
一編目は、最終行が罫の右の端まで届いていた。稽古のたびに配られた写しにも、八編ぶん、この人の言葉が一枚ずつ埋まっている。あれだけの言葉が、この白さの手前まで道をつないできたのだ。
残る一枚は、あの参道の紙だ。台詞は無い。それでも、ト書きが一行だけ書いてあった。三分、並んで歩く、と。
沈黙でさえ、この人は書ける。あれを書いた同じ手が、ここでだけ、先へ進めずに止まっている。
九月四日。この人は十編ぶんの相手役を決め、九編ぶんの場所と時刻と感情を決めて、そこまで書き、十編目の前で手を置いた。まだ俺が何も知らなかった日に、ここだけが未来として残されたのだ。
その手が止まった場所に、俺の名前だけが取り残されている。待っていたようにも、置き去りにされたようにも見えた。
息を吸うと、埃と塗料の匂いが胸へ入る。喉の奥までざらついて、言葉の通る道を狭くする。
俺はこの三年、ずっと言ってきた。声を出す側じゃない、録る側だと。放送室でも、稽古場でも、三年前の体育館の裏でも、同じ言い訳を使ってきた。声を出せば、胸の奥にしまった何かが壊れそうだったからだ。
録る側は、何も書かなくていい。書かなくていいから、何も言わずに済む。そうやって、マイクの陰なら傷つかないふりができる。
白い紙を見ていると、その言い訳を置いて逃げられる余白が、もう一枚ぶんも残っていないとわかる。怖い。それでも、汐見が書けなかった白さを、見なかったことにはしたくない。
「……じゃあ、俺が書く」
汐見の手が、輪ゴムに触れたまま止まる。ほんの少し、指先から力が抜けた。
「キミが?」
「俺が」
「……台詞、書いたことあるの?」
「ない。録ってただけだ」
汐見はノートから顔を上げない。伏せたまつげの影だけが、頬の上でかすかに揺れる。
「じゃあ、どうやって書くの?」
「汐見の声なら、何度も聞いた」
汐見は答えない。ノートの端を、確かめるように指で二度なぞる。
目はこちらに来ない。来ないまま、ためらいを飲み込むような、小さな息を吸う音がした。
「……お願いします」
汐見が、初めて俺に敬語を使う。いつもなら人を動かす声が、今は細い糸のように、俺へ預けられている。
その一言ぶんだけ、この人は舞台から降り、俺と同じ床へ立ったのだと思う。胸が痛むほど近く感じるのに、思うだけで、確かめる方法はない。
紙の上には、まだ何も書いていない。書けるのかどうかも、わからない。けれど、その白さはもう、ただの空白には見えなかった。
それでも、書くと言ったのは俺である。胸の奥に生まれた震えごと、もう引き受けるしかない。
◇
赤は点いていない。録音を待つランプは眠ったままで、黒いレンズだけがこちらを見ている。
マコもいない。切る人がいない。いつもの終わりを告げる手は、どこにもない。
だから、この台詞は、誰にも切られないまま残る。言い終えたあとも、俺たちの間に残り続ける。
十編目の〈場所〉は、まだ空欄である。〈時刻〉も〈感情〉も空いている。けれど今は、その空白が逃げ道ではなく、これから進むための余白に見える。
埋まっているのは、相手役の欄と、九月四日という日付だけだ。その名前の青だけが、白紙の上で俺を待っている。
どこで言うかは、これから決める。白紙の先へ、今度は俺の声で歩いていく。




