第5話 俺の目の前には、君だけだ
結局、私は殿下と共に王宮へ戻ることになった。
もっとも、婚約破棄の話は、正式な手続きに入る前の段階だった。書類も、まだ何一つ提出されていない。だからこそ、「なかったこと」にするのも簡単だった。周囲には、殿下の一存で「一時の行き違いだった」とだけ伝えられ、私とアルベルト殿下の婚約は、何事もなかったかのように継続することになった。
王宮へ戻った日の夜、殿下は私の部屋を訪ねてきて、こう言った。
「お前がどう思っていようと構わない。だが、これだけは覚えておいてくれ」
「はい」
「俺の目の前には、君だけだ」
迷いのない声だった。
断罪されるかもしれないという恐怖も、ヒロインが現れるかもしれないという不安も、その一言で、少しだけ軽くなった気がした。
◇◇◇
それから、季節はゆっくりと巡っていった。
「今日は何をしていたんだ?」
夕方、庭園で顔を合わせた殿下に聞かれて、私は手元の刺繍枠を持ち上げてみせた。
「午前中は読書を、午後は刺繍をしていました」
「刺繍、か。お前がそんなことをするとは、思っていなかった」
「失礼ですね。悪役令嬢だって、趣味くらいあります」
「悪役、とはまた大仰な自称だな」
軽口を叩き合うのが、いつの間にか日常になっていた。
王子妃教育は厳しかったし、断罪イベントへの不安が完全に消えたわけでもない。それでも、殿下が頻繁に顔を出してくれるようになってからは、以前よりずっと、日々が穏やかだった。
抱きしめられることも、額に口づけられることも、少しずつ増えていった。時には、疲れて眠ってしまった私の隣に、殿下がそっと横になっていることもあった。
そして、断罪イベントが起きるはずの時期は、気づけば、とうに過ぎていた。
ヒロインは、現れなかった。
平民出身の、光属性の魔法を使う美少女は、どこにも。
(おかしいな)
刺繍の針を進めながら、私はふと、そんなことを思う。
(ゲームなら、絶対にこの時期に何か起きてるはずなのに)
(というか――)
その先を考えかけて、私はいつも、なぜか思考を止めてしまう。
まるで、これ以上考えることを、頭のどこかが拒否しているように。
庭園の向こうから、殿下がこちらへ歩いてくるのが見えた。
私は針を置いて、立ち上がる。
考えるのは、また今度でいい。
今は、この穏やかな時間を、もう少しだけ味わっていたかった。
庭園の薔薇が、二度目の満開を迎えた頃だった。
刺繍枠を膝に置いたまま、私はふと手を止めた。
(あれ)
(今、何月だっけ)
指折り数えて、私は自分でも驚くくらい間の抜けた声を漏らした。
「……あ」
あの日から、いつもと同じように、思考が白くなりかけた。
――けれど、今日は違った。
白くなりかけた思考が、今回は、途中で止まらなかった。
(この世界に、最初から、ヒロインなんていなかったんじゃないの)
その考えは、不思議なくらい、すとんと腑に落ちた。
まるで、ずっと前から知っていたことを、ようやく思い出したかのように。
だとしたら。
私が忘れていたのは、ヒロインの名前ではない。
最初から、そんな名前は、存在しなかったのだ。




