第4話 俺の顔に弱いだろう
どれくらい泣いていただろう。
ひとしきり泣いて、ようやく涙が止まった頃には、私はすっかり体力を使い果たしていた。目は腫れているだろうし、鼻も真っ赤に違いない。令嬢としても、悪役令嬢としても、控えめに言って完全に台無しの顔をしている自信があった。
「……落ち着いたか」
「はい……すみません、殿下の前でこんな、みっともないところを……」
「別に構わない」
殿下は淡々とそう言うと、私の顔を覗き込んできた。
「随分と酷い顔だな」
「うっ」
自覚はあったが、面と向かって言われると地味に傷つく。
「殿下だって、私がこんなふうに泣くところなんて、見たくなかったでしょう」
「そうでもない」
「え?」
思わず顔を上げると、殿下は珍しく、少しだけ意地悪な笑みを浮かべていた。
「お前がそんな顔をするのは、俺の前だけだろうな、と思っただけだ」
「な……っ」
からかわれている。分かっていても、頬が熱くなるのを止められなかった。
「わ、私は別に、殿下限定で泣いているわけでは……」
「そうか? だが、その顔で見上げられると、悪くない」
殿下は私の顎に指をかけて、軽く上向かせる。
「お前はこの顔に弱いだろう」
「なっ……」
「カッコいいんだろう、俺の顔は」
図星すぎて、何も言い返せなかった。
(え、なんで分かるの)
(推し補正、そんな分かりやすく顔に出てた……?)
顔を赤くしたまま黙り込んだ私を見て、殿下はますます楽しそうに目を細めた。
「なるほどな。分かりやすい」
「い、意地悪です……!」
「そうか? これくらいで済ませているだけ、優しいと思うが」
殿下がこんなふうに人をからかうところなど、ゲームでは一度も見たことがなかった。もっと言えば、こんなに感情の見える表情も。
(あれ……)
(この人、こんな顔もするんだ)
なぜだろう。悪役令嬢として断罪される恐怖よりも、今はその発見のほうが、胸をざわつかせていた。
「――それで」
ひとしきりからかった後、殿下はふと表情を改めた。
「お前は、これからどうしたい」
真っ直ぐな問いに、私は言葉に詰まった。
「どう、とは」
「逃げ続けるのか。それとも、俺のところへ戻るのか」
殿下の声は静かだった。責めるような色はない。ただ、こちらの答えを、本当に知りたがっているようだった。
私は少し考えて、正直に答えることにした。
「……戻ったところで、私は殿下にとって、いらない存在なんじゃないかと思っていました」
「なぜそう思う」
「だって、婚約破棄も、あんなにあっさり受け入れてくださったから」
私がそう言うと、殿下は珍しく、少し困ったような顔をした。
「あれは……」
言いかけて、殿下は一度言葉を切り、改めて口を開いた。
「正直に言えば、あの時の俺は、お前がなぜ婚約破棄を望むのか分からなかった。理由も聞かず了承したのは、突き放したわけじゃない。……お前の望みなら、それでいいと思っただけだ」
「殿下……」
「だが」
殿下は、ふいに私の手を取った。
「目が覚めたら、もうお前はいなかった。……正直、最初は深く考えなかった。気恥ずかしくて先に部屋を出たのだろう、と」
「殿下……」
「だが、屋敷から、お前が消えたと聞いた瞬間、頭が真っ白になった。理由も分からず、ただ、お前を失いたくないと、それだけしか考えられなかった」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「それは、婚約者として、ですか……?」
「さあな」
殿下は少し困ったように、それでいてどこか楽しそうに笑った。
「自分でもまだ、よく分からない。ただ――」
殿下は、私の手を強く握った。
「もっとずっと近くで、お前を見ていたいと思った。この感情を、なんと呼べばいいのか分からないが」
「殿下……それ、たぶん」
「言うな」
殿下は少し慌てたように、私の言葉を遮った。
「まだ、自分の中で言葉にできていない。……愛しいというのだろうか、これは」
その独り言のような呟きに、私は何も言えなくなった。
推しが。
推しが、目の前で。
自分の感情を、こんなふうに手探りで言葉にしている。
(ずるい)
(それは、ずるいと思います、殿下)




