第3話 逃げる令嬢、追う王太子
(終わった)
(私、終わった)
薄明るい部屋の中、私は音を立てないよう慎重にベッドを抜け出しながら、頭を抱えていた。
(一番やっちゃいけないやつじゃん! 最後の思い出とか言っといて、これもう完全にフラグ立ててるやつじゃん!!)
昨夜の自分を、全力で殴りたい。
でも後悔している時間はなかった。婚約破棄の手続きはまだ途中。今のうちに、少しでも殿下から距離を置いておいたほうがいい。
そう自分に言い聞かせながら、私は気怠い身体に鞭打って、最低限の荷物だけをまとめ、朝日の中、こっそりと屋敷を抜け出した。
(大丈夫。婚約破棄は進んでる。あとは、なるべく殿下と顔を合わせないようにして、ほとぼりが冷めるのを待てばいい)
(うん、完璧な計画……?)
我ながら、まったく完璧ではない計画だと、自分でも薄々気づいていた。
◇◇◇
完璧ではない計画は、案の定、半日と持たなかった。
「セリーナ」
街道沿いの木立の中、馬を休めていると背後から掛けられた声に、私は飛び上がりそうになった。
振り返らなくても分かる。この美声は。
「な――なんで殿下がここに!?」
馬を降りて歩み寄ってくるアルベルト殿下は、いつもの完璧な王子然とした装いではなく、簡素な外套姿だった。護衛らしき姿もない。
(噓でしょ、自分で追ってきたの!?)
(普通、こういうのって部下にやらせるものじゃないの!?)
混乱する私をよそに、殿下は真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「屋敷から、お前が消えたと聞いた」
「そ、それは、その」
「理由を聞かせてもらおうか」
逃げなければ、と思った瞬間には、もう体が動いていた。
(無理無理無理、絶対無理! 断罪される前にこれ以上ボロを出すわけには!)
「――っ、ごめんなさい!」
私は殿下に背を向けて、全力で走り出した。
我ながら、令嬢らしからぬ全力疾走だったと思う。けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
(なんで、なんでーっ!!)
(なんで殿下が私を追いかけてくるのよー!!)
もっとも、貴族令嬢の全力疾走と、王太子の本気の追跡では、そもそも勝負にならなかった。
あっという間に追いつかれ、腕を摑まれる。
「セリーナ」
息も切らさず、ただ困惑したような殿下の声が降ってくる。
「なぜ逃げる」
「だ、だって……!」
もう限界だった。
これまでの緊張、混乱、そして自分でもよく分からない罪悪感が、一気にせり上がってくる。
「だって、私が、逃げなきゃ……逃げないと、私……!」
「セリーナ」
「ヒロインが……いえ、その、じゃなくて……私、断罪、されるかもしれなくて……!」
自分でも、何を言っているのか分からなくなってきた。
殿下は、眉をひそめた。
「断罪? 誰に、何を糾弾されるというんだ」
「だから、ヒロインに……! 平民出身で、光属性の魔法が使えて、すごく可愛い子で……!」
「……誰の話をしている?」
殿下の反応は、本気で分からないという顔だった。
「知らんな、そんな人物」
「そんなはずないです! だって、ゲームでは……!」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
ゲーム、なんて言葉、この世界の人間に伝わるはずがない。
でも、それより気になったのは。
(殿下が、本気で知らない顔をしてる)
(噓をついてる感じじゃない……)
(もしかして、本当に……この世界に、ヒロインは)
その先を考えかけたところで、こらえていたものが、一気に決壊した。
「うっ……うぅ……」
「セリーナ?」
「全然、大丈夫じゃ、ありませんーーーっ!!」
人目もはばからず、私はその場で大泣きした。
王太子に腕を摑まれたまま泣きじゃくる令嬢という、控えめに言って相当みっともない絵面だっただろうと思う。
でも、もう限界だった。
異世界に来たことも、悪役令嬢だったことも、断罪の恐怖も、思い出せないヒロインの名前も、そして昨夜の失態も――全部、全部、一度に押し寄せてきて、私はただ、子どものように泣くことしかできなかった。
殿下は、しばらく何も言わなかった。
ただ、逃げようとする私の腕を、離さなかった。




