第2話 婚約破棄と、最後の夜
結論から言うと、私はその日のうちに婚約破棄を切り出した。
理由は単純だ。断罪イベントの時期が分からない以上、悠長に構えている時間はない。だったら先に、こちらから関係を清算してしまえばいい。婚約者でなくなれば、少なくとも「婚約者への横暴」という罪状は成立しなくなるはずだ。
――というのが、私が一晩かけてひねり出した、我ながら会心の作戦だった。
「アルベルト殿下」
執務室に押しかけられて、殿下は書類から顔を上げると、億劫そうに私を見た。整いすぎた顔立ちは、不機嫌そうにしていてもなお目の保養で、こんな状況でなければ普通に見惚れていたと思う。
「なんだ」
「私との婚約を、破棄していただきたいのです」
部屋の空気が、一瞬止まった気がした。
私は続ける。
「殿下には、もっとふさわしい方がいらっしゃるはずです。私は――」
私は、あなたと結婚するはずのゲームのヒロインではなく、あなたの婚約者の座を奪ってしまった悪役令嬢です。とは、さすがに言えなかったので、
「私は、殿下にふさわしい女ではありません」
と、いかにもそれらしい台詞でまとめておいた。
アルベルト殿下は、しばらく私を見つめていた。値踏みするような、それでいてどこか興味を失ったような目だった。
「面白いことを言う」
「え?」
「俺の立場が欲しくて擦り寄ってくる令嬢はいくらでもいるが、手放したがる令嬢は、初めて見た」
殿下はそう言って、わずかに目を細めた。皮肉というより、純粋に興味を惹かれたような響きだった。
「……そうか」
それだけだった。
驚くほどあっさりと。
引き止めもなく、理由を問い詰められることもなく。
(え)
(本当にそれだけ?)
拍子抜けした私に、殿下は淡々と続けた。
「手続きは追って進める。今日のところは下がっていい」
「は、はい」
部屋を辞しながら、私はどこか複雑な気持ちになっていた。作戦は成功だ。命拾いした、はずだ。
なのに、胸の奥がちくりと痛んだのは、なぜだろう。
(そりゃそうだよね。殿下からしたら、私、ただの政略の駒だもんね)
分かっていたことだ。分かっていたことなのに。
推しに、こんなにあっさり見限られるとは思わなかった。
婚約破棄の手続きが正式に進むまでには、まだ数日かかるという。
その間のことだった。
夜、私の部屋を、アルベルト殿下が一人で訪ねてきた。
「殿下……?」
「最後に、少し話したいことがある」
夜中に、未婚の男女が二人きり。本来ならためらうべき状況のはずだった。けれど、もう婚約は破棄される。今さら取り繕う意味もないと思い直して、私は殿下を部屋に招き入れた。
何を話すのか、正直まったく予想がつかなかった。淡々と婚約破棄を受け入れた人が、今さら何を。
けれど、殿下が話したのは、政治的な話でも、婚約破棄の事務手続きの話でもなかった。
「お前と、こうして二人で話すのは、案外初めてかもしれないな」
その一言に、私は思わず殿下の顔を見上げた。
「殿下?」
「幼い頃から、婚約者として顔を合わせてはいたが。……お前が何を考えているのか、俺はほとんど知らない」
どこか静かな声だった。
「王太子として、人と話すことには慣れている。だが、そのほとんどは、俺に何かを求める言葉だ」
少し間を置いて、殿下は続けた。
「お前は、違うようだ」
いつもの、人を試すような目とは少し違う。
「知る必要も、なかったんだろうな。政略の相手だ。それで十分だと、そう思っていた」
その言葉に、私は何も言えなかった。
思っていた通りだ。予想通りだ。だから傷つく必要なんて、ないはずなのに。
なぜか、目の奥が熱くなった。
「殿下」
「なんだ」
「――私も、殿下のことを、ほとんど知りません」
嘘だった。ゲームの知識としては、殿下のことなら誕生日から好きな食べ物まで全部知っている。
でも、それは「アルベルト殿下」というキャラクターの話であって、目の前でこうして静かに話す、この人のことじゃない。
殿下は少しだけ、笑ったような気がした。
「そうか。……なら、お互い様だな」
その夜、私たちは、これが最後だからと、いつもよりずっと長く言葉を交わした。
政治のことも、剣術の稽古のことも、殿下が意外と甘いものを好むことも。
そして、夜が更けて。
どちらから、というわけでもなかった。
ただ、殿下は最後まで私を急かさなかった。私が迷えば待ち、私が近づけば、それを受け入れた。
もう二度と会わないかもしれない相手だから――そんな言い訳が、私の中で都合よく組み上がっていく。
その先のことは、多くを語らないでおこうと思う。
ただ一つだけ言えるのは。
翌朝、目を覚ました私は、隣で眠る殿下の、驚くほど穏やかな寝顔を見て、猛烈な後悔に襲われた、ということだった。




