第1話 目覚めたら悪役令嬢でした
目を覚ました瞬間、天蓋付きのベッドが視界に飛び込んできて、私はしばらく状況が飲み込めなかった。
(え、天蓋? うちそんな高級じゃないんだけど)
起き上がろうとした腕が、やけに白くて細い。爪は綺麗に整えられていて、寝間着は見たこともないくらい上等なレースがついている。
そして何より、視界の端でさらりと揺れた髪が、黒い。
私の髪は、茶色いはずだった。
「セリーナ様、お目覚めですか」
声をかけてきたのは、見知らぬ侍女だった。
(あ、侍女だ)
寝起きの頭は、その光景を驚くほどすんなり受け止める。
(……侍女?)
(え、待って、なんで侍女がいるの)
一拍遅れて、猛烈な違和感が押し寄せてきた。うちに住み込みの使用人なんていない。実家はごく普通の会社員家庭だし、一人暮らしのアパートに至っては、鍵をかけ忘れた記憶を心配するくらいで、他人が部屋にいることなんてまずあり得ない。
呼ばれた名前に、頭の奥で何かがカチリと音を立てる。
(セリーナ……)
(セリーナって、あの、セリーナ?)
まさかと思いながら記憶をたどって、私は自分の推し活人生のかなりの部分を注ぎ込んだ乙女ゲームのタイトルを思い出す。『月夜に咲く恋』。通称『ツキコイ』。
そして、セリーナ・フォン・シュヴァルツというのは――このゲームの、悪役令嬢の名前だった。
(噓でしょ)
(噓だと言って)
混乱している私をよそに、侍女はにこやかに、しかし少し困ったような顔で続けた。
「セリーナ様、朝の身支度がまだですのに、アルベルト殿下がいらしています」
「アルベルト、殿下?」
その名前を聞いた瞬間、混乱の底から、まったく別の感情がせり上がってきた。
(キュピーン!)
(お、王子様じゃん!!)
アルベルト・ファン・エルステリア。金髪碧眼、才色兼備、剣も魔法も政務もこなす完璧超人で、なおかつ意地悪なくせに実は一途という、ツキコイ最推し攻略対象――その人が、今、この部屋の外にいる。
推しが、いる。
手の届く場所に、いる。
(いやいやいや、落ち着け私。今はそれどころじゃ――)
と、頭の片隅で冷静な自分が待ったをかけてくる。かけてくるのだが、正直に言うと、その声はかなり小さい。
だって、推しである。会いたいに決まっている。
しかし次の瞬間、冷静な自分の声が、急に音量を上げた。
(待って。悪役令嬢って、断罪されるやつじゃなかった?)
その一言で、浮かれていた気分が一気に冷えていく。
ツキコイの悪役令嬢セリーナは、婚約者であるアルベルト殿下に横暴な態度を取り続けた末、学園の卒業パーティーでヒロインをいじめた罪を糾弾され、婚約破棄、国外追放というルートを辿る。プレイヤーからは「自業自得」「ざまあ展開の華」と評判の役どころだ。
(って、それ私じゃん! 今、私、その役やってるじゃん!!)
全身から血の気が引いた。
私は慌てて記憶を掘り起こそうとする。断罪イベントが起きるのは、たしか学園の卒業パーティー。時期は――
(え、待って、いつだっけ)
(そもそも今、私、何歳なの? もう学園入ってる? 入ってない?)
考えれば考えるほど、記憶は曖昧だった。攻略対象の設定やスチルの構図はやけに詳しく覚えているくせに、肝心のスケジュールがまるで思い出せない。悲しいかな、これが「ストーリーはそこそこにキャラを愛でるタイプのプレイヤー」の限界だった。
(とにかく、断罪イベントがいつなのか分からない以上、迂闊なことはできない……)
深呼吸をひとつして、私はどうにか気持ちを立て直す。
大丈夫。落ち着いて考えよう。断罪される前に、対策を打てばいい。たとえば――そう、ヒロインとアルベルト殿下の仲を、そっと後押しするとか。
(ヒロインの名前、なんだっけ)
そう思った瞬間、頭の中がすっと白くなった。
眉目秀麗な攻略対象たちの名前は、フルネームですらすら出てくる。彼らの誕生日も、好きな食べ物も、スチルの何枚目でどんな台詞を言うかまで覚えている。
なのに、肝心のヒロインの名前だけが、綺麗さっぱり思い出せない。
(え、なんで)
(なんで一番大事なところだけ思い出せないの)
侍女が扉の向こうを気にしながら、もう一度声をかけてくる。
「セリーナ様? 殿下をあまりお待たせするわけにも……」
「あ――は、はい、すぐに」
私は慌てて返事をしながら、頭の中では必死に自分に言い聞かせていた。
(大丈夫。とりあえず、殿下に会う。会って、様子を見る。それから考えよう)
(推しに会えるんだから、悪いことばかりじゃない、はず)
我ながら都合のいい思考回路だと思う。けれど、今の私にできるのは、それくらいしかなかった。
鏡に映る見知らぬ美貌の令嬢――もとい、これから自分になる女の子に向かって、私はひとつ、覚悟を決めるように頷いた。
(セリーナ・フォン・シュヴァルツ。よろしくお願いします、私の体)
(そして、アルベルト殿下。どうか、しばらくは穏便にお願いします)
――こうして、現代日本で生きたはずの「私」の、悪役令嬢としての一日目が始まった。




