第九話 支配都市ベルナード
「もう一回」
「む、無理ですぅ……」
街道脇の草むらで、フィーネが杖を構えていた。
杖の先に淡い青白い光が集まり、ぷるぷると震えながら膨らんで――。
ぽふっ。
情けない音とともに消えた。
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙。
セラが腕を組んだ。
「もう一回」
「今の見てました!?」
「見てたから言ってるの」
「全然できてなかったじゃないですか!」
「だから練習するんでしょう?」
「正論で追い詰めないでください……!」
フィーネが杖に額をつける。
俺たちがアルヴェリアを発ってから、今日で三日目。ベルナードへ向かう道中、休憩のたびにこの光景を見ている。
原因は、あの竜との戦いだった。
追い詰められたフィーネが、結界とは違う形で魔力を外へ押し出した。そこへセラの魔法が重なり、二人の魔力は竜の吐息を破った。
問題は。
「必死だったんです。本当に。どうやったのか全然覚えてなくて……」
「それはもう聞いたわ」
「じゃあ優しくしてくださいよぉ」
「一回できたんだから、できるまでやればいいのよ」
セラは容赦がない。
もっとも、口ではああ言っているが、フィーネの魔力が乱れればすぐ止めるし、疲労が見えれば休憩も挟ませている。
その辺りはちゃんと見ているらしい。
「ほら。今度は何かを守ろうとしないでいいから。前に出すことだけ考えて」
「前に……」
フィーネがもう一度杖を構え、街道脇に転がっていた小石へ向けた。
「えいっ……!」
青白い光。
小石が――。
ころ。
一度だけ転がった。
「……!」
フィーネの顔が明るくなる。
「セラさん! 今!」
「転がったわね」
「転がりましたよね!?」
「一センチくらい」
「距離まで言わなくていいじゃないですか!」
セラが吹き出した。
フィーネも頬を膨らませながら、最後には笑う。
あの戦いのあとから、二人でこんなことを繰り返している。まだ戦いで使えるようなものではない。
ただ。
一度きりだったものを、一度きりで終わらせない。
それだけでも、前とは違う。
「そろそろ出発しましょう。日が暮れる前には着きたいわ」
リゼットの声に、二人が振り返った。
「はーい」
「はい!」
フィーネが杖を抱えて戻ってくる。
その向こう。
街道の先に、大きな城壁が見え始めていた。
◇
「……あれがベルナードか」
思っていたより、ずっと大きい。
山岳地帯の麓に築かれた都市ベルナード。アルヴェリアと同じ西部交易圏に属し、山から採れる鉱石や木材の集積地として栄えている。
街道には荷馬車が行き交っている。門も開いている。城壁の向こうからは、いくつもの煙突の煙も上がっていた。
「普通ね」
セラが言った。
「普通だな」
俺も同じ感想だった。
「何よ。もっとひどいの期待してたの?」
「そういう意味じゃない」
アルヴェリアへ戻ったあと、ギルドの資料庫で見つけた古い記録。
そこには、青白い魔力を全身に纏う小型の竜について記されていた。
俺たちが倒した巨大な個体と同種なのか、それとも近縁種なのか。それを確かめるためにベルナードまで来た。
ただ、気になることが一つあった。
最近、この街からアルヴェリアへ届く情報が妙に少ない。だから、何か起きている可能性は考えていた。
とはいえ。
「普通に商人も入ってるな」
俺の横でガルドが鼻を動かす。
「荷も多い」
「じゃあ、考えすぎだったのかしら」
リゼットが街を見上げる。
「それならそれでいい」
何も起きていないのなら、それが一番だ。
門へ近づくにつれて、違和感は少しずつ見え始めた。
「次!」
門前には長い列ができていた。
商人。旅人。冒険者。
一人ずつ、かなり細かく調べられている。
俺たちの番になる。
「所属」
「冒険者ギルド《白樫の枝》。パーティー名は《灰色の翼》」
兵士が紙へ書き込む。
「滞在目的」
「山岳地帯に生息する魔物の調査」
「何日だ」
「まだ決めてない」
兵士の手が止まった。
「予定でいい」
「三日から一週間程度」
「ベルナードで会う予定の人間は?」
「特にいない」
「宿は?」
「これから探す」
質問が続く。
武器まで確認された。リゼットの剣。ガルドの弓。セラの杖。フィーネの杖まで。
「随分細かいのね」
セラが小声で言う。
兵士が顔を上げた。
「何か?」
「いいえ。熱心だなと思っただけ」
にっこり。
兵士は表情を変えない。
最後に、一人ずつ小さな札を渡された。
「外来者用通行証だ。滞在中は携帯しろ。地区によっては提示を求められる」
「なくしたら?」
「再発行まで移動禁止だ」
「……随分厳しいのね」
「規則だ」
それだけだった。
門を抜ける。
街の中は、やはり普通だった。
店がある。人がいる。屋台から料理の匂いもする。荷車が走り、職人らしい男たちが資材を運んでいる。
ただ。
「……変ですね」
フィーネが呟いた。
「何が?」
「静かです」
言われて気づいた。
人はいる。
なのに、声が少ない。
市場なのに値切り交渉がほとんど聞こえない。笑い声もない。
店先で立ち話をしていた二人の男が、通りの向こうを見た瞬間、会話をやめた。
黒い服を着た数人の男が歩いてくる。
腕には同じ紋章。
黒い猟犬。
彼らが近づくにつれ、人々が自然に道を開けていく。
命令されたわけでもない。
ただ、そうするのが当然であるかのように。
男たちは何も言わず通り過ぎた。
会話はすぐには戻らなかった。
「……今の連中、兵士じゃないわよね」
リゼットが振り返る。
「装備が統一されてない」
ガルドが答えた。
「でも、ここの人は避けた」
フィーネが黒い猟犬の紋章を目で追っている。
セラの声も、さっきまでより少し低い。
「普通、ねえ」
「訂正する」
俺は言った。
「外からは普通に見える、だな」
その時。
ガルドが足を止めた。
「……どうした?」
返事がない。
金色の目だけが、建物の上を追っている。
「ガルド?」
リゼットが呼ぶ。
「見られてる」
短い一言。
俺も屋根を見た。
洗濯物。煙突。古い看板。
人影らしいものは見えない。
「どこから?」
「分からん」
以前のガルドなら、確信できるまで口にしなかったかもしれない。
今は違う。
「一人じゃない」
「何人?」
「少なくとも二つ。視線の質が違う」
ガルドの耳が微かに動く。
そして突然、顔が一方向で止まった。
道を挟んで三軒ほど先。建物の屋根。
その縁に、一人の男が立っていた。
細身。暗い色の服。背中に弓。
かなり離れている。
それでも。
ガルドと男の視線が、確かにぶつかった。
ほんの一瞬。
男の口元が僅かに動いたように見えた。
次の瞬間、屋根の向こうへ消える。
「今の?」
「一人」
ガルドはまだ屋根を見ていた。
「もう一つは?」
「残ってる」
リゼットが周囲を見る。
「敵?」
「分からん」
ガルドは即答した。
「だから言った」
それでいい。
分からないなら、分からないまま共有する。
それで俺たちは動ける。
「ひとまず目的を変える必要はない」
俺は地図を開いた。
「竜の情報を集めよう。ただし、この街のことも同時に見ておく」
「賛成」
リゼットが頷く。
「情報源を分けるか」
俺たち五人が同じところを回る必要はない。
冒険者の記録。魔術関係の記録。狩人や街道からの情報。治療所や教会。
それぞれ見えるものが違う。
「俺とリゼットは冒険者ギルドへ行く」
「分かった」
「ガルドは山と街道の情報を。猟師か狩人を当たってくれ」
「ああ」
「セラは魔術関係」
「任せなさい」
「フィーネは――」
「教会と治療所、ですよね」
先にフィーネが言った。
「山から怪我をして戻ってきた人がいたら、竜や魔物のことを見てるかもしれません」
一瞬、俺はフィーネを見る。
「……そうだな」
俺が言おうとしていたことと、ほぼ同じだった。
フィーネが少しだけ嬉しそうに笑う。
「じゃあ、行ってきます」
「何かあったら無理するなよ」
「はい。ちゃんと相談します」
そう言って、フィーネは一人、街の奥へ歩いていった。
この時の俺はまだ知らなかった。
俺たちがベルナードへ来た目的は、たった一頭の竜について調べることだった。
そしてフィーネも。
ただ一人。
目の前で困っている人を助けようとしただけだった。
◇
ベルナードの冒険者ギルドは、街の規模に比べれば妙に静かだった。
建物自体は大きい。一階には受付がいくつも並び、酒場まで併設されている。
それなのに、掲示板に貼られている依頼はまばらだった。
「少ないな」
俺が呟く。
リゼットも掲示板を見上げた。
「ベルナードって、もっと冒険者が多い街だったはずよ」
「山が近いなら、魔物の討伐や護衛だけでも相当ありそうだけど」
貼られている紙を順に見る。
荷運び。倉庫整理。市内警備補助。簡単な採取。
目当てだった山岳地帯の討伐依頼は、ほとんどない。
受付へ向かった。
「少し聞きたいんですが」
若い受付員が顔を上げる。
「何でしょう」
「西の山岳地帯に生息する竜について調べています。青白い魔力を纏う種類に心当たりはありませんか?」
一瞬、受付員の視線が止まった。
「……竜、ですか」
「はい」
「最近、山岳方面への討伐依頼は扱っていません」
「最近?」
「そういう方針ですので」
答えになっていない。
「以前の記録だけでも見せてもらえませんか?」
「外部の方への閲覧は制限されています」
「理由は?」
「規則です」
門でも聞いた言葉だ。
リゼットと目が合う。
そこへ。
「……リゼット?」
少し離れた席から声がした。
リゼットの表情が固まる。
一人の男がこちらを見ていた。三十歳前後。冒険者らしい革鎧を身につけ、酒の入った杯を片手に立ち上がる。
「やっぱりリゼットじゃねえか」
「……ニール」
知り合いらしい。
男――ニール・バートンが笑いながら近づいてきた。
「久しぶりだな。何年ぶりだ?」
「そんなに経ってないわ」
「そうだったか?」
ニールは特に気にした様子もなく、今度は俺を見る。
「誰だ?」
「ノア・クロウリー。《白樫の枝》で働いてる」
「《白樫の枝》?」
ニールの眉が上がる。
そして。
「おいおい。まだ残ってんのか、あのギルド」
声が少し大きかった。
近くにいた冒険者がこちらを見る。
リゼットの眉が僅かに寄った。
「ニール」
「別に悪口じゃねえって。事実だろ?」
ニールは笑う。
「俺も昔いたんだよ、《白樫の枝》に」
隣の席にいた冒険者が興味を示した。
「そっちの女も?」
「ああ。《灰色の翼》ってパーティーだ」
ニールが親指でリゼットを示す。
「弱いぞ、こいつら」
あまりにも迷いがない。
リゼットが何か言いかけた。
俺は黙ってニールを見る。
「そんなに?」
別の冒険者が聞く。
「ああ。失敗ばっかりだったからな」
ニールは杯を傾けた。
「難しい依頼ならまだ分かるぜ? でも俺たちのパーティーが楽勝で終わらせたような仕事まで、こいつら普通にしくじってたんだ」
「それは酷いな」
「だろ?」
笑いが起きる。
「何回やっても結果が出ねえんだから、弱いに決まってるだろ」
ニールにとっては、それで話が終わっているらしい。
ニールは笑いながら、自分の席へ戻っていった。
リゼットはしばらく、その背中を睨んでいた。
「……腹立つ」
「昔の話だから?」
「逆よ」
リゼットは小さく息を吐いた。
「実際、失敗してたもの。だから余計に腹が立つの」
「なるほど」
「何よ」
「いや」
俺はもう一度、ニールの背中を見る。
「今のリゼットを見ても、同じこと言うのかなと思って」
「……え?」
「少なくとも、俺が知ってるリゼットは、あいつが言ってた頃のリゼットじゃない」
リゼットが黙った。
「新しい剣を持ったからってだけじゃない。前より仲間を見るようになったし、任せるところは任せるようになった」
「ちょ、ちょっと待って」
「何?」
「そういうの……急に真面目な顔で言わないで」
リゼットがふいっと顔を逸らす。
横顔の頬が、ほんの少し赤い。
「褒めただけだけど」
「だから困ってるの!」
「褒められるの嫌なのか?」
「そういう意味じゃなくて……!」
リゼットはますます顔を逸らした。
よく分からない。
ただ、さっきまでの不機嫌そうな顔は消えていた。
「……でも」
少しして、リゼットが小さく言った。
「ありがと」
「ん?」
「二回は言わない」
「聞こえてたよ」
「なら聞き返さないで!」
怒られた。
ただ、その声はさっきよりずっと軽かった。
「でも……変ね」
「ああ」
ニールの方ではない。
依頼だ。
この規模の街で、これだけ山が近い。
なのに山岳関係の仕事が、意図的に消されているように見える。
「もう少し調べよう」
「ええ」
少なくとも、ベルナードへ来たのは無駄ではなさそうだった。
◇
「魔法を使うのに許可?」
セラは貼り紙を二度見した。
ベルナード魔術管理所。
本来なら、魔術師の登録や魔道具の鑑定、周辺地域の魔力異常などを扱う施設らしい。
入口には大きな掲示が出ている。
市街地における無許可魔術の使用禁止。
外来魔術師は登録必須。
攻撃魔法だけではない。日常魔法まで対象になっている。
「面倒な街ねえ」
セラが指先を上げる。
ほんの小さな光。
照明に使う程度の魔法だった。
琥珀色の瞳が、その光を見る。
「これも駄目なのかしら」
次の瞬間。
光が消えた。
「……?」
セラが瞬きをする。
自分では消していない。
「掲示を読んだ直後に試すとは。ずいぶん素直な反抗だな」
背後から男の声がした。
セラがゆっくり振り返る。
長い外套を纏った男が立っていた。
年齢は四十に届くかどうか。姿勢が妙に整っている。
冒険者というより、宮廷か学院の廊下の方が似合いそうな男だった。
「反抗?」
セラは首を傾げる。
「大げさね。私は確認しただけよ」
「禁止と書いてある」
「だから、本当に禁止なのか確認したの」
「普通は、禁止と書かれていれば使わない」
「まあ。ずいぶん素直に育ったのね」
男の眉が僅かに動いた。
「……口の減らない女だ」
「初対面の女性にそれ? 宮廷作法は習わなかったの?」
「必要のない相手に礼儀を使う趣味はない」
「なるほど。礼儀も許可制なのね、この街」
一瞬、男が黙った。
セラが満足そうに微笑む。
「今のは私の勝ちでいい?」
「くだらん」
「負けた人って、だいたいそう言うのよね」
男は答えず、セラの帽子、杖、そして消えた光の残滓へ視線を走らせた。
「外から来た魔術師か」
「見れば分かる?」
「その格好ならな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「好きにしろ」
「じゃあ遠慮なく」
「登録を済ませろ。ベルナードでは無許可の魔術使用は禁止されている」
「小さな灯りまで?」
「力の大小は関係ない。管理されていない魔術は事故を生む」
「事故を恐れて全部縛るの?」
「制御できない力を放置する方が愚かだ」
セラの目が僅かに細くなる。
「そこは同感」
男が初めて、明確にセラを見る。
「意外そうな顔ね」
「お前の見た目から、同意するとは思わなかったからな」
「失礼ね。こう見えても私は知的な魔術師なの。ただ可愛くて美人なだけじゃないの。」
「ふん、くだらん」
「ノリが悪いわね」
セラは杖を肩へ預ける。
「でも私は天才だから大きな魔力もちゃんと制御できちゃうの。だから派手な魔法でみんなを笑顔にできちゃうのよ!」
「大道芸人の理屈だな」
「ありがとう。観客を沸かせられる魔術師って意味なら、最高の褒め言葉よ」
「褒めていない」
「知ってる」
「ちょっと」
セラが呼び止める。
男は足だけを止めた。
「散々人に規則を押しつけておいて、名前も名乗らないの?」
「必要ない」
「うわ。最後まで感じ悪い」
男はそれ以上答えず、建物の奥へ歩いていく。
そこへ職員らしい魔術師が駆け寄ってきた。
「マティアス様」
男――マティアスは足を止める。
「西区の術式点検についてですが――」
「後で見る」
「は、はい」
そのまま二人が廊下の向こうへ消えていく。
セラはその背中を見送った。
「……マティアス、ね」
名前を一度、口の中で転がす。
「名前まで偉そう」
一拍置いて。
「それにしても――」
セラは自分の指先を見る。
先ほどの光。
消された瞬間、術式を壊された手応えすらなかった。魔力の流れだけを、必要なところで正確に断ち切られていた。
「感じは最悪だけど」
琥珀色の瞳が細くなる。
「腕は、本物ね」
◇
フィーネが教えられた診療所は、市場から少し離れた通りにあった。
小さい。古い。
けれど、入口も窓も綺麗に掃除されている。
「失礼します」
扉を開く。
「はーい……あっ」
奥から顔を出したのは、フィーネと同じくらいの年頃の少女だった。
茶色い髪を後ろでまとめ、白いエプロンをつけている。腕いっぱいに包帯を抱えていた。
「患者さん?」
「い、いえ。違います」
「あ、ごめんなさい」
少女が笑う。
「ここに来る人って、大体そうだから」
「私はフィーネ・セレスといいます。《白樫の枝》という冒険者ギルドから来ました」
「冒険者?」
少女がフィーネを見る。
杖。
白と淡い青を基調にした服。
「もしかして治癒術師?」
「はい」
「よかったぁ。怪我したのかと思った」
「私、そんなに怪我人っぽかったですか?」
「ううん。すごく心配そうな顔してたから」
「えっ」
フィーネが自分の頬へ手を当てる。
少女が吹き出した。
「冗談」
「もう……」
「ごめんごめん。私はミリア」
抱えていた包帯を脇へ置き、手を差し出す。
「ミリアです。ここで先生のお手伝いしてるの」
フィーネもその手を握った。
「よろしくお願いします」
「そんなかしこまらなくていいよ。同じくらいでしょ?」
「十九です」
「私も十九」
「同い年です!」
フィーネの顔が明るくなる。
「じゃあ敬語やめようよ」
「え」
「同い年なのに『お願いします』って言われると、私が偉い人みたい」
「でも、初対面ですし……」
「真面目だなぁ」
ミリアが笑う。
フィーネは少し困ったように笑い返した。
「それで、何か用だった?」
「あ、そうでした」
フィーネは姿勢を正す。
「山の方から運ばれてきた患者さんについて聞きたくて」
「山?」
「竜を探しているんです」
ミリアの表情が少し変わった。
「竜……」
「青白い魔力を纏う竜を知りませんか? 直接見た人じゃなくても、山で大きな魔物に襲われた人とか」
ミリアは少し考える。
「私は見たことない。でも――」
その時。
「ミリア!」
奥から男の声が飛んだ。
ミリアが振り返る。
「はい!」
「東の患者、また熱が上がった!」
さっきまでの柔らかい表情が消えた。
「薬は?」
「用意してある! だが許可がまだ下りてない!」
「……まだ?」
ミリアが唇を噛む。
フィーネが二人を交互に見る。
「あの……何かあったんですか?」
ミリアは答えなかった。
代わりに棚へ走り、小さな薬包を手に取る。
しかし、その手が止まる。
薬はある。
持っていけばいい。
そう見えるのに、ミリアは薬包を握ったまま動かなかった。
「ミリアさん?」
フィーネが声をかける。
ミリアは困ったように笑った。
「……届けられないの」
「え?」
「薬はあるんだけど」
フィーネは薬包を見る。
「患者さんも、この街にいるんですよね?」
「うん」
「だったら――」
フィーネは当然のことのように言った。
「届ければいいんじゃないですか?」
ミリアの笑顔が消えた。
「それが、できないの」
診療所の外。
通りの向こうを、黒い猟犬の紋章をつけた男たちが歩いていく。
フィーネはまだ、その言葉の意味を理解していなかった。
◇
「届けられないって……どういうこと?」
フィーネは薬包とミリアの顔を交互に見た。
「患者さん、急いでるんだよね?」
「うん」
「薬もある」
「あるよ」
「じゃあ……」
やっぱり分からない。
ミリアは薬包を棚へ戻した。
「今は、地区をまたいで薬を運ぶのに許可がいるの」
「許可?」
「診療所から持ち出す医薬品は、全部」
「でも、患者さんのところに届けるだけだよね?」
「それでも」
ミリアは困ったように笑った。
「東区へ持っていくなら、申請を出さないといけないの」
「申請は?」
「昨日出した」
「じゃあ――」
「まだ通ってない」
「……いつ通るの?」
「分からない」
フィーネが黙る。
奥から先ほどの男――診療所の医師らしい――が顔を出した。
「早くても明日だろう」
「明日……」
「今朝から何度も催促している。だが、返ってくるのは『審査中』だけだ」
「患者さんは?」
医師が僅かに視線を落とした。
「今夜を越えればいいが」
その言葉だけで十分だった。
フィーネが薬包を見る。
手を伸ばせば届く場所にある。
必要としている人も、同じ街の中にいる。
なのに。
「そんなのおかしいよ」
思わず口から出た。
ミリアは否定しなかった。
「うん」
ただ。
「でも、今はそういう決まりなの」
今は。
その言葉が妙に引っかかった。
「許可を出すところって、どこ?」
「え?」
「私も行く」
「フィーネ?」
「急いでるって言えば、分かってくれるかもしれない」
ミリアの顔に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。
「……たぶん、無理だと思う」
「でも、まだ聞いてないよね?」
「それは……そうだけど」
「だったら聞いてみよう」
フィーネは杖を握る。
「何もしないで待ってるより、その方がいいよ」
ミリアはしばらくフィーネを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かった」
「うん」
「でも」
ミリアは少し真剣な顔になった。
「向こうで言い争ったりしないでね」
「し、しないよ」
「本当に?」
「私、そんなに喧嘩っ早く見える?」
「全然」
「じゃあどうして聞いたの?」
「真面目な人の方が、こういう時むきになるから」
「……気をつけます」
「もう敬語に戻ってる」
「あっ」
ミリアが笑った。
フィーネも少しだけ笑う。
けれど、診療所を出た時には、ミリアの表情はもう元に戻っていた。
◇
許可を扱う窓口は、大通り沿いにあった。
石造りの小さな建物。その前にも人が並んでいる。
荷物を抱えた商人。書類を持った職人。老人。
誰も大きな声を出さない。
ミリアとフィーネも列へ並んだ。
十分。
二十分。
ようやく順番が来る。
「申請番号」
窓口の男が顔も上げずに言う。
ミリアが紙を差し出す。
「昨日出した医薬品の移送申請です。東区の患者さんの容体が悪くなっていて――」
「審査中だ」
「それは分かっています。でも、今夜まで待てるか分からないんです」
「審査中だ」
「だから、せめて急ぎで――」
「順番は変えられない」
男は書類を押し返した。
フィーネが口を開く。
「あの」
ミリアが横からフィーネの袖を軽く引いた。
それでもフィーネは続けた。
「患者さんが危ないんです」
男が初めて顔を上げる。
「だから?」
「だから……急いで薬を届けないと」
「許可が出れば届けられる」
「その許可が間に合わなかったら?」
「それは我々の判断することではない」
フィーネの表情が固まる。
「でも――」
「次」
終わりだった。
後ろの人間が一歩前へ出る。
ミリアがフィーネの腕を引いた。
「行こう」
「……うん」
納得はできない。
でも、ここで言い続けても何も変わらない。
そう思って建物を離れた時だった。
「だから、今日中に届けなきゃならねえんだ!」
大通りの方から怒鳴り声が響いた。
フィーネが振り返る。
一台の大きな荷車が止められていた。荷台には木箱がいくつも積まれている。
商人らしい男が、黒い猟犬の紋章をつけた兵士と言い争っていた。
「通行許可がない。戻れ」
「昨日までこんなもんいらなかっただろ!」
「今日から必要になった」
「ふざけるな! こいつは夕方までに南の倉庫へ入れなきゃならねえんだ!」
「戻れ」
「知るか!」
商人が御者台へ飛び乗った。
「おい!」
兵士が声を上げる。
馬が動き出す。
周囲の人間が慌てて道を空けた。
「危ない!」
フィーネも思わず声を上げる。
その時だった。
一人の男が、荷車の前へ出た。
大きい。
最初にそう思った。
身長だけではない。
肩。
腕。
胸板。
まるで人間をそのまま一回り厚くしたような男だった。
黒い猟犬の紋章。
周囲の兵士たちの空気が、一瞬で変わる。
「ボガード様」
誰かが名前を呼んだ。
男――ボガードは、兵士にも商人にも何も聞かなかった。
動き出した荷車を見る。
「止まれと言われただろ」
「どけ!」
商人が叫ぶ。
ボガードは動かなかった。
馬が目前まで迫る。
フィーネが息を呑む。
次の瞬間。
轟音。
ボガードの拳が、荷車の側面へ叩き込まれた。
荷車が、消し飛んだ。
そう見えた。
分厚い側板がまとめて砕け、木片が通りへ弾け飛ぶ。
二つの車輪が別々の方向へ転がり、車軸が中央から折れる。荷台が石畳へ叩きつけられ、積まれていた木箱が潰れて中身が辺り一面へ散乱した。
一瞬前まで確かに一台の荷車だったものが。
もう、荷車の形をしていなかった。
「――っ……」
フィーネは息をすることすら忘れた。
たった一発。
本当に。
たった一発だった。
武器も使っていない。
魔法を使った様子もない。
拳を、一度振っただけ。
それだけで、人間が何人もかけて運ぶような荷車が瓦礫になった。
ボガードは自分の拳を見ることすらしなかった。
傷一つない。
「これで動かない」
それだけ言った。
商人が石畳へ座り込んだまま、何も言えなくなる。
ボガードはそれ以上興味を示さなかった。
「片づけろ」
「はっ!」
兵士たちが動き出す。
それだけだった。
フィーネは何も言えなかった。
隣で、ミリアがフィーネの腕を強く掴んでいた。
「……行こう」
「でも、あの人……」
「お願い」
声が震えている。
フィーネがミリアを見る。
顔が青ざめていた。
さっきまで窓口の人間へ必死に薬の必要性を訴えていた少女が。
ボガードには。
何も言わない。
言えない。
二人はその場を離れた。
しばらく歩いてから、フィーネが小さく聞いた。
「……ボガードって」
ミリアの足が僅かに遅くなる。
「ブラックハウンドの四幹部の一人」
「四幹部……」
「街の治安を仕切ってる」
ミリアは前を向いたまま言う。
「最初にこの街で反乱が起きた時も」
一瞬だけ言葉が止まる。
「東区の人たちを、あの人がほとんど一人で潰したって」
「一人で……?」
「だから」
ミリアがフィーネを見る。
「ボガードが来たら、絶対に逆らっちゃ駄目」
フィーネの指先が震えていた。
もし。
今の拳が荷車ではなく、人に向いていたら。
頭に浮かんだ瞬間、想像の中でさえ最後まで考えられなかった。
自分の結界で止められるだろうか。
そんな考えが一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。
無理だ。
理屈ではない。
身体が先にそう答えていた。
あれを受けたら。
きっと、一撃で終わる。
◇
診療所へ戻っても、許可は下りていなかった。
「……やっぱり駄目だった?」
医師の問いに、ミリアが首を振る。
「審査中のまま」
「そうか」
医師が奥を見る。
壁に掛けられた時計。
時間だけが進んでいる。
フィーネも時計を見た。
患者の顔は知らない。名前も知らない。
でも、待っている間にも状態は悪くなっていく。
「……みんなに相談した方が」
小さく呟く。
ノアさんなら。
リゼットさんなら。
きっと何か考えてくれる。
そう思った。
けれど、ノアたちを探しに行く時間。事情を説明して、またここへ戻ってくる時間。
患者は待ってくれるだろうか。
フィーネは自分の胸元へ手を伸ばした。
指先に触れたのは、街へ入る時に渡された小さな通行証。
「……あ」
「どうしたの?」
ミリアが振り返る。
フィーネは通行証を見る。
怖い。
ボガードの拳を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
それでも、フィーネは通行証を握った。
ノアさんなら、どうするだろう。
たぶん、まず今あるものを見る。
できない理由じゃなくて、できる方法を探す。
「……私だって」
小さく声が出た。
ミリアが振り返る。
「フィーネ?」
「私だって、《灰色の翼》の一員なんだから」
リゼットさんも。
セラさんも。
ガルドさんも。
みんな、自分にできることをやっている。
ノアさんだって、剣も魔法も使えないのに、いつも自分にできる方法を探している。
だったら、私だって。
最初から誰かに答えをもらいに行くんじゃない。
まず、自分で考える。
自分にできることをやる。
それで駄目なら、その時はちゃんとみんなに助けてもらえばいい。
フィーネは顔を上げた。
「ミリア」
「うん?」
「さっき言ってたのって」
フィーネが薬棚を見る。
「診療所が薬を別の地区へ運ぶには、許可がいるんだよね?」
「そうだけど」
「治癒術師が患者さんを診に行くのも駄目なの?」
ミリアが瞬きをする。
「……え?」
医師もこちらを見る。
フィーネは続けた。
「私、門で治癒術師だって申告してる」
通行証を見せる。
「この札があれば、東区にも行けるんだよね?」
「それは……行けるけど」
「治療に必要な薬を持っていくのは?」
医師の表情が変わった。
「待て」
立ち上がり、棚から一冊の規則書を取り出す。
頁をめくる。
何枚か。
そして、指が止まった。
「……ある」
「本当ですか?」
「外来治癒術師の緊急診療」
医師が文章を追う。
「治療者本人が携行する少量の医薬品については、診療用装備として扱う……」
ミリアが目を見開く。
「じゃあ」
「診療所から薬を配送するんじゃない」
フィーネが言った。
「私が」
一度、息を吸う。
「患者さんを治しに行けばいい」
誰も答えない。
数秒後。
ミリアの顔が、一気に明るくなった。
「フィーネ……!」
けれど、医師は慎重だった。
「規則上は通る」
「はい」
「だが、連中が素直に通すとは限らないぞ」
その言葉で、フィーネの頭にまたボガードの拳が浮かんだ。
壊れた荷車。
何も言えなかった商人。
震えていたミリアの手。
怖い。
それは、ちゃんと怖かった。
「……それでも」
フィーネは杖を握った。
「行きます」
フィーネが言った。
「私が治療しに行く」
ミリアが薬包を手に取る。
「私も行く」
「危ないかもしれないよ?」
「患者さんの家、私しか分からないでしょ?」
「あ」
「そこ忘れてた?」
「……ちょっとだけ」
ミリアが笑った。
「じゃあ決まり」
フィーネも笑う。
薬包を鞄へ入れ、通行証を確認し、杖を握る。
診療所の扉を開けると、さっきと同じ街が広がっていた。
ただ。
フィーネにはもう、そこが来た時と同じ街には見えなかった。
◇
東区へ向かう道は、思っていたより遠かった。
フィーネとミリアは、人通りの多い大通りを避けながら歩いていた。
フィーネの鞄には、診療所から預かった薬が入っている。
いつもなら、それだけのことだった。
治癒術師が患者を診に行く。必要な薬を持っていく。
何もおかしなことではない。
なのに、通りの向こうに黒い猟犬の紋章が見えるたび、フィーネの身体がほんの少し強張った。
轟音。
砕け散った荷車。
石畳を転がる車輪。
そして。
『これで動かない』
何でもないことのように言った、ボガードの声。
「……フィーネ?」
「え?」
「大丈夫?」
ミリアが心配そうにこちらを見ていた。
「だ、大丈夫」
「さっきから何回も後ろ見てる」
「……そんなに?」
「うん」
フィーネは自分の杖を握り直した。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
ミリアは少しだけ歩調を落とした。
「怖かったよね」
フィーネは答えられなかった。
怖かった。
今だって怖い。
もしボガードが現れて、その拳をこちらへ向けたら。
自分に何ができるのか。
朝、小石をほんの少し動かせただけで喜んでいた。
あの力で、あの男を止められるなんて。
どう考えても思えなかった。
だから、今は考えないことにした。
ボガードと戦いに来たわけじゃない。
患者を治しに来たのだ。
「……行こう」
「うん」
二人は再び歩き出した。
そして、東区へ入る手前でその足が止まった。
「通行証」
道の中央に検問所が設けられていた。
黒い猟犬の紋章をつけた男が三人。荷物を積んだ人間が、一人ずつ確認を受けている。
ミリアの表情が硬くなる。
「フィーネ」
「うん」
「私が話す?」
フィーネは一瞬迷った。
それから、首を横に振る。
「私が話す」
「大丈夫?」
「……たぶん」
「そこは自信持ってよ」
「が、頑張る」
ミリアが小さく笑った。
それだけで少し緊張が解ける。
「次」
二人の番になった。
フィーネは通行証を差し出す。
兵士が札を見る。
「外来者か」
「はい」
「目的」
「治療です」
「治療?」
「東区にいる患者さんを診に行きます」
兵士の視線がフィーネの杖へ移る。
「治癒術師か」
「はい」
「荷物を見せろ」
来た。
フィーネの喉が小さく鳴った。
鞄を開く。
薬包。
包帯。
治療用の道具。
兵士の目が薬で止まった。
「これは?」
「治療に使う薬です」
「医薬品の地区間移送には許可がいる」
やっぱり。
フィーネの心臓が大きく鳴る。
でも、ここまで来て戻るわけにはいかない。
「移送じゃありません」
兵士がフィーネを見る。
「何?」
「私は治癒術師です」
声が少し震えた。
それでも続ける。
「患者さんを治療しに行きます。そのために、私が使う薬を持っているだけです」
「同じことだろう」
「違います」
言ってしまった。
兵士の眉が動く。
横でミリアが息を呑んだ。
フィーネも、一瞬だけ後悔した。
けれど。
診療所の医師が確認してくれた。
規則に書いてあった。
「外来治癒術師が緊急診療を行う場合、本人が携行する少量の医薬品は診療用装備として扱われます」
兵士が黙った。
後ろにいた別の兵士が近づき、フィーネの通行証を取る。
「どこで知った?」
「規則に書いてありました」
「……そうか」
嫌な沈黙。
フィーネは杖を握る手に力を入れた。
やがて、男が通行証を返してきた。
「通れ」
「……え?」
「聞こえなかったか?」
「い、いえ!」
フィーネが慌てて受け取る。
「ありがとうございます!」
ミリアと一緒に歩き出す。
数歩。
十歩。
検問所が遠ざかったところで。
「通った……」
フィーネから力が抜けた。
「通った!」
ミリアが声を潜めながら笑う。
「フィーネ、すごい!」
「わ、私じゃなくて規則が――」
「でも気づいたのフィーネでしょ?」
「それは……」
「だったらフィーネがすごい」
「……えへへ」
少しだけ。
嬉しかった。
その背後で、兵士が机の上の記録簿へ筆を走らせていた。
外来治癒術師。
フィーネ・セレス。
所属。
《白樫の枝》。
パーティー。
《灰色の翼》。
その横に。
小さな印が一つ付け加えられた。
◇
「ここ」
ミリアが立ち止まった。
東区の外れ。
古い建物だった。
家というより、使われなくなった倉庫を無理に住居へ変えたように見える。
「患者さんは?」
「中」
ミリアが扉を開く。
「薬、持ってきたよ!」
中から、いくつもの顔が振り返った。
フィーネの足が止まる。
一人ではなかった。
壁際に敷かれた簡素な寝台には、何人もの人がいる。
腕に包帯を巻いた男。
足を痛めている老人。
額に濡れた布を乗せている子ども。
仕事着のまま横になっている女性。
「……こんなに?」
フィーネが思わず呟く。
「ミリア!」
一人の女性が駆け寄ってくる。
「薬は?」
「持ってきた。この子が治癒術師なの」
ミリアがフィーネを見る。
「フィーネ」
「は、はい」
女性の表情が一気に変わる。
「治癒術師……?」
「患者さんはどこですか?」
「こっち!」
案内されたのは、部屋の奥。
十歳くらいの少年だった。
息が荒い。顔が赤い。
額に触れる。
「熱い……」
「昨日からずっと下がらないの」
母親らしい女性が言う。
「先生には診てもらった。でも薬が届かなくて……」
フィーネはすぐに杖を置いた。
「ミリア、水を」
「うん!」
「布もお願い」
「分かった!」
「お母さんは、いつからこうなったか教えてください」
「昨日の朝からで――」
さっきまでの頼りなげな雰囲気が消える。
治療が始まれば、フィーネは治癒術師だった。
症状を見る。
魔力の流れを確認する。
必要以上に治癒魔法を使わない。
薬と治癒術。
水分。
体温。
一つずつ。
焦らず。
今できることをする。
「……大丈夫」
少年へ声をかける。
「ちょっとだけ辛いけど、すぐ楽になるからね」
青白い光が、今度は優しく少年を包んだ。
◇
どれくらい経っただろう。
少年の呼吸は、来た時よりずっと穏やかになっていた。
母親が何度も少年の額へ触れる。
「下がってる……」
震える声。
「熱が……」
フィーネも額へ触れた。
まだ高い。
でも、危険な状態からは抜けている。
「もう少し様子を見た方がいいです。でも、このままなら大丈夫だと思います」
「ありがとう……」
母親が、フィーネの手を両手で握った。
「本当に……ありがとう」
「い、いえ」
フィーネは少し困ったように笑った。
「私は、できることをしただけですから」
後ろから。
「だから、それがすごいんだって」
ミリアの声。
「ミリア」
「よかったね」
「……うん」
二人が笑う。
その瞬間。
フィーネの胸の中にあった重たいものが、少しだけ軽くなった。
怖かった。
今も怖い。
でも。
来てよかった。
そう思えた。
◇
「フィーネ。こっちも見てもらっていい?」
「はい――あ、うん!」
「ふふ。まだ敬語」
「あっ」
少年の治療が終わったあとも、フィーネはしばらくその場所に残った。
他の人たちは緊急ではない。
それでも、治せるものなら放っておけなかった。
足を痛めた老人を診る。
腕の傷を消毒する。
包帯を巻き直す。
「この怪我、どうしたんですか?」
「鉱石を運んでる時にな。荷が崩れた」
「診療所には?」
「行ったさ。でも薬がな」
老人が苦笑する。
隣の男も言った。
「俺は仕事場で手を切った。大した傷じゃなかったんだが、放っておいたら腫れてきてな」
「ここだけじゃないよ」
ミリアが包帯を準備しながら言う。
「こういう人、他の地区にもいる」
「……そんなに?」
「うん」
フィーネは部屋を見回した。
薬がないわけではない。
治療できる人がいないわけでもない。
なのに。
必要なところへ、必要なものが届かない。
「変だよ……」
小さく呟く。
誰も答えなかった。
ただ。
誰も否定もしなかった。
◇
「ミリア。これ、南通りのベッカさんに返しておいてくれるか?」
「いいよ」
「それと、市場のトーマに明日の荷は無理だって伝えてくれ」
「分かった」
「ミリアちゃん、パン屋の奥さんにもありがとうって言っといて」
「はーい」
「あ、教会の――」
「明日行くから、その時でもいい?」
「もちろん」
帰る準備を始めた頃。
フィーネは妙なことに気づいた。
「……ミリア」
「何?」
「すごいね」
「何が?」
「みんな、ミリアにお願いする」
ミリアが首を傾げる。
「そう?」
「そうだよ」
「だって、私よく歩くから」
「それだけ?」
「それだけ」
本当に、それだけだと思っている顔だった。
「診療所にいると色んな人が来るし。市場にも行くし、教会にも行くし、薬屋にも行くし」
指を折りながら数える。
「宿屋にも行くし、倉庫にも行くし……」
「多いよ」
「そうかな?」
「多いよ」
ミリアが笑った。
「じゃあ、フィーネも一人増えたね」
「え?」
「知り合い」
フィーネが一瞬、目を丸くする。
それから。
「……うん」
笑った。
「一人増えた」
◇
帰り道。
日が傾き始めていた。
「今日は本当にありがとう」
ミリアが言う。
「私一人じゃ、どうしようもなかった」
「私も一人じゃ来れなかったよ」
「そう?」
「患者さんの場所知らなかったし」
「あ、それはそうだ」
「だから二人」
「うん。二人」
ミリアが笑う。
フィーネも笑った。
その時。
通りの反対側。
一人の男が、二人を見ていた。
目が合いそうになると、すぐに人混みへ消える。
フィーネは気づかなかった。
ミリアも。
男がどちら側の人間だったのか。
まだ、誰にも分からない。
◇
「フィーネ・セレス」
紙の上の名前を、男の指がなぞった。
薄暗い部屋。
机の上には、今日一日ベルナード各地から集められた報告書が積まれている。
「外来治癒術師。医薬品移動規制の例外条項を使用」
「はい」
「所属は?」
「《白樫の枝》。パーティー名は《灰色の翼》です」
その名前に。
「《灰色の翼》?」
少し離れたところから声がした。
一人の男が顔を上げる。
ニール・バートンだった。
「知っているのか?」
「ええ」
ニールが笑う。
「昔、同じギルドにいましたから」
「どんな連中だ」
ニールは少しも迷わなかった。
「弱いですよ」
男がニールを見る。
「俺がいた頃から、失敗ばっかりでした」
ニールは肩をすくめる。
「俺たちでも楽勝だった依頼に失敗してたくらいですからね」
「……そうか」
短い返事。
報告書が閉じられる。
その表紙には、黒い猟犬の紋章が刻まれていた。
ニールはまだ知らない。
今日。
弱いと笑ったそのパーティーの一人が。
ベルナードで初めて。
ブラックハウンドの作った規則を使って。
一人の命を救ったことを。
【今回の「異世界マーケティング」】
今回のテーマは「流通」です。
マーケティングでは、どれだけ良い商品やサービスを用意しても、それが必要としている人のところまで届かなければ価値にはなりません。
今回のベルナードには薬がありました。
治療できる人もいました。
そして、薬を必要としている患者もいました。
それでも患者は治療を受けられない。
問題は「薬が足りないこと」ではなく、
「薬が必要な場所まで届かないこと」
にありました。
マーケティングの4Pでは、こうした「どのように商品やサービスを届けるか」をPlace(流通)として考えます。
フィーネが見つけたのも、新しい薬ではありません。
「薬を患者へ運ぶ」のではなく、
「治癒術師である自分が、薬を持って患者のところへ行く」
という別の届け方でした。
同じ物でも、届け方を変えるだけで価値が生まれることがあります。
もう一つ。
今回のフィーネは、目の前の規則をそのまま受け入れるのではなく、
「本当に禁止されているのは何なのか?」
を考え直しました。
薬を運ぶことができない。
なら、
自分たちがやろうとしていることを「薬の輸送」と考える必要はあるのか。
問題の捉え方を変えることで、新しい選択肢が見えることがあります。
そして今回、もう一つ小さなものが増えました。
ミリアが言った、
「じゃあ、フィーネも一人増えたね」
という言葉です。
今のところは、ただ知り合いが一人増えただけです。
でも、人と人のつながりもまた、一つの資源になります。
それがどんな価値を持つのか。
ベルナード編では、少しずつ描いていければと思います。




