第十話 黒の猟犬《ブラックハウンド》
翌朝。
宿の一階にある食堂の隅で、五人は一つのテーブルを囲んでいた。
昨夜は全員が無事に宿へ戻ったことだけ確認し、詳しい話は朝に回した。それぞれ別々の場所を調べていたのだ。
誰が何を見て、何を知ったのか。
五人全員が揃って話すのは、これが初めてだった。
朝食を終えたテーブルの上に、俺は何枚かの紙を広げる。
「じゃあ、昨日分かったことを順番に聞こう」
まずフィーネを見る。
「フィーネから」
「はい」
フィーネが少し緊張した様子で背筋を伸ばした。
「私は診療所へ行って、それからミリアという女の子と東地区まで行きました」
「ミリア?」
リゼットが聞く。
「はい。診療所で先生のお手伝いをしてる子です。私と同い年で……」
そこまで言って、フィーネは少しだけ表情を緩めた。
「すごくいい子でした」
「へえ」
セラが楽しそうにフィーネを見る。
「もうお友達作ったの?」
「と、友達っていうか……」
「その話はあと」
俺が遮る。
「東地区で何があった?」
「あ、はい」
フィーネは頷いた。
「薬が必要な患者さんがいたんです。でも、薬がないわけじゃありませんでした」
俺の手が動く。
「診療所にはあった?」
「はい。でも地区をまたいで運ぶには許可が必要で、その許可が下りてなくて……」
「薬はある。患者もいる。でも届けられない」
「はい」
フィーネは少し考えてから続けた。
「それだけじゃないと思います。東地区には、もっと早く治療を受けられたはずの人が何人もいました」
紙へ書き込む。
――物資不足ではない。
その横に、
――移動制限。
「それで、どうやって入った?」
フィーネは少しだけ得意そうに説明した。
薬の移送は禁止されている。だが、外部の治癒術師が緊急治療のために持ち込む少量の薬は、治療道具として認められる。
だから薬を運ぶのではなく、自分自身が患者を治療しに行った。
説明を聞き終えると、セラが感心したようにフィーネを見る。
「やるじゃない」
「えへへ……」
「ちゃんと自分で考えたのね」
「はい」
フィーネは嬉しそうに頷いた。
だが、その表情はすぐに曇った。
「それから……ボガードという人を見ました」
「ボガード?」
「はい。《ブラックハウンド》の幹部だそうです」
「……ブラックハウンド?」
今度はリゼットが反応した。
俺の手も止まる。セラまで頬杖を外した。
その名前を知っている者は、フィーネ以外にはいなかった。
「それ、何?」
セラが尋ねる。
「私も昨日、ミリアから初めて聞いたんですけど……」
フィーネは少し言葉を選んだ。
「今、この街を支配してる人たちの名前だそうです」
一瞬、テーブルが静かになった。
「組織名か」
「はい。《ブラックハウンド》」
新しい紙の中央へ、その名前を書く。
――ブラックハウンド。
そして、その文字を丸で囲んだ。
ガルドが低く言う。
「黒い猟犬」
「え?」
「昨日、街に入ってから何度も見た」
黒い猟犬を模した紋章。
通りを歩く男たち。検問所。住民が無言で道を空ける光景。
リゼットも思い当たったらしい。
「……あの紋章が、ブラックハウンドのものなのね」
「たぶん、そうだと思います」
「ようやく名前がついたわけね」
セラが椅子の背にもたれた。
「感じの悪い連中、じゃなくて《ブラックハウンド》」
「覚えやすくて助かるな」
紙に視線を落としたまま言う。
「忘れたい名前ではあるけど」
「それで、そのボガードっていうのが幹部?」
「はい」
フィーネが頷く。
「ミリアは、幹部が四人いるって言ってました」
「四人」
その数字も書き込む。
《ブラックハウンド》
その下に、
――幹部、四名。
そして一番目の名前。
――ボガード。
「他の三人は?」
「分かりません。ミリアから聞いたのはボガードのことだけです」
「十分だよ」
俺は頷いた。
昨日まで、ベルナードで起きている異常には名前すらなかった。
街の空気。検問。移動制限。魔術の規制。屋根の上の監視者。
それらが全部同じ相手によるものなのかは、まだ分からない。
だが少なくとも、その中心にいる組織の名前だけは分かった。
《ブラックハウンド》。
その文字をもう一度見る。
「続けて。ボガードは何をした?」
「……はい」
フィーネの指先がわずかに強く握られる。
「すごく大きな人で……荷車を、一回殴っただけでした」
そこで言葉が止まった。
厚い木材。
宙を飛んだ車輪。
折れた車軸。
そして、その中心に立っていた巨大な男。
『これで動かない』
怒鳴りもしなかった。
力んでもいなかった。
ただ邪魔なものを壊しただけだった。
「……荷車が、ほとんど壊れました」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
「魔法か?」
ガルドが聞く。
フィーネは首を振った。
「分かりません。でも、少なくとも私には、ただ殴ったようにしか見えませんでした」
「ただ殴って、荷車を?」
リゼットが眉を寄せる。
「はい」
セラが少しだけ顔をしかめた。
「……ずいぶん分かりやすい幹部ね」
「分かりやすいだけなら助かるんだけどな」
ボガードの名前の横へ短く書き加える。
――異常な怪力。
まだ、それ以上は判断できない。
「次。セラ」
「はいはい」
セラが軽く手を上げた。
「私が行ったところも、なかなか面倒だったわよ。ベルナードじゃ、無許可の魔術使用そのものが制限されてるみたい」
「魔法そのものを?」
リゼットが聞く。
「そう。小さな灯り一つでもね」
紙に書き加える。
――魔術使用の制限。
「それで、そこで一人、妙な男に会った」
「妙な男?」
「マティアス」
セラが答えた。
「それが名前?」
「少なくとも職員はそう呼んでたわ。『マティアス様』って」
「ブラックハウンドの人間か?」
セラは首を傾げた。
「そこまでは知らない」
即答だった。
「昨日の時点じゃ《ブラックハウンド》って名前自体、私は知らなかったもの」
「そうか」
「ただ――」
セラが先ほどフィーネから聞いた話を思い返すように指先を動かす。
「魔術を取り締まってる場所で、職員から“様”付けされて、好き勝手できるくらいの立場だった」
「無関係とは考えにくい?」
「私はそう思う。でも、まだ推測ね」
紙へ書く。
――マティアス。
――魔術関係。
――ブラックハウンドとの関係、不明。
「腕は?」
聞くと、セラはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ視線を落とす。
昨日、自分の小さな光が消された瞬間を思い出しているようだった。
「……上手いわ」
珍しく、素直な評価だった。
「私が出した魔法を、力ずくで壊したんじゃない。必要なところだけ触って消した」
リゼットが眉を寄せる。
「セラより?」
「技術だけなら、少なくとも昨日見た範囲じゃ相当ね」
少し迷ってから聞いた。
「もし戦ったら、勝てそうか?」
セラが黙った。
いつもの彼女なら、すぐに何か言い返す。
だが今回は違った。
数秒考えてから、顔を上げる。
「でも……」
琥珀色の瞳がいたずらっぽく細くなる。
「私が負けるなんて姿、想像できないでしょ?」
一瞬、言葉を失った。
相変わらずこの女は大物だ。
本当に勝てると思っているのか。それとも、ただ強がっているだけなのか。
正直、俺にも分からない。
ただ――。
「……まあ、想像できないな」
それも事実だった。
理屈はない。根拠もない。
それでも、こいつになら任せられる。
なぜか、そんな気がした。
セラは満足そうに笑った。
「でしょう?」
次にリゼット。
冒険者ギルドの依頼記録。
山岳地帯の情報が不自然に制限されていたこと。
ブラックハウンドの許可がなければ閲覧できない資料があること。
そして――ニール・バートン。
その名前になった時だけ、リゼットの表情が少し硬くなった。
「ニールについては、特に新しい情報はなかったわ」
「分かった」
それ以上触れず、記録だけを書き足す。
最後。
「ガルド」
「ああ」
昨日と変わらない低い声。
ただし、内容は一番穏やかではなかった。
「まだ見られてる」
顔を上げる。
「昨日の?」
「同じかは分からん」
「人数は?」
「分からん」
ガルドは即答した。
以前なら、そこで話を切っていたかもしれない。確証がない。証拠がない。だから言わない。
だが今は違う。
「ただ」
ガルドの狼耳が微かに動いた。
「やっぱり二種類いる」
「二種類?」
フィーネが聞き返す。
「ああ。片方は近い。屋根を使う。こっちが動くと動く」
「昨日の弓を持った男かもしれないわね」
リゼットが言う。
ガルドは小さく頷いた。
「もう片方は違う」
「どう違うの?」
セラが尋ねる。
ガルドは少しだけ考えた。
「……距離がある」
「それだけ?」
「違う」
今度はすぐに否定した。
「片方は追ってくる」
ガルドの金色の目が細くなる。
「もう片方は、見てるだけだ」
俺はペンを止めた。
その違いが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ、ガルドがそう感じるなら無視する理由もない。
「敵が二組いるってことか?」
「そこまでは言ってない」
「分からない、か」
「ああ」
ガルドは淡々と答えた。
少し笑う。
「それでいい」
ガルドがこちらを見る。
「分からないことまで分かったことにしない方がいい」
その言葉に、ガルドは何も返さなかった。
ただ、耳がほんの少しだけ動いた。
全員の報告を聞き終え、俺はテーブルの上に広げた紙をもう一度見回した。
《ブラックハウンド》。
ボガード。
マティアス。
移動制限。
魔術の規制。
山岳地帯の記録制限。
そして、自分たちを追う監視者。
「……一度、整理しよう」
四人が俺を見る。
「俺たちがベルナードへ来た目的は、ドラゴンを調べるためだ」
あの街道で遭遇した、名も知らない竜。
なぜあの場所に現れたのか。山で何が起きているのか。
それを調べるために、情報の集まるベルナードまで来た。
「でも、肝心の山の記録は自由に見られない」
リゼットの報告へ指を置く。
「地区を移動するにも許可がいる。魔術まで管理されてる。その上、俺たちは監視までされてる」
セラが頬杖をついた。
「歓迎されてないことだけは、よく分かるわね」
「だな」
《ブラックハウンド》と書いた文字を見る。
「こいつらがドラゴンと直接関係してるかは、まだ分からない」
そこは分けて考える。
証拠のないものまで一緒にはしない。
「ただ、このままだと――」
紙から顔を上げる。
「ドラゴンについて調べること自体が難しい」
リゼットが腕を組む。
「じゃあ、先にこっちをどうにかする必要があるってこと?」
「そこまではまだ決めない」
首を振った。
「でも少なくとも、《ブラックハウンド》って連中が何をしてるのか。それを知らないまま調査を続けるのは難しそうだ」
フィーネが小さく頷いた。
ドラゴンを追って来たはずの街で、そのドラゴンに辿り着くための情報そのものが誰かに塞がれている。
まずは、目の前にあるこの障害について知る必要がありそうだった。
◇
昼を少し回った頃。
ガルドは一人、ベルナード北側の市場を歩いていた。
呼び込みの声。荷車の車輪。肉を焼く匂い。客同士の話し声。
そのすべてに混じる足音を、ガルドの耳は拾っていた。
一定ではない。
こちらが止まれば止まり、動けば少し遅れて動く。位置は右後方。屋根の上。
ガルドは露店の前で足を止め、何でもない顔で干し肉を買った。
「これを」
「毎度」
銅貨を渡し、一口齧る。
視線は上げない。
狼耳だけが、わずかに後ろを向いていた。
――カツ。
瓦を踏む軽い音。
昨日から感じていた視線の一つ。
おそらく、こちらは追ってくる方だ。
ガルドは市場を抜け、大通りから細い道へ入り、さらに古い倉庫が並ぶ人通りの少ない区画まで進んだ。
屋根の音もついてくる。
そこで足を止めた。
「出てこい」
返事はない。
風だけが倉庫の壁沿いを抜けていく。
ガルドが背中の弓へ手を伸ばした瞬間、弦が鳴った。
矢が首元を狙って飛んでくる。
身体を傾けてかわしながら弓を抜き、振り向きざまに射返す。
屋根の縁にいた黒い影が横へ跳んだ。
だが、ガルドの狙いはそこではない。
着地地点。
男は空中で身体を捻った。
矢が上着を掠め、屋根瓦へ突き刺さる。
「……ほう」
初めて声がした。
細身の男だった。
黒と濃灰の軽装。下半分の顔を布で隠し、背には小さな弓。腰の後ろには左右一本ずつ短い刃を差している。
男はすぐに小型弓へ矢を番えた。
そこからしばらく、屋根と路地を挟んだ射撃戦になった。
男の弓は小さく、取り回しが速い。だが純粋な射撃なら、ガルドの方が上だった。
矢そのものではなく、相手の足、腰、踏み込む方向を見る。
次に身体を置ける場所へ、先に矢を置く。
男がかわす。
その先に二射目が来る。
さらに軌道を変えれば、三射目が退路を塞ぐ。
男の目が徐々に細くなった。
「面倒だな」
ガルドは答えず、また矢を番える。
距離さえあれば負けない。
それは相手にも分かったらしい。
男は撃ち合いをやめ、屋根から路地へ飛び降りた。
ガルドも追う。
一射。
男が曲がる。
その先へ二射目。
逆へ逃げれば、さらに三射目。
「……いい目をしてる」
声だけが返ってきた。
ガルドは足を速めた。
逃がすつもりはない。
角を曲がる。
男の姿が消えていた。
ガルドの足が止まる。
耳を動かす。
左。
違う。
前。
違う。
――上。
壁を蹴る音。
振り向いた時には、男が頭上から落ちてきていた。
弓を向ける。
近すぎる。
男の手には、もう小型弓がない。
二本の短剣。
右から来た刃を弓で受け、続く左を身体を引いてかわす。
男は着地すると同時に懐へ入り込んだ。
ガルドは弓を手放し、腰の狩猟ナイフを抜く。
短剣とナイフがぶつかった。
ガルドも刃物を知らないわけではない。
森で獲物を仕留め、解体し、接近された魔物から身を守る。最低限の使い方は身体に染みついている。
だから最初の数撃は防げた。
だが、二本を同時に扱う男の攻撃は途切れない。
右を止めれば左が来る。左を避ければ次の一歩で距離を潰される。
見えている。
呼吸も、足運びも、刃が空気を切る音も分かる。
それでも身体が追いつかない。
男が大きく右肩を動かした。
ガルドが右の刃を警戒してナイフを上げる。
来ない。
フェイント。
身体が沈み、反対側の短剣が脇腹を走った。
「っ!」
布が裂け、皮膚に熱が走る。
浅い。
だが、初めて明確に刃を通された。
ガルドは後ろへ跳び、距離を作ろうとする。
男も同じだけ進む。
離れない。
さらに下がる。
また潰される。
そこで、ようやく分かった。
こいつは――。
弓で自分と戦っていたんじゃない。
弓を使って、ここまで連れてきただけだ。
射撃戦で勝つ必要など、最初からなかった。
自分が最も強い距離へ、ガルドを誘導するための手段だった。
男が低く笑う。
「遠くからなら、厄介だな」
ガルドはナイフを構え直した。
「だが、ここなら違う」
再び二本の刃が来る。
今度のガルドは勝とうとはしなかった。
相手の首を狙わない。深追いもしない。
致命傷だけを避ける。
短剣を流し、身体を捻り、狭い隙間を一つずつ抜ける。
腕に浅い傷。
頬にも一筋。
それでも倒れない。
いくら技術差があっても、攻撃そのものが見えているなら、一瞬では殺されない。
男の目から、わずかに笑いが消えた。
「しぶといな」
「慣れてる」
「何に?」
「死なないことに」
短剣が頭上を抜けた。
ガルドは身体を沈めたまま、肩から男へぶつかる。
わずかに体勢が崩れる。
その隙に一歩。
二歩。
距離を作った。
地面に落ちた弓が見える。
だが、まだ遠い。
男が追ってくる。
ガルドは足元の木箱を蹴った。
箱が路地を滑り、男が飛び越える。
その一瞬でさらに距離を取る。
弓まで、あと少し。
右手を伸ばした。
男が短剣を投げた。
ガルドは反射的に手を引く。
刃が弓のすぐ横へ突き刺さった。
その間に、男はもう目の前にいた。
短剣をナイフで受ける。
衝撃で腕が外へ弾かれた。
もう一本。
刃が首へ走る。
身体を捻る。
頬に鋭い熱が走った。
血が一筋落ちる。
それでも致命傷ではない。
ガルドは相手の手首を掴もうとする。
男が初めて自分から距離を取った。
二歩。
互いに動きを止める。
ガルドの左腕、頬、脇腹には浅い傷。
対して男には、最初の矢が上着を掠めた痕だけ。
近距離では、明確に差がある。
だが男もまた、ガルドを殺しきれていない。
その時、遠くから複数の足音が近づいてきた。
規則的な革靴。
巡回兵。
男が一瞬だけそちらを見る。
「今日はここまでだ」
ガルドはナイフを下ろさない。
「逃げるのか」
「いや」
男の目が細くなる。
「分かったからな」
「何がだ」
男の視線が、地面に落ちた弓へ向く。
「お前を殺すなら、弓を撃たせなければいい」
ガルドの耳が、ぴくりと動いた。
男は壁を蹴り、足場を使って屋根へ駆け上がる。
ガルドが弓を拾った時には、もう姿がなかった。
追わない。
追えば、また同じ距離へ誘い込まれる。
ガルドは自分の弓を見る。
次に、右手の狩猟ナイフ。
遠距離なら、自分の方が強かった。
それは間違いない。
だが、相手もそれを理解した。
だから距離を消した。
そして近距離では、自分はあの男には勝てない。
ナイフが使えないわけではない。
それでも、これは護身の技術。
向こうは、人を倒すための技術だ。
脳裏に残っているのは、最後に言われた言葉だった。
『お前を殺すなら、弓を撃たせなければいい』
ガルドはしばらく黙っていた。
やがて。
「……なら」
視線が、手にした弓へ落ちる。
「撃てるようにすればいい」
◇
午後。
ガルドが宿へ戻ってきた時、左腕には布が巻かれていた。頬にも細い傷がある。
「ガルド!?」
真っ先に立ち上がったのはフィーネだった。
「座ってください。すぐ診ます」
「浅い」
「浅くてもです」
有無を言わせず椅子へ座らせる。
リゼットはその隣に立ったまま、ガルドの傷を見ていた。
腕。
頬。
脇腹。
どれも致命傷ではない。
だが、偶然転んでできる傷でもなかった。
「昨日の男?」
「ああ」
ガルドが短く答える。
「強かった?」
「遠ければ、俺の方が強い」
その答えに、俺は少しだけ眉を上げた。
ガルドは続ける。
「近いと、向こうが強い」
それだけだった。
だが、十分だった。
リゼットには分かる。
ガルドがこれだけはっきり自分より上だと言う相手は、そう多くない。
「短剣?」
「ああ。二本」
リゼットの目が細くなる。
「そう」
それ以上は聞かなかった。
フィーネの治療が終わるまで、ガルドは黙っていた。
ただ一度だけ。
腰に差した狩猟ナイフへ視線を落としていた。
◇
夕方。
リゼットは一人、宿を出た。
特に誰かを探すためではない。頭を冷やしたかった。
昨日から、街へ入ってくる情報が多すぎる。
ブラックハウンド。
ボガード。マティアス。ガルドを追っていた正体不明の男。
そして、この街そのもの。
ベルナードは壊れているようには見えない。店は開いているし、荷車も通る。子供だって歩いている。
なのに、誰もがどこかで息を殺している。
大通りを一本外れたところで、怒鳴り声が聞こえた。
「だから、違うって言ってるだろ!」
路地の先に、黒い猟犬の紋章をつけた男が三人。その前で、四十代ほどの商人らしい男が必死に何かを説明していた。
傍らには十歳くらいの少女。娘だろうか。
「許可証ならある! 昨日だって見せただろ!」
「昨日の許可証だ」
ブラックハウンドの男が紙を振る。
「今日から様式が変わった」
「そんな話、聞いてない!」
「今聞いただろ」
「それで荷物を全部没収するっていうのか!?」
路地の脇には、小さな手押し車。中には布と生活用品が積まれている。
兵の一人がそれへ手を伸ばすと、商人がその腕を掴んだ。
「触るな!」
一瞬で、空気が変わった。
兵の顔から笑みが消える。
「……今、俺に触ったな?」
商人の顔が青ざめ、少女が父親の服を掴んだ。
リゼットは歩き出した。
「そのくらいにしたら?」
三人が振り向く。
「誰だ、お前」
「通りすがり」
「なら消えろ」
「そうしたいんだけど」
リゼットは手押し車を見る。
「その人、本当に規則を破ったの?」
「関係ない」
「あるわよ。規則を理由にしてるんでしょう?」
男の一人が苛立ったように舌打ちした。
「旅人が口を出すな」
胸元の黒い猟犬。
リゼットはそこへ視線を落とす。
「ブラックハウンド」
男たちの表情がわずかに変わった。
「知ってるなら話が早い」
「ええ」
リゼットの右手が剣の柄へ触れる。
「余計に、放っておけなくなったわ」
男の一人が剣を抜いた。
「後悔するぞ」
リゼットは小さく息を吐いた。
次の瞬間。
銀光。
男の剣が宙を舞った。
「……は?」
本人が一番驚いていた。
リゼットはすでに元の位置に立ち、抜いた剣の切っ先だけが男の喉元へ向いている。
「まだやる?」
残りの二人が同時に剣へ手を伸ばした。
「やめとけ」
低い声がした。
路地の奥。
いつからいたのか、一人の男が壁にもたれていた。
三十代半ばほど。背は高く、鍛えられた身体つきではあるが、ボガードのような異常な巨体ではない。
短く刈った砂色に近い茶髪。日に焼けた肌。眉間から頬へかけて、古い傷跡が一本走っている。
無精髭の残る顔に愛想はなく、細められた黄褐色の目だけが、リゼットの立ち方から剣を握る手まで静かに見ていた。
身につけているのは、使い込まれた黒に近い焦茶の革装備。片肩だけを覆う傷だらけの金属製肩当てに、前腕の防具。
騎士の鎧ではない。
装飾よりも動きやすさを優先した、腕の立つ傭兵か冒険者が使うような装備だった。
腰には一本の長剣。
特別な魔剣には見えない。けれど、鞘も柄もよく手入れされている。
男が壁から背を離した。
「三人でやっても勝てねえ」
「でも――」
「見りゃ分かる」
部下たちが黙った。
リゼットも男を見る。
嫌な感じがした。
威圧感ではない。
隙がない。
足の置き方。腰の位置。肩の力の抜け方。剣までの距離。
立っているだけなのに、全部が自然だった。
「その剣」
男がリゼットの手元を見る。
「いいの使ってるな」
「欲しい?」
「別に」
男は笑わなかった。
「使う奴の方が気になっただけだ」
飾りのない長剣が抜かれる。
リゼットの指に力が入った。
強い。
まだ一度も剣を交えていない。それでも分かった。
「その親子を行かせて」
男は商人と少女を見る。
「行け」
「え……」
「聞こえなかったか」
「は、はい!」
商人は娘の手を取り、手押し車を置いたまま走り出した。
リゼットがわずかに肩の力を抜く。
その瞬間だった。
男が踏み込んだ。
「――っ!」
長剣を反射的に受ける。
重い。
一撃目だけで腕へ衝撃が響いた。
そこから男は止まらなかった。間髪入れず剣を重ね、リゼットも足を入れ替えながら応じる。
数度打ち合っただけで分かる。
純粋に上手い。
速いだけでも、力任せでもない。こちらの剣筋へ必要最低限だけ合わせ、受け、逸らし、次に剣を置くべき場所へ先回りしてくる。
リゼットが踏み込み、右から振るう。
男は受けながら剣を滑らせた。切っ先が肩へ走る。
身体を捻る。
銀色の肩当てを刃が掠め、火花が散った。
リゼットはそのまま身体を回転させる。
白と赤の外套が翻り、返した剣が横薙ぎに走った。
男が半歩退く。
服の表面が浅く裂けた。
「へえ」
初めて男の目が変わった。
リゼットは答えない。
今度はこちらから連撃を仕掛ける。
速度を上げるにつれ、男の受けがわずかに遅れていく。
いける。
さらに踏み込んだ、その時。
視界の端に小さな影が入った。
さっきの少女だった。
曲がり角の先で立ち止まっている。落とした荷物でも取りに戻ったのか。
男の視線も一瞬だけそちらへ向いた。
そして。
長剣の軌道が変わった。
リゼットではない。
少女のいる方向へ。
「――っ!」
考える前に身体が動いた。
横へ踏み込み、剣を差し込む。
金属音。
少女へ向かっていた刃を弾く。
直後、腹部へ衝撃が入った。
男の蹴り。
「くっ……!」
リゼットの身体が後方へ飛び、靴底が石畳を削る。
どうにか踏み止まった。
男は追ってこない。
少女が悲鳴を上げる。
「逃げて!」
少女が今度こそ走った。
その背中を確認して、リゼットは男を見る。
青紫の瞳には、明確な怒りが浮かんでいた。
「……今、あの子を斬ろうとした?」
「いや」
男は平然と答えた。
「お前が止めると思った」
一瞬、意味が分からなかった。
「……何?」
「止めただろ?」
男は剣を肩へ担ぐ。
「なら、合ってた」
「最低ね」
「そうか?」
本当に分かっていないような顔だった。
「お前があっちを気にするなら、使う」
「剣士として恥ずかしくないの?」
「剣士?」
そこで初めて、男が少し笑った。
「俺は勝ちたいだけだ」
リゼットの握る剣が軋む。
その答えが、たまらなく嫌だった。
「で?」
男がもう一度構える。
「まだやるか?」
リゼットも剣を上げた。
「当然」
再び二人がぶつかった。
今度は最初から速い。
男の重い剣を受け、逸らし、リゼットも容赦なく返していく。
新しい剣が甲高い音を響かせる。
丈夫だ。
以前の剣なら、この男の重い一撃を何度も受ければ、もっと刃が悲鳴を上げていた。
今は違う。
だからリゼットも、遠慮なく速度を上げられる。
さらに一歩。
赤みを帯びた栗色の長髪が大きく後ろへ流れるほど踏み込んだ。
男の目が、リゼットの足へ向いた。
次の瞬間。
男が退く。
剣が空を切った。
違和感。
直後、背後から声が飛んだ。
「捕まえろ!」
さっきのブラックハウンド兵。
そのうち一人が、通りがかった老婆の腕を掴んでいた。
「……!」
意識が一瞬だけそちらへ向く。
その隙へ長剣が来た。
防ぐ。
もう一撃。
受ける。
老婆。
兵。
目の前の男。
見るべきものが増えるほど、リゼットの剣がほんの少しずつ遅くなる。
男はそれを見逃さなかった。
「お前」
剣を交えながら、男が言う。
「分かりやすいな」
「何が!」
「守りたい奴が多すぎる」
剣が噛み合う。
男が力を込めた。
「だから遅い」
弾かれた。
リゼットの体勢が崩れる。
長剣が追ってくる。
だが。
リゼットも倒れない。
地面を強く蹴り、身体を横へ滑らせた。
剣をかわした勢いのまま兵へ迫る。
一閃。
老婆を掴んでいた男の剣だけを弾き飛ばした。
「逃げて!」
老婆が走る。
その背後から、長剣が迫った。
リゼットは振り向かずに剣を上げる。
金属音。
受け止めた。
「……なるほど」
背後から男の声。
「それでも間に合わせるか」
リゼットが振り返る。
至近距離で、互いの剣が押し合う。
男の目には、もう最初の余裕がなかった。
だがリゼットにも分かっていた。
このままでは、勝ち切れない。
自分だけを守ればいいなら、もっと速く動ける。
自分だけが傷つく覚悟なら、もっと強く踏み込める。
でも。
そうした瞬間、この男はきっと別の誰かを狙う。
それが分かってしまう。
だから、捨てられない。
互いに剣を押し返した、その時。
遠くから鐘が二度鳴った。
男の目が動く。
続いて黒い猟犬の紋章を付けた兵が走ってきた。
「急報です!」
男は舌打ちし、剣の力を抜く。
リゼットも同時に距離を取った。
「行くぞ」
「ですが、こいつは――」
「後だ」
迷いがない。
男は剣を鞘へ収めた。
「逃げるの?」
「仕事だ」
男は背を向ける。
「次は周りに誰もいないところでやろうぜ」
数歩進んでから足を止める。
振り返らないまま言った。
「その方が、お前も速いんだろ?」
リゼットの目がわずかに見開かれた。
男はそのまま去っていった。
追わなかった。
周囲を見る。
倒れている人はいない。
先ほどの商人たちも、老婆も、もういない。
ようやくリゼットは剣を下ろした。
右肩を見る。
銀色の肩当てには、最初の一撃で刻まれた細い傷が残っている。
指先でなぞる。
『その方が、お前も速いんだろ?』
男の言葉が蘇る。
肩当て。
腕を守る金属。
外套。
どれも、自分が必要だと思って身につけてきたものだ。
守るために。
傷つかないために。
倒れないために。
それなのに。
図星だった。
腹が立つほどに。
新しい剣を手にして、自分は以前よりずっと強くなった。
なのに、まだ全部は出せていない。
出してはいけないと思っている自分がいる。
守らなければ、誰かが傷つく。
自分が全部見なければ、また失敗する。
リゼットは剣を鞘へ戻した。
「……最悪」
男に言ったのか。
自分に言ったのか。
本人にも分からなかった。
少し離れた建物の二階。
閉じた窓の隙間から、一人の男がその背中を静かに見送っていた。
◇
その日の夜。
宿へ戻ったリゼットの右肩には、新しい傷が増えていた。
正確には、傷ついたのはリゼット自身ではない。
銀色の肩当てに、一本の細い剣傷が刻まれている。
「で?」
セラが向かいの席から身を乗り出した。
「ガルドが昼間に斬られて帰ってきたと思ったら、今度はリゼットまで?」
「斬られてないわよ」
「防具が斬られてるじゃない」
「掠っただけ」
「今日はそういう日なの?」
「知らないわよ」
リゼットが少し苛立ったように答える。
俺は二人のやり取りを聞きながら、昼間の情報を書き足していた。
ガルドを襲った男。
小型弓。双短剣。
遠距離ではガルドが優勢。近距離では相手が優勢。
そして、リゼットが遭遇した長剣の男。
ブラックハウンドの兵を従え、純粋な剣技だけでも今のリゼットと正面から渡り合った。
さらに――。
「民間人を使った」
確認すると、リゼットの表情が険しくなる。
「ええ」
「直接人質に取った?」
「最初は違う。あの子を斬るように見せて、私が庇うことまで計算してた」
「……そんなやり方をするんですか」
フィーネが不安そうに眉を寄せた。
「嫌なだけじゃないわ」
リゼットは自分の肩当てを見る。
「強い」
その一言だけは迷わなかった。
「剣だけでも?」
「たぶん」
少し考える。
「少なくとも、卑怯なことをしないなら楽に勝てる――なんて相手じゃない」
紙へ書き込む。
名前はまだない。
――長剣の男。
――高い剣技。
――民間人利用。
――ブラックハウンド上位?
「幹部かな」
「あり得るわね」
セラが答える。
「フィーネが聞いた話だと四人なんでしょう?」
「はい」
紙の上には《ブラックハウンド》。
その下に、ボガード。マティアス――関係不明。双短剣の男。長剣の男。
偶然かもしれない。
だが、妙に数が合う。
「……妙に数が合うな」
その時、ガルドの狼耳が動いた。
「来た」
四人が見る。
「何が?」
「外」
ガルドはすでに立ち上がっていた。
「一人」
「ブラックハウンド?」
「違う」
即答。
「もう片方だ」
一瞬、誰も声を出さなかった。
ベルナードへ入った時からガルドが言っていた、二種類の視線。
一つは、こちらを追ってくる。
もう一つは、遠くからただ見ている。
俺も立ち上がった。
「会いに行こう」
「罠だったら?」
リゼットが聞く。
「その時は逃げる」
「ずいぶん簡単に言うわね」
セラが笑う。
ガルドは窓の外を見たまま言った。
「逃げる必要はないと思う」
「根拠は?」
「ずっと見てた」
「それはむしろ怖くない?」
「殺す気なら、もっと前にやってる」
「……それもそうか」
俺は苦笑した。
◇
宿を出て数分。
ガルドの案内で、五人は夜の路地を歩いた。
表通りにはまだ人がいるが、一本裏へ入るだけで急に静かになる。
薄暗い路地。古い石壁。閉じられた木戸。
その先、小さな教会の裏手に一人の男が立っていた。
三十代半ばほど。短い濃茶の髪に無精髭。疲れの残る顔。左の眉の近くには古い傷が走っている。
色褪せた濃紺の上着に、使い込まれた革の胸当て。腰には剣。
派手さも、強者を誇示するような装備もない。
ただ、長い間これを着て戦ってきたのだろうと分かる。
男は五人を見る。
最初に見たのは、俺ではなかった。
ガルドだった。
「……本当に来たか」
ガルドは答えない。
男が少しだけ息を吐く。
「名前はダリオ・ベルク」
周囲を一度確認してから続けた。
「この街で、ブラックハウンドに抵抗してる連中をまとめてる」
フィーネが目を見開く。
「レジスタンス……?」
「そう呼びたきゃ、それでいい」
「俺たちに何か?」
「ある」
ダリオは即答した。
「その前に一つ」
視線が再びガルドへ向く。
「あんたらが西門から入ってきた時から、こっちは見てた」
「えっ?」
フィーネが目を丸くする。
リゼットも僅かに眉を上げた。
セラだけは楽しそうに笑う。
「まあ。ずいぶん熱心な歓迎ね」
ガルドは何も言わない。
「……驚かないんだな」
「気づいてた」
短い返事。
ダリオの目が変わる。
「いつから?」
「門を入ってすぐ」
数秒、沈黙した。
「そこまでか」
ガルドは首を振る。
「誰かは分からなかった」
そして。
「二組いた」
ダリオの眉が僅かに動く。
「二組?」
「ああ。片方は屋根を使う。こっちが動けば動く」
ガルドの声は淡々としている。
「もう片方は遠い。追ってこない。お前たちは、そっちだろ」
ダリオはしばらく黙ったあと、小さく笑った。
「参ったな」
「当たってる?」
セラが聞く。
「ああ。片方は俺たちだ」
そして。
「もう片方はブラックハウンドの監視網」
街へ入った時から感じていた二つの視線。
ようやく、その正体が揃った。
「じゃあ、最初から分かってたのか?」
俺がガルドを見る。
「違う。違う奴らだとは思ってた。それだけだ」
「十分すごいと思います……」
フィーネが小さく呟く。
ガルドは特に反応しなかった。
ダリオだけが、もう一度ガルドを見る。今度は明らかに評価する目だった。
「その感覚があるなら、昼間の話も納得だ」
「昼間?」
「屋根と路地でやり合っただろ」
ガルドの目が細くなる。
「見てたのか」
「全部じゃない。だが報告は来てる」
ダリオは言った。
「シド・ノックス」
初めて聞く名前だった。
「それが、あんたと戦った男だ。ブラックハウンド四幹部の一人。情報、監視、暗殺。そういう裏仕事を仕切ってる」
頭の中で、紙に書いた――双短剣の男――へ名前が入る。
シド・ノックス。
「四幹部……」
フィーネが呟く。
「やっぱり数が合ったわね」
セラが俺を見る。
「じゃあ、リゼットが戦った男も?」
ダリオの視線がリゼットへ移った。
「夕方の騒ぎも聞いた」
右肩の傷。腰の新しい剣。そしてリゼット自身を一度見て。
「カイン・アスター。同じく四幹部」
リゼットの青紫の目が細くなる。
「……カイン」
「ブラックハウンドの精鋭をまとめてる。あの四人の中じゃ、純粋な剣士としては一番厄介だ」
「純粋?」
リゼットが少し皮肉っぽく聞き返す。
「あいつの戦い方を見た後だと、ずいぶん綺麗な言い方ね」
ダリオの口元が僅かに歪んだ。
「ああ。剣は一流」
少し間を置く。
「戦い方は悪党だ」
リゼットは何も返さなかった。
否定するところが一つもない。
「残り二人」
俺が言う。
「一人はボガード?」
今度はダリオが僅かに驚いた。
「知ってるのか」
「フィーネが見た」
「……見た?」
ダリオがフィーネを見る。
「はい。荷車を壊してるところを」
それだけで伝わったらしい。
ダリオは短く息を吐いた。
「ボガード。治安と制圧を担当してる」
「やっぱり幹部なんですね」
「ああ」
フィーネの顔が少し強張った。
「あと一人は?」
セラが聞く。
「マティアス・クローネ」
セラの表情が止まった。
「……マティアス?」
「知ってるのか」
「昨日会った」
今度はダリオが黙る番だった。
「どこで?」
「魔術関係の施設。私の魔法を勝手に消して、嫌味を言って帰っていったわ」
「……」
「クローネっていうのね、あの男」
セラは少し楽しそうに笑った。
「名前が一つ増えたわ」
「笑い事じゃない」
「知ってる」
返事は軽い。
だが、その目は笑っていなかった。
ダリオは五人を順番に見る。
ガルド。リゼット。セラ。フィーネ。
最後に俺。
「……妙な連中だな」
「よく言われます」
「いや。そういう意味じゃない」
少し考えてから。
「《灰色の翼》」
その名前が出た瞬間、五人の空気が少し変わった。
「知ってるの?」
「聞いたことはある」
ダリオは正直に答えた。
「アルヴェリアの弱小ギルド、《白樫の枝》」
そして。
「依頼を何度も失敗してたパーティー」
気まずい沈黙。
フィーネが少しだけ肩を縮め、セラが小さく肩をすくめた。
「こんな遠くの街まで悪評なんて。有名人は辛いわね」
「そこ、喜ぶところなのか……?」
「どうせ有名になるなら、次はもう少し素敵な評判がいいわ」
悪びれもせず笑う。
俺だけが頭を掻いた。
「結構こっちまで評判来てるんだな……」
「交易する冒険者もいる。噂くらいは流れてくる」
ダリオは続けた。
「正直、最初に名前を確認した時は間違いだと思った」
「どういう意味?」
リゼットが眉を寄せる。
「聞いてた話と、目の前の情報が合わない」
ダリオはガルドを見る。
「シドとやり合って生きて戻った」
次にリゼット。
「カインと正面から何度も剣を交えた」
セラ。
「マティアスと揉めて、普通に帰ってきた」
そしてフィーネ。
「東地区へ薬を持ち込んだ治癒術師もいる」
「それまで知ってるんですか?」
「この街で生き残るには、知らなきゃいけないことが多い」
ダリオは淡々と答える。
「昔の《灰色の翼》がどうだったかは知らん」
ただ。
「今のあんたらを、昔の噂だけで弱いとは判断しない」
その言葉を聞いて、俺は少しだけダリオを見る目を変えた。
過去の評判ではなく、今ある事実を見る。
少なくとも話は通じそうな男だった。
「それで」
俺が聞く。
「俺たちに協力してほしい?」
「いや」
即答だった。
五人が少し驚く。
「むしろ逆だ」
ダリオは真っ直ぐ俺を見る。
「ベルナードから出ろ」
「……え?」
フィーネが声を漏らす。
俺も予想外だった。
「てっきり、『力を貸してくれ』って言われる流れかと思ってました」
「だから言ってる。敵じゃないと分かったからだ」
声に冗談はない。
「あんたたちは強い。たぶん、俺が最初に聞いてた評判よりずっとな」
それでも。
「五人増えた程度で、どうにかなる街じゃない」
誰も答えなかった。
「ブラックハウンドは、ただの盗賊団じゃない。この街には五百近くいる。門、倉庫、兵舎、魔術設備、役所まで押さえてる」
そして。
「その上に、あの四人がいる」
シド。
ボガード。
マティアス。
カイン。
すでに五人のうち四人が、その異常さの一端を目にしていた。
だから数字以上に意味がある。
「レジスタンスは何人?」
「まともに動けるのは八十くらい」
「八十対五百」
「それだけなら、まだやりようはある」
ダリオが言った。
「問題は、人数じゃない」
その言葉で、俺の目が僅かに変わった。
「……やったことがあるんですね」
ダリオが黙る。
「八十人で五百人に勝てるかどうか、考えたことがある人の言い方だ」
しばらくして、ダリオは小さく息を吐いた。
「ある」
表情が変わった。
先ほどまでの警戒ではない。
もっと古い。
もっと重いもの。
「一度」
ダリオは言った。
「俺たちは、この街を取り戻そうとした」
俺は黙って聞く。
「四か月前、ブラックハウンドに街を奪われた。その後、生き残った衛兵と冒険者と、市民を集めた」
正面から五百人と戦うつもりはなかった。
「勝てると思ってた」
一瞬、苦い笑みが浮かぶ。
「少なくとも――始まった時はな」
◇
「始めたのは、占領から三週間ほど経った頃だ」
ダリオの声が低くなる。
「まだブラックハウンドも、街を完全には掌握しきってなかった」
◇
夜明け前。
ベルナード東地区の古い倉庫には、何十人もの男女が集まっていた。
元衛兵。冒険者。職人。荷運び。中には武器すらまともに扱えない市民もいる。
その中央。
大きな街の地図を前に、若いダリオが立っていた。
「もう一度確認する」
指が地図の上を動く。
「俺たちは、ブラックハウンド五百人を倒さない」
誰も口を挟まない。
「正面から戦えば負ける。だから、戦える状態そのものを奪う」
第一班は東門。
第二班は武器庫。
第三班は東部伝信所。
ベルナードには、門、衛兵詰所、役所、一部の公共施設をつなぐ魔導伝信設備がある。
固定された伝信盤同士で短い文章や符号を送るためのもので、持ち歩けず、街の外にも届かない。
だが、広いベルナードの中で命令を伝えるには十分だった。
「伝信所を押さえれば、東地区の連中はこっちの動きを把握できなくなる。ただし、失敗した場合に備えて伝令も使う」
地図には三本の線。
「東門への連絡は三経路」
一つ潰されても二つ残る。
二つ潰されても、最後の一つが残る。
「東門を確保したら、外へ使者を出す」
近隣の街へ。
領主へ。
助けを求める。
それまでの時間を稼ぐ。
武器庫を奪えば抵抗側にも装備が行き渡る。東地区の主要交差点を押さえれば、ブラックハウンドの兵を分断できる。
同時に教会と商人組合の協力で、市民を戦闘区域から避難させる。
「勝とうとするな」
ダリオは全員を見る。
「一人で英雄になるな。持ち場を取ったら守れ。隣が苦しくても、勝手に動くな。情報が来るまで待て」
そして。
「生き残れ」
誰かが小さく笑った。
緊張を逃がすための笑いだった。
ダリオも少しだけ笑う。
「街を取り返した後で、死んでたら意味がない」
何人かが頷いた。
夜明けまで、あと僅か。
作戦が始まった。
◇
最初は、うまくいった。
東部伝信所には内部の協力者がいた。守備六人を短い戦闘で制圧し、魔導伝信盤から符号が送られる。
――東部、確保。
武器庫では見張り交代の時間を狙い、元衛兵が裏口を開けた。
三分。
戦闘らしい戦闘すらなく鍵を奪い、剣、槍、盾が抵抗側へ次々と渡っていく。
東門は少し手間取ったものの、門番の半数は元ベルナード衛兵。そのうち二人が密かにダリオ側へ戻っていたことで、内側から門衛を崩した。
「門楼確保!」
旗が上がる。
交差点。
武器庫。
伝信所。
東門。
一つずつ、ベルナードの一部がブラックハウンドの手から離れていく。
「いける……」
誰かが言った。
ダリオも、そう思った。
五百人を倒す必要はない。
街の中で、五百人が一つの軍隊として動けなくなればいい。
東地区を切り離す。外部へ救援を求め、市民を避難させ、そこから抵抗地域を少しずつ広げる。
正面から勝てなくても。
街を使えば戦える。
そう思っていた。
最初に壊れたのは、情報だった。
◇
「東門、確保!」
伝令が走り込んできた。
「本当か?」
「はい! 東門班からです!」
予定より早い。
だが、あり得ないほどではない。
「第二避難班を動かせ!」
東門へ向けて市民の移動が始まった。
その十分後。
別の男が、青ざめた顔で飛び込んでくる。
「ダリオ!」
「どうした!」
「東門が……!」
「確保しただろ!」
「してない!」
一瞬、意味が分からなかった。
「門楼の半分までは取った! でも敵が戻ってきて押し返されてる!」
「じゃあ、さっきの伝令は……」
いない。
もう姿がなかった。
ダリオの顔から血の気が引く。
三本。
伝令経路は三本用意した。
一つを潰されてもいいように。
だが問題は、潰されることではなかった。
敵から届いた情報を、味方の情報だと思ってしまった。
「避難班を止めろ!」
間に合わない。
すでに動いている。
その頃。
屋根の上で、黒い布で口元を覆った男が、一人の伝令の遺体を路地へ落としていた。
シド・ノックス。
その手には、抵抗側が使っていた腕章が握られていた。
◇
次に、伝信網が死んだ。
「東部から応答がない!」
「何?」
「伝信盤は動いてます!」
担当者が必死に術式を確認する。
魔力は通っている。
装置も壊れていない。
それなのに、他の施設へ届かない。
「壊されたのか?」
「違います!」
担当者の声が震える。
「ここだけ……切られてる」
「そんなことができるのか?」
返事はない。
普通はできない。
少なくとも、その場にいた術師たちはそう思っていた。
ベルナード中心部。
都市魔術の管理施設で、マティアスが巨大な術式盤の前に立っていた。
細い指が一つの魔術紋をなぞる。
それだけで、東地区へ伸びていた魔力の線が一本消える。
「東部伝信所。切断を確認しました」
「次」
マティアスは淡々と言う。
「誰が触っているか調べろ」
「はい」
彼にとって街の魔術設備は、ただの道具ではない。
隅々まで構造を知っている。
抵抗側が一つの施設を奪っても、その施設そのものを都市全体から切り離せる。
◇
それでも、まだ終わっていなかった。
情報が崩れたなら、予定通りそれぞれの班が持ち場を維持すればいい。
ダリオはそう判断した。
東地区の中央通り。
荷車、木材、樽、鉄材を重ねた二重のバリケード。その後ろには元衛兵たちが盾を並べている。
ここは狭い。
大人数では抜けられない。
敵が来ても、数人ずつしか戦えない場所を選んだ。
地面が揺れた。
「来たぞ!」
通りの向こうから、巨大な男が歩いてくる。
ボガード。
武器は持っていない。
一人。
「一人?」
「止めろ!」
弓兵が一斉に射る。
ボガードは腕を上げ、肩や腕の防具で矢を受けながら、そのまま歩いてきた。
「構えろ!」
盾が並ぶ。
ボガードが最初のバリケードの前で止まる。
拳を引いた。
一撃。
爆発したような音が響いた。
荷車が浮き、木材が折れ、樽が飛ぶ。
「……は?」
前列にいた男が声を漏らす。
ボガードは、壊れたバリケードの中をそのまま歩いてきた。
「第二線!」
さらに頑丈に作った次のバリケードも、拳一つで崩れる。
盾兵が十人近くでぶつかった。
次の瞬間。
盾ごと、人が後ろへ吹き飛んだ。
「横道へ誘導しろ!」
ここを抜かれても、狭い路地へ誘導する予定だった。
複数方向から攻撃できる場所へ。
だがボガードは曲がらなかった。
正面に建物がある。
男は壁を見る。
拳を引いた。
「待て。そこ、道じゃ――」
轟音。
壁が崩れた。
ボガードは建物の中へ入り、反対側の壁も破壊した。
そのまま、予定されていた防衛線を丸ごと無視して真っ直ぐ進んでいく。
「なんなんだよ、あいつ……」
誰も。
そんな突破方法を想定していなかった。
◇
最後まで残ったのは、ダリオたち主力だった。
負傷者を後方へ下げながら、大通りで撤退路を守る。
その前に一人の男がいた。
カイン・アスター。
「退け!」
ダリオの剣をカインが受ける。
返しをかわした頬に、浅く血が走った。
「悪くねえな」
「黙れ!」
ダリオも衛兵副隊長まで務めた男だ。
素人ではない。
数度打ち合えば、それでも分かる。
純粋に、カインの方が上だ。
三人で囲んでも状況は変わらなかった。
カインは一人を蹴り飛ばし、二人目の剣を受け、三人目の腕を掴む。
その身体を、ダリオとの間へ押し込んだ。
「っ!」
剣を止める。
そこへ。
カインの一撃。
ダリオの肩が裂けた。
「隊長!」
「来るな!」
負傷者を連れた仲間が止まる。
その一瞬、カインがそちらを見た。
ダリオは反射的に前へ出る。
剣を受け止めた。
「お前もか」
「何がだ!」
「分かりやすい」
押される。
「守る奴は、そっちを見る」
カインが笑う。
ダリオは歯を食いしばった。
「撤退しろ!」
仲間へ叫ぶ。
勝つためではない。
逃がすために剣を振った。
傷は増えた。
それでも数分、時間を稼ぐ。
やがて仲間の姿が路地の向こうへ消える。
ダリオも下がった。
「追うぞ!」
ブラックハウンド兵が叫ぶ。
だが、カインが手を上げた。
「いい」
「しかし――」
「もう崩れた」
剣についた血を払う。
「後は逃げるだけだ」
その判断は正しかった。
◇
東門は奪い返された。
武器庫も失った。
伝信所は孤立し、各班は互いの状況すら分からない。
避難班の一部は、偽情報で敵のいる区域へ向かってしまった。
ダリオは撤退を決めた。
勝てない。
これ以上続ければ、街を取り戻すために集まった人間が全員死ぬ。
「地下水路へ!」
生き残った者たちが走る。
二十人。
いや、もっと少ない。
誰が残っているのか、それすら分からない。
ダリオは最後尾にいた。
肩から血が流れている。
息が苦しい。
それでも走る。
路地を抜けた。
その先。
一人の男が立っていた。
誰も、すぐには名前を呼べなかった。
黒に近い大きな上着。
鍛えられた身体。
人間にも見える。
だが、何かが違う。
暗がりの中。
銅色にも赤にも見える瞳が、静かにこちらを見ていた。
「……ザハーク」
誰かが呟いた。
ブラックハウンドの首領。
初めて、その本人を目の前で見た。
「どけ!」
一人の冒険者が叫んだ。
もう逃げるしかない。
それでも相手は一人。
四幹部との戦いで散々やられた後だったからこそ、誰かが思った。
首領さえ。
ここで倒せれば。
三人が同時に飛び込んだ。
ザハークは避けなかった。
一人目の剣を腕で受ける。
刃が――止まった。
「……え?」
次の瞬間。
冒険者の身体が宙を舞った。
何をされたのか、ダリオには見えなかった。
二人目は拳一撃で壁へ叩きつけられる。
三人目の剣が胸へ届く。
その直前。
空気が歪んだ。
魔力。
そう思った。
だが違う。
少なくとも、ダリオが知る魔術とは違った。
身体の奥から、何かが噴き出している。
そんな感覚。
ザハークが一歩踏み込む。
ただそれだけで。
三人目も吹き飛んだ。
「……なんだよ」
誰かの声が震える。
「なんなんだよ、こいつら……」
シド。
マティアス。
ボガード。
カイン。
あれだけでも、十分おかしかった。
その上に。
まだ。
こいつがいる。
ザハークは倒れた者たちには目も向けず、ダリオを見る。
「終わりか?」
淡々とした声。
嘲笑すらない。
それが余計に怖かった。
ダリオは剣を握る。
だが、振らなかった。
後ろには、まだ生きている仲間がいる。
「……退くぞ」
「ダリオ!」
「退け!」
声を張る。
「全員、生きて帰れ!」
勝てなかった。
なら。
せめて、次に残す。
それしかできなかった。
◇
「……それが最初の蜂起だ」
現在。
ダリオの声が止まった。
誰もすぐには口を開かなかった。
フィーネは胸元で手を握り、リゼットもガルドも黙っている。セラも珍しく何も茶化さない。
俺は目の前の地面へ視線を落としていた。
頭の中で、今聞いた作戦を最初から組み直す。
東門。
武器庫。
伝信所。
交差点。
避難。
予備の伝令。
外部への救援。
「……俺の判断が甘かった」
ダリオが言った。
「人数差をどうにかすれば戦えると思った。街を使えば、なんとかなると思った」
そして。
「結果がこれだ」
俺は顔を上げた。
「いや」
ダリオを見る。
「その作戦、かなりいいです」
ダリオが眉を寄せた。
「慰めならいらない」
「してません」
即答した。
「俺でも、あの時点で持っていた情報だけなら似たことを考えると思います」
「……何?」
「五百人を正面から倒さない。指揮と情報を切る。武器を確保する。出口を作る。市民を避難させる」
指を折る。
「しかも伝令まで一本じゃない」
少し考える。
「優先順位もおかしくない」
ダリオは黙っている。
「負けた原因は、そこじゃない」
「じゃあ何だ」
「前提です」
答える。
「ダリオさんは、ブラックハウンドを五百人の組織として見ていた。四幹部も、ものすごく強い兵士として計算した」
「違うの?」
リゼットが俺を見る。
「強い兵士なら、まだ計算できる」
首を振る。
「でもこいつらは違う」
シドは三本の伝令路を全部潰す必要すらなかった。
情報を一つ偽れば、それだけで部隊を動かせた。
マティアスは奪われた施設を取り返すのではなく、街の魔術網そのものから切り離した。
指を地図の上へ動かし、ボガードで止める。
「ボガードは、防衛線を突破したんじゃない」
道ではなく、その横に並ぶ建物を指す。
「そもそも、道を使う必要がない」
荷車も。
バリケードも。
狭い路地も。
正面に建物があれば、壁を壊して進む。
「こいつを相手にする時は、道路だけ見て進路を予測したら駄目だ」
地図を見る。
「壁も建物も、こいつにとっては『通れない場所』じゃないものとして考える」
そしてカイン。
戦力だけではなく、守る対象まで戦場の駒として使った。
最後にザハーク。
「一人の力が、作戦の前提そのものを壊してる」
ダリオは静かに聞いている。
「作戦が悪かったんじゃない」
少し考えて続けた。
「敵を普通の範囲に置いて計算したことが、結果的に間違いになった」
「……普通じゃない奴を、どう計算する」
「今ならできます」
答えた。
「一回見てるから」
ダリオの目が変わる。
「一度目は想定外でも」
俺は言った。
「二度目まで想定外にする必要はない」
セラが口元を少し上げた。
「そういうの、好きよね。あなた」
「好きでやってるわけじゃない」
返してから、黙り込んだ。
街。
五百人。
八十人。
四幹部。
ザハーク。
門。道路。倉庫。診療所。商人。市民。
何かが引っかかっている。
ブラックハウンドは強い。
間違いない。
だが。
五百人。
たった五百人で。
どうやって、この巨大な街を支配している?
顔を上げた。
「ダリオさん」
「なんだ」
「一つ、聞いていいですか」
「……ああ」
俺は言った。
「ベルナードには」
少し間を置く。
「何人住んでるんです?」
今回の異世界マーケティングは、「競合分析」です。
マーケティングでは、自分たちの商品や強みだけを見ていても戦略は作れません。
市場には必ず、
「顧客」
「自社」
「競合」
が存在します。
これを整理する代表的な考え方が「3C分析」です。
Customer=顧客・市場
Company=自社
Competitor=競合
今回は、この中でも「Competitor=競合」に焦点を当てています。
第一次ベルナード蜂起でダリオたちが立てた作戦は、決して悪いものではありませんでした。
五百人のブラックハウンドと正面から戦わず、
・情報を遮断する
・武器庫を確保する
・東門を押さえる
・市民を避難させる
・外部へ救援を求める
という形で、
「敵そのものを倒す」のではなく、
「敵が組織として機能できない状態を作る」
ことを狙っています。
かなり合理的な戦略です。
それでも失敗しました。
理由の一つが、
「競合を正しく理解できていなかったこと」
です。
シドは、単に伝令を倒す相手ではありません。
情報そのものを偽装し、
こちらの判断を間違った方向へ誘導する。
マティアスは、奪われた施設を力ずくで取り返す必要すらありません。
都市の魔術網を操作し、
施設そのものを使えなくする。
ボガードは、バリケードを突破するだけではありません。
壁を壊して進めるため、
そもそも「道を通る」という前提が通用しない。
カインは、剣の強さだけで戦いません。
相手が誰を守ろうとするのかまで利用して、
行動を縛ってきます。
そして、その四人の上にザハークがいる。
つまりブラックハウンドを、
「五百人の兵士+強い幹部」
程度に考えていたこと自体が、
戦略上の大きなズレだったわけです。
これは現代のビジネスでも同じです。
競合分析というと、
「相手の商品はいくらか」
「店舗数はいくつか」
「シェアは何%か」
といった数字だけを比べてしまいがちです。
ですが本当に重要なのは、
「その競合は、どうやって勝っているのか」
を見ることです。
価格で勝つ会社。
ブランドで勝つ会社。
流通を押さえている会社。
大量の顧客データを持っている会社。
特定の技術を独占している会社。
同じ市場にいる企業でも、
勝ち方はまったく違います。
だから、自社の戦略も変わります。
相手の勝ち方を理解せずに対策を作れば、
一見合理的な戦略でも、
前提から崩されることがあります。
今回、ノアが重要視したのもそこでした。
一度目の蜂起では分からなかった。
でも今は、
シドが何をするのか。
マティアスが何をするのか。
ボガードが何をするのか。
カインが何をするのか。
少なくとも、一度は見ることができた。
だからノアは言います。
「一度目は想定外でも、二度目まで想定外にする必要はない」
失敗そのものよりも、
失敗から競合について何を学び、
次の戦略へどう反映するか。
これも競合分析の重要な役割です。
そしてノアは、もう一つ別の疑問に辿り着きました。
ブラックハウンドは約五百人。
では――
その五百人は、
どうやって巨大都市ベルナード全体を支配しているのか。
次回の異世界マーケティングでは、
敵そのものではなく、
「街が本来持っている力」
に目を向けていきます。




