第七話 新たな剣と羽ばたく翼
リゼットが、新しい剣の柄に触れた。
それ自体は別に珍しいことではない。冒険者が歩きながら武器の位置を確認するのは、むしろ良い習慣だ。
抜く時に引っかからないか。鞘が緩んでいないか。身体の動きを邪魔していないか。
問題があるとすれば――。
「リゼットさん、さっきから剣を触ってますね」
フィーネが言った。
「……触ってないわよ」
「五回」
ガルドが即答した。
リゼットが振り返る。
「数えてたの?」
「目に入った」
「安心しなさい」
セラが言った。
「まだ剣に話しかけてないから」
「話しかけないわよ!」
反射的に言い返したリゼットが、また剣の柄へ手を置いた。
セラがその指を見る。
「じゃあ六回目」
「…………」
リゼットは無言で手を離した。
まあ、別に問題はない。道具の状態を確認する習慣は悪くない。
確認にしては、少し回数が多い気もするが。
「念のため言っておくけど」
俺が言うと、リゼットが嫌そうな顔をした。
「今日はその剣を試すために来たんじゃない」
「分かってる」
「依頼は岩殻猪の討伐。ただし、本当の目的は街道の安全確保だ。全部倒すことそのものが目的じゃない」
「分かってるって言ってるでしょう」
少しむくれた。
本当に分かっているのかは怪しい。
今回の依頼で確認されている岩殻猪は三、四頭。数日前から、それまでほとんど姿を見せなかった街道付近へ突然現れ始めたという。
荷馬車一台が横転し、馬にも被害が出ている。ただし、人間の死者はまだいない。
生息域から外れていることだけが、少し気になっていた。
だが、その程度なら理由はいくつも考えられる。餌、繁殖、縄張り争い、環境変化。
今の段階で一つに絞る意味はない。
まず現地を見る。
それでいい。
◇
街道をしばらく進んだところで、前方から五人組の冒険者が歩いてきた。
全員、装備がいい。
新品という意味ではない。傷があり、補修跡があり、それでもきちんと手入れされている。
使う人間が、自分の道具を理解している装備だった。
先頭は三十歳前後の槍使い。その後ろに盾役、剣士、魔術師、治癒術師と続く。編成にも隙がない。
胸元の徽章を見て、リゼットが小さく呟いた。
「《蒼鉄の槍》」
名前は知っていた。
突出した有名人はいない。だが、依頼達成率が高い。
討伐、護衛、探索。どれを受けても安定して結果を残す。
ギルド側からすれば、かなり使いやすいパーティーだ。
向こうのリーダーも俺たちに気づいた。
「……《灰色の翼》か?」
「そうだけど」
リゼットが答えると、わずかに間があった。
「この先へ行くのか?」
「岩殻猪の討伐依頼よ」
「ああ。最近出てるってやつか」
相手は仲間と顔を見合わせた。
「俺たちも噂程度しか知らない。実物を見るのは初めてだ」
槍使いが続ける。
「ただ、荷馬車を一台ひっくり返したって話は聞いた。見た目以上に力があるらしい。気をつけた方がいい」
「ありがとう」
リゼットが答えた。
相手は悪い人間ではないらしい。というより、むしろかなりまともだ。
「俺たちも途中まで同じ方向だ。一緒に行くか?」
断る理由はない。
しばらく二つのパーティーで街道を歩く。
そして、何気ない口調で《蒼鉄の槍》のリーダーが言った。
「何か出たら、こっちが前へ出る」
リゼットの眉がわずかに動いた。
「そっちは無理して合わせなくていい。危なくなったら下がれ」
悪意はない。
本当に。
ただ単純に、俺たちを守る対象として見ている。
過去の成績を考えれば、合理的な判断でもある。
依頼失敗を繰り返していた《灰色の翼》と、安定して実績を積み上げてきた《蒼鉄の槍》。
数字だけを見れば、向こうの判断は正しい。
横を見る。
リゼットは何も言わなかった。ただ、少し口を尖らせている。
そこへセラが顔を寄せた。
「よかったわね。今日は守ってもらえるみたいよ」
「……楽しんでるでしょう」
「少し」
それだけ言って、セラは前を向いた。
俺も何も言わなかった。
結果でしか変わらない評価というものもある。
◇
最初に異変へ気づいたのはガルドだった。
耳が立つ。
「来る」
次の瞬間、右手の林が大きく揺れた。
枝が折れ、草が倒れる。
そして――巨大な塊が飛び出してきた。
猪。
ただし、俺が知っている猪とは大きさが違う。肩まででも人間の胸ほどあり、頭部から背中にかけて灰褐色の岩石のような外皮に覆われている。
岩殻猪。
鼻息を荒くし、地面を蹄で削る。
「前へ!」
《蒼鉄の槍》のリーダーが叫んだ。
判断が速い。
盾役が即座に前へ出て、剣士がその脇へ。魔術師と治癒術師は距離を取る。
「《灰色の翼》は下がってろ!」
リゼットが一歩出ようとした。
「待って」
俺が止める。
「でも」
「見よう」
すでに《蒼鉄の槍》が対応している。今割って入る意味は薄い。
それよりも、初めて見る敵なら一度戦い方を見た方がいい。
岩殻猪が走った。
盾役は正面では受けない。わずかに身体をずらし、巨大な盾を斜めに構えて突進を外へ流す。
上手い。
そこへ剣士が側面から剣を叩き込んだ。
硬い音が鳴る。
「――通らない!」
剣が弾かれた。
岩殻猪の身体には、傷らしい傷がついていない。噂以上の硬さだったらしい。
だが、《蒼鉄の槍》は止まらなかった。
「一点だ!」
リーダーが即座に叫ぶ。
「殻を割る!」
魔術師が杖を振ると地面が隆起し、岩殻猪の片脚が大きく沈んだ。
動きが鈍る。
盾役が頭を押さえ、剣士が先ほどとまったく同じ場所へもう一度剣を叩き込んだ。
亀裂。
「今だ!」
槍。
穂先が亀裂へ正確に突き込まれる。
岩殻猪が激しく暴れ――倒れた。
「……強いな」
思わず口から出た。
最初の攻撃が通らなかった時点で、すぐ方法を変えた。誰か一人が力ずくで突破しようとしない。
止め、動きを削り、攻撃を一点へ集め、最後に決定打を入れる。
誰が何をするのか、全員が分かっている。
《蒼鉄の槍》が安定して依頼を達成している理由が、よく分かった。
一頭なら、確実に倒せる。
「硬いが、動きは単純だ」
《蒼鉄の槍》のリーダーが俺たちを振り返った。
「まともに殻を狙わず――」
「三つ」
ガルドが言った。
「何が?」
「来る」
その言葉と同時に、林が三か所揺れた。
一頭。
二頭。
三頭。
先ほどとほぼ同じ大きさの岩殻猪が、続けて街道へ飛び出してくる。
《蒼鉄の槍》の表情が変わった。
だが、誰も狼狽しなかった。
「三頭同時は受けない!」
リーダーが即断する。
「下がるぞ!」
「了解!」
「足止めは?」
「一発だけ頼む! 距離を作れ!」
魔術師が杖を構える。
撤退判断が速い。
一頭倒す能力があるからといって、三頭にも勝てるとは限らない。状況が変わった瞬間に目的を切り替えた。
強いパーティーだ。
「《灰色の翼》!」
リーダーがこちらを見る。
「あんたたちは先に街道を戻れ!」
「でも――」
リゼットが言う。
「いいから行け! こっちは慣れてる!」
盾役も笑った。
「心配すんな! 倒す必要はねえ! 逃げるだけなら何とかなる!」
魔術師の魔法が街道中央を盛り上げ、三頭の進路を一瞬狭める。
盾役とリーダーが左右へ散らし、剣士が牽制。治癒術師は全員の位置を見ながら後退する。
退き方まで上手い。
俺たちを逃がしながら、自分たちも生き残るつもりだ。
ただ、相手が想定より一段強かった。
一頭が土壁へ頭から突っ込み、岩殻が土を砕く。
「抜かれた!」
巨体が突き抜けた。
進路上にいたのは《蒼鉄の槍》の治癒術師。
「くそっ!」
剣士が走る。
間に合わない。
リーダーも遠い。
そして。
俺が何か言うより先に、赤栗色の髪が視界を横切った。
「リゼット!」
彼女はもう走っていた。
理由なんて考えていないのだろう。
危ない人間がいた。
だから身体が動いた。
それがリゼットだ。
岩殻猪の前へ割って入る。
「馬鹿! 正面から受けるな!」
《蒼鉄の槍》のリーダーが叫んだ。
リゼットは剣を抜く。
一瞬、剣を握る指が止まったように見えた。
長く使った古い剣。
力を込めれば壊れる。
強く振れば傷む。
いつからか身体に染みついた、力を逃がす癖。
けれど、今、彼女が握っているのは――あの剣ではない。
岩殻猪が迫る。
リゼットが踏み込んだ。
そして。
真正面から。
剣を振り抜いた。
轟音。
硬い何かが砕ける音がした。
「……は?」
誰かが呟いた。
岩殻猪の頭部――岩のような外皮に、大きな亀裂が走っている。
それだけではない。
突進してきた巨体そのものが、横へ弾かれていた。
リゼットも目を見開く。
「……通った」
自分の剣を見る。
折れていない。
歪んでいない。
岩殻猪が再び起き上がろうとする。
今度は、リゼットは迷わなかった。
一歩、踏み込む。
もう一度、剣を振るう。
砕けた外殻の奥へ刃が入り、岩殻猪が倒れた。
動かない。
俺の頭の中で、いくつもの数字が勝手につながった。
《蒼鉄の槍》の攻撃。
岩殻猪の硬度。
旧剣でのリゼットの動き。
新しい剣の耐久。
今の一撃。
違う。
新しい剣が、リゼットを強くしたんじゃない。
最初から。
彼女にはこれだけの力があった。
剣の方が、それを止めていただけだ。
なら、残り二頭。
セラの魔力はほぼ満タン。ガルドも消耗していない。フィーネも同じ。
結論は早かった。
これは危機じゃない。
「リゼット」
「何?」
「もう一頭いける?」
リゼットは新しい剣を握り直した。
「いける」
「ガルド、左を止めて」
「了解」
「セラ。進路をずらせる?」
「それだけ?」
「それだけでいい」
セラが杖を肩へ乗せる。
「贅沢ね。私を使って進路変更だけなんて」
「余裕があるなら温存する」
「はいはい」
ガルドの矢が飛び、岩殻猪の目の前を掠めた。
巨体が反射的に首を振る。
その足元で、小さな爆発。
進路が変わった。
リゼットの正面。
「セラ!」
「はい、どうぞ」
剣閃。
岩殻が割れる。
二撃目。
二頭目が倒れた。
最後の一頭が急に方向を変えた。
俺の側へ。
開いていた進路を走っただけだろう。
でも、避けられない。
「ノアさん!」
フィーネの声。
青白い膜が俺の前に現れた。
直後、岩殻猪が結界へ激突する。
フィーネが両足を踏ん張った。
「今です!」
ガルドの矢。
岩殻猪が一瞬ひるむ。
その間にリゼットが追いついた。
剣が落ちる。
静かになった。
◇
誰も、大きな怪我をしていなかった。
セラの魔力はほとんど減っていない。ガルドが使った矢も数本。フィーネは結界を一度。リゼットの呼吸が少し速い程度だ。
そして。
《蒼鉄の槍》の五人が、固まっていた。
剣士が倒れた岩殻猪を見る。
次にリゼットを見る。
自分の剣を見る。
もう一度、リゼット。
「……いや、待て」
誰も答えない。
「あれ一頭倒すのに、俺たち何人使った?」
「……全員」
「三頭いたよな?」
「いた」
「今」
「いた」
そしてようやく、リーダーが言った。
「……本当に《灰色の翼》なのか?」
セラがぱっと顔を上げる。
「あら。私たちってそんなに有名だったのね。やっぱり私が魅力的だからかしら?」
「依頼失敗ばかりだったからでしょう!」
リゼットが即座に突っ込んだ。
「理由はともかく、知名度は知名度よ」
セラはまったく堪えていない。
「いや……そういう話じゃなくて……」
《蒼鉄の槍》のリーダーが額を押さえた。
しばらくして、今度は俺を見る。
「……待て」
「何?」
「お前、どこかで見たと思ったら」
首を傾げる。
「《白樫の枝》の受付にいた奴だろ?」
「ああ」
さらに変な顔をされた。
「なんで受付の人間が、こんなところで《灰色の翼》に指示出してるんだ?」
なぜ。
少し考えた。
理由はいくつもある。
ギルドの再建。依頼達成率。戦力配置。収益。
そういうものを全部抜いて考えると、意外と答えは簡単だった。
「強いやつらが、ちゃんと強くなっていくのを見るのは、結構わくわくする」
「……変わった受付だな」
「でしょう?」
セラが答えた。
「なぜ君が答える」
《蒼鉄の槍》のリーダーが少しだけ笑った。
倒れている岩殻猪を見る。
「これで四頭か」
そこで俺も気づいた。
「噂じゃ三、四頭だったよな?」
「ああ」
「じゃあ、これで――」
「違う」
俺は街道の先を見る。
「依頼書にあった出没地点は、ここじゃない」
「……は?」
「もう少し先だ」
《蒼鉄の槍》の五人が同じ方向を見る。
その横で、ガルドだけが地面を見ていた。
「奥から来てる」
「四頭とも?」
「たぶん」
たぶん。
その言葉でいい。
「覚えておこう」
今はまだ、それだけだ。
◇
《蒼鉄の槍》とは、そこで別れた。
「俺たちは一度戻る」
リーダーが言う。
「一頭目で思ったより消耗した。それに、この数はギルドにも知らせた方がいい」
正しい判断だ。
そして俺たちを見る。
「そっちも無理は――」
途中で止まった。
倒れている三頭を見る。
「……いや」
頭を掻く。
「余計な心配か」
「気をつけて」
リゼットが言った。
「ああ。そっちもな」
今度は。
最初とは少し違う声だった。
◇
依頼書に記されていた場所は、さらに街道を進んだ先だった。
壊れた柵。横転した荷車の跡。幹を大きく削られた木。
記録と一致する。
「ここだ」
ガルドの耳が動いた。
「いる」
リゼットが新しい剣の柄に手を置く。
「何頭?」
少し間があった。
「六」
全員が黙った。
「……多いですね」
フィーネが言う。
三、四頭。それが依頼書にあった数字だ。
すでに四頭を倒している。それなのに、さらに六頭。
「さっきの倍ね」
セラが前方を見たまま言った。
「正確には、今いる数ならそうだ」
セラがこちらを向く。
「こういう時まで訂正する?」
六頭。
本来なら、撤退を検討する数字だ。依頼情報を大きく超えている。
だが、さっきの戦闘結果がある。
リゼットは問題なし。セラはほぼ未消耗。ガルドの矢も十分にあり、フィーネも同じ。
俺だけで決める必要はない。
「みんな。どう思う?」
リゼットはすぐには答えず、六頭を見る。
数。距離。地形。そして、剣。
全部確認してから答えた。
「いけると思う」
ガルドも続く。
「同時に六頭は受けない。分ければいい」
「私も、まだほとんど魔力を使ってません」
フィーネも自分の状態を伝える。
セラが俺を見る。
「全員そう言ってるけど?」
「君の意見を聞いてる」
「私は最初からやる気よ」
「分かった」
決める。
「やろう」
ガルドが弓を構えた。
「二頭だけ引ける?」
「できる」
「セラ。残りを三十秒止めて」
「三十秒?」
「ああ」
「安い仕事ね」
「頼む」
「任せなさい」
矢が飛んだ。
◇
予定していたより、戦闘は早く終わった。
ガルドが二頭を群れから引き離し、セラが残りの足元だけを正確に爆ぜさせる。
大きな炎はない。派手な爆発もない。
なのに、敵だけが思うように動けない。
リゼットが一頭目を迎える。
剣。
岩殻が割れる。
「次」
「分かった」
二頭目。
ガルドの矢が関節へ刺さり、身体が傾く。
そこへ、リゼットの斬撃。
三頭目は予定外に群れから抜けた。
だが、フィーネが即座に結界で止める。
「こっちは大丈夫です!」
指示する前に、自分で判断した。
セラの小さな爆発が四頭目の向きを変え、ガルドが五頭目を誘導する。
誰も、俺の指示を待って立ち止まらない。
必要な時だけ、俺が声を出す。
それでいい。
最後の一頭。
岩殻猪が真正面から走ってくる。
リゼットが腰を落とした。
今までより、さらに深く。
剣を振り抜く。
轟音。
岩殻猪の巨体が――浮いた。
そのまま後方へ吹き飛び、岩へ激突する。
岩にまで亀裂が走った。
「……それ」
セラが呟く。
「私の担当じゃない?」
「知らないわよ!」
岩殻猪は動かなかった。
終わった。
六頭。
依頼書に書かれていた数より多い。それなのに、想定していたより早く終わった。
セラにはまだ魔力に余裕がある。ガルドにも矢が残っている。フィーネもほぼ消耗していない。
全員に大きな怪我もない。
剣一本。
変えたのは、本当にそれだけだ。
だが、リゼットが敵を処理するまでの時間が短くなれば、セラが使う魔力も減る。ガルドが必要とする矢も減り、フィーネが危険にさらされる時間も減る。
一人の余裕が、五人全部へ広がっている。
公平に金を使わなくてよかった。
そう思った。
◇
「リゼット?」
戦闘が終わっても、リゼットだけはその場に立っていた。
剣を見ている。
刃。鍔。柄。
一つずつ、指で確かめていた。
「どうした?」
「……何ともない」
「剣?」
「うん」
リゼットが刃を光へ向ける。
「あれだけ振ったのに」
指が、刃の近くをなぞる。
「欠けてない。曲がってもない」
柄を強く握った。
「緩んでもない」
「なら、問題なさそうだね」
「うん」
そこで、リゼットは少し黙った。
「……私ね」
「何?」
「途中から、剣のこと考えてなかった」
意味が分からず、彼女を見る。
「今までは、ずっとどこかで考えてたの」
剣を見る。
「これ以上力を入れたら駄目だとか」
「……」
「また刃を直さないと、とか」
少し笑う。
「折れたらどうしよう、とか」
俺は何も言わなかった。
「でも今日は」
リゼットが新しい剣を握る。
「途中から、敵のことしか見てなかった」
それは、俺が思っていた以上に彼女にとって大きなことだったのかもしれない。
リゼットが剣を胸元へ引き寄せる。
そして、笑った。
いつもの、リーダーとしての凛とした笑顔ではなかった。誰かを安心させるためでも、強がるためでもない。
ただ、嬉しくて仕方がないという顔。
「……最高」
刃毀れなし。柄の緩みなし。六頭を相手にしても性能低下なし。
リゼット自身の動きも、以前より明らかに良かった。
それから。
珍しく見せた笑顔は、かなり可愛かった。
……最後の一つは。
剣の性能とは関係ない。
◇
「……六頭」
改めて数える。
ガルドが答えた。
「さっきので四頭」
「合計十頭か」
フィーネが少し首を傾げる。
「依頼では、三頭か四頭くらいだったんですよね?」
「ああ」
十頭。
数字が合わない。
依頼を受けてから数が増えた? 別の群れが合流した? 餌場が変わった? 生息域そのものが移動した?
可能性はある。
でも。
「ガルド?」
さっきから、彼だけが地面を見ている。
「足跡が変だ」
「どう変?」
ガルドが森を指した。
「全部、あっちから来てる」
「群れなら不自然じゃない」
「違う」
ガルドが蹄跡を指す。
深い。
場所によっては、地面を滑っている。
「走ってる」
俺もしゃがむ。
「餌を探してる足じゃない」
「……追われていた?」
「たぶん」
リゼットも森を見る。
「岩殻猪って、こんなに簡単に縄張りを捨てる魔物なの?」
「普通は捨てない」
ガルドが答える。
セラが倒れた岩殻猪を見る。
「……あれだけ硬くて大きいのが、十頭まとめて逃げるの?」
「そこだ」
フィーネが小さく言った。
「……何から?」
誰も答えられなかった。
その時だった。
森から、鳥の群れが一斉に飛び立った。
数十。
いや。
もっと。
黒い影が空を覆う。
ガルドの耳が立つ。
リゼットの手が剣へ。フィーネも杖を握った。
地面が――揺れた。
小さく、一度。
そして、もう一度。
ズン。
今度は、はっきり感じた。
「大型魔獣?」
俺が言う。
「分からない」
ガルドが答える。
彼にも分からない。
その事実の方が、嫌だった。
森の奥。木々の向こうで、何かが動いた。
最初は岩だと思った。
黒い、巨大な岩。
それがゆっくりと持ち上がった。
違う。
角。
一本ではない。
後方へ伸びる巨大な角が、何本も。
続いて頭部が、木々の上へ出る。
「……嘘」
フィーネの声が漏れた。
木が倒れた。
ぶつかったわけではない。
それが進む身体に、ただ触れただけだった。
森そのものを押し分けるように。
それは姿を現した。
竜。
そう呼ぶ以外にない。
全長がどれほどあるのか、見ただけでは分からない。
三十メートル?
四十メートル?
もっとかもしれない。
黒曜石と青黒い金属を混ぜたような鱗。一枚一枚が、人間の盾より大きい。
頭部から後方へ伸びる角。背中には山の稜線のような巨大な棘。
畳まれている翼だけで、建物一つを覆えそうだった。
尾が動く。
大木が一本、簡単に折れた。
一歩。
地面が沈む。
そして、鱗の隙間から青白い光が漏れている。
魔力。
それだけは俺にも分かった。
「……セラ?」
返事がない。
見る。
彼女は――笑っていなかった。
「セラ」
「……知らない」
「何を?」
少し間があった。
「全部」
巨竜を見上げる。
「あんな竜、見たことない」
フィーネが胸元を押さえた。
「……魔力が」
「分かる?」
「近くにいるだけで……空気が重いです」
セラが目を細める。
「あれ、何か魔法使ってる?」
「……たぶん、何も」
「じゃあ」
セラの声が低くなる。
「あれ全部、ただ漏れてるだけ?」
誰も答えられない。
俺は記憶を探した。
ギルドの資料。竜種。大型魔獣。A級指定。S級指定。過去の討伐記録。
どれにも一致しない。
「ギルドの資料には?」
リゼットが聞く。
「少なくとも、俺が見たものにはない」
「私も知らない」
ガルドも首を振る。
「俺もだ」
フィーネも続く。
「教会の魔獣図鑑にも……たぶん」
セラは何も言わない。
それが答えだった。
「……S級の冒険者なら」
フィーネが恐る恐る言った。
「あれを倒せるんでしょうか」
沈黙。
やがて、セラが答えた。
「分からない」
その一言で、背中が冷えた。
巨竜がこちらを向いた。
巨大な瞳。
獣の目。
なのに、ただ本能だけで動いているようには見えない。
こちらを見ている。
観察している。
そんな錯覚さえする。
「攻撃するな」
俺は言った。
リゼットが俺を見る。
「まだ何も分からない」
逃げるか、戦うか。
どちらを選ぶにしても、情報が少なすぎる。
「ガルド。動きは?」
ガルドは巨竜と地面を交互に見る。
「俺たちを追ってきたわけじゃない」
「どこへ向かってる?」
ガルドが街道を見る。
少し間を置いた。
「このままなら」
嫌な予感がした。
「街の方だ」
この街道は、そのまま人の住む町へ続いている。
「セラ。飛べると思う?」
セラが巨大な翼を見る。
「あれが飾りなら、神様はずいぶん材料を無駄遣いしたわね」
笑ってはいなかった。
追われれば、徒歩で逃げ切れる保証はない。
そして、追ってこなかったとしても、巨竜は街道を進む。
フィーネが小さく言った。
「……逃げられないんですね」
「違う」
俺は首を振った。
「逃げることはできるかもしれない」
街道の先を見る。
「その後を、誰かに押しつけることになるだけだ」
フィーネが黙る。
リゼットも、ガルドも巨竜を見た。
目的は、あれを倒すことじゃない。
街へ行かせないこと。
なら、討伐以外にも方法はある。
進路変更。
誘導。
足止め。
追い返す。
時間を稼ぐ。
何に反応する。
何を嫌う。
どの程度の速度で動く。
攻撃性は。
知性は。
情報が足りない。
なら。
増やす。
「どう思う?」
四人を見る。
リゼットが答えた。
「放ってはいけないと思う」
ガルドも。
「同じだ」
フィーネは怖そうだった。
それでも。
「……やれることがあるなら、やりたいです」
最後に、セラ。
「勝てるか分からないんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ」
巨竜から目を離さない。
「まず、勝てる相手か調べましょう」
俺は頷いた。
「まだ攻撃するな」
四人を見る。
「まず観察する。できるだけ情報を取る」
リゼットが新しい剣を構える。
ガルドが弓へ矢をつがえる。
フィーネが杖を握る。
セラも、紫の魔石を巨竜へ向けた。
巨竜がゆっくり首を上げる。
次の瞬間。
咆哮。
空気そのものが震えた。
森が揺れる。
髪が吹き上がる。
身体の奥まで、音が叩き込まれる。
遠くで、何かの魔物が逃げていく気配がした。
ああ。
分かった。
岩殻猪が、なぜ縄張りを捨てたのか。
なぜ十頭も、街道へ逃げてきたのか。
その日。
《灰色の翼》は初めて、
勝てるかどうかさえ分からない敵と出会った。
【今回の「異世界マーケティング」】
今回の中心にある考え方の一つは、「ボトルネックを改善した時、その効果は全体へ波及する」というものです。
《灰色の翼》で最も大きな問題の一つになっていたのが、リゼットの剣でした。
リゼット本人には大きな力がある。
しかし、その力に武器が耐えられないため、無意識に出力を抑えていました。
第六話で装備資金を均等に配らず、まずリゼットの剣へ集中させたことで、
・敵を倒すまでの時間が短くなる
・セラの魔力消費が減る
・ガルドが必要とする矢が減る
・フィーネが危険にさらされる時間が減る
という形で、一人への投資がパーティー全体の余裕につながっています。
「全員へ同じだけ配ること」と、
「全体が最も良くなる場所へ資源を配ること」は、必ずしも同じではありません。
もう一つは、「実態が変わっても、評判はすぐには変わらない」ということです。
《蒼鉄の槍》が知っていた《灰色の翼》の評判は、間違いではありません。
依頼失敗が多い。
連携が悪い。
結果を出せない。
少し前まで、それは事実でした。
しかし、今の《灰色の翼》はすでに変わっています。
中身が変わっても、外から見える評価には時間差があります。
商品でも企業でも人でも、
「以前こうだった」という印象は簡単には消えません。
その評価を変える強い材料の一つが、実際の体験です。
《蒼鉄の槍》は今回、自分たちの目で現在の《灰色の翼》を見ました。
セラの言う通り、
「理由はともかく、知名度は知名度」
だった彼らの名前が。
これから、少しずつ違う意味で知られていくのかもしれません。




