第二十四話 世界最高峰《黄金獅子》
「君たちが《灰色の翼》?」
白樫の枝の入口に立っていたのは、まだ少年と呼んだ方がしっくりくる小柄な冒険者だった。
淡い青緑色の髪に、柔らかな目元。腰には細身の剣を下げているものの、立ち姿から威圧感のようなものはほとんど感じない。
「《黄金獅子》のノエル・アルディア。よろしく」
フィーネが目を丸くした。その横では、ガルドが少年の顔ではなく腰の細剣へ視線を向けている。
セラはノエルを上から下まで眺めると、少し意外そうに首を傾げた。
「……思ってたより可愛いのが来たわね」
「よく言われるよ」
ノエルは気を悪くした様子もなく笑った。
その自然な反応に、ノアはかえって戸惑う。
《氷華》ノエル・アルディア。
黄金獅子の最高戦力《九牙》の一人。そう聞けば、もっと近寄りがたい人物を想像していた。少なくとも、アルベルトと対峙した時に感じたような圧は、目の前の少年からはまるで感じられない。
ノエルの視線が、少し離れた椅子に腰掛けていたリゼットへ向いた。
「あなたがリゼットさん?」
「そうだけど…」
「やっぱり。脚、まだ治ってないんだね」
リゼットの表情がわずかに変わる。
「……知ってるの?」
「アルベルトさんから聞いたから」
その名前が出た瞬間、さっきまでの柔らかな空気が少しだけ引き締まった。
ノエルは特に気にした様子もなく続ける。
「肩、まだ治療してたよ」
「……そう」
リゼットはそれ以上何も言わなかった。
勝ったわけではない。自分の脚まで壊して、それでも届かなかった相手だ。素直に喜べる話ではないのだろう。
それでも、伏せかけた青紫の瞳がほんの少しだけ揺れたのを、ノアは見ていた。
「アルベルトさんが怪我して帰ってくるの、久しぶりだったんだ。誰と戦ったのって聞いたら、リゼットさんの名前を教えてくれた」
ノエルに他意はない。ただ知っていることを、そのまま話しているだけだった。
だからこそ、その言葉は妙に重かった。
リゼットは膝の上に置いていた手を少し握ると、やがて小さく息を吐いた。
「……次は、もっとちゃんと戦う」
「リゼットさん」
すぐ横からフィーネの声が飛んできた。
「今は戦わないでください」
「今すぐとは言ってないわよ」
「さっきも剣を持って外に出ようとしてました」
「素振りくらいなら大丈夫かなって思っただけ」
「駄目です」
珍しく食い下がるフィーネに、リゼットが困ったように眉を下げる。
セラが楽しそうにその様子を眺めていた。
「諦めなさい。今日のフィーネは強いわよ」
「セラまでそっちなの?」
「だってあなた、放っておいたら片脚でも走りそうだもの」
「そこまではしないわよ」
少し間があった。
ガルドが腕を組んだまま、ぼそりと言う。
「信用できんな」
「ガルドまで……」
リゼットが不満そうに振り返ると、フィーネが少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「ちゃんと治ったら、いくらでも訓練していいですから。それまでは我慢してください」
「……分かった」
リゼットは渋々頷いた。
そんな五人のやり取りを、ノエルは面白そうに眺めている。
セラがその視線に気づいた。
「それで?」
「ん?」
「アルベルトの肩を斬った子を見に来たの?」
ノエルが少し目を丸くしたあと、素直に頷く。
「それもあるよ」
「それも?」
「君たちが王都指定案件に参加できるようになったって聞いたから、ちょっと興味があって」
ノアはノエルを見る。
「その話、もう黄金獅子まで伝わってるのか」
「そりゃ伝わるよ。王都の仕事なんだから」
言われてみれば当然なのだろうが、自分たちの知らないところで話が進んでいることには、まだ少し慣れない。
「それに、僕は明日王都へ戻るんだ」
ノエルはそこで、何でもないことのように続けた。
「よかったら一緒に来る?」
「……どこに?」
「黄金獅子の本部」
セラの目が一瞬で輝いた。
「行く」
「早いな」
「だって黄金獅子よ? 世界中から変な依頼とか珍しい魔道具とか集まってるんでしょ?」
「変な依頼って……」
フィーネが苦笑する。
「でも、私も見てみたいです。黄金獅子って、王都で一番大きなギルドなんですよね?」
「大きさだけなら他にもあるけど、まあ、普通のギルドとはちょっと違うかな」
ノエルはそう言って笑った。
「王都指定の案件に関わるなら、今後本部とやり取りすることもあると思うし。入っちゃ駄目な場所には連れていかないから安心して」
「俺は構わん」
ガルドも短く答える。
残るリゼットへ視線が集まった。
彼女は少しだけ考えたあと、ノエルを見る。
「私も行きたい」
「リゼットさん」
「分かってる。歩き回ったりしないから」
先回りされたフィーネが口を閉じる。
セラが横からリゼットの顔を覗き込んだ。
「今、ちょっと嫌そうな顔したわね」
「してないわよ」
「したな」
「ガルド」
低い声で名前を呼ばれても、ガルドはまったく気にしていない。
フィーネが堪えきれずに小さく笑い、それにつられてノアも笑った。
翌朝、五人はノエルとともに王都へ向かった。
道中、ノエルは九牙らしいところをほとんど見せなかった。
普通に話し、普通に笑い、フィーネが持ってきた菓子を気に入って二つ食べた。セラから「本当に九牙なの?」と聞かれても、「たぶん」と笑っている。
そんなノエルに、セラがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、今日は本部に戻って何するの?」
「会議」
「九牙の?」
「うん。定例のやつ」
セラの顔から、少しだけふざけた色が消えた。
「全員来るの?」
ノエルは窓の外へ目をやりながら、少し考える。
「今日はたぶん全員来ると思うよ」
リゼットの視線がわずかに動いた。
ノアも何も言わなかったが、同じことを考えていた。
アルベルト・クロイツ。
リゼットがすべてを出し切って、それでも勝てなかった剣士。
そのアルベルトを含む九人が、今日、同じ場所に集まる。
「へえ……」
セラが口元を少し上げる。
「それはちょっと楽しみね」
やがて馬車の窓の向こうに、これまで見てきたどの街とも違う巨大な城壁が姿を現した。
王都。
門を抜ければ、広い通りを何台もの馬車が行き交い、その両側には何階建てもの建物が並んでいる。人の数も、店の数も、行き交う冒険者の装備も、アルヴェリアとはまるで違った。
フィーネは窓の外を忙しそうに見回し、セラは見慣れない魔道具を見つけるたびに身を乗り出す。ガルドは通りを歩く冒険者へ時折目を向け、リゼットもまた、剣を下げた者を無意識に追っていた。
そして、王都の中心部から少し離れた一角。
巨大な獅子の紋章が掲げられた建物の前で、馬車が止まった。
「着いたよ」
ノエルが先に降りる。
ノアもその後に続き、建物を見上げた。
豪華だから目を奪われたわけではない。
入口からひっきりなしに人が出入りしている。冒険者だけではない。書類を抱えた職員、装備を運ぶ者、遠征用らしい荷を確認する者、何かを報告しながら急ぎ足で奥へ向かう者。
人が多い。
それなのに、不思議なほど滞っている場所がなかった。
「ここが――」
ノアの隣で、リゼットが小さく息を漏らす。
ノエルが振り返った。
「《黄金獅子》本部。ようこそ」
ノアたちが《黄金獅子》本部へ足を踏み入れると、外から見た以上に広い空間が広がっていた。
正面には長い受付台がいくつも並び、その前を冒険者だけでなく、書類を抱えた職員や装備を運ぶ者たちが絶えず行き交っている。壁際には各地の地図が掲げられ、その一部には赤や青の印が細かく打ち込まれていた。
白樫の枝にも依頼を受け、報告を整理し、冒険者を支える人間はいる。
だが、ここは規模が違う。
人が多い。それなのに、誰かが立ち止まっただけで流れが詰まるような場所がない。
「すごい……」
フィーネが思わず漏らした声に、ノエルが振り返った。
「初めて来ると、だいたいみんなそうなるよ」
「これ、全部黄金獅子の人なんですか?」
「冒険者じゃない人も多いよ。依頼の管理とか、遠征の準備とか、各地との連絡とか。僕らだけじゃ何も回らないから」
ノエルはそう言いながら、ごく普通のことのように受付の間を抜けていく。
セラは壁際に設置された魔導具へ目を奪われ、ガルドはすれ違う冒険者たちを静かに見ていた。リゼットもまた、剣を下げた者を見つけるたびに無意識に視線を向けている。
同じ場所へ来ても、見るところはそれぞれ違う。
そんな五人の前へ、一人の女性職員が歩いてきた。
「ノエルさん。ちょうど探していました」
「あ、マリエル」
二十代半ばほどに見える女性だった。華美な装いではなく、仕事の邪魔にならない落ち着いた服装に、黄金獅子の紋章が入った胸章を付けている。
その手には何枚かの書類が抱えられていた。
「本日の定例会議、開始時刻が少し早まりました。資料は確認されましたか?」
「したよ」
「最後まで?」
「……したよ」
マリエルはノエルの顔をじっと見る。
ノエルの目がわずかに泳いだ。
「今、目を逸らしましたね」
「ちゃんと持ってるから大丈夫」
「持っていることと、読んだことは別です」
セラの口元が楽しそうに上がる。
「ずいぶん信用されてるのね」
「信用はしていますよ」
マリエルは即答したあと、ノエルへ視線を戻した。
「仕事以外では」
「そこ分ける必要ある?」
「あります」
ノエルが少しだけ不満そうな顔をした。
そのやり取りを見ていたフィーネが、くすっと笑う。
「仲がいいんですね」
「長い付き合いですから」
「マリエルがうるさいだけだよ」
「その発言も記録しておきます」
「何の記録なの?」
今度はガルドまで小さく笑った。
マリエルはそこで初めてノアたちへ向き直る。
「失礼しました。《灰色の翼》の皆さんですね。私はマリエル・フォード。九牙専属の案件管理を担当しています」
「九牙専属?」
ノアが聞き返す。
「はい。九牙へ持ち込まれる案件は、通常の依頼とは数も内容も違いますので、私を含め数名で担当しています。進行中の案件、遠征予定、各国との調整、緊急時の優先順位などですね」
セラが少し意外そうにノエルを見る。
「九人の予定を管理するだけで、専属の人間が何人も必要なの?」
「予定だけなら楽なんですけどね」
ノエルが苦笑する。
マリエルは持っていた書類の一枚を開いた。
「今月だけでも、九牙宛てに直接持ち込まれた依頼が二十件を超えています。もちろん全てを受けるわけではありませんが、国家からの要請や緊急性の高い案件は、こちらで優先度を整理してから本人たちへ回します」
「二十……」
フィーネが小さく呟いた。
それだけの案件が、たった九人へ向けて送られてくる。
ノエルが日常の延長のように話していたせいで忘れそうになるが、彼らが立っている場所はやはり普通ではない。
「ごめん。僕、そろそろ行かないと」
ノエルが時計へ目を向ける。
「マリエル、みんなを案内してもらっていい?」
「構いません」
「ありがとう。じゃあ、またあとでね」
ノエルは五人へ手を振ると、そのまま奥の階段へ駆けていった。
「走らないでください」
「急いでるから!」
「だから昨日のうちに資料を読んでおいてくださいと言ったんです」
ノエルの姿が角の向こうへ消える。
マリエルは小さく息を吐いた。
「……では、ご案内します」
セラが笑いを堪えながら、その後をついていった。
最初に案内されたのは、本部の中央にある巨大な依頼区画だった。
壁一面に掲示された依頼票の数だけでも、白樫の枝とは比較にならない。地方別、危険度別、討伐、護衛、調査と細かく分けられ、職員が常に新しい資料を差し替えている。
「こちらが通常の所属冒険者向けです」
マリエルの言葉に、リゼットが一枚の依頼票へ目を止めた。
「飛竜三頭の討伐……これが通常なの?」
「黄金獅子では、という意味ですが」
別の紙には大規模な盗賊団の討伐。さらにその隣には、危険地域を横断する商隊護衛が並んでいる。
どれもアルヴェリアなら、かなり腕の立つ冒険者へ回される依頼だ。
「これで普通なら、九牙は何をやってるんだ?」
ガルドが尋ねる。
「こちらです」
マリエルが示したのは、通常の依頼区画から少し離れた場所だった。
扉を抜けた先には掲示板ではなく、大きな書棚といくつもの資料台が並んでいる。
セラが目を輝かせた。
「何ここ」
「特別指定案件と、現在も解決していない長期案件の資料室です。九牙だけが受けるわけではありませんが、内容によっては彼らに回されることもあります」
ノアは近くの資料へ目を落とす。
そこに並んでいたのは、さっきまでの依頼とは明らかに違う名前だった。
「……賢者の石?」
その言葉に、セラがすぐ横から覗き込んだ。
「どこ?」
「これ」
古びた資料の写しには、《賢者の石・所在調査》と記されていた。
所有者の魔力を飛躍的に増幅すると伝えられる幻の魔道具。古い文献には何度も名前が現れるが、現存する実物は確認されていない。
「魔力を跳ね上げる……」
セラの目が明らかに変わった。
「欲しいの?」
フィーネが聞く。
「そりゃ欲しいでしょ」
セラは即答した。
「今でも十分すごいと思いますけど……」
「十分なんて言葉は、魔法にはないのよ」
フィーネが「ああ……」と妙に納得した顔をした。
マリエルはそんな二人を見ながら微笑む。
「残念ながら、伝承ばかりなんです。過去にも発見報告はいくつかありますが、どれも本物だと確認されたものではありません」
「夢がないわねえ」
「調査する側は現実的でないと困りますから」
「それはそうね」
セラは名残惜しそうに資料から離れた。
今度はフィーネが、別の題名を見つける。
「《星のかけら》……?」
そこに書かれていた説明はさらに短かった。
手にした者の願いを叶えると伝えられる魔法の石。
「願いを叶える……」
フィーネがその言葉を小さく繰り返した。
セラは隣から資料を見て、少し眉を上げる。
「さっきより怪しいわね」
「各地に似たような伝承があります。ただ、こちらも現物は見つかっていません」
「本当に願いが叶うなら、もっと大騒ぎになってそうだもの」
セラはそう言ったが、ノアはもう一度《星のかけら》という文字を見た。
願いを叶える石。
たったそれだけの話なのに、なぜか名前だけが妙に頭に残った。
少し先には、《古代魔大戦・兵装宝物庫》という資料が置かれていた。
「これは?」
リゼットが手に取る。
「古代魔大戦の時代に作られた武器を保管していたとされる施設です。場所自体は判明しています」
「場所が分かってるなら、もう調べられてるんじゃないの?」
「入口の封印を突破できていません」
リゼットの目が少し見開かれる。
「黄金獅子でも?」
「何度か調査隊は出ています。ただ、現在まで内部への到達記録はありません」
資料には、現代では再現できない魔導武器が多数保管されている可能性がある、と記されている。
古の時代に使われた最強武器の宝物庫。
場所は分かっている。
それでも、まだ誰も入れていない。
「こんなのが普通に残ってるのか……」
ノアが呟く。
「普通ではありませんよ」
マリエルが少し笑った。
「だから、ここにあります」
その言葉に、ノアも苦笑した。
資料室の奥には、巨大な世界地図が掲げられていた。
四つの大陸が描かれ、そのうち三つには都市や街道、国境が細かく記されている。
だが、一つだけ様子が違う。
海岸線こそ描かれているものの、内陸へ入った途端に情報が極端に減っていた。
「ここだけ、何もないな」
ガルドが地図を見る。
「四大陸の中で、唯一まともな開拓が進んでいない大陸です」
マリエルが地図の一角を指した。
「沿岸部までは複数の調査記録があります。ただ、内陸へ入るほど魔物の数も危険度も急激に上がる。黄金獅子からも何度も調査隊が出ていますが、完全踏破には至っていません」
「黄金獅子でも?」
フィーネの声が少し小さくなる。
「ええ」
マリエルは特別なことを言うような口調ではなかった。
「大型種、未確認種も多いです。そもそも正確な地形すら分かっていない場所がありますから」
セラが地図を見上げる。
「世界の四分の一近くが、ほとんど分かってないってこと?」
「大雑把に言えば、そうなりますね」
ノアは地図を見つめた。
アルヴェリア。ベルナード。王都。
これまで旅してきた場所も、自分たちにとっては十分に広かった。
それでも、世界全体から見ればほんの一部にすぎない。
その事実だけで、今まで見えていた世界が急に狭く感じられた。
その時だった。
リゼットが、地図の下に置かれていた薄い資料を手に取る。
「ノア」
「どうした?」
「これ……」
差し出された資料へ目を落とした瞬間、ノアの視線が止まった。
《未分類大型竜種・飛来経路調査》
そこに描かれていた簡単な特徴図。
異常に大きな体躯。
既存資料に一致する個体なし。
アルヴェリアから別の街へ向かう街道を外れた森林地帯で確認。
ノアは、その姿を知っていた。
いや、知っているどころではない。
あれと戦った。
五人で命を懸けて倒した。
「……これ」
フィーネも気づいたらしい。
ガルドの表情からも、さっきまでの軽さが消えていた。
セラが資料へ顔を寄せる。
マリエルだけが、特に気にした様子もなく答えた。
「ああ、その個体ですか」
「知ってるんですか?」
ノアが聞く。
「記録だけなら。ギルドの魔物資料にも該当種がなく、周辺に同種が生息していた形跡も確認されなかったそうです」
マリエルは資料の下部を指す。
「目撃証言や飛行経路の推定から、未踏大陸方面から飛来した可能性があるという説があります」
「……未踏大陸から?」
セラが地図を見る。
「ただし、確証はありません」
マリエルの声は淡々としている。
「確認されたのは一度きりですし、その個体もすでに討伐されています。現状では優先度の高い調査ではありません」
その程度なのだ。
ここにいる人間たちにとっては、世界中から集まる未確認情報の一つ。
けれどノアたちにとっては違う。
あの森で遭遇した正体不明のドラゴン。
魔物図鑑にも載っていなかった存在。
ベルナードまで足を運んで手掛かりを探し、それでも結局、正体は分からなかった。
その答えへ繋がるかもしれない言葉が、今になって突然現れた。
「未踏大陸……」
リゼットが静かに呟いた。
ノアはもう一度、地図の何も描かれていない内陸部へ目を向けた。
その時、背後から聞き覚えのある声がした。
「お前たちも来てたのか」
振り返る。
そこに立っていたのは、大剣を背負ったレオンだった。
セラが一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに楽しそうな顔になる。
「あら。ずっと一人で歩いてた野良猫が、ずいぶん立派な家を見に来たのね」
「誰が野良猫だ」
「群れない。愛想がない。気が向いた時しか喋らない」
「お前相手だと喋る気がなくなるだけだ」
「前より返しが早くなったじゃない」
セラが満足そうに笑う。
「成長したわねえ」
「お前のおかげではない」
「そこは素直に感謝しておきなさいよ」
「何にだ」
「会話の訓練」
「頼んでない」
レオンは面倒そうに返したが、そのまま会話を切る様子もなかった。
ノアはレオンの装備を見る。黄金獅子の紋章はまだどこにもない。
「この前、声をかけられたって言ってたな」
「ああ。今日はその話を聞きに来た」
「まだ決めてないの?」
セラが尋ねる。
「決めてない」
「意外ね。塔を一人で取った男なんて、向こうからしたら逃したくないでしょうに」
「俺が決めることだ」
「それはそうね」
そこだけは、セラも茶化さなかった。
少しだけレオンを眺めてから、今度は背中の大剣へ目をやる。
「でも、ここに入るなら一つだけ気をつけた方がいいわよ」
「何だ」
「その剣で本部の壁を壊さないことね。弁償、高そうだから」
「お前の魔法にだけは言われたくない」
セラの眉がぴくりと動いた。
「私の魔法は壊す場所をちゃんと選んでるわよ」
「中央塔では爆発で自分たちを飛ばしてたな」
「……あれは移動よ」
ガルドが横から口を挟む。
「爆発で飛ぶのを移動と言い張る奴は初めて見た」
「ちゃんと着いたでしょ」
「着地はしてないです……」
フィーネが小さな声で付け足した。
セラが二人を振り返る。
「ちょっと。今はレオンの話をしてるのよ。なんで私が責められてるの?」
レオンの口元がほんの少しだけ緩んだ。
それを見たセラが目を細める。
「……今、笑ったわね?」
「気のせいだ」
「笑った。絶対笑った」
「知らん」
レオンは何事もなかったようにノアへ顔を向ける。
「お前たちは見学か?」
「ああ。ノエルに連れてきてもらった」
「そうか」
短い返事だった。
けれど以前なら、そこで会話が終わっていたかもしれない。
「面白い場所だぞ。奥の資料は見たか?」
「今見てきたところだ」
「なら分かるだろ。ここに来る仕事は、アルヴェリアとは桁が違う」
レオンの言葉に、ノアはさっきまで見ていた資料を思い出した。
未踏の大陸。
伝説の秘宝。
誰も踏み込めていない古代の宝物庫。
そして、あのドラゴン。
「……ああ。思ってたより、ずっと広かった」
ノアが答えると、レオンは小さく頷いた。
その時、少し離れた場所にいたマリエルが時計へ目を向けた。
「そろそろですね」
ノアが振り返る。
「何がですか?」
「九牙の定例会議です」
その言葉に、リゼットの表情がわずかに変わった。
ノエルから聞いていた。
今日は九人全員が揃う。
マリエルは奥へ続く長い廊下へ視線を向ける。
「本日は九名全員が出席予定です」
騒ぎが起きたわけではない。
それでも、周囲の職員たちの動きが少しだけ変わった。
何人かが資料を抱えて会議室へ向かい、大きな扉が開かれる。管理官らしい職員たちが書類を確認し、静かに準備を進めていた。
誰も浮き足立ってはいない。
ここでは、それが日常なのだ。
だからこそ、ノアにはその光景が妙に印象に残った。
やがて、長い廊下の向こうから人影が現れた。
最初に反応したのはリゼットだった。
彼女の青紫の瞳が、九人の中の一人を捉える。
アルベルト・クロイツ。
自分を打ち破った《剣聖》。
その肩には、まだ薄く治療の跡が残っていた。
だが、リゼットの視線はすぐにその隣へ移った。
アルベルトだけではない。
一人、また一人。
九つの人影が、同じ廊下を並んで歩いてくる。
小柄な少年。
巨大な戦槌を持つ小さな少女。
目つきの鋭い軽装の男。
長い槍を携えた青年。
深紅の髪を揺らす、人ならざる美しい女。
弓を手にした冷たい雰囲気の女性。
青緑の髪をした穏やかな魔法使い。
そして、その中央を歩く白髪の青年。
これまで一人ずつなら、強者と呼ばれる冒険者を何人も見てきた。
だが、今目の前を歩いている九人は違う。
誰か一人が先頭に立ち、残りがその後ろについているわけではない。
全員が同じ列にいる。
リゼットが脚を壊すほど全力を尽くし、それでも勝てなかったアルベルト・クロイツが。
その中では、ただ九人のうちの一人として歩いていた。
「彼らが、《九牙》です」
マリエルの声は淡々としていた。
この本部では何度も目にする光景なのだろう。それでもノアたちにとっては、廊下の向こうから歩いてくる九人の姿だけで、先ほどまで見てきたどんな資料よりも分かりやすく《黄金獅子》の規格外さを物語っていた。
「《剣聖》アルベルト・クロイツ。剣を極めた、九牙随一の剣士です」
その名前は、もう説明されるまでもない。
リゼットの視線の先で、アルベルトはいつもと変わらない静かな表情で歩いている。肩に残る治療の跡だけが、あの戦いが確かにあったことを示していた。
マリエルの視線が、その隣へ移る。
「《神槍》ユリウス・ハーゼン。槍術、とりわけ間合いの支配に優れています」
淡い金髪の青年は、周囲の職員へ気さくに笑いかけながら歩いていた。柔らかな雰囲気とは裏腹に、その手にした長槍は本人の背丈を大きく超えている。
「《拳王》グレン・ローデン。武器は使いません」
「使わない?」
フィーネが思わず聞き返した。
「ええ。拳、蹴り、投げ――本人の身体そのものが武器です」
視線の先にいるのは、鋭い目つきの青年だった。
武器らしいものはどこにもない。
ガルドがその身体の使い方を見るように目を細める。
「見た目よりずっと厄介そうだな」
「ガルドがそれ言うと、なんだか説得力あるわね」
セラが横から口を挟む。
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
マリエルは小さく笑い、次の人物へ目を向けた。
「《舞姫》レティシア・ヴァルナ。魔導羽衣を自在に操る方です」
深紅の長い髪を揺らしながら歩くその女は、人間とは明らかに違う、狐を思わせる優美な顔立ちをしていた。
何本もの羽衣が身体の周囲をゆるやかに漂っている。
「綺麗……」
フィーネが思わず呟く。
「でしょう?」
なぜかセラが少し嬉しそうに答えた。
「あなたが自慢するところなの?」
リゼットが苦笑する。
「綺麗なものを正しく評価してるだけよ」
そのすぐ近くを、小さな少女が歩いていた。
猫耳のついたフード。明るい桃色と紫を基調とした装い。そして、本人の身体より遥かに大きな戦槌を軽々と担いでいる。
「《星砕》コレット・フェルゼン。九牙の中でも、純粋な破壊力なら最高峰です」
「……あの子が?」
フィーネが目を瞬かせる。
ちょうどその時、コレットが何かにつまずきそうになり、隣を歩いていたクラリスに支えられていた。
「ありがとうございますぅ」
「前を見て歩きましょうね」
遠くからでも、そんな声が聞こえてくる。
フィーネはもう一度、巨大な戦槌を見る。
「……あの子が?」
「二回言ったわね」
セラが笑った。
「気持ちは分かります」
マリエルまで同意した。
続いて、長い濃紺の髪を持つ女性が目に入る。その手には、見慣れた弓とは少し違う形状の武器が握られていた。
「《天弓》セリス・クロネル。遠距離戦を得意とする弓使いです。ただし、接近戦でもほとんど隙はありません」
ガルドの視線が、その弓へ吸い寄せられた。
「矢筒がないな」
「彼女が射るのは、普通の矢ではありません。自身の魔力で矢を作ります」
ガルドがわずかに眉を動かした。
ノアもその横顔を見る。
何かが引っかかったらしい。
だが今は、それを考えている余裕はなかった。
「こちらが《聖女》クラリス・レイフォード。治癒、防御、浄化を得意としています」
青緑色の長い髪をした女性が、先ほどコレットを支えたまま穏やかに微笑んでいる。
「治癒術師……」
フィーネの声が少しだけ変わった。
「ただし、治療だけの方ではありません」
マリエルが付け加える。
「状況によっては攻撃魔法も使います。九牙の中でも、対応できる仕事の幅が非常に広い方ですね」
フィーネはクラリスから目を離さなかった。
これまで自分が目指してきたものとは少し違う。
それでも、同じ治癒の力を持ちながら世界最高峰と呼ばれる場所に立つ人間が、確かにそこにいる。
そして――。
「あ」
ノエルがこちらに気づいた。
九人の中から笑顔で小さく手を振ってくる。
セラも軽く手を上げて返す。
「《氷華》ノエル・アルディア。こちらは、もうご存じですね」
「さっきまで一緒にお菓子食べてた子なのよねえ……」
セラが改めてノエルを見る。
「急に肩書きが重く見えてきたわ」
九牙の列は、そのままこちらへ近づいてくる。
残る一人。
その男は、九人の中央付近を静かに歩いていた。
白い髪。淡い青灰色の瞳。
アルベルトのような張り詰めた雰囲気も、グレンのような威圧感もない。
むしろ穏やかだった。
なのに、ノアはなぜかその男から目を離せなかった。
「最後が――」
マリエルが少しだけ声の調子を変えた。
「《英雄》エリアス・オルディスです」
それだけだった。
ノアが待っていても、その先の説明が続かない。
「……英雄?」
リゼットが尋ねる。
「ええ」
「何を得意としてるの?」
マリエルは少しだけ考えた。
「そうですね……」
そして、困ったように笑う。
「それを一つに絞るのが、一番難しい方です」
リゼットが白髪の青年を見る。
剣らしきものを腰に下げている。
ただし鞘はなく、そこにあるのは柄だけだった。
セラも興味を持ったらしく、その武器へ目を細める。
「変な剣ね」
「本人も少し変わってるけどな」
横からレオンが言った。
「知ってるの?」
「有名だ」
「あなたが人の名前を覚えてるなんて、相当ね」
「俺を何だと思ってる」
「人付き合いに関しては、冬眠中の熊くらいだと思ってるわ」
「さっきは野良猫だっただろ」
「もう飽きたのよ、その例え」
セラは悪びれもせず答えた。
レオンが呆れたように息を吐く。
その間にも、九牙は近づいてくる。
アルベルトがリゼットに気づいた。
二人の視線が合う。
ほんの一瞬。
アルベルトは何も言わず、小さく頷いた。
リゼットも、同じように頷き返す。
それだけだった。
だが、彼女の手はもう震えていなかった。
ノアは改めて九人を見る。
剣。
槍。
拳。
羽衣。
巨大な戦槌。
弓。
魔法。
そして、まだ底の見えない《英雄》。
それぞれがまったく違う道を歩き、その果てで同じ場所へ辿り着いた者たち。
あのアルベルトでさえ、その中の一人。
世界には、まだこんな場所がある。
自分たちが知らなかった仕事があり、知らなかった強さがあり、知らなかった世界がある。
ノアは九人の背中が会議室へ消えていくまで、その光景を見つめていた。
今日ここへ来るまで、《黄金獅子》が世界最高峰だということは知識として知っていた。
けれど――。
知っていることと、実際に見ることはまるで違う。
目の前に示されたその高さは、絶望するにはあまりにも遠く。
だからこそ。
追いかけるには、十分すぎるほど面白かった。
【あとがき】
お読みいただきありがとうございます。
今回の異世界マーケティングは、「ベンチマーキング」です。
ベンチマーキングとは、自分たちより優れた企業や組織、業界のトップ水準を参考にして、「自分たちは今どの位置にいるのか」「何が違うのか」を把握し、改善につなげていく考え方です。
大切なのは、優れた相手のやり方をそのまま真似することではありません。
たとえば現実のビジネスでも、自社の営業方法だけを見続けていると、それが普通なのか、非効率なのか判断できなくなることがあります。
そこで業界トップの会社と比べてみる。
案件の管理方法はどう違うのか。
人員をどう配置しているのか。
どんな基準で仕事を選び、誰に任せているのか。
外にある「高い基準」を知ることで、初めて自分たちとの差が見えてきます。
今回ノアたちが《黄金獅子》で見たのも、まさにそれでした。
九牙という強者だけではなく、彼らを支える専属管理官、膨大な依頼を整理する仕組み、そして今の《灰色の翼》ではまだ手の届かない仕事の数々。
ノアはまだ何かを変えたわけではありません。
ですが、自分たちより遥かに先を行く組織を実際に見ることで、「世界最高水準とはどこなのか」を知りました。
改善や成長は、今ある問題を直すことだけではありません。
そもそも自分たちが基準にしていた「普通」を疑い、もっと高い基準を知ることから始まる場合もあります。
それが今回の「異世界マーケティング」でした。
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