第二十三話 王都から来た少年
◇ ◇ ◇
中央塔に、勝敗を告げる鐘の音が響いた。
「証票確保! 勝者――レオン・ヴァレイン!」
その声を聞いた瞬間、ノアは立ち上がった。
「戻ろう」
セラが顔を上げる。
「リゼットね」
「ああ」
勝敗はもう決まった。ここに残って結果を確認している理由はなかった。
ノアたちは中央塔を飛び出し、来た道を急いで引き返した。
リゼットがアルベルトと戦っていた階層まで戻ったところで、ノアの足が止まる。
通路の先。
壁際に、赤と白の鎧が倒れていた。
「リゼット!」
考えるより先に身体が動いた。
ノアは駆け寄り、その場に膝をつく。
「リゼット! おい、リゼット!」
呼吸はある。
大きな出血も見当たらない。
それでも、いつもなら真っ直ぐこちらを見る青紫の瞳が閉じたままなのを見ると、胸の奥が強く締めつけられた。
「フィーネ!」
「はい!」
フィーネもすぐに駆け寄り、リゼットの身体を確認する。
「大丈夫です。命に関わる怪我はありません。でも……脚がかなり傷んでます。筋肉も関節も、無理をしすぎています」
フィーネが両手をかざすと、淡い光がリゼットの脚を包んだ。
ノアはその横に座ったまま、リゼットから目を離さなかった。
やがて。
閉じていた瞼が、ゆっくりと開く。
「……ノア?」
「リゼット」
その声を聞いた瞬間、ノアの表情から張りつめていたものが抜けた。
「よかった……」
リゼットはぼんやりとノアを見つめたあと、自分の脚を治療しているフィーネへ視線を落とした。
少しずつ記憶が戻ってきたのだろう。
その表情が曇る。
「……負けたんだよね、私」
誰もすぐには答えなかった。
リゼットは身体を起こそうとしたが、フィーネが慌てて肩を支える。
「まだ動いちゃ駄目です。もう少しだけ待ってください」
「……ごめん」
リゼットは大人しく壁へ背を預けた。
膝の上で、指先がゆっくりと握られていく。
「私……少しは強くなれたと思ってた」
静かな声だった。
「あの剣をもらって、神速も使えるようになって。前よりちゃんと、みんなの役に立てるようになったって」
リゼットは治療されている自分の脚を見る。
「神速には……自信があったの。これなら、もっと強い相手とも戦えるって思ってた」
絶対の自信を持っていた速さ。
それをアルベルトは見切った。
何度仕掛けても止められた。
「でも、全部読まれて……何度やっても届かなくなって」
握った手に、さらに力が入る。
「それで焦って、結局また無茶してる。動けなくなってもいいから、もっと速く、もっとって……また自分の身体のこと、後回しにしてた」
フィーネが心配そうにリゼットを見つめる。
リゼットは少しだけ俯いた。
「みんなと一緒に戦うようになって、少しは変われたと思ってたんだけどな……」
声が僅かに震えた。
「神速も破られて、また同じことして、それでも勝てなくて……」
泣いてはいない。
けれど、泣かないように耐えているのが分かるほど、その表情には力が入っていた。
「……悔しい」
その一言だけは、どうしても抑えられなかった。
ノアは少し黙ってから答える。
「そうだな」
リゼットが顔を上げた。
「神速は破られた。最後は無茶もした。それは次までに何とかしないといけないと思う」
「……うん」
「でも、それをリゼット一人で何とかする必要はないだろ」
ノアは穏やかに笑った。
「俺たちも負けたよ。四人でレオンに挑んで、それでも負けた」
「でも……」
「また五人で負けたんだ」
リゼットがノアを見る。
「だったら、また五人で考えよう。前にもそうしてきただろ」
ノアは続けた。
「一人で反省して、一人で全部直そうとするなよ。リゼットの戦い方だって、俺たち五人の戦い方の一つなんだから」
リゼットはしばらく何も言わなかった。
やがて、ノアが改めて彼女の顔を見る。
目を覚ましている。
こうして話している。
いつものリゼットが、ちゃんとここにいる。
そのことを確かめるように、ノアは穏やかな表情で彼女を見つめていた。
勝敗への悔しさも、次の戦いへの計算も、今だけはそこになかった。
ただ、大切なものが無事だったことへの安堵だけがあった。
リゼットも、そんなノアの表情を見つめ返す。
青紫の瞳が、柔らかく揺れた。
ついさっきまで胸の奥に重くのしかかっていたものが、少しずつ軽くなっていく。
神速を破られた悔しさは消えていない。無茶をした自分への情けなさも、これから向き合わなければならない課題も残っている。
それでも。
ノアが自分の無事を、こんなにも安心した顔で喜んでくれている。
ただそれだけのことが、今のリゼットにはたまらなく嬉しかった。
頬に、淡い桜色が差す。
視線を逸らした方がいいような気がした。
なのに、もう少しだけこの表情を見ていたかった。
「……ありがとう、ノア」
「うん」
それだけだった。
二人はそのまま、ほんの少しだけ見つめ合う。
周囲の音が遠くなったような、静かな時間だった。
そして。
リゼットは、ふとノアの肩越しに視線を向けた。
セラがいた。
何も言わない。
ただ、ものすごく嬉しそうだった。
口元を緩ませ、リゼットとノアをじっと見つめている。
「…………セラ」
「なに?」
「その顔、やめて」
「私、何もしてないけど?」
「してる! ものすごく嬉しそうに見てる!」
「だって、リゼットが元気になったから嬉しいのよ」
「絶対それだけじゃないでしょ!」
セラの笑みがさらに深くなる。
「あら。じゃあ、何だと思ったの?」
「それは……!」
そこでリゼット自身も気づいてしまった。
自分がノアと、どれだけ長く見つめ合っていたのか。
「……っ!」
淡い桜色だった頬が、一気に赤くなる。
「もう! セラ!」
「私は何も言ってないでしょう?」
「言ってなくても分かるの!」
ノアもようやく状況を理解したらしい。
「いや、俺は……」
言いかけたところで、その頬まで赤くなる。
ノアはそのまま、何事もなかったように皆から顔を背けた。
「ノアまで何でそっち向くの!」
「……何でもない」
「余計おかしくなるでしょ!」
ついにフィーネが堪えきれず笑い出した。
「ふふっ……ご、ごめんなさい」
「フィーネまで!」
少し離れたところで見ていたガルドも、小さく笑っている。
「ガルドも笑わないで!」
「元気になったならいいだろ」
「そういう問題じゃないの!」
さっきまで通路に残っていた重い空気が、嘘のように消えていた。
悔しさも、敗北も、何も解決したわけではない。
それでも今は、また五人で笑えている。
リゼットはまだ赤い頬を隠すように俯きながら、ほんの少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
その頃、旧砦の外に設けられた仮設指揮所では、王都側の責任者たちが各所から届いた報告に目を通していた。
机の上には参加者名簿と、監督役や伝令によって届けられた簡素な記録が並んでいる。
「まず、レオン・ヴァレイン」
王都冒険者ギルドの幹部が名前を読み上げた。
「単独参加で証票を確保。第一位だ」
「途中、複数の参加者から追われながらも先頭を維持。最後は中央塔前で《灰色の翼》四名と交戦し、そのまま証票を確保したとのことです」
報告を聞き、王国軍の上級士官が腕を組む。
「一人で参加した時点では、随分と自信のある男だと思ったが……実力に見合った判断だったらしい」
「規則違反もなし。戦闘力だけでなく、単独で状況へ対応する能力も高い」
行政側の責任者も名簿に目を落とす。
「王都の高難度案件を任せる人材として、今回最も高く評価していいだろう」
三人の意見に異論はなかった。
ギルド幹部が次の報告を手に取る。
「それと……アルベルト・クロイツが負傷したという報告もあったな」
軍人の目が僅かに動いた。
「アルベルトが?」
「ああ。上層部で参加者一名と交戦。相手はそこで戦闘続行不能。ただし、アルベルト本人も肩を負傷している」
「程度は?」
「軽傷だ。移動にも、その後の行動にも支障なし」
「それでも傷を負ったのか」
行政官が興味を示した。
「対峙した相手は?」
ギルド幹部が名簿を確認する。
「《灰色の翼》のリゼット」
「……また《灰色の翼》か」
行政官が思わず漏らした。
軍人が小さく頷く。
「ベルナードでも前線に立っていた剣士だな」
「そうだ。詳しい戦闘内容までは上がってきていない。分かっているのは、リゼットが敗れたことと、アルベルトも無傷ではなかったということだけだ」
「それで十分だろう」
軍人が言った。
「相手は《剣聖》アルベルト・クロイツ。《黄金獅子》の中でも別格とされる《九牙》の一人だ」
行政官が改めてその名を見る。
「《九牙》か……」
「黄金獅子の頂点に立つ九人だ。アルベルトはその一角に過ぎない」
「それに傷を負わせた、か」
行政官はリゼットの名前へ小さく印をつけた。
「覚えておこう」
ギルド幹部はさらに別の報告書を手に取る。
「そして、その《灰色の翼》だが……妙に名前が多い」
「というと?」
「中層部で、崩落に巻き込まれた参加者を救助している」
「選考の最中に?」
「ああ。その救助でかなり時間を失ったらしい」
「それでは大きく遅れたはずだ」
「ところが、そのあと首位のレオンに追いついている」
軍人が顔を上げる。
「かなり差がついていたはずだが」
「中央塔の手前で、通常の経路を使わなかったそうだ」
「通常の経路?」
「橋を渡らず、結界を足場にして魔法の爆発で直接中央塔側へ飛んだ、と報告にはある」
一瞬、三人とも黙った。
行政官が聞き返す。
「……飛んだ?」
「らしい」
「規則違反ではないのか?」
ギルド幹部は首を横に振った。
「今回の条件は、中央塔最上部の証票を確保すること。それだけだ。橋を通れとも、指定された経路を使えとも書いていない」
軍人が小さく笑う。
「なるほど。遅れたなら、道そのものを捨てたか」
「発案者は?」
「《灰色の翼》のノアだ」
また、その名前だった。
行政官が苦笑する。
「本当に《灰色の翼》ばかりだな」
「第一位はレオンだ。そこは分けて考えるべきだろう」
ギルド幹部が名簿を閉じる。
「今回の競争では、《灰色の翼》は負けている」
「ああ。だが、我々が見ていたのは順位だけではない」
軍人が答えた。
高難度の依頼を任せた時、何を選び、どう動くのか。
予定外の事態が起きた時、任務を投げ出さずに立て直せるのか。
そして、人命と依頼の両方を前にした時、どんな判断をするのか。
「救助を優先したことで順位を落とした。それ自体は事実だ」
行政官が言う。
「だが、実際の依頼で同じ状況が起きた時、遭難者を見捨てて先へ進む冒険者を、王都が求めているわけではない」
「その上で、失った時間を取り戻そうとした機転もある」
「最終的にはレオンに敗れたが、それで評価を落とす理由にはならんな」
ギルド幹部が《灰色の翼》の欄へ印をつけた。
「なら、決まりだ」
「《灰色の翼》には、今後の王都指定案件への参加資格を認める」
行政官がその言葉に反応する。
「次の件にも間に合いそうだな」
「ああ」
ギルド幹部が報告書を閉じた。
「今回の選考を行った理由は、そのためでもある」
「まだ本人たちには知らせるな」
軍人が釘を刺す。
「正式に動き出すまでは機密事項だ」
「分かっている」
行政官は、名簿に並んだ名前へもう一度目を落とした。
レオン・ヴァレイン。
そして、《灰色の翼》。
「さて……次はどうなるか」
◇ ◇ ◇
王都側から正式な結果を受け取ったあと、《灰色の翼》は旧砦を後にしようとしていた。
リゼットはフィーネの治療で歩けるところまで回復している。ただ、まだ脚には痛みが残っているらしく、今日は珍しく大人しく皆と歩調を合わせていた。
砦の門へ向かう途中、前方から一人の男が歩いてくる。
背中に担いだ巨大な大剣。
「レオン」
ノアが呼ぶと、レオンも足を止めた。
「……お前らか」
ノアはその前まで歩いていく。
「今回は負けた」
「ああ」
迷いのない返事に、ノアは少し笑った。
「でも、次は勝つ。次に会った時は、今回みたいには終わらせない」
レオンはノアを真っ直ぐ見る。
「ああ。俺も負ける気はない」
「望むところだ」
敵ではない。
けれど、次に会ったら絶対に勝ちたいと思える。
今回の案件が始まる前にはなかった関係だった。
「それにしても」
横からセラがレオンの顔を覗き込む。
「勝った本人とは思えないくらい地味な顔ね」
「どんな顔ならいいんだ」
「もっとこう、『俺が一番だ』って得意そうにするとか」
「しない」
「つまらないわね」
「お前を楽しませるために勝ったわけじゃない」
「あら、言うようになったじゃない」
セラは楽しそうに笑った。
「前よりお喋りも上手になったし。師匠として鼻が高いわ」
「弟子入りした覚えはない」
「もう三番弟子なの。私が決めた!」
「勝手すぎる女だな」
「今さら?」
そこでガルドが眉を寄せる。
「待て。三番ってことは、一番と二番は誰だ」
「一番弟子がガルド。二番弟子がフィーネよ」
「俺は弟子になった覚えはないが」
「わ、私もです!」
「二人とも照れなくていいのよ」
「照れてない」
「私も照れてません!」
フィーネが慌てて否定する横で、レオンがぼそりと言う。
「本当に勝手だな」
「でしょう?」
「褒めてない」
「知ってるわ」
セラはますます楽しそうだった。
そんなやり取りを見ていたフィーネが、ふと首を傾げる。
「でも、レオンさんって、セラさんとは結構気が合うんですね!」
「合わない」
レオンは即答した。
「あら。三番弟子のくせに冷たいわね」
「だから弟子じゃない」
「頑固ねえ」
「お前が勝手なんだよ」
ガルドが小さく笑い、リゼットもつられて口元を緩めた。
レオンは大剣を背負い直す。
「じゃあな」
「ああ。また」
ノアが答えた。
レオンは数歩進んだところで一度だけ足を止めた。
「次も勝つ」
振り返らずに、それだけ言う。
ノアは笑った。
「こっちの台詞だ」
レオンは片手を軽く上げ、そのまま歩いていった。
悔しい敗北だった。
それでも、また戦いたいと思える相手がいる。
次に会った時、自分たちはどこまで強くなっているのか。
ノアは遠ざかる大剣の背中を見送りながら、次の勝負を少しだけ楽しみにしていた。
◇ ◇ ◇
王都での案件を終えてから、数日が過ぎた。
《灰色の翼》にも、いつもの日常が戻っていた。
リゼットはまだ脚を万全には動かせず、フィーネに止められながら軽い訓練から再開している。
「もうほとんど痛くないんだけど……」
「駄目です。まだ完全には治ってません」
「少しくらいなら」
「駄目です」
即答され、リゼットが少しだけ肩を落とす。
その近くではガルドが弓の弦を調整し、セラはテーブルに頬杖をついて二人を眺めていた。
「諦めなさい、リゼット。今のフィーネには何を言っても勝てないわよ」
「……分かってる」
「アルベルトにはあんなに向かっていったのに?」
「それとこれは別でしょ!」
ノアはそんなやり取りを聞きながら、依頼掲示板に目を通していた。
王都からは、今後の王都指定案件への参加資格を認めるという通知を受けている。
それ以上のことは何も聞かされていない。
今はまた、自分たちにできる依頼を一つずつこなしていくだけだった。
そんなある日のこと。
《白樫の枝》の扉が開いた。
入ってきたのは、一人の少年だった。
十四、五歳ほどだろうか。
背丈も高くなく、顔立ちにはまだ幼さが残っている。身体つきも細く、どう見てもノアたちよりずっと年下だった。
街で見かければ、まだ学生だと言われても不思議ではない。
だが。
少年の胸元にある紋章を見た瞬間、ギルド内の空気が変わった。
「……おい」
誰かが小さく呟く。
「あれ、《黄金獅子》じゃないか?」
「待て。あの印……」
少年の胸元には、《黄金獅子》の紋章。
そして、その上に重ねられた九つの牙を模した意匠。
「《九牙》……?」
ざわめきが広がる。
少年は周囲の反応を気にした様子もなく、受付まで歩いていった。
「すみません」
声にも、まだ少年らしい若さが残っている。
「《灰色の翼》って、ここにいますか?」
受付嬢が一瞬言葉を失った。
「え、ええ……いますけど」
少年の表情がぱっと明るくなる。
「よかった」
その姿だけを見れば、本当にどこにでもいそうな少年だった。
だが、周囲の冒険者たちは彼の正体を知っている。
「《氷華》……」
「最年少の《九牙》だ」
その言葉に、ノアたちも振り返る。
少年もこちらに気づいた。
そして、嬉しそうに笑う。
「もしかして――君たちが《灰色の翼》?」
◇ ◇ ◇
エレナが空へ撃ち上げた魔法の余韻が、まだ街の上空に残っていた。
巨大な爆発に驚いた住民たちは建物の陰から様子を窺い、《ブラッドホーン》の兵士たちも中央広場へ集まり始めている。その視線の先、通りを塞ぐように五人の灰角族が並んでいた。
中央に立つ巨漢が、《ブラッドホーン》の頭領ヴァルガ・バルディス。
黒に近い灰色の大角を持ち、傷だらけの身体に巨大な戦斧を担いでいる。かつて人間に虐げられていた灰角族をまとめ上げ、この街を奪い取った男だ。
その左右には、四人の幹部。
長槍を持つ細身の男ラディス。四幹部でも最速と呼ばれる技巧派。
巨大な盾と片手槌を持つドーガン。兵士の統率も担う、防御に優れた大男。
両手に鎖付きの鉤爪を操るカイルド。敵の動きを封じ、集団戦で獲物を追い詰めることを得意としている。
そして四人の中で唯一の女性、ネリス。灰色の長髪と細い角を持つ魔術師で、灰を混ぜた暗色の魔法によって視界や魔力の流れを乱す。
この街を支配する《ブラッドホーン》の最高戦力が、全員揃っていた。
「てめえらか」
ヴァルガがゼノたちを睨みつける。
「俺たちの街で随分好き勝手やってくれたらしいな」
「呼んでも来なさそうだったからよ」
ゼノは悪びれもせず、エレナが吹き飛ばした空を見上げた。
「ちょっと派手に呼んでみた」
「ちょっと、ですか?」
ライルが苦笑する。
「雲、まだ割れてますけど」
「街は残っておりますので、ゼノ様のご命令通りかと」
エレナは満足そうだった。
「次はもう少し大きくできますよ?」
「やめとけ。今から使う街がなくなる」
ヴァルガの額に青筋が浮かぶ。
「舐めやがって……」
周囲では数十人の兵士が武器を構えていた。
ヴァルガが戦斧を地面へ叩きつけると、石畳に亀裂が走る。
「ここが誰の街か分からせてやる。お前ら全員、生きて帰れると思うなよ」
ゼノは五人を一度眺めると、後ろにいる仲間たちへ振り返った。
「聞いたか?」
ミレイアが剣を抜く。
「ええ」
ライルも楽しそうに腰を落とし、エレナは杖へ魔力を集める。ヴィオラも薔薇をあしらった杖を静かに持ち上げた。
ゼノは笑った。
「ちゃんと手加減してやれよ。使い物にならなくなる」
その言葉で、ヴァルガたちの表情が変わった。
「……何だと?」
「聞こえなかったか?」
ゼノは指を一本立てる。
「殺すなって言ってんだよ。こいつら、あとで使うから」
「貴様……!」
最初に動いたのはラディスだった。
石畳を蹴った瞬間、その姿が一気に間合いを詰める。狙いはゼノだったが、その前へミレイアが滑り込んだ。
長槍と剣が激突する。
「ゼノ様には触れさせない」
「退け!」
ラディスが槍を引き、間髪入れずに連続で突きを放つ。
速い。
一撃一撃の軌道を僅かに変えながら、喉、肩、腹、脚へと狙いを散らす。それでもミレイアの剣は全ての穂先へ正確に合わせていた。
「悪くない」
ミレイアが小さく笑う。
「けれど、それだけ」
槍が伸び切った一瞬。
ミレイアは穂先の内側へ潜り込み、ラディスの懐へ踏み込んだ。剣の柄が腹へ突き刺さり、続く蹴りで身体が石畳を転がっていく。
同時に、ドーガンが巨大な盾を構えた。
「魔術師を先に潰せ!」
兵士たちが動こうとするより早く、エレナの杖先に巨大な魔法陣が広がる。
「では、正面から受けてみますか?」
紫の光が広場を染めた。
放たれた魔力の奔流を、ドーガンが盾で正面から受け止める。凄まじい衝撃に石畳が削れ、巨体が後方へ押されていくが、それでも盾は砕けない。
「おおっ……!」
周囲の兵士たちから歓声が上がる。
エレナは目を輝かせた。
「素敵ですね」
「何?」
「もう少し強くしても壊れなさそうです」
「待――」
次の瞬間、魔法陣が一回り大きくなった。
ドーガンの表情が引きつる。
轟音とともに盾ごと身体が吹き飛び、背後の建物の壁へ叩きつけられた。
「……エレナ」
ライルが横目で見る。
「ゼノ、手加減しろって言ってなかった?」
「しておりますよ?」
「今ので?」
「盾は壊しておりません」
「基準そこなんだ……」
その横を、二本の鎖が高速で走った。
カイルドの鉤爪がライルの腕と脚を狙う。
「おっと」
ライルは軽く身体を捻り、一本目を避ける。もう一本が逃げ道へ回り込むが、今度は自分から鎖へ踏み込み、その上を駆け抜けた。
「なっ――」
「こういうの、俺も結構好きなんだよね」
カイルドが慌てて鎖を引こうとする。
しかし遅い。
ライルは鎖を蹴って方向を変え、そのままカイルドの背後へ回った。
「だから、どう動かしたいか分かりやすい」
後頭部へ軽く掌底を入れる。
軽く見える一撃だったが、カイルドの身体から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。
残るネリスは、ヴィオラへ杖を向けていた。
「貴族のお嬢様が、こんな場所まで何をしに来た」
灰色の煙が広場へ広がる。
煙に触れた魔力が乱れ、周囲で小さな火花を散らして消えていく。
「魔力を乱す魔法……」
ヴィオラは興味深そうに眺めた。
「その格好で随分落ち着いているじゃない。見えているの?」
「いいえ」
ヴィオラの周囲に、淡い薔薇色の光が灯る。
「見る必要がありませんもの」
光が円を描き、ヴィオラを中心に巨大な結界へ変わった。
煙が結界へ触れた瞬間、押し返される。
ネリスが目を見開いた。
「そんな……私の魔法が……!」
「人の魔力を乱すのがお得意なのでしょう?」
ヴィオラは微笑む。
「では、そもそも触れさせなければよろしいだけですわ」
杖を軽く振る。
ヴィオラを守っていた結界が一気に広がり、今度はネリスの周囲を包み込んだ。
「なっ……!」
ネリスが魔法を撃つ。
だが、内側から叩いても薔薇色の壁は揺れない。
「随分と粗雑な魔法ですこと」
結界がゆっくりと狭まっていく。
「待て……!」
「安心なさい。ゼノ様から壊さないようにと言われていますもの」
四方から迫る壁に押され、ネリスが身動きを取れなくなる。
ヴィオラは優雅に杖を下ろした。
「この程度で十分でしょう」
四幹部が、ほぼ同時に戦闘能力を失った。
広場が静まり返る。
周囲を埋めていた兵士たちは、先ほどまでとは明らかに違う顔でゼノたちを見ていた。
しかし、ヴァルガだけは動かなかった。
「……なるほどな」
巨大な戦斧を両手で握る。
「雑魚じゃねえってことだけは分かった」
全身から魔力が噴き上がった。
空気が震える。
兵士たちが一斉に後ろへ下がった。
ゼノが前へ出る。
「お前は俺がやる」
「ゼノ様」
「大丈夫だ、ミレイア」
ヴァルガが戦斧を持ち上げた。
「俺たちはな、人間どもに何十年も踏みつけられてきた」
腕に魔力が集まっていく。
「鉱山で働かされ、町にも入れず、宿にも泊まれず、家畜みてえに売られた奴もいる。だから俺たちは力をつけた。二度と誰にも踏みつけられねえためにな!」
「へえ」
「この街は、その力で奪った! 俺たちが強かったからだ!」
戦斧がさらに巨大な魔力を纏う。
「だったら!」
ヴァルガが地面を蹴った。
「俺より強いって証明してみろ!」
振り下ろされた戦斧が、広場の空気をまとめて押し潰す。
ゼノは動かない。
右手を上げ、人差し指と親指を軽く構えた。
その姿を見て、ヴァルガが吠える。
「舐めるなああああっ!」
戦斧が迫る。
ゼノの表情が僅かに変わった。
「……おっと」
指で受ける直前、手を開く。
轟音。
巨大な戦斧が、ゼノの右手へ叩き込まれた。
衝撃が広場を駆け抜け、周囲の窓ガラスが一斉に震える。石畳がゼノの足元から蜘蛛の巣状に割れ、離れた場所にいた兵士たちまで思わず腕で顔を覆った。
それでも。
ゼノは一歩も動いていなかった。
片手で戦斧を受け止めたまま、ヴァルガを見上げる。
「指だけで止めるつもりだったんだけどな」
ヴァルガの顔が引きつる。
ゼノは笑った。
「片手を使わせるとは、大したもんだ」
「……化け物が」
「褒め言葉として受け取っとく」
ゼノが戦斧を横へ払いのける。
ヴァルガの巨体が大きく崩れた。
次の瞬間には、ゼノの拳が腹へめり込んでいた。
「がっ――!」
ヴァルガの身体が浮く。
そのまま数メートル後方まで飛ばされ、石畳を転がった。
頭領が倒れた。
誰も声を出さなかった。
四幹部も敗れた。
そして、絶対に負けないと思われていたヴァルガまで、たった一撃で地面へ転がされた。
広場を埋め尽くしていた《ブラッドホーン》の兵士たちから、戦意が急速に消えていく。
ゼノは倒れたヴァルガではなく、その兵士たちを見た。
数十人。
まだ武器を持っている。
だが、誰一人として前へ出ようとはしない。
「何してんだ?」
ゼノの声に、兵士たちが身構える。
「お前らの頭が負けたぞ」
返事はない。
「仇を討つか?」
何人かが武器を握り直す。
それでも足は前へ出なかった。
ゼノは少し笑う。
「別に責めてねえよ」
兵士たちの顔を一人ずつ見る。
「そいつについてたのは、そいつが一番強かったからだろ?」
何人かの表情が動いた。
「人間に踏みつけられて、奪われて、二度と同じ目に遭いたくねえから力を選んだ。強い奴について、今度は自分たちが上に立った」
ゼノはヴァルガへ視線を向ける。
「だったら簡単じゃねえか」
もう一度、兵士たちを見る。
「もっと強い奴について来いよ」
ざわめきが広がった。
「お前らが弱かったんじゃねえ。ついてた奴が弱かっただけだ」
ヴァルガが地面に手をつき、苦しそうに顔を上げる。
「……何を、勝手なことを……」
「じゃあ止めろよ」
ゼノが笑う。
「俺より強いならな」
ヴァルガは何も言えなかった。
ゼノは兵士たちへ両手を広げる。
「俺はお前らに、人間と仲良くしろなんて言わねえ。恨むなとも言わねえ。今まで奪われた分を忘れろとも言わねえ」
その言葉に、兵士たちが顔を上げ始める。
「強くなりたいなら、強くなれ。奪われたくねえなら、奪われないだけの力を持て。それで上に立ちたいってんなら、俺が一番上まで連れてってやる」
兵士の一人が尋ねた。
「……俺たちを、使うつもりか?」
「当たり前だろ」
ゼノは即答した。
「使えねえ奴ならいらねえ」
兵士の顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かぶ。
だが、ゼノは続けた。
「でも使える奴なら、いくらでも使う。お前らが何の種族だろうが、昔何されてようが知ったことじゃねえ。強くて役に立つなら、それでいい」
沈黙の中で、一人の兵士が武器を下ろした。
続いて、もう一人。
やがて広場のあちこちで剣や槍が下がっていく。
ヴァルガがその光景を見て、歯を食いしばった。
ゼノはそんな頭領の前まで歩いていく。
「お前もだ」
「……何?」
「強い奴は好きだぜ」
ゼノは手を差し出した。
「負けたから終わりじゃねえだろ。今までより強い奴について来りゃいい」
ヴァルガは差し出された手を睨んだ。
しばらく何も言わない。
その後ろでは、ラディスがゆっくりと身体を起こし、ドーガンも壁から離れようとしている。カイルドは頭を押さえ、ネリスも結界から解放されていた。
四人とも、ゼノを見ていた。
やがてヴァルガが低く笑う。
「……負けた相手に頭を下げるなんざ、死んでも御免だと思ってた」
「なら下げなくていい」
「は?」
「立ってついて来い」
ヴァルガがゼノを見る。
そして、初めて笑った。
「本当に勝手な野郎だな」
「よく言われる」
ヴァルガは差し出された手を掴んだ。
その瞬間、広場にいた兵士たちの空気が変わった。
頭領が認めた。
四幹部も、もはや武器を向けてはいない。
長く《ブラッドホーン》として街を支配してきた集団が、そのまま別の強者の下へ組み込まれていく。
ゼノは周囲を見渡した。
ミレイア。
ライル。
エレナ。
ヴィオラ。
これまでは一人ずつだった。
だが今、その後ろには数十人の武装した兵士がいる。
指揮官がいて、部隊があり、戦うための組織がある。
ゼノの口元が大きく上がった。
「これでようやく、“軍隊”って呼べるな」
誰も知らない場所で。
ゼノ・グレイヴという男の勢力は、また一つ大きくなっていた。
今回の異世界マーケティングは、「ブランドは、勝敗だけでは作られない」です。
今回の勝者は、レオン・ヴァレインでした。
《灰色の翼》は敗北しています。
それでも王都側の報告には、何度も《灰色の翼》の名前が登場しました。
危険に巻き込まれた冒険者を助けた。
そのせいで遅れても、諦めずに追いついた。
決められた道にこだわらず、別の方法を見つけた。
《九牙》の一人を相手に、無傷では帰さなかった仲間もいた。
一つ一つだけを見れば、それだけで勝敗が覆るような出来事ではありません。
けれど、その積み重ねによって、
「《灰色の翼》なら、次の仕事も任せてみたい」
という評価が生まれました。
これは、企業や商品の「ブランド」にも少し似ています。
ブランドというと、名前やロゴ、知名度を思い浮かべがちですが、本当に価値を作るのは、相手と接する一つ一つの体験です。
商品を買った時。
問い合わせをした時。
トラブルが起きた時。
約束を守ってくれた時。
そうした小さな接点が積み重なって、
「ここなら安心できる」
「また頼みたい」
という信頼に変わっていきます。
《灰色の翼》も、最初から自分たちを売り込もうとしていたわけではありません。
目の前で助けを求める人がいたから助けた。
負けそうだったから、最後まで考えた。
ただ、自分たちらしく行動した。
その結果、《灰色の翼》という名前そのものに、少しずつ価値が生まれ始めています。
勝負には負けた。
でも、名前は残った。
そして今度は、その名前を聞いて《九牙》の少年まで会いに来る。
ブランドは、自分で「すごい」と言って作るものではありません。
「あそこなら」と、誰かに思ってもらった時に、少しずつ作られていくものなのかもしれません。
次回もよろしくお願いします。




