第二十一話 剣聖アルベルト・クロイツ
《灰色の翼》は、レオンを追って旧砦の上層を駆けていた。
救助に使った時間は大きい。石段を上り、回廊を抜けても、大剣を背負った男の姿はまだ見えなかった。
「本当に遠慮ってものを知らないわね、あの男」
セラが走りながらぼやく。
「競争だからな」
「分かってるわよ。だから余計に腹立つの」
ガルドは前方を見たまま短く言った。
「かなり離された」
「急ごう」
ノアたちは速度を落とさない。中央塔は、もうかなり近くまで迫っていた。
◇ ◇ ◇
上層へ続く広い石造りの回廊へ出たところで、リゼットが突然足を止めた。
「……待って」
前方に数人の冒険者がいる。全員が《黄金獅子》の紋章を身につけ、その中心には一人の黒髪の男が立っていた。
派手な鎧ではない。腰にあるのも、ごく普通に見える長剣だった。
だが、リゼットの表情だけがすぐに変わった。
「どうした?」
「……隙がない」
男は剣すら抜いていない。ただ自然に立っているだけなのに、どの方向から踏み込んでも、その瞬間に斬られるような感覚があった。
重心も、視線も、手の位置も、あまりにも自然だった。剣士だからこそ分かる。余計なものが、徹底的に削ぎ落とされている。
黒髪の男もこちらへ気づいた。
「《白樫の枝》か」
後ろにいた黄金獅子の冒険者たちが、それぞれ武器へ手を伸ばす。
リゼットは迷わず剣を抜いた。
「みんなは先に行って!」
「リゼット?」
「ここは私が引き受ける!」
フィーネが目を見開いた。
「でも、一人で――」
「レオンを追わないと間に合わない!」
リゼットの視線は黒髪の男から離れない。
ノアはその横顔を見る。仲間を先へ進ませるため。それもある。
だが、それだけではない。
剣を握るリゼットの目には、強い相手と向き合った剣士特有の熱が宿っていた。
「……分かった」
「ノアさん!?」
「行こう」
ノアが走り出す。セラとフィーネ、ガルドも一瞬だけリゼットを見て、その後に続いた。
「待て!」
黄金獅子の一人が追おうとする。
「手を出すな」
黒髪の男の一言で、全員が止まった。
「ここは俺がやる」
それだけで、部下たちは武器から手を離した。
ノアたち四人が通路の奥へ消えていく。
黒髪の男は、ようやく剣を抜いた。
「一つ聞いていいか」
「何?」
「お前、俺が《黄金獅子》の《九牙》――《剣聖》だと知って挑んでるのか?」
「知らない」
即答だった。
男が僅かに眉を上げる。
「でも、あなたが強いのは分かる」
数秒の沈黙のあと、男は少し楽しそうに笑った。
「そうか。アルベルト・クロイツ」
長剣を構える。さっきまであった僅かな緩さが、その姿から消えた。
「来いよ、お嬢ちゃん」
リゼットが踏み込んだ。
◇ ◇ ◇
剣と剣が激突した。
硬い金属音が回廊へ響く。
リゼットは間髪入れず二撃、三撃と繋げる。アルベルトは大きく動かない。最小限の足運びと剣の角度だけで、一つずつ正確に受け流していく。
速いわけではない。重いわけでもない。
ただ、すべてが正しい。
「っ!」
リゼットが剣筋を変えた。下から斬り上げ、返す刃で首筋を狙う。
アルベルトは半歩だけ下がり、紙一重でかわす。そのまま剣先が返ってきた。
リゼットも身体を沈めて避ける。髪が数本、宙を舞った。
「やるな」
「そっちこそ」
次の瞬間には、また剣がぶつかっている。
横薙ぎ。受け。踏み込み。返し。
剣閃が何度も交差した。
アルベルトが一歩前へ出る。リゼットは押されながらも剣を滑らせ、その力を横へ逃がす。すぐに懐へ踏み込み、脇腹へ斬撃を返した。
アルベルトの外套が僅かに裂ける。
後ろで見守っていた黄金獅子の冒険者たちがざわめいた。
「アルベルトさんの服を……」
「あの女、何者だ?」
だが、リゼット本人には分かっていた。
届いていない。
今の一撃も、アルベルトが本気で避けようと思えば避けられた。こちらは一手ごとに考え、身体を動かしている。
対して相手は、最初からそこに答えがあるかのように剣を置いてくる。
アルベルトの突き。リゼットが弾く。その瞬間、剣の角度が変わった。
「――っ!」
横から返された刃を寸前で受け止める。身体ごと押し戻され、靴底が石床を滑った。
「まだ行けるか?」
「もちろん」
「いいねえ」
アルベルトの笑みが少しだけ濃くなる。
「久しぶりに面白い剣だ」
リゼットは息を整えた。
嬉しい言葉のはずだった。だが今は、それ以上に悔しい。
通常の剣技だけでは、少しずつ押し込まれている。
このままでは勝てない。
なら。
リゼットは一度、大きく距離を取った。
アルベルトが追わずに待つ。
カチャ、と小さな音がした。
「……?」
リゼットが肩当ての留め具を外した。
片方。もう片方。
腕を覆っていた装甲も外していく。
金属が石床へ落ち、重い音を響かせた。
黄金獅子の冒険者たちが顔を見合わせる。
「鎧を……?」
「何をする気だ?」
アルベルトも初めて僅かに眉を寄せた。
「防具を外してどうする」
リゼットは軽くなった肩を回し、剣を構え直した。
「もっと速くなる」
アルベルトの目が細くなる。
空気が変わった。
リゼットが腰を落とす。
踏み込む。
次の瞬間、姿が消えた。
「――っ!?」
甲高い金属音。
アルベルトの身体が初めて大きく揺れた。
リゼットはすでに背後へ抜けている。アルベルトの外套には一本の裂け目が走っていた。
「……見えなかった」
黄金獅子の一人が呟く。
神速。
防御を捨て、身軽さだけを追求したリゼットの切り札。
二撃目。
アルベルトが振り返るより早く、剣が肩口へ迫る。
「くっ!」
辛うじて受ける。
リゼットはそのまま走り抜け、反転した。
三撃目。四撃目。
アルベルトが守りに回る。
剣聖と呼ばれた男が、リゼットの速度を追うためだけに剣を振っていた。
黄金獅子の冒険者たちが息を呑む。
「押してる……」
「アルベルトさんを?」
リゼット自身も感じていた。
通じる。
この速さなら。
この神速なら。
「はあっ!」
五度目。
アルベルトが大きく剣を合わせる。
火花が散った。
リゼットはすぐに離れる。
「……すげえな」
アルベルトが小さく息を吐いた。
もう笑ってはいない。
六度目。
リゼットが地面を蹴る。
だが今度は、踏み込んだ先にすでに剣があった。
「――っ!」
反射的に剣を合わせる。
大きく弾かれた。
リゼットの目が揺れる。
もう一度。今度は右から。
それでも、アルベルトの剣はすでにそこへ置かれていた。
「速い」
剣が激突する。
「とんでもなく速い」
アルベルトが押し返す。
「でも――踏み込んだ後が真っ直ぐすぎる」
リゼットが息を呑んだ。
「最初は見えなかった。でも、何度か見りゃ分かる」
アルベルトは静かに剣を構える。
「来る場所に、先に剣を置けばいい」
そんな。
リゼットは奥歯を噛んだ。
神速は、自分がようやく手にした切り札だった。防御を捨てる危険を背負ってでも、それだけの価値があると思っていた。
誰にも追いつけない。誰にも捉えられない。そう信じていた。
なのに。
この人には通じない。
いや。
見えているわけじゃない。
来る場所を読まれている。
「――まだ!」
地面を蹴る。
神速。
今度は右から入る。
アルベルトの剣が待っていた。
弾かれる。
なら左。
もう一度。
また止められた。
「くっ……!」
そんな。
絶対の自信があった神速なのに。
このスピードが通用しない相手がいるなんて。
もっと速く?
違う。
来る場所を先に読まれていたら、どれだけ速くなっても同じだ。
アルベルトが剣を構える。
リゼットも剣を握り直した。
直線的な動きが駄目なら――。
途中で、変えればいい。
再び踏み込む。
神速。
アルベルトの剣が、予測した場所へ動く。
その直前、リゼットは右脚へ力を集中させた。
「――っ!」
本来なら真っ直ぐ抜けるはずの身体を、脚力だけで強引に横へ捻じ曲げる。
膝と足首に鋭い痛みが走った。
それでも軌道は変わった。
「なっ――!?」
初めて、アルベルトの剣が空を切る。
リゼットの剣が肩を掠めた。
布が裂け、血が飛ぶ。
アルベルトが数歩下がった。
黄金獅子の冒険者たちが息を呑む。
「……マジか」
アルベルトが自分の肩を見る。
リゼットは着地した。
「っ……」
右脚に鈍い痛みが走る。
だが、今はどうでもいい。
通じた。
なら、もう一度。
再び神速へ入る。
今度は左へ切り返す。
アルベルトがぎりぎりで剣を合わせた。
リゼットは止まらない。
次は勢いを脚だけで無理やり殺し、一瞬だけ停止して逆方向へ再び踏み込む。
「おい……」
アルベルトの表情が変わった。
リゼットの脚は、着地のたびに震えている。
それでも本人は止まらない。
もう一度。
さらにもう一度。
直線だった神速に、強引な揺らぎが生まれていく。
アルベルトの頬にも薄い傷が走った。
「……面白え」
だが、その声にはもう楽しさだけではなかった。
リゼットは最後の踏み込みへ入る。
脚が悲鳴を上げる。
それでも無視した。
神速。
アルベルトが到達点を読む。
リゼットが途中で軌道を変える。
さらにもう一度、脚力だけで切り返した。
「――っ!」
完全に予測を外した。
リゼットの剣が迫る。
届く。
今度こそ。
アルベルトは一瞬だけ目を見開いた。
そして。
避けなかった。
「――!?」
リゼットの剣が、アルベルトの肩口へ食い込む。
血が飛んだ。
それでもアルベルトは一歩前へ踏み込む。
自分が斬られることを承知で。
「悪いな!」
至近距離から振り上げられた剣が、リゼットの剣を強烈に叩いた。
指が開く。
剣が宙を舞った。
リゼットの身体も体勢を崩し、石床へ片膝をつく。
目の前に、アルベルトの剣先が止まった。
勝負は決まっていた。
静寂の中、リゼットは悔しそうにアルベルトを見上げる。
アルベルトは自分の肩へ視線を落とした。
決して浅くはない傷から、血が流れている。
「……参ったな」
剣を下ろす。
「最後のは、まともに受けてたら危なかった」
「だったら……」
「ああ」
アルベルトは笑った。
「俺が避けるのをやめた」
リゼットが唇を噛む。
「お嬢ちゃんの剣技、そのスピード。大したもんだ」
アルベルトの声に、もう軽さはなかった。
「あんたは必ず、もっと強くなる」
その視線が、リゼットの脚へ落ちる。
「だが、最後のあれは駄目だ」
「……」
「防御を捨てた、あの馬鹿みたいに速いのもどうかと思うが……最後の強引な切り返しはもっと駄目だ」
リゼットの右脚が、小さく震えていた。
「脚、相当ダメージが掛かってるはずだぜ」
「……まだ、動ける」
「意地張んな」
アルベルトは苦笑した。
「あの速度のまま、脚力だけで無理やり軌道を変えてやがったんだ。あのまま続けてたら、お嬢ちゃんの身体が壊れちまうところだったぜ」
リゼットは何も言えなかった。
アルベルトが背を向ける。
「急ぐことはねー」
待っていた黄金獅子の仲間たちのもとへ歩きながら、片手を上げた。
「ゆっくり上がってきな!」
黄金獅子の一行が、上層へ向かって去っていく。
その背中を、リゼットは見つめていた。
やがて剣を拾おうと手を伸ばす。
「……っ」
脚に力が入らない。
立とうとしても、膝が震えた。
アルベルトの言う通りだった。
戦っている間は意地だけで動かしていた。だが、もう身体は限界を超えている。
そのまま糸が切れたように、石床へ倒れ込む。
届かなかった。
神速を使っても。
自分なりに、その弱点を変えようとしても。
「……もっと……」
小さな声が漏れた。
やがて意識が遠のいていく。
倒れたリゼットの頬を、一筋の涙が静かに伝った。
◇ ◇ ◇
その頃。
ノア、セラ、フィーネ、ガルドの四人は、旧砦の最上層へ辿り着いていた。
「……ここが最後?」
フィーネが息を整えながら前を見る。
そこには、これまでとはまるで違う景色が広がっていた。
巨大な円形の上層区画。
その中央には、空へ突き出すような細長い指揮塔がそびえている。
だが塔の周囲には深い空間があり、こちら側から直接渡ることはできない。
「橋は?」
セラが周囲を見渡す。
「あそこだ」
ガルドが指差した。
四人が上がってきた階段を円の頂点とするなら、橋は完全に反対側だった。
右へ進んでも左へ進んでも、中央塔へ渡るには円形通路を半周しなければならない。
「……いた!」
フィーネが声を上げる。
遥か向こう。
円形通路を進む、一人の男。
巨大な大剣を背負った背中だった。
「レオン……!」
ようやく捉えた。
だが、レオンはすでに橋のすぐ近くまで進んでいる。
「そんな……あんな先じゃ、もう……」
フィーネの顔から血の気が引く。
ガルドは右を見て、次に左を見た。
「どっちから進んでも、距離は変わらなそうだな」
セラが唇を噛む。
ノアは、遠くに見えるレオンの背中を見つめた。
追い続けてきた。
ようやく視界に捉えた。
しかし、その距離は、走って埋められるようなものではなかった。
◇ ◇ ◇
ノアたちがいる大陸から、遥か海を隔てた別大陸。
その西部に広がるレインフォード侯爵領――城下町。
街道と農地に恵まれ、周辺の村々を束ねるこの地方都市は、代々レインフォード家が治めてきた。
ヴィオラ・レインフォードは、昔から「悪役令嬢」と呼ばれやすい女だった。
淡い桜色の髪を肩のあたりで整えた、華やかな美貌の侯爵令嬢。誰が見ても目を引く容姿をしている。だが、その立ち姿は常に凛としており、言葉も態度も一切崩さない。
侯爵令嬢としての品位を守ること。それがヴィオラの矜持だった。
けれど、その誇り高さは、ときに「冷たい」「高圧的」「近寄りがたい」と受け取られる。本人にそのつもりがなくとも、柔らかく甘えることのできない彼女は、自然と誤解を招きやすかった。
「エドガー様、今日は少しお疲れではありません?」
「分かるか?」
「顔を見れば分かりますわ」
「さすがだな」
「婚約者ですもの」
エドガーが笑う。それだけで、ヴィオラの口元も僅かに緩んだ。
「でしたら、今日は早めにお休みくださいませ。明日の朝も早いのでしょう?」
「分かったよ。お前は相変わらず細かいな」
「誰のためだと思っていますの」
少し拗ねたように返しながらも、その声はどこか柔らかかった。
最近、そんなエドガーがリリアにもよく声をかけていることに、ヴィオラは一抹の不安を覚えていた。
平民出身のリリアは明るく、人懐こい。ある日の昼下がりも、数人の貴族令嬢に囲まれながら、身分の違いなど感じさせないほど自然に笑っていた。
その輪を少し離れた場所から眺め、ヴィオラは小さく呟く。
「……私も、あの子のように振る舞えたら……違ったのでしょうか」
けれど、今さら自分ではない誰かのように振る舞うことなどできない。
リリアに対しても、ヴィオラは変わらず凛と接した。
そして、いつからか学院では妙な噂が流れ始めた。
――ヴィオラがリリアをいじめている。
――婚約者を奪われそうになり、陰で嫌がらせをしている。
誰が言い始めたのかは分からない。はっきりした証拠もなかった。それでも噂は尾ひれをつけながら広がり、いつしか「悪役令嬢ヴィオラならやりかねない」という空気が出来上がっていた。
◇ ◇ ◇
それが決定的な形になったのは、大勢の貴族子弟が集まる祝宴だった。
「ヴィオラ・レインフォード。本日をもって、お前との婚約を破棄する」
会場がざわめく。
エドガーの隣には、涙を浮かべたリリアがいた。
「リリアへの度重なる嫌がらせ。そして毒殺未遂。これ以上、お前の行いを見過ごすことはできない」
「……していませんわ」
「証拠がある」
「その証拠を、本当に確かめなさいましたの?」
「まだ言い逃れをするのか!」
エドガーの怒声が響く。
「私は何もしていません。せめて私の話を――」
「触るな!」
伸ばした手を強く振り払われた。
「お前みたいな女を婚約者にしていたことが、俺の人生最大の汚点だ」
ヴィオラの顔から表情が消えた。
それでも最後に、父を見る。
「お父様。私を信じてください」
乾いた音が響いた。
頬が熱い。
父に、叩かれた。
「黙れ。これ以上、レインフォード家の名を汚すな」
「私は……」
「お前の言葉など聞きたくない」
父は娘の顔すら見ようとしなかった。
「今日から、お前は私の娘ではない」
誰も庇わなかった。
兵士に腕を取られ、広間から連れ出される。
その途中、リリアとすれ違った。
「……可哀想」
涙を浮かべたまま、彼女はヴィオラにだけ聞こえる声で囁いた。
「本当に、何も残らなくなっちゃったね」
ヴィオラは初めて、真正面からリリアを見た。
◇ ◇ ◇
数日後。
処刑を免れたことは「温情」とされ、ヴィオラは侯爵家から追放された。
小さな鞄だけを持ち、人気のない街道を歩いていると、道端の木にもたれていた青年が声をかけてきた。
「ひでえ目に遭ったな」
「……どなたですの?」
「ゼノ」
「何の御用です?」
「別に。全部見てただけ」
ヴィオラの足が止まる。
「婚約破棄されたところから、親父にぶん殴られて捨てられるところまでな」
ゼノは笑った。
「毒なんか盛ってねえんだろ?」
ヴィオラは答えなかった。
ゼノも答えを求めなかった。
「なら簡単じゃねえか」
手を差し出す。
「お前を捨てたこと、死ぬほど後悔させろ」
ヴィオラはその手を見つめた。
「……できますの?」
「俺様がいる」
迷いのない即答だった。
「やるか?」
少しだけ沈黙してから、ヴィオラはその手を取った。
「……ええ」
赤黒い魔力が身体を包む。
押し殺していた怒りも、屈辱も、悔しさも。今まで侯爵令嬢として胸の奥へ閉じ込めていた感情が、一気に解き放たれていく。
その力は、ヴィオラの本質を塗り替えるのではなかった。むしろ、元から持っていた高貴さと誇りを、より鮮烈に研ぎ澄ませていく。
肩先で揺れていた淡い桜色の髪には深紅の薔薇飾りが添えられ、令嬢の衣装は黒と薔薇色を基調とした豪奢なドレスへ変わった。幾重にも重なる花弁のような布地。繊細でありながら支配者めいた気品を纏うその姿は、妖艶というより、まるで薔薇の女王そのものだった。
さらに、その手には一本の杖が現れる。深紅の宝石と薔薇の意匠で飾られた、美しくも威圧感のある杖だった。
ヴィオラは自分の手を見つめる。
「……これが、私」
「悪くねえじゃん」
ゼノが笑う。
ヴィオラも、ゆっくり顔を上げた。
「ゼノ様」
◇ ◇ ◇
さらに数日後。
エドガーの家では、リリアとの新たな婚約を披露する宴が開かれていた。
その最中、広間の扉が開く。
「……ヴィオラ?」
ざわめきが、会場を走った。
立っていたのはヴィオラだった。肩口で揺れる桜色の髪には深紅の薔薇。黒と薔薇色を幾重にも重ねたドレスは、かつての侯爵令嬢としての面影を残しながら、以前とは比べものにならないほど強い存在感を放っている。
その右手には、薔薇の意匠が絡みつく杖。
可憐さは消えていない。だが今のヴィオラから漂うのは、守られる令嬢の気配ではなく、場そのものを支配する女王の気配だった。
エドガーが立ち上がり、リリアの顔から血の気が引く。
「自分の汚名くらい、自分で晴らしに参りましたの」
ヴィオラが卓上へ書類を置いた。
毒の購入記録。買収された使用人の証言。そしてリリア側の供述に残った矛盾。
どれも、事前にライルたちへ集めさせていた証拠だった。
「違う!」
真っ先に叫んだのはリリアだった。
「そんなの嘘よ!」
「リリア様に頼まれました!」
使用人の一人が泣きながら声を上げる。
「何を言ってるの!?」
「もう無理です! 全部話します!」
「黙りなさい!!」
今までの愛らしい表情が一瞬で崩れた。
「全部あんたがやったことでしょ!」
「私は知らない!」
「嘘つくな!」
互いに責任を押しつけ始めたことで、ヴィオラを罪人にした筋書きは呆気なく崩れていった。
やがて衛兵がリリアへ近づく。
「嫌……待って……」
リリアはエドガーの腕へ縋りついた。
「助けて! お願い、私を信じて! 好きって言ったじゃない! 私と結婚するって言ったじゃない!」
エドガーは何も言えなかった。
「捨てないで!!」
今度はヴィオラへ手を伸ばす。
「ヴィオラ! お願い! 助けて! 何でもするから、許して!」
ヴィオラはただ静かに見ていた。
「嫌! 待って! ヴィオラぁぁぁ!!」
リリアの叫び声が、衛兵に引きずられながら遠ざかっていった。
「ヴィオラ……」
次にエドガーが近づいてくる。
「俺が間違っていた。戻ってきてくれ」
ヴィオラは何も言わない。
「婚約だって戻す。いや、すぐにでも結婚しよう。何でもするから……行かないでくれ」
差し出された手を、ヴィオラは一歩下がって避けた。
「待ってくれ……俺を捨てないでくれ」
その姿にも、もう胸は動かなかった。
「ヴィオラ!」
今度は父親の声が飛んだ。
彼もこの宴へ招かれていた。
「戻ってこい。お前はレインフォード家の娘だ!」
追放からまだ数日しか経っていない。それでも屋敷では、忘れられた面会、重なった招待、届かなかった礼状が小さな揉め事を起こし始めていた。
これまで誰が、そんな細かな綻びを人知れず防いでいたのか。
父もようやく気づき始めていた。
「すまなかった。頼む、戻ってきてくれ」
ヴィオラは答えず、踵を返した。
「待て!」
父の顔が歪む。
「兵を出せ! 取り押さえろ!」
控えていた兵士たちが、一斉にヴィオラへ向かう。
ヴィオラは足を止め、振り返った。
杖が静かに持ち上がる。
次の瞬間、濃密な薔薇色の魔力が広間に咲き広がった。
「――っ!?」
轟音とともに、兵士たちがまとめて吹き飛んだ。
剣が宙を舞い、何人もの身体が床を転がる。壁際まで弾き飛ばされた兵士たちは、誰一人として立ち上がれなかった。
静まり返った会場で、ヴィオラはただ杖を下ろした。
もう、自分には力がある。
そして出口には、腕を組んだゼノが立っていた。
ヴィオラは迷うことなく、その隣へ歩いていく。
「参りましょう、ゼノ様」
「ああ」
もう振り返らなかった。
力もある。
支えてくれる王子様もいる。
こんな場所に、もう用はなかった。
◇ ◇ ◇
屋敷を離れてしばらくすると、エレナが後ろを振り返った。
「ゼノ様。もっと派手に壊してしまうのかと思っていました」
「それじゃ意味ねえだろ」
ゼノは軽く笑った。
「あいつの心を晴らすのは、ただ全部ぶっ壊すことじゃねえ。ちゃんと欲しいもんを叶えてやらねえとな」
ヴィオラが僅かに顔を上げた。
ライルが続ける。
「じゃあ、あそこはそのまま残すのか?」
「使えるもんまで壊したら、もったいねえだろ」
ゼノは遠くに広がる領地へ目を向けた。
「それに――あいつらには、まだまだ長生きしてもらわねえとな」
「何する気だよ」
「そのうち分かる」
ゼノは楽しそうに笑った。
「死んだ方が楽だったって思うかもしれねえけどな」
その後ろを、ヴィオラは迷うことなく追っていった。
今回の異世界マーケティングは、「コア・リジディティ(Core Rigidity)」です。
コア・リジディティとは、企業の強みであるコア・コンピタンスが、逆に変化や成長を妨げる“硬直性”へ変わってしまう状態を指します。
リゼットにとって《神速》は、間違いなく最大の武器です。
しかし圧倒的な速さを持つ一方で、
直線的になりやすく、見切られれば先を読まれる。
さらに、その弱点を脚力だけで強引に補おうとすれば、今度は身体そのものが壊れてしまう。
強みがあることと、その強みだけで勝ち続けられることは同じではありません。
ビジネスでも、過去に成功した商品、技術、営業方法、組織文化ほど、
「これで今まで勝てた」という経験によって変化しにくくなることがあります。
なお、リゼット自身がマーケティング理論を考えているわけではありません。
人が自分の強みと限界に向き合い、次の答えを探そうとする行動を、
現代のビジネス理論で見ればこう説明できる、という今回のテーマです。
最大の武器に、初めて明確な弱点が見えたリゼット。
この敗北が、次の強さへ繋がっていきます。
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