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『異世界マーケティング ~剣も魔法も使えない俺は、勝てる仕組みで仲間を最強にする~』  作者: ポチ
黄金獅子編

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第二十一話 剣聖アルベルト・クロイツ

 《灰色の翼》は、レオンを追って旧砦の上層を駆けていた。


 救助に使った時間は大きい。石段を上り、回廊を抜けても、大剣を背負った男の姿はまだ見えなかった。


「本当に遠慮ってものを知らないわね、あの男」


 セラが走りながらぼやく。


「競争だからな」


「分かってるわよ。だから余計に腹立つの」


 ガルドは前方を見たまま短く言った。


「かなり離された」


「急ごう」


 ノアたちは速度を落とさない。中央塔は、もうかなり近くまで迫っていた。



     ◇ ◇ ◇



 上層へ続く広い石造りの回廊へ出たところで、リゼットが突然足を止めた。


「……待って」


 前方に数人の冒険者がいる。全員が《黄金獅子》の紋章を身につけ、その中心には一人の黒髪の男が立っていた。


 派手な鎧ではない。腰にあるのも、ごく普通に見える長剣だった。


 だが、リゼットの表情だけがすぐに変わった。


「どうした?」


「……隙がない」


 男は剣すら抜いていない。ただ自然に立っているだけなのに、どの方向から踏み込んでも、その瞬間に斬られるような感覚があった。


 重心も、視線も、手の位置も、あまりにも自然だった。剣士だからこそ分かる。余計なものが、徹底的に削ぎ落とされている。


 黒髪の男もこちらへ気づいた。


「《白樫の枝》か」


 後ろにいた黄金獅子の冒険者たちが、それぞれ武器へ手を伸ばす。


 リゼットは迷わず剣を抜いた。


「みんなは先に行って!」


「リゼット?」


「ここは私が引き受ける!」


 フィーネが目を見開いた。


「でも、一人で――」


「レオンを追わないと間に合わない!」


 リゼットの視線は黒髪の男から離れない。


 ノアはその横顔を見る。仲間を先へ進ませるため。それもある。


 だが、それだけではない。


 剣を握るリゼットの目には、強い相手と向き合った剣士特有の熱が宿っていた。


「……分かった」


「ノアさん!?」


「行こう」


 ノアが走り出す。セラとフィーネ、ガルドも一瞬だけリゼットを見て、その後に続いた。


「待て!」


 黄金獅子の一人が追おうとする。


「手を出すな」


 黒髪の男の一言で、全員が止まった。


「ここは俺がやる」


 それだけで、部下たちは武器から手を離した。


 ノアたち四人が通路の奥へ消えていく。


 黒髪の男は、ようやく剣を抜いた。


「一つ聞いていいか」


「何?」


「お前、俺が《黄金獅子》の《九牙》――《剣聖》だと知って挑んでるのか?」


「知らない」


 即答だった。


 男が僅かに眉を上げる。


「でも、あなたが強いのは分かる」


 数秒の沈黙のあと、男は少し楽しそうに笑った。


「そうか。アルベルト・クロイツ」


 長剣を構える。さっきまであった僅かな緩さが、その姿から消えた。


「来いよ、お嬢ちゃん」


 リゼットが踏み込んだ。



     ◇ ◇ ◇



 剣と剣が激突した。


 硬い金属音が回廊へ響く。


 リゼットは間髪入れず二撃、三撃と繋げる。アルベルトは大きく動かない。最小限の足運びと剣の角度だけで、一つずつ正確に受け流していく。


 速いわけではない。重いわけでもない。


 ただ、すべてが正しい。


挿絵(By みてみん)


「っ!」


 リゼットが剣筋を変えた。下から斬り上げ、返す刃で首筋を狙う。


 アルベルトは半歩だけ下がり、紙一重でかわす。そのまま剣先が返ってきた。


 リゼットも身体を沈めて避ける。髪が数本、宙を舞った。


「やるな」


「そっちこそ」


 次の瞬間には、また剣がぶつかっている。


 横薙ぎ。受け。踏み込み。返し。


 剣閃が何度も交差した。


 アルベルトが一歩前へ出る。リゼットは押されながらも剣を滑らせ、その力を横へ逃がす。すぐに懐へ踏み込み、脇腹へ斬撃を返した。


 アルベルトの外套が僅かに裂ける。


 後ろで見守っていた黄金獅子の冒険者たちがざわめいた。


「アルベルトさんの服を……」


「あの女、何者だ?」


 だが、リゼット本人には分かっていた。


 届いていない。


 今の一撃も、アルベルトが本気で避けようと思えば避けられた。こちらは一手ごとに考え、身体を動かしている。


 対して相手は、最初からそこに答えがあるかのように剣を置いてくる。


 アルベルトの突き。リゼットが弾く。その瞬間、剣の角度が変わった。


「――っ!」


 横から返された刃を寸前で受け止める。身体ごと押し戻され、靴底が石床を滑った。


「まだ行けるか?」


「もちろん」


「いいねえ」


 アルベルトの笑みが少しだけ濃くなる。


「久しぶりに面白い剣だ」


 リゼットは息を整えた。


 嬉しい言葉のはずだった。だが今は、それ以上に悔しい。


 通常の剣技だけでは、少しずつ押し込まれている。


 このままでは勝てない。


 なら。


 リゼットは一度、大きく距離を取った。


 アルベルトが追わずに待つ。


 カチャ、と小さな音がした。


「……?」


 リゼットが肩当ての留め具を外した。


 片方。もう片方。


 腕を覆っていた装甲も外していく。


 金属が石床へ落ち、重い音を響かせた。


 黄金獅子の冒険者たちが顔を見合わせる。


「鎧を……?」


「何をする気だ?」


 アルベルトも初めて僅かに眉を寄せた。


「防具を外してどうする」


 リゼットは軽くなった肩を回し、剣を構え直した。


「もっと速くなる」


 アルベルトの目が細くなる。


 空気が変わった。


 リゼットが腰を落とす。


 踏み込む。


 次の瞬間、姿が消えた。


「――っ!?」


 甲高い金属音。


 アルベルトの身体が初めて大きく揺れた。


 リゼットはすでに背後へ抜けている。アルベルトの外套には一本の裂け目が走っていた。


「……見えなかった」


 黄金獅子の一人が呟く。


 神速。


 防御を捨て、身軽さだけを追求したリゼットの切り札。


 二撃目。


 アルベルトが振り返るより早く、剣が肩口へ迫る。


「くっ!」


 辛うじて受ける。


 リゼットはそのまま走り抜け、反転した。


 三撃目。四撃目。


 アルベルトが守りに回る。


 剣聖と呼ばれた男が、リゼットの速度を追うためだけに剣を振っていた。


 黄金獅子の冒険者たちが息を呑む。


「押してる……」


「アルベルトさんを?」


 リゼット自身も感じていた。


 通じる。


 この速さなら。


 この神速なら。


「はあっ!」


 五度目。


 アルベルトが大きく剣を合わせる。


 火花が散った。


 リゼットはすぐに離れる。


「……すげえな」


 アルベルトが小さく息を吐いた。


 もう笑ってはいない。


 六度目。


 リゼットが地面を蹴る。


 だが今度は、踏み込んだ先にすでに剣があった。


「――っ!」


 反射的に剣を合わせる。


 大きく弾かれた。


 リゼットの目が揺れる。


 もう一度。今度は右から。


 それでも、アルベルトの剣はすでにそこへ置かれていた。


「速い」


 剣が激突する。


「とんでもなく速い」


 アルベルトが押し返す。


「でも――踏み込んだ後が真っ直ぐすぎる」


 リゼットが息を呑んだ。


「最初は見えなかった。でも、何度か見りゃ分かる」


 アルベルトは静かに剣を構える。


「来る場所に、先に剣を置けばいい」


 そんな。


 リゼットは奥歯を噛んだ。


 神速は、自分がようやく手にした切り札だった。防御を捨てる危険を背負ってでも、それだけの価値があると思っていた。


 誰にも追いつけない。誰にも捉えられない。そう信じていた。


 なのに。


 この人には通じない。


 いや。


 見えているわけじゃない。


 来る場所を読まれている。


「――まだ!」


 地面を蹴る。


 神速。


 今度は右から入る。


 アルベルトの剣が待っていた。


 弾かれる。


 なら左。


 もう一度。


 また止められた。


「くっ……!」


 そんな。


 絶対の自信があった神速なのに。


 このスピードが通用しない相手がいるなんて。


 もっと速く?


 違う。


 来る場所を先に読まれていたら、どれだけ速くなっても同じだ。


 アルベルトが剣を構える。


 リゼットも剣を握り直した。


 直線的な動きが駄目なら――。


 途中で、変えればいい。


 再び踏み込む。


 神速。


 アルベルトの剣が、予測した場所へ動く。


 その直前、リゼットは右脚へ力を集中させた。


「――っ!」


 本来なら真っ直ぐ抜けるはずの身体を、脚力だけで強引に横へ捻じ曲げる。


 膝と足首に鋭い痛みが走った。


 それでも軌道は変わった。


「なっ――!?」


 初めて、アルベルトの剣が空を切る。


 リゼットの剣が肩を掠めた。


 布が裂け、血が飛ぶ。


 アルベルトが数歩下がった。


 黄金獅子の冒険者たちが息を呑む。


「……マジか」


 アルベルトが自分の肩を見る。


 リゼットは着地した。


「っ……」


 右脚に鈍い痛みが走る。


 だが、今はどうでもいい。


 通じた。


 なら、もう一度。


 再び神速へ入る。


 今度は左へ切り返す。


 アルベルトがぎりぎりで剣を合わせた。


 リゼットは止まらない。


 次は勢いを脚だけで無理やり殺し、一瞬だけ停止して逆方向へ再び踏み込む。


「おい……」


 アルベルトの表情が変わった。


 リゼットの脚は、着地のたびに震えている。


 それでも本人は止まらない。


 もう一度。


 さらにもう一度。


 直線だった神速に、強引な揺らぎが生まれていく。


 アルベルトの頬にも薄い傷が走った。


「……面白え」


 だが、その声にはもう楽しさだけではなかった。


 リゼットは最後の踏み込みへ入る。


 脚が悲鳴を上げる。


 それでも無視した。


 神速。


 アルベルトが到達点を読む。


 リゼットが途中で軌道を変える。


 さらにもう一度、脚力だけで切り返した。


「――っ!」


 完全に予測を外した。


 リゼットの剣が迫る。


 届く。


 今度こそ。


 アルベルトは一瞬だけ目を見開いた。


 そして。


 避けなかった。


「――!?」


 リゼットの剣が、アルベルトの肩口へ食い込む。


 血が飛んだ。


 それでもアルベルトは一歩前へ踏み込む。


 自分が斬られることを承知で。


「悪いな!」


 至近距離から振り上げられた剣が、リゼットの剣を強烈に叩いた。


 指が開く。


 剣が宙を舞った。


 リゼットの身体も体勢を崩し、石床へ片膝をつく。


 目の前に、アルベルトの剣先が止まった。


 勝負は決まっていた。


 静寂の中、リゼットは悔しそうにアルベルトを見上げる。


 アルベルトは自分の肩へ視線を落とした。


 決して浅くはない傷から、血が流れている。


「……参ったな」


 剣を下ろす。


「最後のは、まともに受けてたら危なかった」


「だったら……」


「ああ」


 アルベルトは笑った。


「俺が避けるのをやめた」


 リゼットが唇を噛む。


「お嬢ちゃんの剣技、そのスピード。大したもんだ」


 アルベルトの声に、もう軽さはなかった。


「あんたは必ず、もっと強くなる」


 その視線が、リゼットの脚へ落ちる。


「だが、最後のあれは駄目だ」


「……」


「防御を捨てた、あの馬鹿みたいに速いのもどうかと思うが……最後の強引な切り返しはもっと駄目だ」


 リゼットの右脚が、小さく震えていた。


「脚、相当ダメージが掛かってるはずだぜ」


「……まだ、動ける」


「意地張んな」


 アルベルトは苦笑した。


「あの速度のまま、脚力だけで無理やり軌道を変えてやがったんだ。あのまま続けてたら、お嬢ちゃんの身体が壊れちまうところだったぜ」


 リゼットは何も言えなかった。


 アルベルトが背を向ける。


「急ぐことはねー」


 待っていた黄金獅子の仲間たちのもとへ歩きながら、片手を上げた。


「ゆっくり上がってきな!」


 黄金獅子の一行が、上層へ向かって去っていく。


 その背中を、リゼットは見つめていた。


 やがて剣を拾おうと手を伸ばす。


「……っ」


 脚に力が入らない。


 立とうとしても、膝が震えた。


 アルベルトの言う通りだった。


 戦っている間は意地だけで動かしていた。だが、もう身体は限界を超えている。


 そのまま糸が切れたように、石床へ倒れ込む。


 届かなかった。


 神速を使っても。


 自分なりに、その弱点を変えようとしても。


「……もっと……」


 小さな声が漏れた。


 やがて意識が遠のいていく。


 倒れたリゼットの頬を、一筋の涙が静かに伝った。



     ◇ ◇ ◇



 その頃。


 ノア、セラ、フィーネ、ガルドの四人は、旧砦の最上層へ辿り着いていた。


「……ここが最後?」


 フィーネが息を整えながら前を見る。


 そこには、これまでとはまるで違う景色が広がっていた。


 巨大な円形の上層区画。


 その中央には、空へ突き出すような細長い指揮塔がそびえている。


 だが塔の周囲には深い空間があり、こちら側から直接渡ることはできない。


「橋は?」


 セラが周囲を見渡す。


「あそこだ」


 ガルドが指差した。


 四人が上がってきた階段を円の頂点とするなら、橋は完全に反対側だった。


 右へ進んでも左へ進んでも、中央塔へ渡るには円形通路を半周しなければならない。


「……いた!」


 フィーネが声を上げる。


 遥か向こう。


 円形通路を進む、一人の男。


 巨大な大剣を背負った背中だった。


「レオン……!」


 ようやく捉えた。


 だが、レオンはすでに橋のすぐ近くまで進んでいる。


「そんな……あんな先じゃ、もう……」


 フィーネの顔から血の気が引く。


 ガルドは右を見て、次に左を見た。


「どっちから進んでも、距離は変わらなそうだな」


 セラが唇を噛む。


 ノアは、遠くに見えるレオンの背中を見つめた。


 追い続けてきた。


 ようやく視界に捉えた。


 しかし、その距離は、走って埋められるようなものではなかった。



     ◇ ◇ ◇



 ノアたちがいる大陸から、遥か海を隔てた別大陸。

 その西部に広がるレインフォード侯爵領――城下町《ルヴェリア》。

 街道と農地に恵まれ、周辺の村々を束ねるこの地方都市は、代々レインフォード家が治めてきた。


 ヴィオラ・レインフォードは、昔から「悪役令嬢」と呼ばれやすい女だった。


 淡い桜色の髪を肩のあたりで整えた、華やかな美貌の侯爵令嬢。誰が見ても目を引く容姿をしている。だが、その立ち姿は常に凛としており、言葉も態度も一切崩さない。


 侯爵令嬢としての品位を守ること。それがヴィオラの矜持だった。


 けれど、その誇り高さは、ときに「冷たい」「高圧的」「近寄りがたい」と受け取られる。本人にそのつもりがなくとも、柔らかく甘えることのできない彼女は、自然と誤解を招きやすかった。


「エドガー様、今日は少しお疲れではありません?」


「分かるか?」


「顔を見れば分かりますわ」


「さすがだな」


「婚約者ですもの」


 エドガーが笑う。それだけで、ヴィオラの口元も僅かに緩んだ。


「でしたら、今日は早めにお休みくださいませ。明日の朝も早いのでしょう?」


「分かったよ。お前は相変わらず細かいな」


「誰のためだと思っていますの」


 少し拗ねたように返しながらも、その声はどこか柔らかかった。


 最近、そんなエドガーがリリアにもよく声をかけていることに、ヴィオラは一抹の不安を覚えていた。


 平民出身のリリアは明るく、人懐こい。ある日の昼下がりも、数人の貴族令嬢に囲まれながら、身分の違いなど感じさせないほど自然に笑っていた。


 その輪を少し離れた場所から眺め、ヴィオラは小さく呟く。


「……私も、あの子のように振る舞えたら……違ったのでしょうか」


 けれど、今さら自分ではない誰かのように振る舞うことなどできない。


 リリアに対しても、ヴィオラは変わらず凛と接した。


 そして、いつからか学院では妙な噂が流れ始めた。


 ――ヴィオラがリリアをいじめている。


 ――婚約者を奪われそうになり、陰で嫌がらせをしている。


 誰が言い始めたのかは分からない。はっきりした証拠もなかった。それでも噂は尾ひれをつけながら広がり、いつしか「悪役令嬢ヴィオラならやりかねない」という空気が出来上がっていた。



     ◇ ◇ ◇



 それが決定的な形になったのは、大勢の貴族子弟が集まる祝宴だった。


「ヴィオラ・レインフォード。本日をもって、お前との婚約を破棄する」


 会場がざわめく。


 エドガーの隣には、涙を浮かべたリリアがいた。


「リリアへの度重なる嫌がらせ。そして毒殺未遂。これ以上、お前の行いを見過ごすことはできない」


「……していませんわ」


「証拠がある」


「その証拠を、本当に確かめなさいましたの?」


「まだ言い逃れをするのか!」


 エドガーの怒声が響く。


「私は何もしていません。せめて私の話を――」


「触るな!」


 伸ばした手を強く振り払われた。


「お前みたいな女を婚約者にしていたことが、俺の人生最大の汚点だ」


 ヴィオラの顔から表情が消えた。


 それでも最後に、父を見る。


「お父様。私を信じてください」


 乾いた音が響いた。


 頬が熱い。


 父に、叩かれた。


「黙れ。これ以上、レインフォード家の名を汚すな」


「私は……」


「お前の言葉など聞きたくない」


 父は娘の顔すら見ようとしなかった。


「今日から、お前は私の娘ではない」


 誰も庇わなかった。


 兵士に腕を取られ、広間から連れ出される。


 その途中、リリアとすれ違った。


「……可哀想」


 涙を浮かべたまま、彼女はヴィオラにだけ聞こえる声で囁いた。


「本当に、何も残らなくなっちゃったね」


 ヴィオラは初めて、真正面からリリアを見た。



     ◇ ◇ ◇



 数日後。


 処刑を免れたことは「温情」とされ、ヴィオラは侯爵家から追放された。


 小さな鞄だけを持ち、人気のない街道を歩いていると、道端の木にもたれていた青年が声をかけてきた。


「ひでえ目に遭ったな」


「……どなたですの?」


「ゼノ」


「何の御用です?」


「別に。全部見てただけ」


 ヴィオラの足が止まる。


「婚約破棄されたところから、親父にぶん殴られて捨てられるところまでな」


 ゼノは笑った。


「毒なんか盛ってねえんだろ?」


 ヴィオラは答えなかった。


 ゼノも答えを求めなかった。


「なら簡単じゃねえか」


 手を差し出す。


「お前を捨てたこと、死ぬほど後悔させろ」


 ヴィオラはその手を見つめた。


「……できますの?」


「俺様がいる」


 迷いのない即答だった。


「やるか?」


 少しだけ沈黙してから、ヴィオラはその手を取った。


「……ええ」


 赤黒い魔力が身体を包む。


 押し殺していた怒りも、屈辱も、悔しさも。今まで侯爵令嬢として胸の奥へ閉じ込めていた感情が、一気に解き放たれていく。


 その力は、ヴィオラの本質を塗り替えるのではなかった。むしろ、元から持っていた高貴さと誇りを、より鮮烈に研ぎ澄ませていく。


 肩先で揺れていた淡い桜色の髪には深紅の薔薇飾りが添えられ、令嬢の衣装は黒と薔薇色を基調とした豪奢なドレスへ変わった。幾重にも重なる花弁のような布地。繊細でありながら支配者めいた気品を纏うその姿は、妖艶というより、まるで薔薇の女王そのものだった。


 さらに、その手には一本の杖が現れる。深紅の宝石と薔薇の意匠で飾られた、美しくも威圧感のある杖だった。


 ヴィオラは自分の手を見つめる。


「……これが、私」


「悪くねえじゃん」


 ゼノが笑う。


 ヴィオラも、ゆっくり顔を上げた。


「ゼノ様」



     ◇ ◇ ◇



 さらに数日後。


 エドガーの家では、リリアとの新たな婚約を披露する宴が開かれていた。


 その最中、広間の扉が開く。


「……ヴィオラ?」


 ざわめきが、会場を走った。


 立っていたのはヴィオラだった。肩口で揺れる桜色の髪には深紅の薔薇。黒と薔薇色を幾重にも重ねたドレスは、かつての侯爵令嬢としての面影を残しながら、以前とは比べものにならないほど強い存在感を放っている。


 その右手には、薔薇の意匠が絡みつく杖。


 可憐さは消えていない。だが今のヴィオラから漂うのは、守られる令嬢の気配ではなく、場そのものを支配する女王の気配だった。


挿絵(By みてみん)


 エドガーが立ち上がり、リリアの顔から血の気が引く。


「自分の汚名くらい、自分で晴らしに参りましたの」


 ヴィオラが卓上へ書類を置いた。


 毒の購入記録。買収された使用人の証言。そしてリリア側の供述に残った矛盾。


 どれも、事前にライルたちへ集めさせていた証拠だった。


「違う!」


 真っ先に叫んだのはリリアだった。


「そんなの嘘よ!」


「リリア様に頼まれました!」


 使用人の一人が泣きながら声を上げる。


「何を言ってるの!?」


「もう無理です! 全部話します!」


「黙りなさい!!」


 今までの愛らしい表情が一瞬で崩れた。


「全部あんたがやったことでしょ!」


「私は知らない!」


「嘘つくな!」


 互いに責任を押しつけ始めたことで、ヴィオラを罪人にした筋書きは呆気なく崩れていった。


 やがて衛兵がリリアへ近づく。


「嫌……待って……」


 リリアはエドガーの腕へ縋りついた。


「助けて! お願い、私を信じて! 好きって言ったじゃない! 私と結婚するって言ったじゃない!」


 エドガーは何も言えなかった。


「捨てないで!!」


 今度はヴィオラへ手を伸ばす。


「ヴィオラ! お願い! 助けて! 何でもするから、許して!」


 ヴィオラはただ静かに見ていた。


「嫌! 待って! ヴィオラぁぁぁ!!」


 リリアの叫び声が、衛兵に引きずられながら遠ざかっていった。


「ヴィオラ……」


 次にエドガーが近づいてくる。


「俺が間違っていた。戻ってきてくれ」


 ヴィオラは何も言わない。


「婚約だって戻す。いや、すぐにでも結婚しよう。何でもするから……行かないでくれ」


 差し出された手を、ヴィオラは一歩下がって避けた。


「待ってくれ……俺を捨てないでくれ」


 その姿にも、もう胸は動かなかった。


「ヴィオラ!」


 今度は父親の声が飛んだ。


 彼もこの宴へ招かれていた。


「戻ってこい。お前はレインフォード家の娘だ!」


 追放からまだ数日しか経っていない。それでも屋敷では、忘れられた面会、重なった招待、届かなかった礼状が小さな揉め事を起こし始めていた。


 これまで誰が、そんな細かな綻びを人知れず防いでいたのか。


 父もようやく気づき始めていた。


「すまなかった。頼む、戻ってきてくれ」


 ヴィオラは答えず、踵を返した。


「待て!」


 父の顔が歪む。


「兵を出せ! 取り押さえろ!」


 控えていた兵士たちが、一斉にヴィオラへ向かう。


 ヴィオラは足を止め、振り返った。


 杖が静かに持ち上がる。


 次の瞬間、濃密な薔薇色の魔力が広間に咲き広がった。


「――っ!?」


 轟音とともに、兵士たちがまとめて吹き飛んだ。


 剣が宙を舞い、何人もの身体が床を転がる。壁際まで弾き飛ばされた兵士たちは、誰一人として立ち上がれなかった。


 静まり返った会場で、ヴィオラはただ杖を下ろした。


 もう、自分には力がある。


 そして出口には、腕を組んだゼノが立っていた。


 ヴィオラは迷うことなく、その隣へ歩いていく。


「参りましょう、ゼノ様」


「ああ」


 もう振り返らなかった。


 力もある。


 支えてくれる王子様もいる。


 こんな場所に、もう用はなかった。



     ◇ ◇ ◇



 屋敷を離れてしばらくすると、エレナが後ろを振り返った。


「ゼノ様。もっと派手に壊してしまうのかと思っていました」


「それじゃ意味ねえだろ」


 ゼノは軽く笑った。


「あいつの心を晴らすのは、ただ全部ぶっ壊すことじゃねえ。ちゃんと欲しいもんを叶えてやらねえとな」


 ヴィオラが僅かに顔を上げた。


 ライルが続ける。


「じゃあ、あそこはそのまま残すのか?」


「使えるもんまで壊したら、もったいねえだろ」


 ゼノは遠くに広がる領地へ目を向けた。


「それに――あいつらには、まだまだ長生きしてもらわねえとな」


「何する気だよ」


「そのうち分かる」


 ゼノは楽しそうに笑った。


「死んだ方が楽だったって思うかもしれねえけどな」


 その後ろを、ヴィオラは迷うことなく追っていった。

今回の異世界マーケティングは、「コア・リジディティ(Core Rigidity)」です。


コア・リジディティとは、企業の強みであるコア・コンピタンスが、逆に変化や成長を妨げる“硬直性”へ変わってしまう状態を指します。


リゼットにとって《神速》は、間違いなく最大の武器です。


しかし圧倒的な速さを持つ一方で、

直線的になりやすく、見切られれば先を読まれる。

さらに、その弱点を脚力だけで強引に補おうとすれば、今度は身体そのものが壊れてしまう。


強みがあることと、その強みだけで勝ち続けられることは同じではありません。


ビジネスでも、過去に成功した商品、技術、営業方法、組織文化ほど、

「これで今まで勝てた」という経験によって変化しにくくなることがあります。


なお、リゼット自身がマーケティング理論を考えているわけではありません。


人が自分の強みと限界に向き合い、次の答えを探そうとする行動を、

現代のビジネス理論で見ればこう説明できる、という今回のテーマです。


最大の武器に、初めて明確な弱点が見えたリゼット。


この敗北が、次の強さへ繋がっていきます。


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