第二話 ツギハギの精鋭――レムナ村防衛戦
第二話です。
弱小と呼ばれる《灰色の翼》が、初めて本格的な防衛戦に挑みます。
「魔狼は、何頭倒せば全滅になるんですか?」
俺の質問に、レムナ村から来た男は口を開けたまま固まった。
冒険者ギルド《白樫の枝》の受付台には、書きかけの依頼書が置かれている。
依頼内容は簡潔だった。
――レムナ村周辺に出没する魔狼の討伐。
「何頭と言われましても……」
男は治療されたばかりの腕を押さえながら、困ったようにギルド長のオルセンを見た。
「森に何頭いるかは分かりません。村を襲ったのは、多いときで十頭ほどですが……」
「では、十頭倒せば依頼達成ですか?」
「それで襲撃が止まるなら」
「十頭倒した翌日に、別の十頭が現れたら?」
「それでは困ります」
「反対に、一頭も倒さなくても、二度と村へ来なくなったら?」
男は少し考えた。
「それなら……村としては助かります」
「ちょっと待って」
俺の隣で、リゼットが不満そうな声を上げた。
「昨日、依頼書に泥鬼を倒せとは書いていないから、倒す必要はないと言ったのはあなたでしょう?」
「言った」
「今度の依頼書には、魔狼の討伐と書いてある。だったら倒すべきじゃないの?」
「だから、依頼を受ける前に確認している」
「何を?」
「何をもって成功とするかだ」
書類の文字は同じでも、依頼人が求めているものと一致しているとは限らない。
前世でもよくあった。
客は「広告を出したい」と言う。
だが、本当に欲しいのは広告そのものではない。
売上を増やしたい。
来店者を増やしたい。
商品の認知を広げたい。
手段を要望として受け取ったまま実行すると、広告は完成しても、本来の問題が何一つ解決しないことがある。
「魔狼を倒すことは、村を守るための手段だ」
俺は依頼書の上部を指で叩いた。
「ところが、討伐数を成果にすれば、俺たちは魔狼を探して殺すことになる」
「それの何が悪いの?」
「魔狼を倒しても、襲撃の原因が残っていたら解決にならない」
第一話の終わりに聞いた話では、魔狼の行動には明らかな不自然さがあった。
家畜を殺しても食べない。
決まった時刻に現れる。
村人を追うが、村の外までは追わない。
さらに、襲撃が始まった時期と、商会が土地の買収を持ちかけた時期が重なっている。
偶然かもしれない。
だが、単なる野生動物の襲撃として処理するには、意図がありすぎた。
「依頼内容を変えるつもりか?」
オルセンが尋ねる。
「勝手には変えません。依頼人と合意します」
俺は村の男へ向き直った。
「依頼内容を、こうしてはどうでしょう」
受付台に置かれていた羽根ペンを取る。
書きかけの文章に線を引き、その下へ新しい文言を書き加えた。
――レムナ村を襲う魔狼の排除、および襲撃原因の解消。
「村人の命を守るために必要なら、魔狼を討伐します」
俺は説明した。
「ただし、魔狼を何頭倒したかではなく、村への襲撃が終わったかどうかを依頼達成の基準にする」
「襲撃が止まったと、どうやって判断するんです?」
「まず三日間、俺たちが村の警護と調査を行います。その結果を村長と住民に報告し、必要なら正式な討伐作戦へ移る」
「三日も……」
「その間も襲撃には対応します。調査だけをするわけではありません」
男は不安そうな顔をしたまま、オルセンを見た。
オルセンは腕を組み、しばらく考える。
「依頼主は村だ。最終的な条件は村長と話し合え」
「そのつもりです」
「ただし、今夜にも被害が出る可能性がある」
「到着した日の夜から警護します」
オルセンはうなずき、依頼書を俺から取り上げた。
「この内容で仮受注とする。村に到着後、正式に契約を結び直せ」
「ありがとうございます」
「礼は成功してから言え」
話がまとまりかけたところで、セラが依頼書を横からのぞき込んだ。
報酬額を確認し、その顔を露骨にしかめる。
「これ、五人で三日も動いたら赤字じゃない」
「その可能性はある」
「可能性じゃなくて確実でしょ。宿代、食料、魔力薬、矢、装備の修理。それでこの報酬?」
セラはオルセンへ視線を向けた。
「《黄金獅子》が断ったのも当然ね」
村の男が驚いた。
「どうして、それを……」
「先にあそこへ頼んだんでしょう?」
セラの問いに、男は気まずそうにうなずいた。
「はい。村から近い街に支部がありましたので」
「それで断られて、うちへ来た」
「申し訳ありません……」
「謝ることではない」
オルセンが言った。
「依頼する側が、より強いギルドへ先に頼むのは当然だ」
大手冒険者ギルド《黄金獅子》。
王国内に複数の支部を持ち、高位冒険者も多く所属している。
商会や貴族との関係も深く、高報酬の依頼の多くは彼らへ集まっていた。
「《黄金獅子》は、なぜ断ったんですか?」
俺が尋ねると、村の男は答えた。
「魔狼の数が分からないうえ、村までの移動にも費用がかかると。せめて討伐する数を決めなければ、見積もりも出せないと言われました」
合理的な判断だ。
大規模なギルドほど維持費がかかる。
高位冒険者を何日も拘束するなら、それに見合った利益が必要になる。
慈善事業ではない。
しかし、その合理性の結果として、金のない村には助けが来ない。
「ノア」
セラが俺を見る。
「そんな依頼を受けている場合じゃないでしょう」
「どういう意味だ?」
「ギルドが危ないんじゃなかったの?」
第一話の泥鬼戦から戻った後、俺はまだ《白樫の枝》の経営状態を四人へ話していなかった。
隠すつもりはなかった。
ただ、話す必要がある段階ではないと思っていた。
だが、今後も彼らを動かすなら、目的を共有しないわけにはいかない。
「《白樫の枝》は、あと三十七日で資金が尽きる」
四人の表情が止まった。
「……冗談よね?」
セラが尋ねた。
「帳簿上はな」
「私たちの解散どころか、ギルドそのものがなくなるってこと?」
フィーネが顔を青くする。
「今の状態が続けば」
「だったら、なおさら高い依頼を取らないと」
リゼットが言った。
「高い依頼を、誰が俺たちへ渡す?」
リゼットは答えられなかった。
「高報酬の仕事は、実績と信用のある《黄金獅子》へ流れる。《白樫の枝》に残るのは、報酬が安い、遠い、面倒、原因が分からない。そういう仕事ばかりだ」
「それを受け続けていたから、潰れかけたんでしょう?」
「何も考えずに受ければな」
俺は依頼書を見た。
「《黄金獅子》と同じ基準で仕事を選んでも、俺たちは勝てない」
資金。
人数。
装備。
知名度。
どれを取っても差がありすぎる。
大手と同じ市場で、同じサービスを、より低い価格で提供する。
それは競争ではない。
消耗だ。
「大手が断る依頼には、大手が解決できない理由がある」
「報酬が安いからでしょ」
「それだけじゃない」
原因が曖昧。
依頼人自身が問題を正しく理解していない。
単純な討伐では終わらない。
複数の利害関係者がいる。
そうした依頼は、戦闘力だけでは解決しにくい。
「今の俺たちに必要なのは、一度の大金じゃない」
俺は四人へ言った。
「ほかのギルドが解決できなかった問題を解決して、地域から信用を買い戻すことだ」
「信用を買うために、赤字で働くの?」
「無制限に赤字を出すわけじゃない。将来の依頼につながる範囲で投資する」
「また意味の分からない言葉を」
セラは不満そうだったが、それ以上は反論しなかった。
リゼットはしばらく俺を見ていた。
「この依頼が、その最初の仕事になるの?」
「成功すればな」
「失敗したら?」
「ギルドの寿命が三日ほど縮む」
「さらっと怖いことを言うのね」
◇
出発は翌朝になった。
村までは徒歩で半日。
夜の襲撃までには、十分に準備する時間がある。
俺は集合した四人の姿を見て、別の意味で頭を抱えることになった。
「その剣で行くのか?」
リゼットが腰に下げていたのは、第一話で折れた剣とは別の長剣だった。
柄には何度も革を巻き直した痕がある。
刀身も薄い。
刃こぼれを削り続けた結果、本来より一回り細くなっていた。
「これしかないもの」
「魔狼の爪を受けても折れないか?」
「受けなければいい」
「答えになっていない」
「剣は斬れれば同じよ」
その言葉を聞いたオルセンが、奥で小さく鼻を鳴らした。
「あいつの踏み込みに、剣が耐えられん」
「リゼットではなく?」
「腕の方が強すぎる」
次にセラの杖を見る。
先端に大きな赤い魔石が取り付けられた、見た目だけなら立派な杖だ。
しかし魔石の周囲には、魔力を一方向へ流すだけの単純な術式しか刻まれていない。
「それは?」
「火力増幅杖。私の魔法を二割くらい強くしてくれる」
「消費魔力は?」
「……三割くらい増える」
「なぜ使っている?」
「大魔法を期待されるからよ」
セラは当然のように答えた。
「魔法使いは威力で評価される。弱い魔法を何発使えても、誰も褒めないもの」
ガルドの弓は、人間用の狩猟弓だった。
彼が弦を軽く引いただけで、弓全体が嫌な音を立てる。
「弱すぎないか?」
「弓がか?」
「張力が、お前の腕力に合っていない」
「強い弓は高い」
「それだけか?」
「獣人向けの弓を置いている店も少ない」
最後にフィーネ。
白い法衣はすでに何度も縫われ、杖の先端には小さな透明魔石が一つだけはめ込まれている。
「教会の初心者用ですね」
フィーネが自分から説明した。
「治癒魔法なら問題ありません。ただ、結界を長く維持すると、魔石が熱を持ってしまいます」
「交換しないのか?」
「まだ使えますから」
四人とも似たようなものだった。
高い能力を持っている可能性がある。
だが、能力を引き出すための環境がない。
前世で例えるなら、高性能な機械を導入しながら、電源も工具も説明書も与えず、
«「なぜ生産性が低いんだ」»
と責めているような状態だった。
「何を見てるの?」
リゼットが尋ねる。
「君たちが弱い理由を」
リゼットの目が鋭くなる。
「言い方」
「訂正する。弱く見える理由だ」
「余計に腹が立つ」
◇
レムナ村は、山と森に挟まれた小さな集落だった。
家は四十軒ほど。
村の北側には畑が広がり、東には深い森がある。
西側には大きな穀物庫。
さらに村の奥、山の斜面には小さな鉱山の入口が見えた。
村へ足を踏み入れた瞬間、魔狼被害の深刻さが分かった。
柵は何カ所も壊されている。
家畜小屋には黒く乾いた血が残り、板で窓を塞いだ家も多い。
昼間だというのに、外で遊ぶ子どもの姿はほとんどなかった。
「遅いぞ!」
村の中央で待っていた老人が、俺たちを見るなり怒鳴った。
レムナ村の村長、バルザックだった。
「《黄金獅子》には断られ、次に来たのがこんな若造とは」
「依頼を受けた《白樫の枝》です」
リゼットが一歩前へ出る。
姿勢を正し、騎士のように頭を下げた。
「今夜から村の警護を行います。まず状況を教えてください」
その振る舞いで、村長の態度がわずかに和らいだ。
リゼットは、こういう場では俺より適任だった。
「状況も何も、魔狼を全部殺せば終わる」
「何頭いますか?」
俺が尋ねると、村長の機嫌が再び悪くなる。
「そんなもの、こっちが知るか」
「では、全部殺したとどう判断します?」
「森へ入って探せばいい!」
「その間、村の防衛は誰が?」
村長が言葉に詰まる。
「お前、村長に逆らう気か?」
「依頼を成功させるために、条件を確認しています」
そのとき、村人の一人が声を上げた。
「もう売ればいいんだ!」
若い男だった。
その隣には、幼い娘を抱いた妻がいる。
「この土地にしがみついて、子どもが殺されたらどうする!」
「商会の犬になれというのか!」
別の老人が怒鳴り返す。
「街へ移ったところで、仕事がある保証などない!」
「ここに残れば死ぬかもしれないんだぞ!」
それをきっかけに、村人たちが一斉に言い争い始める。
土地を守りたい者。
家族を守りたい者。
鉱山を手放したくない者。
商会の移住支援に期待する者。
同じ村に住んでいても、望んでいる未来は違う。
「静かにしてください!」
リゼットが声を張った。
戦場で使う声なのだろう。
村人たちの口が止まる。
「意見をまとめるのは、今夜を生き延びてからです」
俺が続けた。
「まず三日間、俺たちが村を守ります。同時に、襲撃の原因を調べる」
村長が顔をしかめる。
「魔狼を殺さないつもりか?」
「人命を守るために必要なら倒します」
「なら、最初から全部倒せばいい!」
「襲撃の原因が魔狼だけなら、そうします」
俺は村人たちを見回した。
「三日以内に原因と解決方法を報告します。それまでの間に重大な被害が出れば、調査を中止して討伐へ切り替える」
「襲撃が終わらなければ?」
「依頼達成にはしません」
村長は納得していない。
だが、ほかに依頼を受けるギルドもない。
長い沈黙の後、しぶしぶうなずいた。
「今夜、死人を出すな」
「そのために来ました」
◇
日没までの時間は少ない。
村全体を詳細に調べる余裕はなかった。
「五人で一緒に回るの?」
リゼットが尋ねる。
「分かれる」
「見落としが増えない?」
「同じ人間が、同じ相手に、同じ質問をすれば、同じ種類の情報しか集まらない」
俺は役割を伝えた。
「リゼットは自警団と防衛線を確認。セラは壊された建物と魔力の痕跡。ガルドは足跡と匂い。フィーネは負傷者と子どもから話を聞いてくれ」
「ノアは?」
「全体の被害を地図にまとめる」
「また紙の上?」
「紙の上で間違いを見つけられれば、戦場で血を流さずに済む」
リゼットは何か言い返そうとしたが、やめた。
各自が散った後、俺は村長から簡単な地図を借り、被害を受けた場所を一つずつ確認した。
最初に襲われたのは東側の家畜小屋。
次が南の柵。
三日後に荷車置き場。
その翌日に、小さな穀物庫。
魔狼の襲撃は、毎晩ではない。
一日か二日の間隔がある。
被害を受けた場所には、共通点があった。
生活を続けるために必要な場所だ。
一方で、鉱山、水源、空き家には近づいていない。
しばらくすると、リゼットが戻ってきた。
「西の穀物庫が一番危険」
「理由は?」
「森から直接は来られないけど、南の柵を破れば回り込める。自警団は森側ばかり見ているから、西が手薄になる」
「一人で守れるか?」
「通路を荷車で狭くすれば、三頭までは」
「倒せる?」
「止められる」
答えが変わっている。
以前のリゼットなら、倒せる数を答えただろう。
「それ以上は?」
「分からない。剣がもてば五頭」
彼女は、できることとできないことを分けて報告した。
次に戻ったのはセラだった。
「変な痕跡がある」
彼女は壊れた柵の木片を机に置いた。
「魔狼は爪に魔力を込めて物を壊す。でも、ここの傷は全部、魔力の量がほとんど同じ」
「それは珍しいのか?」
「野生なら個体差がある。興奮している個体ほど、込める量も安定しない」
「誰かが魔力を与えた?」
「それか、同じ術式で強制的に引き出した」
「分かるのか?」
「痕跡を見れば、ある程度は」
セラは当然のように言った。
大魔法を一度撃って動けなくなる魔法使い。
周囲は彼女をそう評価している。
だが、残留した魔力だけで術式の性質を推測する能力は、単純な火力より価値があるかもしれない。
ガルドは日が傾き始めたころ戻った。
「東の森に、魔狼の足跡が集まる場所がある」
「巣か?」
「違う」
ガルドは地図の一点を指した。
「寝床の匂いはない。複数の群れが一度ここへ集まり、その後で村の別々の場所へ向かっている」
「野生でもあり得る?」
「狩りの前に集まることはある。だが毎回同じ場所なら不自然だ」
「ほかには?」
ガルドは一瞬黙った。
「人間の匂いが混じっていた」
リゼットが反応する。
「誰?」
「分からん。古い匂いだ。村人かもしれない」
「なら、関係ない可能性もあるのね」
「ああ」
「それでいい」
俺が言うと、ガルドの耳が動いた。
「何がだ」
「確証がない情報も報告してくれた」
「役に立たないかもしれん」
「役に立つかどうかを決めるのは、情報を集めた後だ」
最後にフィーネが戻った。
彼女の手を、七歳ほどの少年が握っている。
「この子はリオです」
フィーネが紹介した。
少年は俺たちを見ると、フィーネの後ろへ隠れた。
「魔狼が来る前に、高い音が聞こえるそうです」
「笛のような音?」
少年が小さくうなずく。
「ぴぃって。二回鳴ると、狼が来る」
「大人は聞いていないのか?」
「風の音だと思っていたみたいです」
フィーネはリオの頭を撫でる。
「リオは耳がいいそうです。それから……家畜小屋に飼っている犬がいて、何度も見に行こうとしているみたいで」
「今夜は絶対に行くな」
リゼットが強い口調で言うと、リオの身体が縮こまった。
「怖がらせないでください」
フィーネが少年をかばう。
「でも危険よ」
「分かっています。ただ、この子にとっては家族なんです」
フィーネは、子どもや弱者の苦しみを無視できない。
それ自体は美点だ。
同時に、行動へ強く影響する要素でもある。
俺は集めた情報を地図へ書き込んだ。
被害地点。
魔狼の集合地点。
笛の証言。
襲われていない鉱山。
そして、まだ大きな被害を受けていない西側の大穀物庫。
「今夜、狙われるのはここだ」
俺が地図を指すと、村長が眉をひそめた。
「なぜ分かる」
「村人を殺したいなら、もっと直接的な方法がある」
家へ火を放つ。
井戸へ毒を入れる。
夜中に逃げ道を塞ぐ。
しかし魔狼は、そこまでしていない。
「敵の目的は、村を壊滅させることではない」
「敵?」
「魔狼が自然に動いていないなら、その後ろにいる誰かだ」
「誰なんだ」
「まだ分かりません」
村長の顔に不満が浮かぶ。
「分からないことばかりだな」
「分からないものを、分かったことにするよりは安全です」
俺は地図へ視線を戻した。
「村人を殺しすぎれば、領主や騎士団が来る。鉱山まで壊せば、土地の価値が下がる」
「何が言いたい」
「敵は、村人を殺さずに追い出そうとしている」
そして、次に壊す価値が最も高いのは、西側の大穀物庫。
冬を越す食料が失われれば、土地を守りたくても村には残れない。
ただし、一つだけ説明しきれない証言があった。
以前の襲撃で、一頭の魔狼が村外へ逃げた老人を追い続けたという。
笛が鳴ったことで戻ったため、死者は出なかった。
制御の乱れ。
個体の興奮。
現時点では、そう説明するのが最も自然だった。
俺は地図の隅へ、小さく印をつけた。
◇
日が沈む前に、配置を決めた。
リゼットは西側の穀物庫。
セラは穀物庫近くの屋根。
ガルドは東の森と村の境界。
フィーネは中央の避難所。
俺は村中央の鐘楼下。
全員が離れているため、直接の会話はできない。
使う合図は五つだけにした。
笛一回で敵発見。
二回で複数方向から接近。
青い光で救援要請。
赤い光で防衛線突破。
長い鐘で全住民の退避。
詳しい状況は、村の若者二人が伝令として運ぶ。
ただし、届く情報は必ず古い。
伝令が走っている間にも、戦場は変わる。
そのため、俺が全員へ細かな命令を出すことはしない。
「最後に一つ確認する」
出発前、四人を集めた。
「できることだけじゃなく、できないことを教えてほしい」
「今さら?」
セラが言う。
「戦闘が始まってから知るよりいい」
最初にリゼットが答えた。
「仲間を置いて撤退はできない」
「できないではなく、したくない?」
「同じよ」
「違う。だが今回は、できないとして扱う」
セラは杖を持ち上げた。
「この杖だと、小さい魔法でも消耗が大きい。大魔法を撃ったら、ほぼ終わり」
「残量は報告できるか?」
「……する」
ガルドは弓を見た。
「正面からでは、魔狼の皮を抜けない」
「それでも役割は果たせるか?」
「殺すだけが弓じゃないと言ったのは、お前だろ」
フィーネは少し迷った。
「目の前で子どもが襲われていたら、避難所を離れないとは約束できません」
リゼットが彼女を見る。
「フィーネ」
「ごめんなさい。でも、できない約束をしたくありません」
「謝る必要はない」
俺は言った。
「行動に影響するなら、感情も作戦へ入れるべき変数だ」
「感情まで、計算するの?」
リゼットが尋ねる。
「できる限りは」
「全部、思いどおりにできると思ってる?」
「思いどおりにする必要はない。起こることを想定できればいい」
当時の俺は、そう考えていた。
感情も、事前に知っていれば扱える。
危険な行動を取りやすい者には、代わりの手順を用意する。
恐怖で動けない者には、判断基準を与える。
人間心理も、ほかの情報と同じく戦略へ組み込める。
少なくとも、その夜までは。
◇
月が高く昇ったころ。
東の森から笛が鳴った。
一回。
敵発見。
俺は鐘楼の下で、地図の東側へ小さな黒石を置いた。
間を置かず、二回目の笛。
複数方向。
「伝令、東へ!」
村の若者が走り出す。
同時に、西側の空へセラの白い光が上がった。
魔狼を視認した合図。
俺には、戦場そのものは見えない。
家々の屋根。
柵。
夜の暗闇。
視界を遮るものが多すぎる。
聞こえるのは、遠くの咆哮と金属音。
時折上がる魔法の光だけだった。
しばらくして伝令が戻ってくる。
「魔狼は九頭! 六頭が西、三頭が南の家畜小屋へ!」
俺の予測は、おおむね当たった。
主力は穀物庫。
ただし二方向からの同時攻撃までは確定できていなかった。
「南の三頭にはガルドが対応している。西へは?」
「リゼットさんが四頭を止めています! 残り二頭は穀物庫の横へ!」
俺はセラの位置を示す白石を動かそうとして、手を止めた。
彼女には、現場で判断するよう伝えてある。
今ここから指示を送っても、届くころには状況が変わる。
◇
西側の穀物庫では、リゼットが四頭の魔狼を一人で引き受けていた。
後で村の自警団員から聞いた話では、彼女は一頭も深追いしなかったらしい。
狭い通路へ敵を誘導する。
穀物庫へ向かう個体だけを斬る。
魔狼が横へ回れば、剣の腹で鼻先を打ち、再び自分へ注意を向ける。
四頭に囲まれているのではない。
四頭を、自分の周囲から出さないよう支配していた。
「一人で、あれを……」
戦いを見た自警団員は、信じられないように言っていた。
だが、魔狼の爪を剣で受けた瞬間、リゼットの刀身が大きく欠けた。
技量では勝っている。
装備が追いついていない。
屋根の上では、セラが大魔法を使わずに戦っていた。
小さな風魔法で魔狼の進路を変える。
足元の土だけを固める。
光をリゼットの死角へ飛ばす。
一つ一つは、魔法学校の子どもでも使う初級魔法。
だが複数属性を瞬時に切り替え、味方を巻き込まず、敵の動きだけを制御する技術は、単純な威力とは別の才能だった。
「あと六回!」
セラは自分から叫んだ。
「大きいのなら一回!」
以前なら隠していた魔力残量を、リゼットと自警団へ伝えている。
その情報があるから、リゼットも次の動きを選べる。
一方、南の家畜小屋へ向かった三頭は、建物の陰を使って接近していた。
俺の場所からは完全に見えない。
ガルドは匂いと足音だけで位置を捉えた。
一頭目の耳元へ矢を放ち、進路を変える。
二頭目の足元へ射込み、村の外へ誘導する。
三頭目には直接矢を当てた。
だが、人間用の弓では威力が足りない。
矢じりは魔狼の皮へ浅く刺さっただけだった。
それでも、三頭を家畜小屋から遠ざけることには成功した。
ガルドの役割は、敵を殺すことではない。
敵の位置を見つけ、行動を変えることだった。
◇
戦闘開始から、どれほど経ったころだったか。
中央の空へ青い光が上がった。
避難所からの救援要請。
俺の呼吸が、一瞬止まった。
誰が危険なのか分からない。
避難所が破られたのか。
村人が負傷したのか。
フィーネ自身が襲われているのか。
リゼットを戻せば、西が崩れる。
セラを動かせば、四頭を止めている前線が乱れる。
ガルドは南の三頭を相手にしている。
合理的には、詳細が届くまで待つべきだ。
だが、頭に浮かんだのは、
«フィーネが死ぬかもしれない。»
という一文だった。
地図上では、青い光は救援要請を示す記号にすぎない。
だが、その光の下には人間がいる。
昨日まで一緒に食事をし、今朝も歩きながら話した仲間がいる。
「西へ救援を――」
命令しかけたところで、伝令が駆け込んできた。
「子どもが避難所から出ました! フィーネさんが救出! 二人とも無事です!」
「避難所は?」
「村の女性が結界の魔石を持っています!」
俺は息を吐いた。
フィーネは、事前に決めた手順を守っていた。
代理を置き、信号を送り、少年を救出した。
「リオです」
伝令が付け加えた。
「犬を助けに行こうとしたみたいで」
あの少年か。
「すぐ避難所へ戻せ」
「はい!」
伝令が走り去る。
俺は自分の動揺を、情報不足による判断負荷だと処理した。
戦場では情報が欠ける。
詳しい状況が分からなければ、最悪を想定するのは当然だ。
それ以上の意味があるとは、考えなかった。
◇
戦況は、少しずつこちらへ傾いていた。
リゼットが一頭を斬る。
セラの風魔法で転倒した一頭を、自警団が槍で仕留める。
残る魔狼も、村の外へ追い戻され始める。
そのときだった。
東の森から、甲高い音が鳴った。
笛。
子どもたちが証言していた音。
一度目の音で、魔狼が一斉に動きを止めた。
リゼットと向かい合っていた個体も。
ガルドに追われていた個体も。
負傷して地面へ伏せていた個体さえも。
二度目の音。
残った魔狼が同時に森へ向かって走り出した。
仲間の死体を置き去りにし、狩りも途中で放棄する。
野生の群れとは思えない統制だった。
森の近くで、ガルドの笛が鳴る。
追跡するかどうかの確認。
俺は長く一度、鐘を鳴らさせた。
作戦終了。
深追いは禁止。
「追わなくてよかったの?」
後で戻ってきたリゼットが尋ねた。
「笛を吹いた人間を捕まえられたかもしれない」
「暗い森に、敵の人数も罠の位置も分からないまま入るのか?」
「でも、事件は終わらない」
「今夜の目的は、村を守ることだ」
俺は答えた。
「敵の正体を知るために、仲間を森へ捨てるつもりはない」
リゼットは何も言わなかった。
その表情が、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。
◇
死者はゼロ。
西側の大穀物庫も無傷。
家畜の被害は二頭。
魔狼は二頭討伐し、残りを村外へ追い払った。
村人たちは、《灰色の翼》を称賛した。
飛べない翼と笑われていた四人が、九頭の魔狼から村を守った。
だが、俺が見ていたのは戦果だけではない。
リゼットの剣は、次の戦闘に耐えられそうにないほど欠けている。
セラは大魔法を使っていないのに、増幅杖のせいで魔力をほとんど失った。
ガルドの矢は、正面から魔狼の皮を貫けなかった。
フィーネの杖に埋め込まれた魔石には、細い亀裂が入っている。
「君たちは、本当に金がないんだな」
「勝った後の第一声がそれ?」
セラが睨む。
「褒めてる」
「どこが?」
「この装備で九頭を止めた」
リゼットが欠けた剣を見る。
「装備が良ければ、もっと倒せた?」
「違う」
俺は首を振った。
「もっと安全に、同じ目的を達成できた」
敵を多く倒すことだけが成長ではない。
同じ成果を、より少ない危険と消耗で達成する。
そのためには、個人の努力だけでは足りない。
装備投資。
情報共有。
評価制度。
役割設計。
組織全体を変える必要がある。
《灰色の翼》は弱くない。
能力を発揮できない環境へ置かれていただけだ。
◇
倒した魔狼を調べると、首元の毛が不自然に擦れていた。
「首輪の痕ね」
セラが指で毛をかき分ける。
皮膚には薄い焼け跡が残っている。
彼女が手をかざすと、赤紫色の小さな光が浮かんだ。
「服従系の術式」
「何をする魔法だ?」
「獣へ痛みを与えて、特定の音に反応させる。かなり乱暴な方法だけど」
「笛で動かしていた」
「たぶんね」
ガルドも森の入口から戻ってきた。
「人間の足跡が二種類ある」
「二人?」
「少なくとも」
彼は地面へ簡単な図を描いた。
「一人は軽い。森の入口近くで長時間、同じ場所に立っていた。もう一人は重い靴で、村の外周を歩いている」
「魔獣使いと護衛か」
「その可能性が高い」
現時点では自然な推測だった。
魔狼を操る者と、それを守る人間。
それ以上の意味があると考える材料はない。
ただ、ガルドがわずかに鼻を動かした。
「重い方は、戦いの途中で避難所の近くまで来ている」
「村へ入ったのか?」
「柵の外から見ていただけだ」
「何を?」
「分からん」
おそらく防衛状況を確認していた。
俺は地図へ二種類の足跡を書き加えた。
◇
翌朝、村へ一台の立派な馬車が入ってきた。
荷台には薬と食料。
扉には、天秤と麦穂を組み合わせた紋章が描かれている。
ハウゼン商会。
馬車から降りたのは、上等な服を着た三十代ほどの男だった。
「皆様、ご無事で何よりです」
男は穏やかな笑顔を浮かべ、村人へ頭を下げた。
「ハウゼン商会のエドガー・ベルツと申します。負傷した方のため、薬をお持ちしました」
売却派の村人たちが、ほっとした表情で馬車へ集まる。
エドガーは負傷者へ薬を渡し、幼い子どもには菓子まで配った。
少なくとも表面上は、善意ある商人にしか見えない。
「昨夜、魔狼を退けたそうですね」
エドガーは俺たちへ向き直った。
「《白樫の枝》の方々でしたか。失礼ながら、お名前を存じ上げませんでした」
「地方の小さなギルドです」
「それは素晴らしい。小さな組織にも、優れた方々はいらっしゃるのですね」
言葉は丁寧だ。
侮辱とも取れるが、事実でもある。
エドガーは村人へ、新しい書類を配り始めた。
「ですが、今夜も同じように守れるとは限りません」
彼は静かな口調で言う。
「土地をお譲りいただければ、移住先と仕事を当商会がご用意します。鉱山と周辺地域については、《黄金獅子》へ恒常的な警備を委託する予定です」
その言葉に、村人たちがざわつく。
俺は書類を一部受け取った。
土地の買い取り条件。
移住支援。
鉱山運営計画。
そして、確かに記載されていた。
――取得後の鉱山および周辺地域の警備は、冒険者ギルド《黄金獅子》へ委託予定。
《黄金獅子》は、村人からの依頼を採算が合わないとして断った。
だが、ハウゼン商会の所有地になれば警備する。
理由は単純だ。
商会なら十分な報酬を払える。
《黄金獅子》は利益のある仕事を受ける。
ハウゼン商会は、安全を確保した鉱山から利益を得る。
どちらも合理的だ。
犯罪ではない。
だが、その合理性の外側では、金のない村が切り捨てられている。
「商会が魔狼を操っているの?」
リゼットが小声で尋ねた。
「まだ分からない」
「でも、土地を手に入れれば一番得をする」
「利益を得る者が、必ず実行した者とは限らない」
ハウゼン商会自身が動いたのか。
誰かを雇ったのか。
商会とは関係のない別人が、状況へ便乗しているのか。
証拠はまだない。
俺は昨夜見つかった二種類の足跡を思い出した。
一人は、魔狼を操る者。
もう一人は、村の外周と避難所を観察していた者。
「ただし」
俺は書類を閉じた。
「魔狼を操っている人間は、一人ではない」
リゼットが表情を引き締める。
その向こうでは、エドガーが村人へ笑顔で土地の売却を勧めていた。
魔狼の背後には、人間がいる。
そしてその人間の背後には、村一つでは動かせないほど大きな利益が存在する。
俺たちが昨夜退けたのは、九頭の魔狼にすぎない。
本当の敵は、その牙のさらに奥で動いていた。
お読みいただきありがとうございます。
今回から、レムナ村をめぐる事件が本格的に動き始めました。
《灰色の翼》の四人は、決して能力が低いわけではありません。
粗末な装備、不適切な役割、情報共有の不足――それぞれの力を阻む「仕組み」が存在しています。
ノアが彼らに新しい力を与えるのではなく、すでに持っている才能をどう引き出していくのか。今後も一人ずつ描いていきます。
次話では、魔狼を操る人間と、その背後にある利益の流れを追います。
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