第三話 飛翔前夜――勝利の輪郭
第三話です。
バラバラだった五人の力が、少しずつ一つの形になっていきます。
「お前たちが、魔狼を放ったんだろう!」
老人の怒声が、朝のレムナ村に響いた。
詰め寄られているのは、ハウゼン商会の使者――エドガーだ。
仕立てのよい茶色の上着に、汚れ一つない革靴。泥にまみれた村人たちの中では、その姿だけが不自然なほど整って見えた。
エドガーの手には、土地売却に関する書類が握られている。
昨夜、魔狼に人為的な首輪の痕跡が見つかった。
その翌朝に、土地を買い取る商人が現れたのだ。
村人たちが疑うのも無理はなかった。
「我々が魔狼を?」
エドガーは眉をひそめた。
「何の証拠があって、そのようなことをおっしゃるのですか」
「魔狼に首輪の跡があった! 誰かが操っていたんだ!」
「それが、なぜ当商会につながるのでしょう」
「この村から人がいなくなれば、一番得をするのはお前たちだろう!」
村人たちの怒りが膨らんでいく。
リゼットも、俺の横で剣の柄に手を置いていた。
「少なくとも、事情は聞かせてもらう必要がありそうね」
「待て」
俺はリゼットの前に腕を出した。
彼女が鋭く俺を見る。
「商会を庇うの?」
「違う。今ここで問い詰めるべきではないと言っている」
「一番怪しい相手が目の前にいるのよ」
「だからこそだ」
俺は、集まった村人たちを見回した。
「こちらが何を知っているか、相手に教える必要はない」
村人たちの間に、戸惑いが広がる。
「魔狼に首輪の跡があった。笛の音で撤退した。森には人間の足跡もあった」
俺が一つずつ挙げるたびに、エドガーの表情を観察する。
驚きはある。
だが、魔狼の数や侵入経路まで把握している人間の反応ではない。
「今の俺たちには、疑う理由はあっても、犯人だと断定できる証拠がない」
「でも、このまま帰したら――」
「関与しているなら、こちらが気づいていないと思わせた方が動きやすい」
村人の一人が、納得できない様子で顔をしかめる。
俺の説明が届いていない。
そのとき、セラが俺の前へ半歩出た。
「今ここで怒鳴っても、この人は『知りません』って言うだけよ」
セラはエドガーを一瞥してから、村人たちへ向き直った。
「本当に関わっているなら、私たちが何も気づいていないと思わせた方がいいでしょう?」
「だが……」
「油断している相手の方が、尻尾を出しやすいの」
同じ内容を話しているはずなのに、セラの言葉の方が明らかに伝わっていた。
村人たちは不満を残しながらも、エドガーから離れていく。
俺は小声でセラに言った。
「助かった」
「あなたの説明、正しいけど固すぎるのよ」
「必要な情報は伝えた」
「人間は、情報だけで納得するとは限らないの」
セラは肩をすくめた。
「そこは私が翻訳してあげる」
「俺の言葉は外国語か?」
「似たようなものね」
エドガーは乱れた上着を整えると、俺たちを見た。
「疑いは晴れたと考えてよろしいのですか?」
「疑いが晴れたとは言っていません」
「では?」
「証拠がないと言っただけです」
エドガーの口元から、薄い笑みが消えた。
「昨夜の魔狼は、防衛用の柵と火を嫌って逃げた。それ以上のことは、まだ分かっていません」
こちらがどこまで把握しているのか。
それを悟らせないよう、あえて不完全な説明をする。
「そうですか」
エドガーはわずかに目を細めた。
「昨夜の被害が少なかったことは、何よりです」
魔狼の数も、人間が操っていたことも聞こうとしない。
知らないのか。
知っていて触れないのか。
まだ判断はできない。
「土地売却の件につきましては、引き続きご検討ください。取得後の警備は、大手ギルド《黄金獅子》へ委託する予定です」
エドガーは村長へ書類を渡し、馬車へ戻っていった。
その背中を見ながら、リゼットが言う。
「やっぱり怪しいわ」
「怪しい。ただ、現場を直接動かしているようには見えない」
「分かるの?」
「昨夜の状況を知ろうとする質問がなかった」
「知っているから聞かなかった可能性は?」
「ある。だから外してはいない」
疑わしい相手を、すぐ犯人に決めつけない。
誰が利益を得るか。
誰が命令を出すか。
誰が現場で動くか。
それらが同じ人間とは限らない。
必要なのは、敵を一つの塊として見ることではなかった。
役割ごとに切り分けることだ。
◇
俺たちは村長と、自警団の中心人物だけを集会所へ集めた。
「今後、昨夜の戦いについて口外しないでください」
俺は紙に書いた四項目を机へ置いた。
首輪の跡。
服従系の術式。
笛の音。
森に残された二種類の足跡。
「他の村人には、柵と火で魔狼を追い払ったと伝えてください」
「村の中に、敵へ情報を流す者がいると?」
村長が不安そうに尋ねる。
「その可能性もあります。ただし、今は誰かを疑う必要はありません」
「なら、なぜ隠す?」
「情報は、一度相手に渡せば取り戻せないからです」
敵はこちらが何を知っているか分からない。
それ自体が、俺たちの武器になる。
逆に、敵が何を知っているかは、相手の行動から探ればいい。
集会が終わると、ガルドが村の外から戻ってきた。
「足跡を見てきた」
彼は地図を机に広げ、二本の指で別々の経路をなぞる。
「軽い方は、森の奥へ向かっている。昨夜も見た。長く同じ場所に立っていた」
「魔狼の動きを見ていた?」
俺の問いに、ガルドがうなずく。
「おそらくな」
魔獣使いの足跡と考えていいだろう。
「重い方は?」
ガルドの指が、村の外周を回る。
穀物庫でも、鉱山へ続く道でもない。
避難所。
自警団の詰め所。
村人の家々。
特に、少年リオとその祖父が暮らす家の周辺に足跡が集中していた。
「監視役か?」
「違う」
ガルドは即答した。
「なぜ分かる?」
「建物を見ていない」
「なら、何を見ていた?」
「人だ」
ガルドは地図上の足跡を睨んだ。
「こいつは、村の誰かを探している」
「誰を?」
「分からん」
ガルドの耳が、わずかに伏せられる。
「証拠はない。歩き方と、立ち止まった場所から感じただけだ」
以前のガルドなら、この段階では口にしなかっただろう。
確証のない情報を伝え、間違っていれば自分が責められる。
そう考え、黙っていた。
俺は地図に、重い足跡の経路を書き込んだ。
「残しておこう」
「確証はないぞ」
「分からないなら、分からないまま記録すればいい」
ガルドが俺を見る。
「捨てないのか?」
「君が違和感を持ったことも情報だ」
ガルドは何も言わなかった。
だが、伏せられていた耳が少しだけ持ち上がった。
◇
村の記録を調べると、魔狼の襲撃には一日から二日の間隔があった。
魔狼を休ませているのか。
首輪の術式を調整しているのか。
理由までは分からない。
少なくとも、今日の昼間に大規模な襲撃が起きる可能性は低かった。
「半日休む」
俺が告げると、リゼットが目を丸くした。
「調査を続けなくていいの?」
「全員、昨夜からほとんど眠っていない。疲労した状態で集めた情報は、精度が落ちる」
「休ませたいなら、普通に休めって言えばいいのに」
セラが呆れた顔をする。
「同じ意味だ」
「全然違うわよ」
その直後、村人たちから昼食に招かれた。
集会所の長机には、大鍋の野菜スープと黒パン、少量の燻製肉が並べられている。
豪華な食事ではない。
この村の状況を考えれば、決して軽く受け取っていいものでもなかった。
「これは報酬とは別です」
俺が村長へ言うと、フィーネが隣からそっと口を挟んだ。
「ノアさん」
「何だ?」
「村の方々は、私たちに食べてほしいんです」
「だが、村の食料にも限りがある」
「受け取らない方が、きっと悲しいですよ」
フィーネは、食事を用意した村人たちを見る。
彼らの顔には疲労が残っている。
それでも、昨夜より少し明るかった。
金銭的な損得だけで考えれば、食料は受け取らない方がいい。
だが、これは単なる食料ではない。
自分たちにも何かを返したいという、村人たちの意思だった。
「……いただきます」
俺が席につくと、村人たちはほっとしたように笑った。
五人が同じ机を囲む。
作戦会議以外の目的で、全員が同じ場所に座るのは初めてだった。
俺は食事を始める前に、机の端へ調査記録を広げた。
重い足跡の目的。
ハウゼン商会と実行役のつながり。
次の襲撃場所。
確認すべきことはいくらでもある。
文字を追っていると、目の前に黒パンが差し出された。
「先に食べてください」
フィーネだった。
「あとで食べる」
「ノアさんの『あとで』は、たぶん来ません」
「なぜ断定できる?」
「さっきから、スープにも一度も手をつけていませんから」
フィーネは、俺の手にパンを乗せた。
柔らかな笑顔だが、引く気はないらしい。
俺は諦めてパンを口にした。
「君は全員の世話をするんだな」
「ノアさんが、誰にも世話をされようとしないからです」
予想外の答えに、手が止まる。
「別に、世話は必要ない」
「何もしない時間があっても、役に立たない人にはなりませんよ」
フィーネはそれだけ言うと、自分の席へ戻った。
俺は調査記録へ目を落とす。
文字は先ほどと同じように並んでいる。
だが、続きを読む気にはなれなかった。
紙を閉じる。
それを見ていたセラが、満足そうにうなずいた。
「やっと食事が始められるわね」
「もう始まっているだろう」
「ノア以外はね」
セラはスープを一口飲むと、全員を見回した。
「せっかく五人で食べてるんだから、仕事以外の話をしましょう」
「何を話すんだ?」
リゼットが聞く。
「そうね……冒険者になってなかったら、何をしてたと思う?」
「急だな」
ガルドが肉を食べながら言う。
「ガルドは?」
「森で猟をしていた」
「今とほとんど変わらないじゃない」
「魔狼とは戦わずに済む」
「それは大きいわね」
フィーネは少し考えてから答えた。
「私は、小さな診療所を開きたかったです」
「似合うわね」
セラが微笑む。
「村の人たちを診て、薬草を育てて。時々、子どもたちに読み書きを教えたりして」
「忙しそうだな」
俺が言うと、フィーネは楽しそうに笑った。
「でも、今よりは穏やかだと思います」
「リゼットは?」
セラに問われ、リゼットが黙る。
「考えたことがないわ」
「一度も?」
「家を立て直す。それ以外のことを考える余裕はなかったから」
セラはそれ以上追及しなかった。
代わりに、自分の胸へ手を当てる。
「私は宮廷魔術師ね」
「本気か?」
ガルドが尋ねる。
「食事つき。暖かい部屋つき。危険な討伐なし」
「そんな宮廷魔術師がいるのか?」
「いないから、夢なのよ」
セラは笑った。
冗談めかしているが、本当は、必要とされる場所ならどこでもよかったのかもしれない。
「ノアは?」
リゼットが俺を見る。
「俺か」
「冒険者でも、ギルド職員でもなかったら、何をしてた?」
前世なら、答えは簡単だった。
マーケティング。
商品やサービスが売れる仕組みを考え、数字を追い、人間の行動を分析する。
だが、この世界のノアとして何をしたいのか。
俺にはまだ、答えがなかった。
「商会で、数字でも見ていたんじゃないか」
「それ、今とほとんど同じじゃない」
セラが言う。
「商会の仕事には、会議という戦いがある」
「会議?」
「剣も魔法も使わず、何時間も同じ話を繰り返す」
ガルドが真顔で聞いた。
「なぜ逃げない?」
「逃げれば評価が下がる」
「魔狼より怖いじゃない」
リゼットの一言で、セラが吹き出した。
フィーネも口元を押さえて笑う。
ガルドまで、喉の奥で低く笑っていた。
つられて、俺も声を出して笑ってしまう。
笑ったあとで、四人がこちらを見ていることに気づいた。
「何だ?」
セラが、珍しいものでも見つけたような顔をしている。
「その顔、できるんじゃない」
「何の話だ」
俺は表情を戻した。
リゼットが笑う。
「もう遅いわよ。全員見たから」
「別に隠していたわけではない」
「はいはい」
セラが肩をすくめる。
その後も、誰が一番料理ができるかという話になった。
フィーネは一通りできる。
セラは簡単な料理なら作れる。
リゼットは肉を焼ける。
ガルドは、
「生でも食える」
と答えたため、料理ができる者には数えられなかった。
「ノアは?」
「必要な栄養が取れれば、何でもいい」
全員から、哀れむような目を向けられた。
「何だ?」
「あなた、放っておくと早死にしそうね」
セラがため息をつく。
「食事と死亡率に、どれほどの因果関係が――」
「そういうところよ」
今度は、四人が同時にため息をついた。
◇
食事が終わると、村の子どもたちがガルドを遠巻きに囲んだ。
獣人を見るのが珍しいのだろう。
ガルドの耳が動くたびに、子どもたちも同じ方向へ顔を向けている。
リオは、ガルドが腰に下げていた小さな笛を指さした。
「それ、何?」
「狩りの合図に使う」
ガルドが答える。
「吹いてみたい!」
「遊び道具じゃない」
リオが分かりやすく肩を落とす。
その様子を見ていたフィーネが、ガルドへ穏やかな視線を送った。
ガルドはしばらく黙ったあと、笛を外した。
「噛むな。息を細く出せ」
リオは言われたとおりに吹こうとした。
だが、空気が抜ける音しか出ない。
「違う。指はそこじゃない」
ガルドはリオの手を直す。
何度か失敗した後、甲高い音が鳴った。
「鳴った!」
「危険の合図だ。村でむやみに吹くな」
「うん!」
リオは大切そうに笛を両手で持った。
「子どもが苦手なのかと思っていた」
俺が言うと、ガルドは不満そうにこちらを見る。
「うるさいのは苦手だ」
「子どもは?」
ガルドは、リオたちを見る。
「嫌いではない」
フィーネがうれしそうに笑った。
ガルドはそれに気づくと、少しだけ顔をそらした。
◇
セラは食事の片づけが終わると、傷んだ装備を集め始めた。
リゼットの剣の柄へ布を巻き直し、フィーネの杖の革紐を締める。
ガルドの矢羽根まで、指先で形を整えていた。
「そういうこともできるのか」
俺が尋ねると、セラは手を止めずに答えた。
「半エルフは器用なの」
「種族的な特徴なのか?」
「ということにしておいて」
セラは笑う。
「貧乏だと、自分で直すしかないだけだから」
リゼットが、巻き直された剣の柄を握る。
「悪くないわね」
「ありがとうって言えない呪いにでもかかってるの?」
「頼んでないもの」
「次は有料にするわ」
「そのときは頼まない」
二人は言い合っている。
だが、以前のような刺々しさはない。
セラはリゼットの手に古い傷があることへ気づき、握りやすい厚さに布を調整していた。
リゼットも、それに気づいている。
ただ、素直に礼を言えないだけだ。
◇
補修された剣を受け取ったリゼットは、そのまま村外れで素振りを始めた。
「休息中だ」
俺が止めると、リゼットは剣を振ったまま答えた。
「身体を動かさないと落ち着かないの」
「そこで剣を壊したら、次の襲撃で使えない」
「セラが直したのは柄だけよ。振ったくらいでは折れないわ」
「刃には昨日の戦闘で亀裂が入っている」
「分かってる」
「分かっていて使うのか?」
リゼットが剣を止め、俺を見る。
「あなたは休んでいるの?」
俺の手には、先ほど閉じたはずの調査記録があった。
「これは身体を使っていない」
「そういう問題じゃないでしょう」
「君こそ、人には頼れと言われているのに、一人で訓練している」
「あなたにだけは言われたくない」
「俺も同じだ」
「自覚があるなら休みなさい」
「君が休めばな」
しばらく、互いに睨み合う。
少し離れた場所で装備を片づけていたセラが、呆れた声を出した。
「本当に似た者同士ね」
「似ていない」
俺とリゼットの声が重なった。
セラが笑い、フィーネもつられて笑う。
リゼットは不満そうに剣を鞘へ戻した。
「……半刻だけだから」
「十分だ」
「あなたも休むのよ」
「努力する」
「それ、休まない人の答えでしょう」
◇
装備の修繕が終わり、他の三人が離れたあとも、セラは切れた革紐を束ねていた。
俺が余った布を拾うと、セラが言った。
「さっきは楽しそうだったわね」
「何がだ?」
「食事のとき。笑ってたでしょう」
「会話の流れで笑っただけだ」
「冷静な顔をしてないと困る病気なの?」
俺は布を置いた。
「冷静でいた方が、判断を誤りにくい」
「それは仕事中の話でしょう?」
「普段から習慣にしておいた方がいい」
セラは、束ねた革紐を指で回した。
「ずっと力を入れていたら、必要なときに疲れてるわよ」
「精神の話か?」
「他に何があるの」
セラは俺を見た。
いつもの軽い笑みは残っている。
だが、その目は思った以上に真剣だった。
「あなたが冷静な顔をしてくれると、助かることもある」
「なら、問題ないだろう」
「食事中まで完璧に演じなくていいって言ってるの」
演じる。
その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。
「別に演じているわけではない」
「そういうことにしておいてあげる」
セラはそれ以上追及しなかった。
「まあ、今すぐ普通になれとは言わないわ」
「普通とは何だ?」
「少なくとも、笑ったあとに慌てて無表情へ戻らない人」
「慌ててはいない」
「はいはい」
セラは革紐を抱えて立ち上がった。
「たまに笑うくらいなら、誰も困らないから」
そう言って去っていく。
俺は返す言葉を見つけられないまま、その背中を見送った。
◇
夜の見回りは、ガルドと二人だった。
村の外周を歩きながら、昼間に見つけた足跡を確認する。
「重い方の足跡は、作戦に入れる」
俺が言うと、ガルドがこちらを見る。
「誰を狙っているか分からない」
「だから村人を一人にしない。特に、足跡が多かった家の周辺は警戒を増やす」
「俺の感覚だけだぞ」
「それでも聞く」
ガルドは前を向いた。
しばらく歩いたあと、低い声で言う。
「前の連中は、確証がないなら黙れと言った」
「間違った情報で混乱したくなかったんだろう」
「だから黙った」
「結果は?」
「何度か、人が死んだ」
ガルドの声には、怒りよりも諦めが混じっていた。
「確証がない情報と、価値がない情報は同じではない」
「間違っていたら?」
「間違っていたと分かる。それも情報だ」
ガルドが足を止めた。
「変なやつだな、お前は」
「よく言われる」
「褒めてはいない」
「知っている」
ガルドはわずかに口元を緩めた。
俺たちは再び歩き始める。
以前よりも、沈黙が気まずく感じなかった。
◇
翌朝。
俺たちは森の奥にある魔狼の集合地点へ向かった。
ガルドが先頭。
その後ろをリゼットが歩き、俺は中央に入る。
セラとフィーネが後方を警戒していた。
ガルドが茂みをかき分けた先に、複数の金属杭が現れる。
地面には鎖を引きずった跡。
食い散らかされた骨。
魔力薬と思われる空き瓶。
首輪に使われた革の切れ端。
「ここで間違いない」
セラが杭へ触れ、わずかに顔をしかめる。
「服従系の魔力が残ってる」
「新しいか?」
「昨日か、一昨日。少なくとも、ずっと放置されていた場所ではないわ」
ガルドは地面へ膝をつき、匂いを探る。
「人間が一度去って、戻ってきている」
集合地点の一部だけが、不自然に焼かれている。
敵は痕跡を消しに来た。
だが、すべてを処理する前に昨夜の襲撃が始まったのだろう。
「また戻ると思う?」
リゼットが聞く。
「可能性は高い」
「待ち伏せる?」
「ただ隠れるだけでは警戒される」
俺は周囲を確認する。
「ここが発見されていないように見せる」
目立つ証拠には触れない。
足跡も消さない。
代わりに、俺たちは風下の岩場へ移動した。
敵はこちらが魔狼を追い返しただけで、集合地点まで見つけていないと思っている。
その思い込みを利用する。
◇
待ち伏せを始めて一刻ほど経った。
「ガルド」
セラが小声で呼ぶ。
「何だ」
「虫がいる」
「森だからな」
「取って」
「自分で取れ」
「魔狼は焼けるけど、虫は触りたくないの」
フィーネが、セラへ虫除けの草を渡す。
「これを服につけておくと、寄ってきにくいですよ」
「フィーネ、あなたは本当に優しいわね」
「戦場で虫を怖がる魔術師なんて聞いたことがないわ」
リゼットが呆れる。
「誰にでも苦手なものはあるでしょう?」
「声を抑えろ」
俺が注意すると、セラがこちらを見る。
「ノアも笑ってるじゃない」
「笑っていない」
「口元が動いてた」
「気のせいだ」
昨日までなら、待ち伏せ中にこんな会話はなかった。
全員が緊張し、必要な言葉以外は口にしなかったはずだ。
それでも今は、誰も警戒を怠っていない。
ガルドの耳が動いた。
同時に、全員の表情から笑みが消える。
二人の男が、森の奥から現れた。
革鎧の胸元には、黒い杭を模した刻印がある。
男たちは周囲を警戒しながら、残された瓶や革片を袋へ詰め始めた。
「団長も慎重になったな」
一人がぼやく。
「昨夜、九頭も戻らなかったんだ。グラウスでなくても疑う」
「次は数を増やすんだろ?」
「十二だ。魔獣使いも東へ移る」
情報が、次々と落ちてくる。
「期限までに村を空にしないと、依頼主がうるさい」
「グラウスは村人を追い出すことより、別のことばかり気にしてるじゃねえか」
「黙れ。聞かれたら殺されるぞ」
二人のうち一人が、急に顔を上げた。
風向きが変わった。
「誰かいる!」
男が剣を抜く。
同時に、茂みの奥から二頭の魔狼が飛び出した。
ガルドが短い笛を鳴らす。
危険。
指示を待つ必要はなかった。
セラの杖が淡く光る。
高い音が森へ走り、魔狼の首輪が一瞬だけ震えた。
飛びかかろうとしていた二頭の動きが乱れる。
「リゼット!」
俺が名前を呼ぶより早く、リゼットは走り出していた。
一頭目の進路へ入り、剣の腹で鼻先を打つ。
魔狼は斬られることを避けて横へ跳び、岩と木の間へ追い込まれた。
二頭目がリゼットの背後へ回る。
「右後ろ!」
ガルドの声。
リゼットは振り返らずに身を沈めた。
魔狼の爪が空を切る。
フィーネの結界が、追撃を弾いた。
「人間を先にやれ!」
傭兵の一人が弓を構える。
矢の先が俺へ向いた。
放たれる。
フィーネの結界が間に合うより早く、リゼットが俺の前へ入った。
刃で矢を弾く。
その衝撃で、もともと亀裂の入っていた剣が嫌な音を立てた。
「その剣で受けるな、馬鹿!」
思わず声を荒らげる。
「助けた相手に言う言葉!?」
「折れたらどうする!」
「あなたが避けないからでしょう!」
リゼットは怒鳴り返しながら、傭兵との距離を詰めた。
もう一人の傭兵が逃走しようとする。
二人が同じ方向へ逃げれば、ガルド一人では止めきれない。
俺は周囲を見る。
左は急斜面。
右は茂み。
正面の細い道だけが、安全に見える。
「セラ、右を焼け!」
「人がいるけど?」
「手前だけでいい!」
セラの小さな火球が茂みの手前へ落ちる。
傭兵は炎を避け、安全に見える正面の道へ走った。
その先で、弓を構えたガルドが待っている。
矢が、傭兵の足元へ突き刺さった。
驚いた男が体勢を崩す。
フィーネの結界が壁となり、逃げ道を塞いだ。
リゼットが剣を首元へ突きつける。
「動かないで」
もう一人の傭兵は、魔狼を置いて森の奥へ逃げていった。
追おうとするガルドへ、俺は言う。
「追うな」
ガルドは一瞬だけ森を見る。
それから、すぐ弓を下ろした。
目的は敵を全滅させることではない。
情報を得ることだ。
捕らえた一人で十分だった。
◇
傭兵を村へ連れ帰ると、リゼットが尋問を始めた。
「次の襲撃はいつ?」
「知らねえ」
「魔獣使いはどこにいるの?」
「知らねえ」
何を聞いても、男は同じ答えを返す。
リゼットの声が次第に低くなっていく。
しかし男の視線は、リゼットではなく窓の外へ向いていた。
恐れているのは俺たちではない。
戻った後のことだ。
「傷を見せてください」
フィーネが男の前へ膝をつく。
「触るな」
「治療します」
「話す気はねえぞ」
「話してくださらなくても、治療はします」
フィーネの手から淡い光が流れ、男の脚の傷が塞がっていく。
「なぜ敵を治す」
「痛そうだからです」
男は理解できないものを見るように、フィーネを見た。
その横で、セラが口を開く。
「あなた、私たちより団長を怖がってるでしょう」
男の肩がわずかに動いた。
「全部話せとは言わないわ」
セラは椅子へ腰を下ろす。
「戻れなくなった理由だけ教えて」
「……何のことだ」
「仲間はあなたを置いて逃げた。捕まった人間を、団長がもう一度仲間として迎えるとは思ってないんでしょう?」
男は黙る。
ガルドが正面から言った。
「お前の仲間は、お前を見捨てた」
「黙れ」
「事実だ」
男の拳が震える。
俺は尋ね方を変えた。
計画の全体像を話せと言われれば、答えられない。
なら、答えられる大きさまで質問を分ければいい。
「次の襲撃は、今日か?」
「……違う」
「明日か?」
男は黙る。
「明後日か?」
視線が動いた。
「魔狼は十頭より多い?」
「知らねえ」
「十五頭より少ない?」
再び視線が動く。
「十二頭前後か」
男は唇を噛んだ。
答えなくても、反応は情報になる。
「侵入は一方向か?」
「……二方向だ」
男は諦めたように吐き出した。
「東と西。魔狼は十二頭。魔獣使いは東の森に入る」
そこから先は、堰を切ったようだった。
村人を殺しすぎるな。
鉱山と水源には傷をつけるな。
主要な建物も燃やすな。
目的は、村人を恐怖で追い出すこと。
魔狼の制御が乱れた場合、魔獣使い自身が状況を確認する。
「依頼主は?」
「下っ端の俺には知らされてねえ」
「団長グラウスは、村の誰を探している?」
男の顔がこわばった。
「知らねえ」
先ほどまでの拒絶とは違う。
本当に知らないのだ。
「ただ……最近の団長はおかしい」
「何が?」
「最初は村人を追い出すだけだった。死者はなるべく出すなって話だった」
男は窓の外を見る。
「でも、村を見るたびに機嫌が悪くなる。依頼なんかどうでもいいみたいに、誰かを探してる」
「誰を探しているかは?」
「知らねえよ」
グラウスだけが、組織の目的から外れ始めている。
だが、商会が欲しいのは土地と鉱山だ。
村を破壊しすぎれば価値が下がる。
死者が増えれば、領主や騎士団が動く可能性もある。
合理的ではない。
だからこそ、危険だった。
◇
俺たちは、昼に食事を囲んだ長机へ再び集まった。
今度は中央に地図が広げられている。
以前なら、俺が作戦を作り、四人へ説明していただろう。
だが今回は違う。
「魔獣使いを捕らえるには、何が必要だと思う?」
俺は四人へ尋ねた。
最初に答えたのはガルドだった。
「笛の位置を二方向から取る」
地図上の二カ所を指す。
「ここから俺が聞く。もう一カ所に自警団の猟師を置く。音が交わる範囲まで絞れる」
「笛が一度鳴れば?」
「場所は割れる」
ガルドは続ける。
「確証がなくても、違和感があればすぐ伝える」
「頼む」
俺が即答すると、ガルドは短くうなずいた。
「魔狼を全部止める必要はないわ」
次にセラが話す。
「首輪の信号を一瞬だけ乱す。完全に解除したら、魔狼がどこへ行くか分からない」
「制御だけを不安定にする?」
「そう。言うことを聞かなくなれば、魔獣使いは放置できない」
セラは杖を指先で回した。
「私たちが探しに行くんじゃない。向こうから出てきてもらうの」
「よく俺の考え方が分かったな」
「あなたがいつもやってることでしょう?」
相手を無理に動かすのではない。
相手が自分から動きたくなる状況を作る。
俺が前世で何度も考えてきた方法だった。
「魔狼は私が止める」
リゼットが地図へ手を置く。
「何頭まで止められる?」
「一人なら六頭」
リゼットは即答せず、剣の状態と村の地形を確認する。
「自警団が二人ついて、セラの援護が届くなら八頭」
「なら八頭を任せる」
以前の俺なら、安全を見て六頭に抑えただろう。
だが、今はリゼット自身の判断を採用した。
「残りは西側へ流します」
フィーネが、三カ所の建物を指した。
「避難所を一つに集めると、そこを狙われたときに危険です。三つに分けます」
「連絡は?」
「村の子ども一人につき、大人を一人つけます。救護も私一人で行わず、村の方へ簡単な手当てを教えます」
フィーネは、小さな魔石を机に置いた。
「私が持ち場を離れても、短時間なら結界を維持できるようにします」
「君が離れる前提なのか?」
「前回、私は子どもを見つけて持ち場を離れました」
フィーネはまっすぐ俺を見る。
「同じことが起きても、今度は全体が崩れないようにします」
優しさを捨てるのではない。
自分が助けに動くことを前提に、仕組みを変える。
「俺が考えていた案よりいい」
俺が言うと、フィーネはうれしそうに笑った。
四人の案を、地図上で一つにつなげていく。
ガルドが笛の位置を特定する。
リゼットが魔狼を予定地点へ集める。
セラが首輪の制御を乱す。
魔獣使いが姿を見せる。
ガルドが退路を断つ。
フィーネが避難と救護を維持する。
俺は鐘楼から情報をまとめ、捕縛隊を誘導する。
さらにグラウスが特定の村人を狙う可能性に備え、村人を一人では行動させない。
リオと祖父にも、別の大人をつける。
現時点で把握している危険は、ほぼすべて作戦に入った。
「これ、本当に私たちが考えた作戦?」
セラが完成した地図を見る。
「ほとんどノアでしょう」
リゼットが言う。
「違う」
俺は首を振った。
「俺一人なら、この形にはならなかった」
ガルドの耳。
セラの魔法。
リゼットの剣。
フィーネの優しさ。
どれも、俺には持っていないものだ。
「俺がしたのは、四人の案をつないだだけだ」
「それがあなたの仕事でしょう?」
セラが当然のように言った。
俺は一瞬、返事ができなかった。
これまで俺は、四人の能力を見つけ、役割を与えているつもりだった。
だが今度は、セラが俺の役割を認めていた。
◇
翌日、俺たちは村人を交えて作戦訓練を行った。
最初の訓練では、自警団の動きが遅れた。
二度目は、笛の合図を間違えた。
三度目。
ガルドの短い合図だけで、リゼットが進路を変える。
リゼットの動きに合わせて、セラが小さな魔法を地面へ置く。
フィーネが二人の移動先を予測し、結界を張る。
俺が指示を出す前に、四人が互いの穴を埋めていく。
「半歩右!」
セラの声。
リゼットが迷わず動く。
「後ろに一人!」
ガルドが知らせる。
フィーネの結界が位置を変える。
リゼットの剣は、まだ欠けたままだ。
セラの杖も、革紐で補修されている。
ガルドの弓は、硬い鎧を貫くには威力が足りない。
フィーネの治癒具も、初心者用の古いものだ。
それでも、今は全員が互いの弱点を知っている。
リゼットの剣へ強い衝撃が入らないよう、セラが敵の向きを変える。
ガルドは鎧ではなく、関節と足元を狙う。
フィーネの結界が切れる時間を、全員が把握している。
欠点を隠していた頃とは違う。
誰かの弱さを、別の誰かが当然のように埋めている。
「なんだか、まともなパーティーみたいね」
訓練が終わり、セラが言った。
「今までは違ったの?」
リゼットが振り返る。
「まともな人が一人もいなかったでしょう」
「お前も含めてだ」
ガルドが言う。
「私は例外」
「一番怪しい」
フィーネが笑う。
俺も地図を見ながら口を開いた。
「俺たちなら、次は捕らえられる」
妙に静かになった。
顔を上げると、四人が俺を見ている。
「何だ?」
リゼットの口元が上がる。
「今、俺たちって言った?」
「文脈上、自然な表現だ」
「照れなくても、もう五人目として数えてるわよ」
セラが笑う。
「俺は冒険者ではない」
「知っている」
ガルドが答える。
フィーネが、少しだけ首を傾けた。
「でも、仲間ではありますよね?」
すぐには答えられなかった。
だが、否定する理由も見つからなかった。
◇
夕暮れ。
村の防衛準備がすべて整った。
森への道はガルドが確認した。
セラは首輪へ干渉する魔法を完成させた。
リゼットは魔狼を誘導する地点を決めた。
フィーネは三つの避難所と救護体制を整えた。
村人も、自分の役割を理解している。
敵は、自分たちの襲撃計画が知られているとは思っていない。
魔狼の数。
侵入方向。
笛の仕組み。
魔獣使いの位置。
敵に課された制約。
情報では、こちらが完全に上回っている。
見張り台に立つと、四人が自然に俺の周囲へ集まった。
「勝てると思う?」
リゼットが尋ねた。
俺は地図を見る。
それから、四人を見る。
欠けた剣。
補修された杖。
威力の足りない弓。
古びた治癒具。
どれも、一流の冒険者が持つ装備ではない。
《白樫の枝》は、潰れかけた小さなギルド。
《灰色の翼》も、世間から見れば継ぎ接ぎだらけの弱小パーティーにすぎない。
「勝てる」
俺は迷わず答えた。
「ずいぶん自信があるのね」
「敵の行動は分かっている」
「それだけ?」
俺はもう一度、四人を見る。
ガルドは静かに森を見つめている。
セラは補修した杖を肩へ乗せている。
フィーネは胸元で両手を重ねている。
リゼットは欠けた剣の柄を握っている。
「いや」
俺は首を振った。
「今の俺たちは、前回とは違う」
装備も、名声も、実績もない。
小さなギルドの、継ぎ接ぎだらけの弱小パーティー。
それでも、今の俺たちなら――どんな相手にも負ける気がしなかった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、魔狼を操る者たちの情報を追いながら、《灰色の翼》の五人が少しずつ互いを知っていく回となりました。
一人ひとりには欠点があり、装備も決して恵まれてはいません。
それでも、誰かの弱さを別の誰かが補えば、弱小パーティーにも勝利の輪郭が見えてくる。
まだ完全な仲間とは言えない五人ですが、ノアの中にも少しずつ「俺たち」という意識が生まれ始めています。
次話では、完成した作戦を携え、黒杭傭兵団との決戦に挑みます。
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