第一話 討伐数ゼロ、依頼達成率100%
「君たちは、泥鬼に負けたんじゃない」
俺がそう言った瞬間、冒険者ギルド《白樫の枝》の受付前から音が消えた。
酒をあおっていた冒険者が手を止める。
依頼書を壁に貼っていた職員が、こちらを振り返る。
そして、つい先ほど担架と一緒に帰ってきた四人の冒険者が、揃って俺を睨んだ。
「……じゃあ、何に負けたっていうの?」
女剣士リゼット・アルノーが、押し殺した声で尋ねた。
右肩の鎧は砕け、赤く染まった包帯が巻かれている。それでも椅子には座らず、折れた剣を杖代わりにして立っていた。
彼女の隣では、半エルフの魔法使いセラ・ファルネが机に突っ伏している。魔力を使い果たしたらしく、普段よりさらに青白い顔をしていた。
狼獣人の斥候ガルド・ヴァンは、壁に背中を預けたまま腕を組んでいる。
神官のフィーネ・セレスは、破れた法衣の裾を握りしめ、何度も「ごめんなさい」と繰り返していた。
四人組の冒険者パーティー《灰色の翼》。
名前だけを聞けば、空を駆ける英雄たちのようだ。
だが、街の冒険者たちは彼らを別の名で呼んでいる。
――飛べない翼。
今日も彼らは、八体の泥鬼を討伐する依頼に失敗した。
倒せたのは五体。
残る三体に包囲され、リゼットが負傷。フィーネの回復魔法でどうにか全員が生きて戻った。
「泥鬼が、依頼書より多かったんです」
フィーネが震える声で弁明した。
「最初は八体だったんです。でも、戦っている途中で奥から四体も……。私がもっと早く皆さんを治せていれば……」
「違うわよ」
セラが机に頬をつけたまま言った。
「この馬鹿が勝手に奥まで突っ込んだから、眠ってた泥鬼まで起きたの」
「後ろで見ていただけの人に言われたくない」
リゼットが言い返す。
「私が前へ出なかったら、最初の三体を倒す前に囲まれていたわ」
「だからって、合図もなしに突っ込む?」
「あんたが詠唱を終えるまで待っていたら、泥鬼に荷車を壊されていた」
「俺は増援の足跡を見つけていた」
それまで黙っていたガルドが、低い声で割り込んだ。
リゼットが彼を見る。
「聞いてないわ」
「言ってないからな」
「どうして言わなかったのよ!」
「言ったところで、止まらなかっただろ」
再び声が重なり始める。
俺は受付台の上に四枚の報告書を並べた。
「リゼットは、誰も自分についてこなかったと言っている」
四人の言い争いが止まる。
「セラは、リゼットが勝手に突撃したと言っている。ガルドは、増援に気づいていたが撤退を提案しなかった。フィーネは、回復の遅れが敗因だと思っている」
「だから何よ」
「同じ戦いについて報告しているはずなのに、四人とも別の戦場を見ている」
リゼットの眉が動いた。
俺は泥鬼の討伐証明となる、濁った魔石を一つ持ち上げた。
「今回の報酬は、倒した泥鬼の数に応じて支払われる。ギルドでの評価も、討伐数が基準になる」
「当たり前でしょ。討伐依頼なんだから」
「その当たり前が、君たちを負けさせた」
リゼットが折れた剣の柄を強く握った。
「分かるように説明して」
「君はリーダーとして、一番多く敵を倒さなければならないと思った。だから仲間の準備を待たず、最初に敵へ向かった」
リゼットは否定しなかった。
「セラは、リゼットに敵を倒される前に成果を出そうとして、本来なら温存すべき大魔法を最初に使った」
「……効率がいいと思っただけよ」
「その結果、増援が出てきた時点で魔力が残っていなかった」
セラが唇を噛む。
「ガルドは増援の痕跡に気づいていた。でも、確証のない報告で戦闘を止めれば、自分の評価が下がるかもしれないと考えた」
「違う」
「では、なぜ報告しなかった?」
ガルドは答えなかった。
俺は最後にフィーネを見る。
「フィーネは、治療の優先順位を決められなかった」
彼女の肩が小さく震えた。
「最初に怪我をしたのはガルドだった。だが、一番大声で助けを求めたのはセラだった。君はセラを先に治療し、その間にガルドの傷が悪化した」
「苦しそうだったから……」
「責めているんじゃない。君には、誰を先に治すべきか判断する基準が与えられていなかった」
四人は何も言わない。
俺は魔石を受付台へ戻した。
「全員が、自分にとって合理的な行動を選んだ」
「合理的?」
リゼットが顔をしかめる。
「これのどこが合理的なの」
「個人としては、だ。自分の評価を上げる。自分の責任を果たす。助けを求める人を治す。確証のない情報で仲間を混乱させない」
そして俺は、四人の報告書を重ねた。
「全員が正しいと思う行動を選んだ結果、パーティーとしては最悪の動きになった」
受付前に重い沈黙が落ちた。
俺は言った。
「君たちは、泥鬼に負けたんじゃない」
最初の言葉を繰り返す。
「協力すると損をする、このギルドの仕組みに負けたんだ」
リゼットが俺を見つめた。
怒っている。
当然だろう。
剣も握れない受付係に、命懸けの戦いを批評されたのだ。
「後から報告書を読んで、賢そうなことを言うだけなら誰にでもできる」
低い声で彼女は言った。
「あなたは泥鬼を見たことすらないでしょう」
「ある」
「戦ったことは?」
「ない」
「だったら――」
「同じ条件でもう一度戦えば、君たちはまた負ける」
リゼットの目が鋭くなる。
「言い切ったわね」
「敵が同じだからじゃない。君たちの行動が、同じように再現されるからだ」
リゼットが一歩踏み出した。
その瞬間、右肩の痛みに顔を歪める。
フィーネが慌てて彼女を支えた。
「そこまでだ」
ギルドの奥から、太い声が飛んできた。
現れたのは《白樫の枝》のギルド長、オルセンだった。
五十を越えた大男で、かつては大盾を使う冒険者だったらしい。今でも職員服の上から分かるほど身体が大きい。
「リゼット、お前たちは治療室へ行け」
「でも――」
「今のお前たちにできるのは、口喧嘩じゃなく傷を治すことだ」
リゼットが黙る。
オルセンは俺に視線を移した。
「ノア。お前は残れ」
四人が治療室へ向かう。
最後までこちらを睨んでいたリゼットの背中が扉の向こうへ消えてから、オルセンは深く息を吐いた。
「言っていることは正しい」
「怒られると思いました」
「言い方は腹が立つがな」
オルセンは受付台の上に置かれた報告書を手に取った。
「だが、正しいだけでは人は動かん」
「分かっています」
「本当に分かっている顔には見えん」
前世でも、同じようなことを言われた覚えがある。
正しい戦略を作れば、人は動く。
数字で効果を証明すれば、組織は納得する。
少なくとも、二十三日前までの俺はそう考えていた。
二十三日前。
高熱で三日間眠り続けた俺は、神谷直人という男の人生を思い出した。
日本の大手企業でマーケティング戦略を担当していた、三十五歳の会社員。
商品企画。
市場調査。
競合分析。
広告。
組織改革。
顧客心理。
神谷直人が長い年月をかけて得た知識が、二十歳のギルド職員ノア・クロウリーの中へ、一度に流れ込んできた。
剣も魔法も使えない身体は、そのままだったが。
「《灰色の翼》は、次の依頼に失敗したら解散させる」
オルセンが言った。
「そこまで悪いんですか」
「今回で四度目だ。個人の能力は悪くない。だが、怪我人ばかり増やしている。このまま高難度の仕事を任せれば死人が出る」
「一度だけ、俺に預けてもらえませんか」
オルセンが片方の眉を上げた。
「受付係のお前に?」
「作戦を作ります」
「戦場で誰が守る」
「彼らです」
「嫌われているぞ」
「好かれる必要はありません」
そう答えると、オルセンはますます険しい顔をした。
間違った答えだったらしい。
「三日だ」
それでも彼は言った。
「三日でリゼットたちを説得しろ。傷が治った後、低危険度の仕事を一つだけ与える」
「失敗したら?」
「《灰色の翼》は解散。お前も受付係へ戻れ」
「今も受付係です」
「減らず口を叩く余裕があるなら、期待しておいてやる」
◇
三日間で、俺は四人から話を聞いた。
最初に話したのはリゼットだった。
「私が全部やれば、少なくとも仲間のせいにはならない」
彼女はそう言った。
没落した騎士家の娘。
以前所属していたパーティーで、彼女の出した指示によって仲間が大怪我をした。それ以来、危険な役割を他人へ任せられなくなっている。
セラは自分の魔力について嘘をついていた。
「大魔法を使った後も、少し休めば動ける」
そう主張したが、実際には一時間近くまともな魔法を使えない。
弱点を知られれば、役立たずとして捨てられると思っていた。
ガルドは必要最低限しか答えなかった。
「確証のない情報を報告して、何になる」
獣人である彼は、これまで何度も自分の意見を軽視されてきたらしい。
間違って笑われるくらいなら、黙っていた方がいい。
フィーネは質問するたび、正しい答えを探そうとした。
「重傷者から助けるべきだと思います。でも、軽傷でも子どもなら……。魔法使いが倒れれば戦えませんし、前衛の方が危険な場合も……」
選択肢が増えるほど、彼女の声は小さくなった。
四人とも、弱くはない。
問題は、その強さが互いを打ち消していることだった。
三日目の夕方。
オルセンが一枚の依頼書を持ってきた。
「沼地に放置された荷車の回収だ」
数日前、商人の荷車が街道脇の沼へ車輪を取られた。
そこへ泥鬼が現れ、御者と護衛は積み荷を残して逃げた。
泥鬼の巣が近くにあるため、商人は討伐ではなく荷車の回収だけを依頼している。
急ぎではない。
積み荷も薬や食料ではなく、染料と金属製品だ。
「これが最後の試験だ」
オルセンは四人へ告げた。
「成功すれば《灰色の翼》を存続させる。失敗すれば解散だ」
リゼットが依頼書を受け取る。
「泥鬼は何体?」
「確認されているだけで七体」
「前回とほとんど変わらないじゃない」
「だから試験になる」
セラが俺を見る。
「それで? 受付係さんには、どうやって七体倒すか名案があるの?」
「倒さない」
「……は?」
「この依頼に、泥鬼を倒せとは書いていない」
四人の顔が揃って止まった。
俺は依頼書の一文を指した。
「依頼内容は、荷車と積み荷の回収だ」
「泥鬼が荷車を囲んでいるのよ」
「だから、荷車から離れてもらう」
「それができるなら苦労しないでしょう」
俺はガルドを見る。
「泥鬼は何を食べる?」
「沼魚、小動物、たまに魔力を含んだ苔」
「荷車の積み荷に興味を持つか?」
「染料と鉄に食欲をそそられるならな」
「では、なぜ荷車を囲んでいる?」
ガルドの耳が小さく動いた。
「……縄張りに入ったからか」
「おそらく」
俺は全員を見回した。
「明日、現地で確認する。その前に三つだけ覚えてほしい」
指を一本立てる。
「俺たちは、何を守るのか」
二本目。
「敵は、何を望んでいるのか」
三本目。
「俺たちには、何ができて、何ができないのか」
「それだけ?」
セラが疑わしそうに言う。
「それだけだ」
前世で俺は、顧客と競争相手と自社を分析した。
誰が何を求め、相手がどう動き、自分たちに何ができるのか。
この世界では呼び方を変えた方がいい。
戦場で英語の頭文字を並べたところで、命は救えない。
◇
翌朝。
俺たちは街から半日の場所にある、グレナ沼へ向かった。
泥鬼は名前のとおり、泥で作られた人型の魔物だ。
背丈は成人男性より少し低い。
身体は鈍重だが、泥の中では驚くほど速く動く。
刃物が通りにくく、討伐するには核となる魔石を正確に砕かなければならない。
俺たちは沼を見下ろせる丘に身を伏せた。
街道から外れた泥の中に、片側へ傾いた荷車がある。
周囲には六体の泥鬼。
さらに少し離れた泥穴に、一体が半身を沈めていた。
「七体。報告どおりだな」
ガルドが鼻を動かす。
「奥に別の匂いは?」
「今のところはない」
「事実か、推測か?」
ガルドが俺を見る。
「匂わないのは事実だ。いないかどうかは分からん」
「それでいい」
確証がなくても、情報は情報だ。
事実と推測を分ければいい。
俺は四人へ尋ねた。
「まず一つ目。俺たちは何を守る?」
「荷車」
リゼットが答える。
「正確には?」
「荷車と積み荷。それから、私たち自身」
「そうだ」
「泥鬼は?」
「敵ではあるけど、倒す必要はない」
「二つ目。泥鬼は何を望んでいる?」
ガルドが沼を見ながら答えた。
「自分たちの巣から、異物を遠ざけたい」
「三つ目。俺たちには何ができて、何ができない?」
セラが不満そうに言う。
「私なら、泥鬼をまとめて焼ける」
「その後は?」
「……しばらく魔法が使えない」
セラが渋々答えた。
初めて、自分から認めた。
「リゼットは?」
「一体なら確実に引きつけられる。二体でも耐えられる。三体以上は、保証できない」
「ガルド」
「沼に入らなければ、一番安全な道を見つけられる。泥の中で泥鬼とかけっこをする気はない」
「フィーネ」
「短い時間なら、荷車の周りに結界を張れます。でも、動かしながら維持するのは難しいです」
俺はうなずいた。
「十分だ」
前日までなら、彼らは自分のできることだけを強調しただろう。
できないことを共有できるだけで、作戦の精度は上がる。
荷車までは、沼へ入らず近づける細い地面が残っている。
ガルドが事前に確かめた。
問題は、泥鬼をどう荷車から離すか。
泥鬼は音と魔力の振動に敏感だ。
セラが沼の反対側で小さな魔法を連続させれば、泥鬼の注意を引ける。
だが全てが移動する保証はない。
そこでリゼットが中間地点で姿を見せ、残った泥鬼を引きつける。
ガルドは丘から全体を監視。
フィーネは荷車の周囲へ結界を張る。
俺は荷車に縄を結び、丘側から引き出す。
「俺が笛を一回鳴らしたら開始。二回で荷車を確保。長く一回なら、何があっても撤退する」
「あなたは沼に近づかないで」
リゼットが言う。
「剣も魔法も使えないんだから」
「荷車に縄を結ぶ人間が必要だ」
「私がやる」
「泥鬼を引きつけながら?」
リゼットが黙る。
「全員が、自分にしかできない仕事をする。その方が成功率は高い」
「あなたにしかできない仕事が、荷車に縄を結ぶこと?」
「今はな」
セラが小さく笑った。
「随分と地味な軍師ね」
「依頼を成功させるのに、派手さは必要ない」
俺は笛を口へ運んだ。
短く、一度吹く。
作戦が始まった。
沼の反対側で、セラが小さな光を弾けさせた。
パン、と乾いた音が響く。
泥鬼が一斉に顔を上げる。
二度目の爆発。
三度目。
四体の泥鬼が、音のした方角へ移動を始めた。
残った三体の前へ、リゼットが姿を現す。
折れた剣の代わりに借りた片手剣を抜き、鞘で盾を叩いた。
「こっちよ、泥人形!」
三体がリゼットへ向き直る。
ここまでは予定どおりだ。
俺とフィーネは、ガルドが確認した細道を通って荷車へ向かった。
泥が靴の底へまとわりつく。
荷車の下までたどり着くと、フィーネが杖を地面へ突き立てた。
「小さき守りよ、ここに壁を――《円環結界》」
薄い光が、俺たちと荷車を囲む。
攻撃を防ぎ続けられるほど強くはない。
泥鬼が戻るまでの時間を稼ぐための結界だ。
俺は荷車の前部へ縄を通した。
丘の上に固定した滑車とつながっている。
引けば、沈んだ車輪が泥から抜けるはずだった。
「結べた!」
笛を短く二回鳴らす。
丘の上で待機していたギルドの作業員が縄を引き始める。
荷車がきしむ。
しかし動かない。
「何か引っかかっています!」
フィーネが叫ぶ。
俺は車輪の下へ目を向けた。
泥の中から伸びた太い木の根が、車軸へ絡んでいる。
事前には見えなかった。
縄を引くだけでは動かない。
沼の反対側で、セラの魔法音が途切れた。
泥鬼のうち一体が、こちらへ顔を向ける。
時間がない。
俺は笛を取った。
長く吹けば撤退できる。
依頼には失敗するが、誰も怪我をせずに済む。
そのとき、丘の上から矢が飛んできた。
泥鬼の目の前の泥へ突き刺さる。
泥が跳ね、泥鬼がそちらを見る。
ガルドだ。
作戦にはなかった行動だった。
「根が絡んでる!」
俺が叫ぶと、リゼットが振り返った。
彼女の前には三体の泥鬼がいる。
こちらへ来れば、泥鬼もついてくる。
リゼットは一瞬だけ荷車を見た。
そして、手にしていた剣をこちらへ投げた。
剣は泥の中へ突き刺さり、柄だけが残る。
「それで切って!」
武器を手放したリゼットへ、泥鬼が迫る。
彼女は空になった鞘を構え、三体の攻撃を避け始めた。
「剣士が剣を捨ててどうするのよ!」
セラの声が響く。
次の瞬間、リゼットへ迫っていた泥鬼の足元で、小さな爆発が起きた。
大魔法ではない。
セラが残りの魔力を細かく使い、泥鬼の進路をずらしている。
「誰かさんが、大魔法は禁止だって言ったから!」
俺はリゼットの剣を抜き、車軸へ絡んだ根を切った。
「もう一度引いてくれ!」
丘の上の作業員たちが縄を引く。
荷車が大きく揺れた。
沈んでいた車輪が、泥の中から持ち上がる。
「動きました!」
フィーネが叫ぶ。
だが結界の外では、こちらへ向かってきた泥鬼が目前まで迫っていた。
フィーネは荷車を見る。
次に、泥鬼を見る。
迷いが、その顔に浮かんだ。
結界を維持するか。
俺を治療できるよう備えるか。
荷車を押すか。
選択肢が増え、身体が止まりかける。
「守るものは何だ!」
俺は叫んだ。
フィーネが息を呑む。
「荷車と、私たちです!」
「なら、自分で決めろ!」
フィーネは杖を握り直した。
「結界を荷車へ固定します!」
光の円が収縮し、荷車の周囲へまとわりつく。
フィーネは自由になった両手で荷車を押した。
俺も隣へ並ぶ。
泥鬼の腕が結界へ叩きつけられ、光に亀裂が入る。
それでも荷車は動き始めた。
丘の上から縄が引かれ、車輪が地面を噛む。
細道へ乗り上げた瞬間、俺は笛を長く鳴らした。
撤退の合図。
セラが魔法を止める。
リゼットが泥鬼の間を抜ける。
ガルドが援護の矢を放ちながら丘を下りてくる。
全員が走った。
泥鬼はしばらく追ってきたが、俺たちが巣の範囲から離れると、次々に足を止めた。
荷車を奪い返した俺たちは、街道の安全な場所まで移動した。
誰も大きな怪我をしていない。
荷車も積み荷も無事だった。
泥鬼は、一体も倒していない。
「討伐数はゼロね」
息を切らしたリゼットが言った。
泥に汚れ、剣も持っていない。
それでも、三日前に敗北して帰ってきたときとは違う顔をしていた。
「依頼達成率は百パーセントだ」
俺が答えると、リゼットはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「腹が立つ言い方」
「よく言われる」
「誰に?」
「前世で」
「ぜんせ?」
「気にするな」
セラが怪訝そうにこちらを見たが、今は説明するつもりはなかった。
俺自身、まだ全てを整理できていない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
彼らは弱くない。
目的と役割が噛み合えば、少なくとも七体の泥鬼から荷車を取り戻せる。
そして、俺が全てを命令しなくても、彼らは状況に合わせて動いた。
ガルドが矢を放ち。
リゼットが剣を投げ。
セラが小さな魔法へ切り替え。
フィーネが自分で結界の使い方を決めた。
俺の作戦どおりではない。
だが、目的どおりだった。
これが仕組みの最初の形なのかもしれない。
◇
夕方、俺たちは《白樫の枝》へ戻った。
回収した荷車を見たオルセンは、驚いた顔をした。
「泥鬼は?」
「一体も倒していません」
リゼットが答えた。
「逃げ帰ったのか?」
「いいえ」
彼女は依頼書を受付台へ置いた。
「荷車は回収しました。積み荷の欠損もありません」
オルセンが俺を見る。
「何をした」
「依頼を、依頼書どおりに達成しました」
「……お前も腹が立つ言い方をするな」
「今日二回目です」
オルセンはしばらく俺たちを見回し、やがて大きく息を吐いた。
「《灰色の翼》の解散は保留だ」
フィーネの顔が明るくなる。
セラは平静を装っていたが、肩の力が抜けた。
ガルドは何も言わなかったが、尻尾が一度だけ動いた。
リゼットは俺の隣へ立った。
「保留なのね」
「一度成功しただけだ」
「十分よ」
彼女は俺へ向き直る。
「ノア」
「何だ」
「今日の作戦は認める」
「ありがとう」
「でも、まだ仲間になったとは認めてない」
「そうか」
「普通は少しくらい残念そうにするところでしょう」
何か返そうとした、そのときだった。
ギルドの扉が激しく開いた。
一人の男が転がり込むように入ってきた。
泥だらけの服。
裂けた袖。
腕には、獣に噛まれた痕がある。
「た、助けてください……!」
男は床に膝をついた。
「レムナ村が……魔狼に襲われています!」
フィーネがすぐに男へ駆け寄る。
オルセンが水を用意させた。
俺は受付台から出て、男の前へしゃがむ。
「いつからですか」
「十日ほど前から……。夜になると森から出てきて、家畜小屋や穀物庫を……」
「人間の被害は?」
「怪我人はいます。でも、村の外まで逃げれば追ってきません」
「家畜は食べられた?」
男が戸惑った顔をした。
「いえ……殺されただけです。ほとんど残っていました」
「襲撃される時間は?」
「いつも、月が真上に来る少し前です」
リゼットが俺を見る。
俺は質問を続けた。
「魔狼が現れ始める直前、村で何か変わったことはありませんでしたか」
男はしばらく考えた。
「……商会の人間が来ました」
「商会?」
「村の土地を買いたいと。魔狼が出るようになってからは、危険だから早く売った方がいいと何度も……」
偶然かもしれない。
この段階では、証拠はない。
だが、獣は腹が減れば獲物を食う。
縄張りを守るなら、侵入者を追い払う。
決まった時間に現れ、生活に必要な場所だけを壊し、人間を村の外へ追い出す。
それは捕食ではない。
警告ですらない。
意図を持ったメッセージだ。
「ノア?」
リゼットが呼ぶ。
俺は立ち上がった。
「これは、ただの魔狼被害じゃない」
男が不安そうに俺を見上げる。
「どういうことですか」
「魔狼は、土地の値段なんて知らない」
俺は噛み傷の残る男の腕を見た。
そして、十日前から毎晩繰り返されているという襲撃を思い浮かべた。
「誰かが魔狼を使って、村人に伝えているんです」
「何を……?」
答えは一つしかなかった。
「ここから出ていけ、と」
お読みいただきありがとうございます。
次話では、《灰色の翼》がレムナ村へ向かい、不可解な魔狼被害を調査します。
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