第十八話 次なる舞台
《白樫の枝》に持ち込まれた依頼書を見て、ノアは思わずもう一度、向かいに座る中年の商人を見た。
「……これ、本当に俺たちへの依頼ですか?」
「はい。正直に申し上げれば、最初は王都の《黄金獅子》へ依頼するつもりでした」
街道沿いの岩山に、大型魔獣が住み着いた。すでに荷馬車が二台襲われ、街道は事実上使えなくなっているという。
討伐対象は《獅蛇獣グリュオン》。獅子を何倍にも巨大化させたような四足の魔獣で、二本の角と蛇のような尾を持つ。
硬い皮膚に覆われ、並の剣ではまともに傷さえつかない。本来なら、地方の冒険者へ気軽に頼める相手ではなかった。
「ですが、王都から《黄金獅子》を呼ぶとなると、時間も費用もかかります。それで……ベルナードを解放した皆さんなら、あるいはと思いまして」
商人は少し言いづらそうに続けた。
「もちろん、無理なら断っていただいて構いません」
「でしょうね」
ノアはもう一度、依頼書へ目を落とした。
少し前なら、まず考えたのは勝てるかどうかだっただろう。だが今は、被害状況と目撃証言の方へ自然と目が向いていた。
「こいつ、襲う時に妙な癖がありますね」
「癖……ですか?」
横から依頼書を覗き込んだセラが、「あら、本当ね」と呟く。
三件の目撃証言。そのどれも、最初に激しく狙われたのは、強い攻撃を仕掛けた者だった。
「護衛が大きな魔法を使った直後に、そいつへ向かってる」
ノアは依頼書を机へ戻した。
「受けます」
「えっ、もう決めたんですか?」
驚いたフィーネに、ノアは頷いた。
「たぶん大丈夫だ」
リゼットが静かにノアを見る。
「勝てる?」
「ああ」
ノアは笑った。
「今の俺たちなら」
*
岩山の間を抜けた先に、《獅蛇獣グリュオン》はいた。
巨大な影がゆっくりとこちらを振り返る。地面すれすれまで垂れた黒褐色の鬣、頭部から伸びた二本の角。その後ろでは、巨大な蛇そのもののような尾がうねっている。
全長は十五メートルを超えていた。遠目に見ても巨大だったが、近くで対峙すると、その威圧感は比較にならない。
「……大きいですね」
フィーネが息を呑む。
ガルドはすでに弓へ矢をつがえ、リゼットも剣を抜いていた。だが、誰一人として後ずさりしない。
少し前なら、それだけでもノアは驚いていたかもしれない。
今は、それが当たり前になっていた。
グリュオンが咆哮した。
岩肌を震わせ、その巨体からは想像できない速度で地面を蹴る。最初に狙われたのは、正面に立っていたリゼットだった。
「リゼット、まだ受けなくていい!」
リゼットは即座に横へ跳ぶ。巨大な前脚が地面を抉り、そのまま身体を反転させて蛇の尾を薙ぎ払った。
フィーネの障壁がそれを受け止める。透明な壁が大きく軋んだが、破れない。
続けてガルドの矢が二本、前脚の関節へ突き刺さった。
硬い皮膚を完全には貫けない。それでも十分だった。グリュオンの意識が、一瞬だけガルドへ向く。
ノアはその反応を見ていた。
攻撃された相手を見る。
だが、それだけでは飛びかからない。
「セラ」
「はいはい」
セラが杖を持ち上げた瞬間、周囲の空気が変わった。
魔力を隠すどころか、わざと見せつけるように膨らませていく。紫色の光が彼女の周囲へ渦巻き、グリュオンの耳がぴくりと動いた。
「もっと派手に」
「これでも十分派手だと思うけど?」
「お前基準でいい」
セラがにやりと笑う。
「それなら得意分野ね」
さらに魔力が膨れ上がった。
今度こそ、グリュオンの瞳が完全にセラへ向く。
次の瞬間。
咆哮とともに、巨大な身体が一直線に走り出した。
「やっぱりな」
こいつは、自分にとって最も危険だと思った相手から潰そうとする。
だったら、その相手を自分で選ばせればいい。
「フィーネ!」
「はい!」
セラの前に障壁が展開される。
ただし、真正面ではない。僅かに角度をつけた障壁へグリュオンの前脚が激突し、突進の力そのものが横へ流された。
巨体の軌道がずれる。
「ガルド!」
返事より先に矢が飛んだ。
先ほどとまったく同じ前脚。同じ場所へ二本目が深く突き刺さり、グリュオンの身体が大きく沈む。
それでも魔獣は止まらない。無理やり身体を起こし、セラへ牙を向けようとした。
その瞬間、リゼットが懐へ入った。
「そこね」
剣閃が走る。
一撃、二撃、三撃。
寸分違わず同じ場所へ叩き込み、硬い皮膚がついに裂けた。グリュオンが苦鳴を上げ、血を撒き散らしながら身を起こそうとする。
だが、もう遅い。
真正面には、セラの杖が向けられていた。
「散々こっち見てくれたんだから、お礼はしてあげないとね!」
魔法陣が開く。
紫白の閃光が、リゼットの切り開いた傷口へ叩き込まれた。
轟音。
巨大な身体が地面を滑り、岩を砕きながら土煙の中へ沈む。
やがて、静寂が戻った。
フィーネが障壁を解き、倒れた魔獣を見る。
「……終わり、ですか?」
ガルドが弓を下ろした。
「ああ」
セラは杖を肩へ担ぎ、不満そうに口を尖らせる。
「もう少し暴れてくれてもよかったのに」
「何言ってるんだよ」
ノアが苦笑すると、リゼットも剣についた血を払いながら小さく笑った。
「でも、本当に早かったわね」
ノアも倒れた巨体を見る。
以前の自分たちなら、戦う前に撤退を考えていた相手だった。それを今は、五人とも大きな傷一つ負わずに倒している。
グリュオン自身が最も危険だと判断したセラを選んだ。
その選択が、そのまま敗因になった。
ノアは小さく息を吐く。
「……強くなったな、俺たち」
リゼットが少しだけ笑った。
「うん」
*
夕方前、《灰色の翼》はアルヴェリアへ戻った。
討伐証明として持ち帰ったグリュオンの巨大な角を積んだ荷馬車が門へ近づくと、待っていた人々の間から声が上がった。
「帰ってきたぞ! 《灰色の翼》だ!」
その一声で、門の周辺が一気に騒がしくなる。
「本当にグリュオンを倒したのか!」
「また五人だけで!?」
「ベルナードの英雄だ!」
討伐成功の知らせは、商会の使いによって一足先に街へ届いていたらしい。
以前から名前を知られることは増えていた。だが、わざわざ帰還を待って人が集まるようになったのは初めてだった。
「……なんだこれ」
ノアが思わず立ち止まると、リゼットも周囲を見渡した。
「……私たちを待ってたみたいね」
その中から、若い女性たちの声が飛ぶ。
「ノアさん、おかえりなさい!」
「ガルドさん! こっち向いて!」
ガルドは露骨に顔をしかめた。
「……帰るぞ」
「もう帰ってきてるって」
一方、女性三人への歓声も負けていない。
「リゼットさん、今日も格好いい!」
「フィーネちゃん、おかえりー!」
「セラさん! 魔法見せて!」
最後の声を聞いた瞬間、セラの足が止まった。
「……魔法?」
嫌な予感がしてノアが振り返ると、セラはすでに杖を手にしている。
「おい。何する気だ」
「せっかく待っててくれたんだもの。少しくらいサービスしてあげないと失礼でしょ?」
「お前がやりたいだけだろ」
返事を待たず、セラが杖を空へ掲げた。
小さな光が一つ高く打ち上がり、次の瞬間、夕暮れの空いっぱいに紫と金の光が弾ける。
大輪の花のような光に続き、青、赤、白の魔力が次々と空を彩った。危険な熱も衝撃もない。ただ派手さだけを徹底的に追求した、いかにもセラらしい魔法だった。
「すげえ!」
「もう一回!」
「セラさん、最高!」
大歓声を浴び、セラは満足そうに胸を張った。
「ふふん。当然ね」
「討伐の時より嬉しそうだな……」
ノアが呆れていると、今度は数人の若い女性がこちらへ寄ってきた。
「ノアさん、握手してもらっていいですか?」
「俺? ああ、いいよ」
差し出された手を普通に握る。
それを見ていた別の女性も近寄ってきて、楽しそうに尋ねた。
「ノアさんって、恋人いるんですか?」
「恋人?」
完全に予想外だったらしく、ノアの返事が一瞬だけ止まる。
「いや……いない」
その瞬間、女性たちの間から小さな歓声が上がった。
少し離れたところにいたリゼットの視線が、ほんの僅かにノアへ向く。
そして、その変化を見逃さなかった人物が一人いた。
セラが横目でリゼットを見る。
「…………」
「なに?」
「別に?」
セラは楽しそうに笑って、何事もなかったように再び杖を空へ向ける。
リゼットは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
歓声の中を歩きながら、ノアは改めて周囲を見渡した。
ベルナードへ向かう前にはなかった光景だった。
強くなっただけじゃない。
いつの間にか、自分たちはこの街で――帰りを待ってもらえる冒険者になっていた。
*
その夜。
宿へ戻る頃には、昼間の騒ぎもすっかり落ち着いていた。セラとフィーネは先に中へ入り、ガルドもいつの間にか姿を消している。
ノアも扉へ向かおうとしたところで、後ろから声がかかった。
「ノア」
振り返ると、リゼットが少し離れた場所に立っていた。
「どうした?」
「……少しだけ、いい?」
いつものようにまっすぐな声だったが、どこか言いづらそうでもある。
ノアが頷くと、リゼットは一度だけ視線を落とした。
「ちゃんと、ありがとうって言ってなかったから」
「ありがとう?」
「うん。ベルナードのこともそうだけど……それだけじゃなくて」
リゼットは少し考えてから、ゆっくり言葉を続けた。
「私、昔は何でも自分で背負わなきゃって思ってた。守るって決めたなら、最後まで自分が立ってなきゃいけないって」
ノアは黙って聞いていた。
「でも今は違う。私が前に出ても、後ろにみんながいるって分かるから。危ない時は助けてもらっていいって、今なら思える」
そこでリゼットは少し笑った。
「そう思えるようになったのは、ノアのおかげだと思う」
「俺のおかげっていうのは、ちょっと違う気もするけどな」
「そうやってすぐ理屈にする」
「あ……」
言われて、ノアは苦笑した。
リゼットも少しだけ笑う。
「だから今日は、普通に受け取って」
「……分かった」
ノアはそう答えてから、少しだけ黙った。
そして今度は、いつものような軽い調子ではなく、まっすぐリゼットを見る。
「じゃあ俺からも、ちゃんと言わせてくれ」
リゼットが顔を上げた。
「ありがとう、リゼット」
その声に、リゼットの表情が少し変わった。
「俺がこうしてここにいられるのは、リゼットのおかげだ」
詳しく言わなくても、二人にはそれだけで分かった。
あの時、彼女の剣がなければ。
ノアは今、こうして仲間たちと笑ってはいなかった。
「それだけじゃない。俺が後ろで考えていられるのも、前にリゼットがいてくれるからだ」
ノアは少しだけ笑った。
「何度助けてもらったか、本当に分からない」
「……そんなに?」
「そんなに」
今度は冗談ではなかった。
ノアは静かに続ける。
「だから、俺もちゃんと言っておきたかった。本当にありがとう」
リゼットはしばらく何も言わなかった。
やがて、少し困ったように笑う。
「……うん」
それだけだった。
けれど、その表情は戦っている時の、張り詰めた剣士のものではなかった。
誰かを守ろうとしている顔でもない。
ただ安心して、目の前の相手と話している、年相応の女の子の顔だった。
ノアは一瞬、言葉を忘れた。
長い赤褐色の髪が夜風に揺れ、青い瞳が柔らかく細められている。
――綺麗だ。
そんなことを考えた瞬間、自分でも驚いた。
「……ノア?」
「あ、いや……」
リゼットが不思議そうに首を傾げる。
ノアは何か言おうとしたが、妙に言葉が出てこなかった。
いつもなら、もう少し普通に話せるはずなのに。
その様子を見ているうちに、今度はリゼットの方が少しずつ落ち着かなくなっていく。
「……なに?」
「いや、何でもない」
「本当に?」
「本当に」
目が合う。
どちらも、なぜかすぐには逸らせなかった。
数秒。
先に耐えられなくなったのはリゼットだった。
「じゃ、じゃあ私、もう寝るね」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
リゼットはそう言うと、いつもより少し早足で宿へ入っていった。
扉が閉まる。
一人残されたノアは、しばらくその場に立っていた。
「……リゼットって、あんなに可愛い顔するんだな」
自分で口にしてから、さらに妙な気分になった。
ノアは頭を掻き、そのまま宿へ戻っていった。
*
王都。
多くの冒険者が行き交う公募掲示所に、新しい依頼書が張り出されていた。
その掲示板の前に、二人の男が立っている。
一人は、巨大な大剣を背負った若い冒険者だった。青灰色の髪に軽装の戦闘服。その背中には、若さと勢いを感じさせる力強さがある。
少し離れた場所には、黒髪の男。
腰にあるのは、飾り気の少ない一本の剣だけだった。
派手な装備もなければ、大きな武器もない。それでも、その立ち姿には無駄がなく、周囲の冒険者とはどこか違う静かな圧があった。
二人は言葉を交わさない。
互いを見ることすらない。
ただ、それぞれ別の理由で――同じ公募依頼を見ていた。
*
また、アルヴェリアから遠く離れた小さな町。
ここに、ライルという男がいた。
彼は明るく努力家で、人懐っこい性格から町一番の人気者だった。友人にも恵まれ、好きな女もいた。
そんな彼の人生が変わったのは、《託宣》を受けた日だった。
この地方には、人が生まれ持った素質を見抜くことのできる特別な術者がいる。
一定の年齢になると、その者に自分の内に眠る才能を見てもらう風習があり、それを《託宣》と呼んでいた。新たな力を与えるものではなく、本人が元々持っている資質を言葉として示すものだ。
ライルに告げられたのは――人より遥かに鋭く、世界を感じ取る才。
遠くの音を拾い、僅かな動きを見逃さず、人より早く気配へ気づく。珍しい才能だと周囲は沸き、ライル自身も自分には特別な未来が待っていると信じた。
だが、その才能は何の役にも立たなかった。
敵の動きに気づいても、身体が追いつかない。異変を察知しても、それだけでは仕事にならない。
何度別の道を試しても結果は変わらず、やがて珍しい才能は「使えない才能」と笑われるようになった。
それでもライルは腐らなかった。
「まあ、まだ俺に向いてることを見つけてないだけだろ」
そう言って笑い、次の仕事を探した。
変わったのは、周囲の方だった。
昔から一緒にいた友人たちは、ライルが近づくと会話を止めるようになった。声をかけても返事は素っ気なく、用事があると言ってすぐに離れていく。
けれど、ライルには聞こえてしまう。
「また来たよ」
「まだ俺たちと同じつもりなんじゃねえの?」
「昔はあんなに人気あったのにな。今じゃ何にもできねえじゃん」
笑い声まで、はっきりと。
町の人間たちも同じだった。
仕事を頼めば「お前には無理だ」と追い返され、背中を向ければ「あのハズレ持ち」と笑われる。以前は気軽に声をかけてきた者まで、今では腫れ物でも見るような目を向けていた。
それでもライルは、聞こえないふりをしていた。
一番苦しかったのは、恋人の態度だった。
「なあ。最近、俺なんかした?」
「別に」
彼女はライルを見ようともせず、面倒そうに答える。
「でも、なんか怒ってるように感じるからさ」
「そんなことないし」
「そっか。ならいいんだけど」
彼女は露骨にため息をついた。
「怒ってもないのに、そんな言い方されると逆に嫌な気持ちになるんだけど」
「……悪い」
結局、ライルが謝った。
何を謝っているのか、自分でも分からなかった。
その日の夜。
用事を終えて帰る途中、ライルは彼女の家の近くを通った。
そこで足が止まる。
男の声が聞こえた。
よく知っている声だった。昔から一緒に遊び、今では冒険者になった友人の一人だった。
「でも、お前……ライルがいるだろ?」
少しの沈黙。
そして、彼女が笑った。
「あんな冴えない男、もうどうでもいいわ」
ライルの身体が固まる。
「あなたみたいに、ちゃんと強くて頼りになる男の方が素敵」
「本人にバレたらどうすんだよ」
「別に。どうせ何もできないでしょ」
また、二人が笑った。
「みんなだって、もうあの人のこと馬鹿にしてるじゃない」
ライルはその場から離れた。
聞きたくなかった。
だが、耳を塞いでも意味はない。
距離を取っても、さらに遠くへ歩いても、彼女の聞くに堪えない声がいつまでも耳に響いた。
自分には決して見せなかった一面を、他の男を通して聞かされる。
その屈辱が、ライルの心を砕いた。
友人たちも。
彼女も。
町の人間たちも。
皆、自分の前では何事もない顔をして、その裏で笑っていた。
ライルは、その夜初めて自分の才能を心の底から憎んだ。
「……何が、世界を感じる才能だよ」
町外れの道端で、一人座り込む。
「こんなもん……知らなくていいことばっかり聞こえるだけじゃねえか」
「そうか?」
突然の声に、ライルが顔を上げた。
そこには黒髪の青年が立っている。
その少し後ろには、淡い金髪の女剣士――ミレイアがいた。
ゼノはライルを見下ろしながら、笑った。
「俺には、すげえ才能に見えるけどな」
「……慰めならいらねえよ」
「慰め?」
ゼノは首を傾げる。
「お前、勘違いしてるぞ」
ライルが睨む。
ゼノは構わず続けた。
「お前の才能が弱いんじゃない」
その指が、ライルを指す。
「お前が弱いんだよ」
「……は?」
「目は見えてる。耳も聞こえてる。敵が動くより先に気づいてる。それなのに、お前の身体だけが全部に置いていかれてる」
ゼノは楽しそうに笑った。
「だったら簡単じゃん」
一歩、ライルへ近づく。
「身体の方を、才能に追いつかせりゃいい」
ライルが顔を上げた。
ゼノは笑う。
「だったら――俺がお前に力を与えてやるよ」
次の瞬間。
赤い光と黒い靄が、ライルの身体を包み込んだ。
*
「だからさ、あいつ最近マジで――」
町の広場。
かつてライルとつるんでいた男たちが、いつものように笑っていた。
「何がそんなに面白いんだ?」
突然の声に、全員が振り返る。
笑い声が止まった。
そこに立っていたのは――ライルだった。
だが、その姿は以前とはまるで違う。
明るかった衣服は黒く染まり、深い赤の意匠が走っている。頬には赤黒い紋様が浮かび、その目には以前になかった鋭さが宿っていた。
「……ライル?」
誰かが呟く。
ライルは昔と同じように笑った。
「久しぶり」
男たちは一瞬怯んだものの、すぐにその中の一人が鼻で笑った。
「なんだよ、その格好」
「今度は悪党の真似事か?」
その中には、町の衛兵になった男もいた。
そして昨夜、彼女の家にいた冒険者もいる。
ライルは二人を見て、笑みを浮かべたまま尋ねた。
「なあ、お前ら」
衛兵が眉をひそめる。
「何だよ」
「俺って、弱いんだよな?」
返事を待たず、ライルは続ける。
「何にもできない、役立たずなんだよな?」
冒険者が呆れたように笑った。
「今さら何言って――」
そこで声が止まった。
腰にあったはずの剣が消えている。
いつ抜かれたのか、誰にも見えなかった。
ライルの手には、冒険者の剣が握られていた。
「なっ――!」
衛兵が反射的に剣へ手を伸ばす。
その剣も、次の瞬間にはなくなった。
ライルが両手に二本の剣を持っている。
「遅いな」
直後。
二人の身体が地面へ転がった。
何をされたのか本人たちにすら分からないほど、あっけなかった。
辺りが静まり返る。
町人たちも、残った元友人たちも、誰一人として笑っていない。
ライルは二本の剣を地面へ放り捨てた。
「俺は弱いか?」
誰も答えない。
「何もできないか?」
ライルは笑った。
「いや、違うな」
倒れた二人を見下ろす。
「お前らと違って、俺は選ばれたんだ」
そして顔を上げる。
自分を見下してきた友人たち。
陰で笑っていた町の人間たち。
そのすべてを見渡した。
「俺を馬鹿にしたお前らも――」
ライルの笑みが大きくなる。
「この町も、全部ぶっ壊してやるよ!」
「ライル!」
人混みを押し分け、彼女が飛び出してきた。
「やめて! あなたはそんな人じゃなかった!」
ライルの動きが止まる。
ゆっくり彼女を見る。
「……そんな人じゃなかった?」
先ほどまで浮かべていた笑みが消えた。
冷たい目だけが、彼女を見下ろす。
「他の男に抱かれながら、俺を侮辱してたお前に――」
彼女の顔から血の気が引いた。
「俺の何がわかるんだ?」
「それは……」
ライルの声は静かだった。
「お前は最後だ」
一歩だけ近づく。
彼女が後ずさる。
「一番苦しませてやるから、そこで待ってろ」
*
どれほど時間が経ったのか。
町から離れた丘で、ゼノとミレイアが待っていた。
やがて、一人の男が歩いてくる。
ライルだった。
その表情は、不思議なほど晴れ晴れしていた。
「待たせたな」
その背後。
彼が生まれ育った町は、炎と黒煙に飲まれていた。
何があったのか。
ゼノは聞かなかった。
ただ、満足そうなライルを見て笑う。
「スッキリしたか?」
ライルは一度だけ振り返った。
燃える町を眺めてから、笑う。
「ああ。最高だ」
「なら次だ」
ゼノの言葉に、ライルが振り向く。
「お前の才能は、これから俺の力になる」
ゼノは炎上する町を顎で示した。
「こんな程度で満足するな。もっと極めろ」
そして、笑みを深める。
「そしてその力は全て俺のために使え!」
ライルは少しだけ目を丸くした。
やがて、かつてと変わらない人懐っこい笑顔を浮かべる。
「あんたになら、どこまでもついていくよ」
力強く続けた。
「必ず、あんたの役に立ってみせるさ」
こうして――
ゼノの手下が、また一人増えた。
今回の異世界マーケティングは、『ブランド』です。
ベルナードでの活躍をきっかけに、《灰色の翼》は少しずつ「仕事を探す側」から、「名前を見て仕事を任せてもらえる側」へ変わってきました。
実績や評判が積み重なると、「この人たちなら任せられる」という信頼が生まれます。
その信頼が、名前そのものの価値になっていく。
今回、本来なら《黄金獅子》へ頼むような依頼が《灰色の翼》へ持ち込まれたのも、その変化の一つです。
そしてグリュオン戦では、ザハーク戦で掴んだマーケットインの考え方も、かなり自然に使えるようになってきました。
「自分たちがどう攻めたいか」ではなく、
「相手が何を選び、どう動くか」から勝ち筋を作る。
ノア自身の戦い方として、少しずつ板についてきたようです。
次回からは、いよいよ次なる舞台へ。
続きも楽しんでいただけたら嬉しいです。
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